日々の身辺雑記や考えたことなどを徒然なるままに書き連ねる「断腸亭日録」です。
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断腸亭日録~自転車日記
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2009.06.08 Mon
道の考古学~峠道・山辺の道・川筋の道
5月に笹子峠を自転車で越えて以来、一体全体、「峠」とは何なのかということが頭から離れない。
どうも、峠というものは、古来、人を夢中にさせるような魅力をもっているらしい。
車社会の現代でも、自転車や徒歩で峠を越えることに、無上の生き甲斐を感じている人も多いようである。

峠が、それほどまでに私に取り憑いて離れないきっかけを作ったのは、柳田国男の「峠に関する二、三の考察」という文章(「秋風帖」・全集第二巻所収・筑摩書房)である。
その中で、かなりの健脚だった柳田国男は、ある時、まさに峠越えをしている最中に、「峠の裏と表」理論なるものを発見した(気づいた)と書いている。

その理論というは、峠道のつきかたに関する「法則」のようなもので、文章で説明するのはちょっと難しいのだが、一番簡単に言うと、こんなふうなる。

峠道は、どちらかは必ず、沢(渓流)づたいについていて、その反対側は尾根づたいについている。
前者を「表」、後者を「裏」と呼ぶ。
古来、表側が文化経済的に後進の集落があり、裏側に先進の集落であることが多い、というもの。

いくつもの峠を踏破した柳田自身、この「発見」に興奮したと書いているが、私も、それを読んで興奮した。

日本列島には、一万ほどの峠があるという。
たとえば、岩手県などは、そう高い山はないが、山また山が連なる土地柄で、峠を一つ越えると、言葉や風習が違うという。
山がちな日本列島では、「峠を越える」こと自体が、集落の経済と文化を保持するするための生命線だったはずである。

ただ、ここで注意しておかなくてはならないのは、峠というのは、「山」のような自然地理的な概念ではなく、あくまでも、人間が切り開いた「道」のことである、ということだ。
だから、峠の表裏理論は、道のつきかた(できかた)の法則だと言うことができる。

私が勝手に空想しているところによると、道は三つの型に大別できる。
「峠道」と、「川筋の道と」、いわゆる「山辺の道」である。
峠道が山越えの道だとすれば、川筋の道と山辺の道は、いわば、里の道である。
私の想像では、古道は、このいずれかに当たるものだと思う。

川筋の道は、説明を要しないと思う。
山辺の道は、奈良県にその有名なモデルとなる古道が存在するが、私がいつも自転車で走り回っている東葛地区などにも、このタイプを道はたくさんある。
たとえば、自転車仲間の東葛人さんが「発見」した、手賀沼に至る「大津川ルート」などがその典型であると思う。

その地図をここでは無断で引用させていただく(東葛人さん、御免)。

ootsu1.gif
(赤線が大津川ルート・東葛人さん作)

だいたいが、真ん中に川が流れていて、両脇には山というか丘陵というか森林というか、小高い土地が控えているようななだらかな谷(盆地)になっていて、その山沿いに、必ずと言ってよいほど、川筋と平行に「山辺の道」がついている。
この種の道は、当然のことながらなだらかで、片側に森林があって、しかももう片方は低地なので視界が開けており、自転車や徒歩で通行すると非常に気持ちがよい道であることが多い。

さて、柳田の「峠の裏と表」に戻ろう。

最初に山越えをしようとした人たちは、とにかく、道に迷わないように、渓流つたいに山を上がってゆく。
だから、表の道は絶えず沢に沿うようにして出来上がってゆくことになるので、最初はなだらかな道であることが多い。
しかし、最終的にはどこかの峰を越えなければならないので、谷から外れる最後の所がどうしても急峻な道になる。

さて、峰を越えた後、今度は、下りになるわけだが、旅人は、麓(ふもと)の目的地を見失わないように、登りとは逆に、尾根沿いに降りて行きたくなる。
だから、裏の道は、尾根や山の鞍部に出来上がることになるが、最終的に麓に下る道が急峻であることが多い。

