日々の身辺雑記や考えたことなどを徒然なるままに書き連ねる「断腸亭日録」です。
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断腸亭日録~自転車日記
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2009.07.17 Fri
大雪山系の遭難事故に想う
数日前、大雪山系で遭難者が出て、痛ましくも、10人の方が亡くなられた。
ここに、ご冥福をお祈りする。

実は、かく言う私も、30年ほど前、大雪山系を縦走したことがある。
まだ、学生の頃の話だ。

それは、昨日の日記にも触れた、友人と二人で24泊25日の北海道キャンプ旅行をしたときのことである。

層雲峡の山深いキャンプ場(寝ている間にカラスの群に食料を奪われた)で一泊したわれわれは、これからどうしようという話になって、せっかくだから、大雪山系の縦走に挑戦してみようではないかということになった。
その「せっかくだから」という安易な姿勢のために、後で大変な目に合うことになったのだが。

何せ30年も前のことなので、詳細は覚えていないが、確かどこかまでロープウェイで登ってから、登山を始めたように記憶する。
筆舌に尽くしがたいような素晴らしい紅葉のパノラマに溜息をつきながら、ひたすら山を登った。
しかし、この登りが実に厳しかったと記憶する。
われわれの背中には、キャンプ道具一式や食料の収められているリュック(たぶん15キロぐらい)が重くのしかかり、道々、こんなはずではなかったという後悔を打ち消しながらの行程であった。

因みに、連れの友人も私も、登山の経験はゼロ。
地元で入手したパンフレットに出ている、われわれが最初に一泊する予定だった黒岳の「石室(いしむろ)」も、私は、「せきしつ」と読んでいて、まるで古墳みたいだなあなどと思っていたようなレベルである。

それでも、連れの友人は野球やラグビーで鍛えていたので、何とか山道を登っていったが、煙草を吸いながら小説ばかり読んでいた軟弱者の私は、繰り返し、もうこのあたりで引き返そうよと提案したものである。

そんなわれわれが、どこかの沢で休憩していると、向こうから、20人ぐらいのパーティが一列になってやって来た。
こんにちはと挨拶を交わすと、そのパーティのリーダー格のサングラスの青年が、われわれに話しかけてきた。

「君たち、これから縦走するの?」。
「はい、そうですが」と答えると、彼は、困ったものだという表情を浮かべながら、「その格好じゃ無理だよ」ときっぱりと言った。

どうしてですかと聞き返すまでもなく、そのパーティの人たちの出で立ちはいかにも本格的で、ちゃんとした登山靴を履いているばかりか、ステッキのような物やその他、われわれには縁のないような様々な装備を帯びていた。
それにひきかえ、われわれはと言えば、ジーパンにTシャツにスニーカーといった格好で,明らかに違和感を振りまいていた。

聞けば、そのパーティは、中央大学の山岳部で、夏の訓練で大雪山系を縦走中とのこと。
われわれ二人は、明治大学の学生であったので、すぐにうち解けた。
中大と明大は、今でこそ、30キロも離れてしまったが、当時は軒を接するような隣組で、お互いに学食や生協なども利用し合っていたので、顔見知りも多かった。

明大の学生だということが分かると、厳しい表情のリーダーも、また、中大山岳部の他のメンバーも急に態度が優しくなって、いろいろとアドバイスをしてくれたばかりではなく、これから数日間は、同行するように言ってくれた(それを決めるために、わざわざミーティングを開いていた)。

彼らに指摘されたこと。
・靴下を2枚はくように(スニーカーだったわれわれが岩などで足首を怪我をしないように)。
・帽子は必ず被るように(高地は紫外線が強いので)。
・水が多すぎるので、半分は捨てるように(この先に補給ポイントがあるので)。
・リュックの中身のパッキングをし直して、重量が左右平衡になるように。

ということで、ありがたいことに、われわれは、にわか中大山岳部員となって、彼らの列に加わることになった。
ところが、歩き出すや、そのペースがすごく早い。
30分も歩かないうちに、息が苦しくなって付いていくのがやっとであった。

「熊に注意」の看板を横目に、いくつかの小さな川を通り過ぎるたびに、リーダーが、「この川の水は飲めない」だの、「この川の水は飲めるので、水筒に水を補充しておくように」などというアドバイスをしてくれた。
なるほど、ルートを知っているというのはこういうことなんだ。
われわれは、何と無謀だったんだろうと思い知らされた。

