日々の身辺雑記や考えたことなどを徒然なるままに書き連ねる「断腸亭日録」です。
映画の日々 | エッセイ | 思い出 | 身辺雑記 | 日録 |  | 自転車 |  | 小さな旅(自転車) | 小さな旅 | 旅(自転車) | 未分類 | 自転車文学 | 
ブログ内検索
RSSフィード
リンク
断腸亭日録~自転車日記
≪2017.09  1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31  2017.11≫
プロフィール

higedancho

Author:higedancho
断腸亭髭爺です。
自転車関係の日記が多いです。
よろしく。

最近の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
カテゴリー
FC2カウンター
天気予報

-天気予報コム- -FC2-
ブロとも申請フォーム
フリーエリア
ブロとも一覧
--.--.-- --
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

スポンサー広告    Top↑

2005.10.16 Sun
奈良紀行
1.
難波(なんば)の夜の翌朝、(大阪の)日本橋駅近くのホテルで目を覚ました私は、同行の三人が起き出してこないのを確認するや、「先に出る」とのメモを残して、さっそく一人街に繰り出した。

今日は、めでたく、オブリゲーションからも開放されて、念願の奈良へ。
雨模様の夕べと打ってかわって、気持ちが浮き立つような秋晴れである。
奈良に行く前に、先ずは、やはりどこかで、大好物のタコ焼きを食べなければ、大阪に来た意義が半減するというもの。
ところが、まだ朝の10時前。
見渡しても、開いているタコ焼き屋は見つからず、仕方なく、(日本橋から)歩いて道頓堀まで出てみることにした。
日本橋北詰の手前から道頓堀に入り、てくてく歩いていくと、前方に、何だか人がたくさんいる一帯を発見。
それに釣られるようにして近づいていくと、そこは、場外馬券売場(道頓堀)であった。
朝早くから、お父さんたちが新聞と赤鉛筆を持って、あっちこっちを行き交っている。

私のタコ焼きアンテナはピピッと反応し、馬券売場の裏通りに出てみたら、やはり、タコ焼きの匂い。
店先で、お姉さんがタコ焼きを手際よく焼いている小さな店を発見!
タコ焼きというだけで錯乱状態になる私のこと、さっそく前まで近づいていって、「タコ焼き下さい」と意気込んだ。
「もうすぐに焼けますから中でお待ち下さい」と言われた。
仕方なく、店の中に入って、座って待つことにした。
入ってみたら、タコ焼き専門店ではなく、タコ焼きも出す居酒屋という感じで、各種酒類から鰺の塩焼きのようなものまである。
だんだん嬉しくなって、「じゃあ、ビール下さい」と、簡単に、朝から一杯というモードになる。
酒を飲もうと思って来たんじゃないぞ、お姉さんが中に入って待てと言うもんだから、酒を飲まざるを得ない状況になったわけで、オレの意思ではない・・・などという言い訳が咄嗟に浮かぶ。

一人で乾杯して、横からそのお姉さんだと思っていたのだが、近くで見ると40半ばぐらいの女性が、タコ焼きを焼いているのを観察していた。
なかなか焼き方のリズムがよいばかりか、その女性、背の高いなかなか綺麗な人で、昔はこのあたりではちょっとしたお店のママさんかなんかやっていたのだが、悪いヤクザにだまされて店を失い、悲嘆に暮れ果てて、もう死んでやれと、土佐の足摺岬まで行ってみたものの、死にきれずに、とぼとぼ道を歩いていると、ちょうど通りかかったトラック運転手に拾ってもらう。
それが縁で、その後その心の優しい運ちゃんとと一緒になるが、気ままな神の悪戯か、男は重病を患い、今は病気で入院しているため、細腕一本、この店を借り受けて、ひとりで切り盛りしているんだ。大変だなぁ~!・・・などと、何の根拠もない勝手な想像をしながら感心していると、いつの間にやら、タコ焼きの皿が目の前に出ていた。

おお、美味そうだぁーという口から、涎がでそうになる。
事実、美味しかった!
てな具合に、タコ焼きとビールの至福の時を過ごしていると、こ汚いグレーのズボンをはいた60くらいの髭面のオジサンがスゥーッと入って来て、お姉さん(と言っておこう)に何やらもじゃもじゃと注文すると、お姉さんは、酎ハイ用のグラスになみなみと日本酒を注いで手渡した。
その後の光景はすごかった!
そのオジサン、グラスを受け取るや、座りもせず、そのグラスを呷るようにして、一気に飲み干した。
その時間、約1秒。
しかも、飲み干したグラスをとんと置くと、ポケットのズボンからお金を出して、数えもせずに、カウンターにぱしゃりと置いて、何も言わずに、店を出て、馬券売場の方に消えていった。
壮絶!
オジサン、アル中だぜ。
でも、馬券、当たるといいがな・・・。(続く)
0000016M.jpg