私が五月に越えた笹子峠の道は、もちろん、近代になって作られた舗装路であるが、その道と寄り添うようにして、古道(山道)が付いているので、ほぼ昔の峠道を「踏襲」したものであることが分かる。

それによると、ほぼ沢沿いに登る大月側が表、甲府側が裏ということになる。
つまりは、この道の基礎ができた頃は、甲府側が文化的な先進地だったことの証明でもあるのだ。

柳田によれば、峠の語源は、記紀万葉の「タワ」のことで、撓(たわ)むと同根語で、「タワ越え」から「トウゲ」に変音したのだという。

昔の旅人は、川筋の道を歩き、山辺の道を経て峠道の入口に至り、沢沿いに山を登って、尾根沿いに山を下って、はるか畿内ならもたらされた珍重なる文物を持ち帰ったにちがいない。

走行距離:36キロ(ルイガノクロス)

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2009.06.02 Tue
自転車の起源~曲芸の実用化
毎日自転車に乗っていると、この不思議で魅力的な乗り物はどのようにして「発明」されたかということに興味を抱かずにはおれない。

一番不思議なのは、二つの車輪(車輪それ自体、火の利用に次ぐ人類の大発明だと思う)を並列に配置した荷車や人力車と違って、車輪を直列に配置したことである。
物理学をかじったことのない人でも容易に想像できることだが、車輪の付いた乗り物で、もっとも安定しているのは4輪車だが、最低3輪あればその乗り物は重力に対して「安定」する(鼎の原理)。

ところが、自転車のような直列2輪となれば、普通に考えるに、安定を確保するのに相当の難があるということは明らかに見える。
ところが、そういう常識を乗り越えて、見事に発明されたのが自転車なのである。

自転車と呼びうるものが最初に登場したのは、1818年頃のドイツとされている。
その発明者の名前(ドライス男爵)まで分かっていて、当時の画像もちゃんと残っている。

Draisine1817.jpg
(1818年頃にドライス男爵によって製作された木製の「自転車」ドライジーネ)

1818年と言えば、ヨーロッパ中で大騒動となったナポレオン戦争が終結して3年後に当たり、ようやく社会の安定期に入った頃であり、しかも、イギリスでは産業革命が進行中で、シェフィールドあたりでは、製鉄工場の黒煙が空をおおいはじめていた時期に当たる。

さて、この初期型自転車であるが、一見して現在の自転車と大きく異なるのは、ペダルがないことである。
ペダルがないので、足で地面を蹴ってその推進力とする。

Drais.jpeg
(ドライス男爵が自転車に乗っている肖像)

ただ、注目すべきは、上の画像からは分かりにくいかもしれないが、ハンドルがちゃんと左右に切れるようになっていた点である。
自転車に乗ったことがある人なら誰でも何となく分かることだが、もしハンドルが動かないように固定されていたら、非常にバランスがとりにくいものになるにちがいない。
自転車に乗っていてバランスを崩しそうになったとき、われわれはハンドルを左右に動かすことで、平行を維持しようとする。

もしかしたら、自転車のハンドルが切れるようにしたのは、そもそもが、左右に曲がる(舵を切る)ためというより、いや、そういう目的もあったにはちがいないが、むしろ、平行を維持しやすくするためだったのかもしれない。

現代のわれわれが、当時の自転車の乗り具合を体験するのは、案外簡単である。
ペダルを外してしまえばよいのだ(100円ショップの15ミリレンチで簡単にはずせます)。
両方のペダルを外して自転車に跨ってみよう。
もちろん、サドルは足がすれすれに着くぐらい低くしなくてはならない。
そうすると、両足ないしは片足で交互に地面を蹴って、平行を維持しながら進むことになる(名古屋あたりでは、自転車のことを「ケッタ」というそうであるが・・・)。

実はこの、ペダルを取り外してしまう乗り方は、自転車を乗ることを覚える際には、最良のやり方だとされているのだ。
補助輪を着けて練習するより、ペダルを取り外してしまってバランスの取り方を体得するのが一番早く自転車に乗れるようにする方法なのである。