やっとのことで、石室(いしむろ)に到着した。
それぞれ簡単な食事を拵えて食べた。
少しお酒も飲んだかもしれない(ポリタンにウイスキーを入れて持ち歩いていたが、ポリタンのニオイが移ってしまって、まずいウイスキーになっていた)。

さて、忘れられないのは、その夜の寒さである。
われわれは、夏用の寝袋しか持っていなかったが、でも、昼間は結構気温が高かったし、しっかりした屋根のある石室で寝るわけなので、大丈夫だろうと高をくくっていた。
ところが、夜が更けるにつれてしんしんと冷えてきて、寝袋にくるまっていても、寒くて手足がかじかんで、歯ががくがくしてくる始末。
われわれは、寒くて寝られないので、既に着た洗濯すべき衣服や下着類を全部リュックから出して、それを全部着込んでみた。
靴下などは4枚ぐらい重ね履き、パンツも数枚重ねて履いた。
それでも寒くて、ほとんど熟睡できなかった。

やっと朝になって、外に出てびっくり仰天した。
何と、外気温は、零下2度で、地表には、5センチぐらいの霜柱が立っているではないか。
つまり、夕べは、東京の真冬よりも寒かったというわけだ。
われわれ二人は、自分たちがいかに無謀であったかを再認識させられた。

もしわれわれが、中大山岳部の人に出会わなければ、日が暮れてしまい、石室に到着できなかったかもしれない。
とすれば、われわれは道に迷うか、どこかに夏用のテントを張って野営することになったであろう。
そのまま厳寒の夜をむかえていたら、もしかしたら、命も危なかったかもしれない。

その後、2日間、中大のパーティとともに縦走して、麓のバス停まで同行させてもらった。
彼らと一緒でなければとても行けないような雪渓にも行けた。
麓のバス停で別れたように記憶する。
中大山岳部の人たちには、今でも感謝している。
われわれ二人にとって、命の恩人と言ってもよいくらいなのだから。

私が本格的に登山をしたのは、後にも先にもこれっきりである。
最初の登山で厳しい洗礼を受けた私は、恐くて手が出せなかったというのが本当のところである。

走行距離:35キロ(ルイガノクロス)

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2009.05.26 Tue
立石エレジー
出かける直前まで仕事。
やっと何とか形がついたので、フジクロスに飛び乗って出発(本当はチェーンの交換時期にきているのだが、面倒でなかなかできない。ごまかすために油を吹きかけておく)。

ゆっくり弁当を食べる暇がないので、100円ローソンのおにぎりとサンドイッチ(計210円)を、向島百花園隣の公園ベンチでぱくつく。

IMG_2083.jpg
(早めの昼食)

暗くなって、やっと業務終了。
何だかすごく疲れた・・・。

帰路、轟音と排気ガスの国道6号を走った後、立石の路地に入ると、いつもホッとする。
地獄のような喧噪から解放されて、柔らかい蒲団に潜り込んだような安心感。

今夜は、自転車を止めて、何となく立石の街を歩きたくなる。
京成線の線路沿いの鉄柵に自転車を止めて、踏切を渡ってみる。

IMG_2183.jpg
(賑やかだけど寂しい立石駅)

どこからともなく、「昭和枯れすすき」のメロディーが聞こえてくる。
最初は、曲名が思い出せなくて、鼻歌でたどっていって、サビのところまできて思い出した。

♪貧しさに負けた いえ世間に負けた
♪この街も追われた
♪いっそきれいに死のうか
♪力の限り 生きたから
♪未練などないわ
♪花さえも咲かぬ 二人は枯れすすき

そう言えば、東京に出てきてしばらくした頃、同名の映画(1975年製作)を、確か、新宿のリバイバル館で見たのを思い出した。
筋書きは忘れたが、「昭和枯れすすき」のメロディーにのせて、明大前駅(京王電鉄)のガード下や赤ちょうちん街の映像が展開するシーンがあって、妙に感動したのを覚えている(主演の高橋英樹か秋吉久美子が明大前の安アパートに住んでいるという設定だったように記憶する)。



翌朝、明大前駅に降り立った学生の私は、その映画のシーンを探すようにして、駅周辺を歩き回ってみたが、朝だったせいか、あるいは、街並みが変わってしまったためか、あるいは、別の場所で撮った映像を編集したためか、映画の雰囲気をぴたりと伝えるような場所を見つけることはできなかった。