道頓堀のタコ焼きと変なウインドウ

2.
さて、タコ焼きも堪能したので、さっそく奈良に向かうとするか。

道頓堀を歩きながら、はたと考え込んだ。
奈良には、どう行こうか・・・。

鉄路でここ大阪中心部から奈良に行くにはいくつかのルートがあるが、比較的時間がかからないのは、次の2ルートである。

一つは、近鉄奈良線で、大阪平野を東進して、大阪と奈良を隔てる生駒山のほぼ直下のトンネルを抜け、奈良盆地に入り、旧平城宮あたりを東行して、近鉄奈良駅に至るルート(北路)。
二つ目は、JR関西本線(大和路線)で、河内を横切るように大阪平野を南東に進んで、生駒山地がぷつりと切れている所を抜けて奈良盆地に入り、斑鳩を経て、北進してJR奈良駅に至るルート(南路)。

河内と大和の間に立ちはだかるようにそびえ立つ生駒山地。
昔は、これを山越えする古道も存在したようだが、それを近代の掘削技術で克服し、トンネルを開けて通れるようにしたのが、近鉄奈良線。
生駒山地の切れ目の谷沿いの、おそらく古代から近道として利用されていた思われるルートに鉄道を敷いたのが、JR関西本線ということになる。

実は、今から遡ること約1700年前、やはりひとりの男が、大阪(河内)から奈良(大和)に入ろうとして、苦労していた。
それは、「難波の夜」にも書いたイワレ彦(神武大王)である。

『日本書紀』によれば、既に書いたように、古河内湖を船団を率いてやって来たイワレ彦軍は、草香(日下)に上陸した。
奈良に入りたいのだが、眼前に生駒山がそびえ立っていたため、道を捜すようにして、生駒山地の麓を南下して、信貴山南麓あたりの龍田を越えようとするが、路が狭く険しいので引き返し、生駒山地の北を越えて侵攻しようとするが、今度は、孔舎衛坂(くさえざか・東大阪市日下)で待ちかまえていた奈良側の軍勢を率いるナガスネ彦の軍と激戦になる。

この話で不思議なのは、何故、行軍が楽な、今のJR関西本線が抜けている大和川付近から奈良に入らずに、その手前の急峻な龍田越えをしようとしたのだろうかということである。つまり、ほんの5,6キロさらに南下すれば、よかったのに、何故なのか?

もしかしたら、そこにも、奈良の軍勢が大挙布陣して、とても抜けられないと考えたのかもしれない。

いずれにせよ、日下の激戦に敗れたイワレ彦軍は、再び船に乗って退却し、大阪湾に出て、紀淡海峡を抜け、紀伊半島を反時計回りに迂回し、紀伊半島北東部に上陸し、険しい山越えをして大和(奈良)を攻略するという、信じられない作戦を実行するわけである。

道頓堀の路頭で、地図を広げながら、そんなことを考えていた。
kusaezaka.gif

『日本書紀』に記されているイワレ彦軍の行軍経路(海岸線は弥生末期の推定)

3.
結局、難波(なんば)駅から近鉄奈良線に飛び乗った。

ところで、畿内では、エスカレーターの並び方が関東とは逆で、右並び左空け。
しかし、九州や東北と札幌では、関東と同じく、左並び右空け。
名古屋を中心とする尾張では、駅によって異なり、半々。
欧米は、多くの地域で、畿内と同じで、右並び左空け。
因みに、韓国も、畿内と同じで、右並び左空け。
どうも、世界的には、畿内流が多数派のようだ。
理由は、分からない。

西国(フォッサマグナ以西の列島)の鉄道車両は、あらまし、初乗り料金は高いが、快適である。
畿内の列車は素晴らしいが、九州はもっとよい。
理由は、分からない。

進行方向右側の座席に座ったので、東からの強烈な日差しが眩しい。
しばらくすると、前方に生駒山地が見えてくる。
ぎっしりと立ち並んだ白い家々が、ある地点で、一挙に変わって、絵の具で塗り分けたように、萌える緑の生駒になる。