直列二輪の構造を持つ自転車に乗る者にとって、この「平行」を保つことが最も大切なことなのであるが、発明者のドライス男爵を除けば、たぶん、当時の人々は、こんな物に乗れるなどとは思わなかったであろう。

たとえば、一輪車というものがある。
私は一輪車には今でも乗れないが、最初に一輪車を見たときに、こんなものに乗れっこないと思ったし、実際に挑戦してみて、さらにその思いを強くした。
しかも、それを上手に乗りこなす子どもたちを見て、まるでサーカスの曲芸のようだと思ったものだ。

この曲芸的な要素こそが、実は、自転車という乗り物の本質ではないかと私は睨んでいる。
荷車などとは違って、自転車は、ある用途を狙って合目的的に考案された物ではなくて、たとえば、竹馬やサーフィンのように、曲芸的な遊技から発想された乗り物ではなかったかということである。

しかも、面白いことに、自転車は、竹馬やサーフィンなどとは違って、今やわれわれにとってなくてはならない移動手段となり得ている(竹馬やサーフィンは楽しい遊技であり続けるだろうが、移動手段として普及するとは思えない)。

自転車は、その軽便性、その遊技性ゆえに発展して、今日広く普及しているのだが、もう一つ、忘れてはならないことがある。

それは、物理学的な優越性である。
物理学のイロハも分からない私だが、敢えて、そう言ってみたい。
自転車は、曲芸的な遊技から発想されたがゆえに、物理学的な優越性を図らずも獲得することができたのではないだろうか。

よく引き合いに出される次のデータをご覧いただきたい。

gr_enagy.gif
(1キロ移動するために要するエネルギー・「自転車博物館」のHPより引用)

1キロメートルを移動するために要するカロリー(エネルギー)の一覧図である。
ネズミやジェット機が同列に置かれているのが面白いところだが、たとえば、自転車は、ヒト(徒歩)よりも、5倍もエネルギー効率がよいし、走る動物の代表格たるウマよりも優れている。
また、このことは、自転車がエコロジカルな(環境に優しい)移動手段の王者であることの証しでもある。

まさしく自転車は、ホモ・ルーデンスたるわれわれ人類が造り出した一大傑作なのである。

走行距離:34キロ(フジクロス)

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2009.05.28 Thu
人力車考3~その前史(家畜に犂を引かせる)
人力車の前史として、移動手段の歴史について寸見してみたい。

人類史上、最も強力かつ普遍的な移動手段は、何と言っても、徒歩であろう。
これは、生物学的な制約によるものである以上、当然のことではあるが、実に長い間、人類は、徒歩によって地球上を歩きまわってきたし、今後も、歩きまわり続けるであろう。

では、徒歩の次に人類が発明した移動手段はなんであろうか。
たぶん、舟であろう。
特に流域を下流方向に移動する場合、山や谷を越えなくてもよい舟は最速の移動手段であったし、また、舟の持つ、想像を絶するような莫大な運搬力は、昔も今も、他の移動手段をはるかに凌駕する(タンカーなどの貨物船を思い出すまでもなく、矢切の渡しの船頭のオジサンは、たった一人で30人を運んでいるではないか)。
古墳から発掘される巨石は、時として、かなり遠方から運ばれたものであるが、これは間違いなく、舟によって運ばれたに違いない。

はてさて、舟の次に出てきた移動手段は何であろう。
たぶん、馬であろう。

と言っても、このあたりの事情はかなり複雑である。

人類が最初に家畜化した四つ足獣(つまり家禽類は除く)は、犬である可能性が高いが、これは、猟犬としてである(弥生文化のような農耕社会では後に食用になった・後世になって犬橇が登場するが、これについては今は不問とする)。
次は、羊、山羊、そして(猪)豚で、これらは、肉や乳や羊毛を得るための家畜である。