それから20年ほどの月日が経ち、何かの用事があって、初めて夜の立石駅に降りたとき、妙な既視感を覚えて、あれ、ここ、どこかで見たことがあるが、はて、どこだっけ。
記憶をたぐり寄せて、映画『昭和枯れすすき』にたどりついたのである。

IMG_2178.jpg

もちろん、立石であの映画のシーンを撮影したというのではなく、あの時私が見て不思議な感動を覚えたのは、ちょうど立石のうような風景の中にあることが分かったということである。

だが、その「不思議な感動」を呼び起こした立石の風景とは何なのか、今の私にもうまく説明ができない。

IMG_2180.jpg

ただ、以前、アメリカ人の知り合いと立石で飲んだことがある。
彼は、日本に来て10年以上にもなる人だったのだが、モツ焼き屋のカウンターでぽつんと呟いた。
「日本の繁華街には、アメリカにはない peace of mind がある・・・」と。

なるほど、そうかもしれないと私も思った。
何というか、懐かしさを含む、心の安らぎのようなもの。
しかし、その基盤には、孤独と寂しさがどっしりと控えているような・・・。

そんなことを思いながら、私はいつまでも、夜の立石を歩きつづけた。

IMG_2181.jpg

走行距離:35キロ(フジクロス)

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2009.05.23 Sat
根津の思い出・葛飾デルタ同盟饗宴
洗濯、水元公園散歩、部屋の掃除。

フジのクロスバイクに乗って、本郷の病院へ。
土曜日なので、多少、道が空いている。

途中、中川筋を走っていると、職場の同僚にばったり出会う。
散歩中だという。
住所が葛飾区青戸だということは知っていたのだが、私が毎日通勤路として使っているこの川筋の道は、彼の散歩コースでもあったのだ。
そのうち一緒に散歩しましょうということで別れる。

お袋は、検査がすっかり済んで、さっぱりした気分なのか溌剌としていた。
心は、もう明日の退院のことに飛んでいて、明日の昼は牛タンを食べたいと言って、笑っている。
じゃあ、明日!と言い残して病院を後にする。

今日は、午後から、「葛飾デルタ同盟」のメンバー(びんなんさん)の祝引越ホームパーティがあるので、その足で、足立まで向かうことに。

東京大学を右に見ながら本郷通りを北上して、農学部の校舎の所で裏道に折れる。
元加賀藩邸だった東大の敷地は、今でも緑が多くて、通りに緑がこぼれ出さんばかりである。

根津神社の裏から、かつて、自家製マッコリの飲みすぎて4週間ばかり入院したことのある日医大病院の前に出る。

懐かしいなあ・・・。

病院を抜け出して、近くの焼鳥屋で飲んでいたら、ちょうど折悪く、仕事明けの看護婦さんたちが飲みに来てばれてしまい、大目玉を食らったっけ。
「どうして患者だとわかったのですか?」と聞いたら、「点滴スタンドを持ち込んで飲んでいれば、誰だって患者だと分かりますっ!」と言われて、なるほどと思った。
四六時中、点滴スタンドを押しながら生活していると、それが身体の一部のようになっていまい、他人からは見えないはずだと思いこんでしまうものなのである。

男子学生が毎日のように、大挙して、見舞いに来てくれたっけ。
教師思いの学生がたくさんいてオレは幸せだなあと感動していたら、実は、学生たちのお目当ては、看護婦さんだった。
Mさんという、気立ての良い看護婦さんがいて、私も「一目置いていた」のだが、学生たちも、Mさんに夢中で、仕舞いには、ファンクラブ化していた。
私が退院しても、病院に通ってくる学生がいて、病院から注意を受けて諦めたという後日談までついた。

懐かしい根津界隈を抜けて、谷中墓地の脇道を通り、西日暮里駅に出る。
京成線高架と並行して走る道をたどって、町屋を抜けて、尾竹橋で隅田川を渡り、西新井橋で荒川を渡る。
本木新道を北上して、先ずは、買い出しのために、西新井大師へ。

ここでしゃあさんと待ち合わせることになっているが、約束の時間より早く着いてしまったので、西新井大師境内を散策。

IMG_2159.jpg
(藤棚の前には美しい池)

ここは、藤棚が有名なのだが、時季はずれ。
面白い看板を発見したので、写真に撮る。

IMG_2160.jpg

IMG_2161.jpg
(この看板は特に傑作!)