たぶん、その次あたりに、家畜動物として、牛、馬(驢馬を含む)が登場する。
野牛や野生の馬は、マンモス象や鹿類と並んで、太古の昔から、食肉を得るための狩りの対象であったが、人類の乱獲によって、その数が減少した(マンモスをはじめとする幾種類かの大型哺乳類などは絶滅・因みに縄文時代初期頃までは、ロシアでは最後のマンモス象が棲息していた)。

ラスコー
(ラスコーの壁画より)

後に、人類の運輸作業に貢献することになる牛と馬も、自然状態における個体数の激減という現実に対処するために、家畜化の試みがなされた可能性が高く、もちろんその目的は、食肉を得るためであったろう。

さて、牛や馬を家畜化した目的は、食肉の確保だったろうが、いつの頃からか、これに犂(すき・plough)を引かせるようになった。

鋤オリエント
(古代オリエント・牛に犂を引かせている絵)

さて、その後、この犂の代わりに、荷車を引かせることになるわけだが、それはまた、後日ということにしたい。

走行距離:3キロ(ママチャリ)

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2009.05.15 Fri
人力車考2~リアカー・駕籠・大八車
本日は、お袋の入院している病院の創立記念日ということで、一日中、一切の診療がない。
「外出許可」が出たというので、お袋と散歩がてら、昼食をとる(中華料理&喫茶店)。

お袋と別れてから、杉並区永福の職場に向かうべく、外堀通り→靖国通り→旧玉川水道道路(都道431号角筈和泉町線)を走る。

最後の旧玉川水道道路(都道431号角筈和泉町線)は、事実上、環七とぶつかって終わる感じで、そのまま直進して環七を渡ることはできない(直進禁止)ので、環七を左折して、国20号(甲州街道)との交差点を渡って迂回しなければならない。
実はこの旧玉川水道道路については、たくさん書きたいことがあるのだが、それはまた後日ということに。

今は、「環七」を引っ張り出したかっただけなのである(すみません)。
大学に通うために、東京に来た最初の頃、私は国鉄「高円寺駅」や西武線「野方駅」あたりの中野区内を転々としていた(引越癖は当時からあったようです)。

今を遡ること30年ほど前の事。
環七の大和陸橋近くにかなり条件のよいアパートを見つけたので、引っ越しすることにした。
敷金・礼金は無しだったので、問題は、引っ越し代。
引っ越し屋を頼めば、翌月からの「経済」が破綻するのは目に見えていたので、ここが思案のしどころとなった。

そこで思いついたのが、高円寺駅から伸びる商店街にある畳屋さんのリアカー。
幸い、引っ越し先は、距離にしてほんの2キロほどだったので、畳屋さんにリアカーを借りて荷物を運べば、多分、三往復ぐらいで済むと思ったわけだ。

さっそく私は、畳屋さんのオジサンに、リアカーを貸してくれるかどうか交渉した。
そのやりとりの詳細は覚えていないが、不思議なほどすんなりと貸してくれたと記憶する。

今考えると、どこの馬の骨か分からないような学生風情に、大事な商売道具をよく貸してくれたものである(若いが故の想像力の欠如の強み。その畳屋さんに心から感謝)。
しかし、どんなお礼をしたのかも、さっぱり思い出せない。
500円ぐらいの借り賃を払ったのかもしれないし、「いや、学生さんだからいいよ、いいよ」という言葉に甘えてしまったのかもしれない・・・。

リアカーで荷物を運ぶルートを事前に検分するに、多少の坂もあるし、しっかりと荷を留めるロープがないので、引き手以外に、後に1人と、予備要員にさらにもう1人が必要と思われたので、学校の友人たちに手伝いを頼んだ。
「サントリーホワイト」(当時の学生には高級酒だった)一本と、魚肉ソーセージ入りモヤシ炒め(もちろん、私の手製)を好きなだけ食わせるという条件だったように思う。
2人いれば十分だったのだが、私の出した「好条件」を聞いて、何と6人ほどが名乗り出て手伝ってくれることになってしまった(その分、モヤシ代などが嵩んだ)。

ホワイト
(懐かしいサントリーホワイト)

引越は、思ったよりも大変だった。
積み方が下手だったので、途中で荷物がずり落ちてしまったり、荷物を積み込みすぎて、引き手の身体が浮き上がってしまったり・・・。

それでも、過剰なる労働力のお陰もあって、引越は無事に済んで、サントリーホワイトと魚肉ソーセージ入りモヤシ炒めの楽しい宴会が明け方まで続いたと記憶する。

これが、私の唯一のリアカー体験であるが、どうしてリアカーのことを思い出したかと言えば、発展史的には、これがいわば、人力車の兄弟に当たるからである。

リヤカー子ども
(リアカーを引く子ども・昭和30年代)

明治3年に人力車が発明されて、東京の街を走り出すや、ほぼ1年間で、それまで交通網を牛耳っていた駕籠(かご)が姿を消して、人力車にその場を譲った。
駕籠かきたちは職を失い、その多くが車夫に転向したにちがいない。
それほどまでに、人力車の登場は画期的だったのだ。

広重「三島 朝霧」
(駕籠・広重「三島 朝霧」)

つまり、人力車は、用途的には、駕籠から発展したものだが、技術的には、大八車から発展したもので、この同じ大八車から少し遅れて出てきたのがリアカーであるという相関関係になる。

大八車
(大八車・明治時代)

リアカーは、その後、人間だけではなく、自転車やバイクがこれを牽引することになり、それが屋台のような移動店舗に発展したことは周知のことである。

走行距離:62キロ(フジクロス)

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2009.05.14 Thu
人力車考1~移動手段の革命
今日も、お袋を見舞うために、本郷の病院へ。

浅草は、毎回通るのだが、久々に雷門のあたりに寄ってみる。
人力車が見たくなったからだ。

いつの頃からか(十数年前ぐらいだろうか)、浅草をはじめとする観光地で、人力車が姿を現した。
浅草寺界隈や墨田公園内を、外人さんや若いカップル(若いんだから自分の足で歩け!)が、人力車に乗って楽しそうに名所巡りをしている姿も、年々多く見かけるようになった。

IMG_2081.jpg
(雷門前を疾走する人力車)

ただ、人力車の利用は、まだ、いわゆる「観光地」に限定されているようで、丸の内のオフィス街や、山の手であれ、下町であれ、住宅地では一台も見たこともないことを考えると、確かに、普及のほどはすこぶる極少である。

実は、最近、柳田国男に関する本を読んでいたら、彼の調査の旅(明治時代)には、人力車が大活躍していることを知って、にわかに興味をもちはじめた。

人力車が登場したのは、明治初期。
それから、昭和の初めころまでは、日本人の枢要な移動手段であったことを知って、今更ながらに驚いた。

人力車は、西欧から輸入されたものだと思っている人が多いかもしれないが、実はさにあらず。
日本で発明されたものなのである(ただし、誰が発明したかは不明)。
それかあらぬか、英語で人力車のことをrickshaw(リクショー)というが、その語源となっているのは、日本語の「力車」である。
現在、アジア諸国で走っている人力車も、そもそも日本から伝播したものである。

不思議なことに、明治になるまで、日本では馬車というものがなかった(牛車はあったが)。
明治以降、西欧から伝わった馬車が登場して、幹線道路を走り出すようになるが(なにせ馬車は巨大なので東京の路地は走れない)、高価だし、庶民が日常的に利用することはできなかった。

そこで爆発的に普及したのが、人力車。
狭い道でもすいすいと走れる機動力(現在の観光用とは違って、ほとんどが一人乗りで、幅は半間くらいだった)。
しかも、運賃が安いとくれば、皆が利用する。

ginza-jinriki.jpg
(明治時代の銀座・乗り合い馬車が道の中央を走り、人力車が左車線を走っている)