参道をとぼとぼ歩いていると、背後で自転車のベルが鳴ったので、振り向くと、満面の笑顔のしゃあさんが赤い折りたたみ自転車に跨っている。
なんと舎人ライナーを3駅だけ「輪行」して来た(?)という。
いつもながら、何とも不思議な行動をする人である・・・。

さっそく二人で、私の(学校の)先輩が営むお肉屋さんに赴く。
先輩は、所用でお店にはおられなかったが、先輩の奥さんが懇切に対応して下さる。
しゃあさんと相談しながら、ローストビーフ1キロ、コロッケ10個、シュウマイ10個、大学芋などを購入(後輩のよしみで割引していただいた・感謝)。

買った物をリュックに詰めこんで、会場のびんなん邸(三階の戸建て)まで、しゃあさんと約2キロの「ツーリング」を楽しむ。
本木新道は、古い商店街の風情が残っていて、走っていて結構楽しかった。

われわれが到着すると、続々といつもの仲間たちが集まってきた。
はるばると岐阜から出てきたメンバーもいた。
料理とお酒は持ち寄り制で、テーブルの上には、どっさりとご馳走が並んだ。

IMG_2162.jpg
(ローストビーフとコロッケ・絶品)

こうして、宴会が始まった矢先に、窓の下で何やら不穏な人の動きが見えた。

IMG_2163.jpg
(窓から下を眺めると、こんな奇異な光景が!)

「あらっ、またオウム事件かしら・・・」。
「いや、インベーダーの襲来だ!」。

私は、飲んでいた薩摩焼酎のグラスを投げ出して(本当は、置いただけ)、やおらカメラを手に取ると、つっかけを履くのももどかしく、外に飛び出した。

白衣にマスクの人におそるおそる尋ねると、「インフルエンザ発熱外来訓練」だという。
なるほど、東京でも感染者が出たので、この病院でも訓練をしているわけである。
テレビの取材もきていて、かなり大がかりなのでびっくりした。

IMG_2165.jpg
(テレビ取材も)

事情が分かって安心したわれわれは、ウイルスに対抗すべく、五臓六腑のアルコール消毒に精を出した。
精を出しすぎて、仮死状態に至る者もあり。

IMG_2170.jpg
(いっちゃん、岐阜からご苦労様)

こうして楽しい夜は更けて、次回は、花菖蒲の花見大会をやりましょうということで、解散!

私は、荒川筋を走って、帰途に着いたのであった。

走行距離:48キロ(フジクロス)

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2008.04.28 Mon
記憶の触媒
6時半起床。
曇り後晴れ。

所用ありて、市川方面に行く(往復:31キロ)。
本日の所業は以上。

閑話休題。

トピック1。

先日さるお方からいただいた貴重な麦焼酎を味見。
口に含んだ途端、その芳醇な薫りに圧倒される。
この薫りに導かれるように、過去の記憶が蘇ってきた・・・。
壱岐の華




最近は芋焼酎流行で、「通」の証しのように芋焼酎ばかりを選ぶ人が多いが、それはある意味で正しく、ある意味で間違っている。
壱岐の島の麦だけは格別なので是非飲んで頂きたい。
壱岐では、焼酎といえば、麦であって、芋の片手間に作っているのではない。

思えばもう17年以上前のことであるが、真夏の暑い盛りに友人(現在は音信なく伊予在住)と壱岐の島酒蔵巡りをしたことがある。
レンタカーを借りて、壱岐の島のすべての酒蔵を飲み回るという、今からすればとんでもない計画で、何軒あったろうか、我々は島中の酒蔵を訪ね回ることになる。

どの酒蔵でも、試飲コーナーがあって、大体、左から順番に1年物、3年物、5年物、10年物、15年以上物と並べてあって、自由に飲んで下さいというのだから、えらく景気の良い話である。
で、3年物ぐらいまでは透明の液体なのだが、5年物ぐらいから褐色が強くなり出し、15年物は、まるでウイスキーのような琥珀色をしている。
その15年物の豊かな味わいは、とても筆舌に尽くしがたく、この世の中にこんな美味しい酒があるのかというもの。

試飲の焼酎をしこたま食らった我々の車が何度も夏の稲穂の海に突っ込みそうになったのは、言うまでもない。

その味覚の記憶が、この一杯で蘇った。
感謝!

壱岐の焼酎は素晴らしい!

トピック2。

夏にキャンプツーリング(自転車)をする予定なので、様々な用具を点検中である。
テント、寝袋、コンロ、コッフェル、飯盒・・・。

そこで、久々に飯盒を引っ張り出してみた(写真参照)。
飯盒


この飯盒は、何を隠そう、私が小学5年生の時に買ってもらったものだから、もうかれこれ40年も使っていることになる。
この飯盒で、銚子の海辺や寺の境内で何十泊もしたし、大学生になって24泊25日の北海道野宿旅行で世話になったのもこの飯盒である。
ご覧の通り、表面はベコベコで、かなり煤けているが、私の宝物である。
底に穴が開くのが早いか、私が死ぬのが早いか、これからは「競争」になるだろう。

本日の走行距離:31キロ[市川往復]

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2007.11.14 Wed
御茶ノ水界隈30年
御茶ノ水に通い出してから、思えば、30年にもなる。
さすがに、住んだことはないけれど、この街も、日々通っていると、ずいぶん変わってしまったものだと思う。

私が上京した頃は、いわゆる「学生街」と呼べる最後の時期だったのかもしれない。

当時はまだ、中央大学も健在で、中大の生協では、白菜や豚肉まで売っていて、安いので、放課後に買って帰ったものである。
今は、駐車場になってしまった明大通り沿いの街区にも、小さな飲み屋や喫茶店があったし、その向こうには、小学校もあったが、とっくに廃校となって、これまた、テニスコートや駐車場になっている。
明大裏の(漱石が学んだ)錦華小学校も、生徒数が少なくなって、風前の灯火である。
駿河台や神保町界隈の安い飲み屋は、明大、中大、日大、電機大、専修大の学生たちが肩を寄せ合うようにひしめき合い、お互い、くだらないことで、よく喧嘩にもなった。
また、お互いの学生食堂にもよく食べに行って、どこの学校の食堂が一番安くてうまいという話題は、毎日のように繰り返された。

しかし、中大が、西郊に移転してから、御茶ノ水界隈の激変が始まった。
バブルと再開発の始まりだ。

学生のたまり場になっていた飲み屋や喫茶店は、いつの間にか姿を消し、中大の広大な跡地には、保険会社の高層ビルが建つ。
古本屋街は、個々に地上げの標的になり、歯が抜けるように消えていった。

靖国通りには、なぜか、スキー用品店が建ち並ぶ。
通りにも、学生と同じぐらい、スーツ姿のサラリーマンが歩いている。

とは言え、そうして激変してしまった御茶ノ水界隈で、未だに変わらずにいるものの象徴。
それが、神田川である。

聖橋を渡りながら、そんなことを考えた。
神田川2

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本日の走行距離:2キロ(金町駅往復)
今月の積算走行距離:218キロ
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朝食:スパゲッティミートソース(家)
昼食:コーヒーのみ(職場)
夕食:ポークカレー辛口(C&C 明大前店)
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2005.09.20 Tue
想はぬ科を犯した人
僕は、高校まで徒歩10分だったのですが、鐘が鳴る10分前に飛び起きて、パジャマの上に制服(詰め襟)をバサッと羽織り、自転車に飛び乗って爆走しましたが、あえなく遅刻すること頻々。

僕の高校では、不思議な慣わしがあって、学期末になると、学年ごとに遅刻回数十傑が貼り出されることになっていて、僕は、毎学期、ほぼ20回以上遅刻していたので、毎回、名前が載るという光栄に浴しておりました。

ただ、これには、罰則付きで、「十傑」の面々については、原稿用紙五枚程度の読書感想文を書くという課題が出されました。

そういうわけで、ほぼ毎学期、感想文を書いていたわけですが、僕も僕で、毎回、森鴎外の「高瀬舟」の感想文を書いて出しました。

お陰で、高校の三年間、鴎外の「高瀬舟」(罪人護送の話)の読みは相当に深くなったと自負しております。

因みに、「高瀬舟」の一節には、こうある。

> 高瀬舟に乘る罪人の過半は、所謂心得違のために、想はぬ科(とが)を犯した人であつた。・・・・・・

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2005.09.19 Mon
文化祭始末記
高校2年の時、文化祭でたこ焼き屋をやりました。
たこ焼き屋と幽霊屋敷と手相占いを同時にやったのです。
手相をした人だけ(50円)が、幽霊屋敷に入れて(50円)、幽霊屋敷から出てきた人は、150円のたこ焼きが50円引きということにしたら、わんさとお客さんがやって来て大繁盛(ただ、やはり、たこ焼きの鉄板を事前に買って、毎日練習しましたよ)!