旅をする柳田国男は、鉄道(汽車)でポイントまで移動して、そこからは人力車でかなりの奥地まで入ることができた。
後の山道は徒歩というのが定番だったようである。

人力車というと、浅草のような観光地をちょろちょろと走っているような光景を思い浮かべるが、往年の人力車はそんな甘っちょろいものではない。

人力車は、江戸時代までの「籠(かご)」にほぼ取って代わるような乗り物で、いわゆる五街道やその脇街道だけではなく、人煙もまばらな田舎道まで人力車は走っていた。

通えないのは、道幅が半間もない山道だけで、列島の毛細血管とも言うべき「羊腸の小径」や帝都の路地まで、人力車が走って回っていたのである。

人力車
(街道を行く明治中期の人力車)

ある記録によれば、明治初期に、東京府の人力車の台数は2万5千輌で、これは府民40人に1輌に相当する。
また、全国平均でも、300人に1輌の割合で、現在のタクシーの普及率のほぼ倍に匹敵するという。
加えて、驚くべき数字がある。
明治初期の東京の全男性の、20人に1人は「車夫」だったというのだ。

こんなに普及していた人力車がなぜ凋落したかと言えば、もちろん、昭和初期からの自動車の普及である。

ここまで書いて、人力車については、到底一日では書ききれないことが分かった。
これはシリーズ化して書き継いでいきたい。

少なくとも、ETC利用者だけ高速料金が割引されるという、天下り組織への利益誘導だけをめざし、二酸化炭素の排出を増大させるだけの現政府の愚の骨頂のような政策(税金泥棒+環境破壊)に、根本的な反省を促す契機になるような気がするからだ。

IMG_2078.jpg
(雷門前に待機する車夫たち。真っ黒に日焼けした彼ら/彼女らに、私は惚れ惚れとする)

走行距離:36キロ(フジクロス)

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2008.05.30 Fri
サイデンステッカー讃
7時半起床。
雨のち曇り。

5月25日の毎日新聞(朝刊)に、E・G・サイデンステッカー著『谷中、花と墓地』(みすず書房刊)の書評記事が載っていた。

サイデンステッカーと言えば、アメリカの第一級の日本文学研究者で、とりわけ、源氏物語や川端の名翻訳でも著名である。
一昨年、87歳にして日本永住を決意し、湯島に居を定めるも、昨夏、死去した。

以下、その記事の全文を引用しておこう。

> 昨年亡くなった日本文学の名翻訳者によるうららかな随筆集。
>氏は東京とハワイのあいだを行き来して暮したが東京の住まい
>は湯島。
> 日々の楽しみは湯島天神から坂を下って谷中、浅草方面への散
>歩。とくに春から初夏にかけて東京はみごとな花の町になるの
>で散歩が楽しい。
> 上野の桜、湯島天神近くの山吹、亀戸の藤、根津権現の躑躅。
>花菖蒲(はなしょうぶ)を求めて葛飾の水元公園まで行く。亀
>戸天神に行ってここでロケされた「男はつらいよ」を思い出す
>のには驚く。先生、寅さんファンだったか。
> 「最も尊敬しているのは紫式部先生だが、愛しているのは荷風
>先生である」というだけに下町散歩ぶりは荷風を思わせる。
> 愛猫が死んだ時、埋葬したのは下町、両国の回向院だった。

そうなのだ。去年か一昨年の花菖蒲の頃、サイデンステッカー氏は水元公園にもいらしていたのである。
もしかしたら、どこかですれ違っていたかも知れない。

「最も尊敬しているのは紫式部先生だが、愛しているのは荷風先生である」という一節も泣かせるではないか。

齢八十七にして、日本永住を決意する心意気にも、乾杯したい気持ちで一杯である。

さっそく、この本を注文したのは言うまでもない。



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本日の走行距離:6キロ[水元公園周遊など・ママチャリ内装3段]
今月の積算走行距離:598キロ
昨年11月以降の積算走行距離:6341キロ
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2008.01.25 Fri
『ロビンソン・クルーソー』再読
快晴(北風・寒)。
7時半起床。