確か、上がりが数万円になりました。
ところが、文化祭での収益は、すべて学校に上納しなければならない規則になっていたのですが、文化祭終了後、みんなでそのお金で飲み食いをしてしまいました。
このままでは、「使い込み」がバレる、どうしようと思案の末、市役所に乗り込んでいって、酔っぱらった勢いも多少あったかもしれませんが、「困っている人のために」という名目で残金を全額寄付してしました。
これで、学校から何か聞かれたら、「寄付しました」と、言い訳にもならない言い訳をして、使い込みを隠蔽できると思ったからです。

ところが、翌日、そのことが地元紙に大々的に出てしまったのです。
「C高の学生、文化祭の収益を寄付!」という大見出しで・・・。
それはまあいいとして、金額までもが。

思っていたとおり、翌朝登校すると、われわれは、すぐに校長室に呼ばれました。
これは、少なくとも停学かな。
中には、二回目の生徒もいて、二回目の停学は退学扱いになるので、肩を落として校長室にむかいました。

校長室には、校長・教頭・文化祭担当のS先生が待っていました。
S先生は、その表情から、かなり怒っているのが分かりましたが、校長は、「君たち、寄付したんだって?」と笑みを浮かべて言いました。
「はい、すみませんでしたっ!」とわれわれ。
「まあ、良いことしたな・・・」。

その後、しばらく沈黙が続いたけど、それ以上、特に何の話しも、お咎めもなく、われわれは校長室を後にした。

先生たちも、われわれの扱いには苦慮したことだろう。

今、思い出しても、耳たぶが赤くなるほど恥ずかしい気持ちになります。

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2003.11.17 Mon
餃子とエリオット
学生時代の終わり頃。
もう20年も前の事だろうか。

何だか、都心(高円寺)の生活に疲れて、本八幡(千葉県)の真間川沿いの、その昔、永井荷風が住んでいた所の近くに、庭付きの一軒家(二階建て)を借りた。
家賃は、確か、4万ぐらいだったと思う。
築35年ぐらいのぼろやで、トイレはくみ取り式だし、隙間だらけで冬はめちゃくちゃに寒かったけど、とにかく広いし、庭があったので、大変に気に入った。
モモという猫を飼っていた。

庭があるので嬉しくて、二十日大根やらほうれん草の種を買ってきて、貧乏を凌ごうとしたが、全然育たない。
後で分かったことだが、大家さんが定期的に除草剤を撒いていたのだ。

さて、その家で、春から秋にかけて、ほぼ毎月、友達を20人ぐらい呼んで、「餃子パーティ」をよくやった。

僕の餃子は、ニンニクをかなり大量に入れること、老酒を入れること、玉葱を入れることだけがやや変わっていて、皮も市販のものを使って作るのだが、これが友達にすごい人気で、次第にパーティとして、ほぼ、定例化していった。
「餃子パーティ」の日は、先発隊が早めにやってきて、買い出しと餃子作りに取りかかる。
何せその数がものすごい。だいたい500個ぐらいは、ぺろりだからだ。

「餃子パーティ」に必ず並ぶもう一品は、鰹のたたき。これも、やや遠くの魚屋まで出かけていって、銀皮付きのを買ってきて、炙って作るわけだ。僕の鰹のたたきで、普通と違うのは、酢を一切使わないこと(銚子風)。

こうして餃子と鰹のたたきで、乾杯するわけだ。

問題は、次の日。

授業にやって来た先生が、「おいっ、ニンニク臭いぞ!どうした?餃子食べたか?」とみんなの顔をのぞき込む。われわれは、ただ、にやにやしていた。

何しろ、餃子には大量のニンニクが入っているし、鰹のたたきは、ニンニクのスライスを添えて、しかもニンニク醤油で食べるのだから、翌々日ぐらいまで、授業をやる研究室は、ニンニクの香りが漂っているわけだ。

現代詩の先生(T・S・エリオットがご専門)は、特にニンニクが嫌いなので、初鰹の出始める春になり、餃子パーティの頃になると、教室がねんがらニンニク臭くて、まことにもって、先生にとっては、「4月は残酷な季節」(注)だったにちがいない。

(注)
四月はいちばん残酷な月
死の大地からライラックを育て
記憶と欲望を混ぜ合わせ
春の雨で鈍い根を掻き立てる
(T.S.エリオット『荒れ地(The Waste Land)』)

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