この数日、デフォーの『ロビンソン・クルーソー』を再読。



今更ながらにすごい作品だと思う。
ダニエル・デフォーは、日本で言えば、近松門左衛門とちょうど同じ時期を生きた人(17世紀中期~18世紀初期)。
つまり、産業革命以前の人間で、蒸気機関も知らなければ金融資本も知らない。

人間と自然との関係の描き方に、後世の人間のような浮ついたようなブレがない。
別の言い方をすれば、自然に対するロマン主義がないということ。

自然に対するロマン主義の発生は、やはり、産業革命による自然破壊がきっかけかもしれない。
産業革命は、否応なく「反自然」なわけだが、この反自然活動が「自然」を犯していくことへの嘆きがロマン主義だと思う。

しかし同時に、人間は、以前にも増して、本来は自然の一部に過ぎない自らまでも、反自然的な存在だと規定し直していく。
自然でありながら自然ではないというこの自己規定こそが、人間の自然に対する傲慢な態度をうながしていく。

ロビンソン・クルーソーには、自然への「憐憫」がない。
まだどこかで、自分も、自然の一部だと感じているからに他ならない。

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本日の走行距離:2キロ(金町駅往復)
今月の積算走行距離:427キロ
昨年11月以降の積算走行距離:1711キロ
本日の歩行歩数:5667歩
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----------------------
朝食:コーヒー+ヨーグルト+リンゴ+Gドリンク(家)
昼食:持参弁当(職場)
夕食:塩鮭+肉じゃが+おでん(家)
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2008.01.19 Sat
人類のために、即刻「リスニング試験」を中止せよ!
曇り(寒)。
5時半起床。

今日は、大学センター入試の仕事のお陰で休日出勤。
暗い内に家を出る。

われわれの職場では、一年で一番嫌な仕事だという共通認識が形成されて久しい。
そういう意味では、毎年この行事が行われる日は、まさに呪いの一日なのである。

去年から始まった英語のリスニング試験。
これぞ、骨折り損の草臥れ儲けというか、国家的規模での無駄に他ならない。

何故、英語だけにリスニングが課されるのか。
これの根拠が不明である。
高等学校では、「外国語」は必修であるが、「英語」は必修ではない。
韓国語・中国語・ドイツ語・フランス語など、高等学校で教えられている他の外国語にはリスニング試験がないのに、英語だけ行うのは筋の通らない話である。
それとも、他の外国語は、音声を使わずに学習しているとでも思っているのだろうか。

それ以上に、試験に全員配布されるICプレーヤー類に至っては、言語道断である。
このICプレーヤーは、毎年50万個以上配布されるが、全部使い捨てで翌年は新品を製造して配布している。
つまり、毎年毎年、ICプレーヤー50万個とICチップ50万個とイヤフォン50万個と単3電池50万個が、30分間使っただけでゴミとなる。
中でも、乾電池の膨大な消費量は、甚大な環境汚染に繋がる。
これでは、使い捨てによる環境汚染を高校生たちに奨励しているに等しい。

それだけではない。
この業務に従事する人々に対する文部省(私は省庁の名称変更の必要を認めないので旧名で書く)のプレッシャーのかけ方は、軍国主義下の日本や北朝鮮を思わせるほど、苛烈で抑圧的である。

この非人道的で無意味な業務を長年に渡ってやらされる、延べ数十万人の関係者の怨念は、歴代の文部大臣や文部官僚を末代まで呪詛しても足りないぐらい、日本列島の山野を埋め尽くすであろう。

将来、まともな世の中がやってきたら、このセンター入試の「リスニング試験」は、人類の愚かな行為として笑い物になり続けるであろう。

羽仁五郎が『教育の論理―文部省廃止論』を書いたのは30年も前のことだったろうか。
その正しさが年々歳々確かなものになりつつある。

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本日の走行距離:2キロ(金町駅往復)
今月の積算走行距離:377キロ
昨年11月以降の積算走行距離:1661キロ
本日の歩行歩数:10500歩
----------------------
----------------------
朝食:コーヒー(家)
昼食:弁当(職場)
夕食:天ぷらうどん(明大前)+自家製いなり寿司+切り干し大根(家)
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