そうか、このあたりだな。
弥生時代末期に、イワレ彦軍とナガスネ彦軍が激戦を展開したのは・・・。
そんな感慨も、どこ吹く風、昔は越えるのが大変だったであろう生駒も、あっけないほど短時間でトンネルを抜けてしまえば、そこはもう、奈良盆地で大和の国。
川端が、『雪国』の冒頭に書いたような風土の激変(「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」)は、まったくない。

ただ、奈良に入ると、二日前まで関東にいた者の眼には、その緑の濃さに圧倒される。
田圃も森も、こんな季節なのに、一面、緑である。
と聞けば、「当たり前じゃないか」という声が聞こえそうだが、これが、違う。
これには、理由がある。

関東の田圃は、10月上旬には、ほとんど稲刈りが済んで、田圃には、茶色の稲株が寂しく並んで、秋の深まりをひっそりと待っている感じである。
ところが、畿内では、まだ、そのほとんどが、稲刈りをまって、黄金色の穂を垂れているのだ。

大まかに言うと、(北海道や沖縄を除く)日本列島の田植えと稲刈りの時期は、東国が早く、西国は遅い。
理屈から言えば、原産地が亜熱帯地方である稲のことだから、暖かい西国のが早く、東国のが遅いはずだが、実際は逆で、畿内・瀬戸内沿岸・九州は、稲栽培の時期が、全体として、関東より遅いのである。

一見不思議だが、西国では、春に麦を収穫してから、そこを田圃にしてから田植えをするので、田植えは、5月下旬から6月上旬になる。

関東では、麦の収穫後に、同じ場所に稲を栽培する古い風習が今では途絶えたため、大体、ゴールデンウィーク前後に田植えをして、9月中には稲刈りが完了する。
結果として、10月上旬の田圃の風景は、武蔵国より、大和国のが、濃い緑になるのだ。

もう一つ。
東国は落葉樹が多く、西国は常緑樹(照葉樹林)が多いことも、その理由であろう。

うっとりするような車窓を見ながら、そんなことをつらつらと考えているうちに、難波で飲んだビールがきいてきたのか、いつしか、うたたねをしてしまったようだ。

気がつくと、近鉄奈良線「西大寺駅」。
奈良駅まで、あと二駅である。
右前方に、突然、平城宮跡が、眼に入った。
朱色鮮やかな、復元・朱雀門が見えてきた。

いよいよ奈良である。
気持ちまでが、萌えたってくるようだ。(続く)

kome006.gif

都道府県別の田植えの最盛期地図

4.
近鉄奈良駅に降り立った。

駅前広場の噴水の前の、巨大な看板が目についた。
そこには、大きな平城京復元パノラマ絵図が描かれていて、2010年には平城遷都1300年を迎えるのに合わせて、大規模な文化財復元事業が始まっているとのことが書かれていた。
この種のパノラマ図が大好きな私は、しばし、その前にたたずみ、細部まで見入ってしまった。
そしてついに、今、自分が立っている近鉄奈良駅前が、1300年ほど前には、平城京のどのあたりに当たるのかを突き止める。
不思議なもので、こういうパノラマ絵上で、自分のいる所を確認できた瞬間は、何故か、快感である。

とりあえず、駅前を通っている「大路」の緩やかな坂をのぼりはじめた。
5分も歩かないうちに、広大な緑地が広がり、木々の間から、興福寺の五重塔の先端が見えた。
言いようのない感動を覚える。
と同時に、まだ、奈良公園に達していないのに、あの鹿の棲息臭も漂ってきた。
本当に、奈良にきたのだという感覚である。

それにしても、どうして奈良公園には鹿が放ち飼いになっているのだろうか。
高校生の時、修学旅行でこの地に連れて来られた時以来の疑問でありながら、未だに、そんなことすら調べることのなかった自分を悔いる。

緑の中にもぐり込んでいくように公園の遊歩道を歩き、興福寺の中金堂と五重塔の前に立った。
法隆寺のそれよりも、かなり巨大である。

ちょうど、観光客の一団が中金堂の前にやって来て、恰幅の良い女性ガイドさんが、共通語風の関西弁で、闊達な解説を始めた。

それを聞きながら、興福寺の古さ(約1300年前の創建)とその悲惨な運命(平氏による焼き討ちと明治政府の廃仏毀釈による破壊)に、今更ながらに驚く。

そんなわれわれの所に、四頭の鹿が、鹿煎餅を求めて近づいてきた。(続く)

0000017M.jpg

奈良・興福寺の五重塔と中金堂を西より望む。
境内は、明治政府による破壊行為のため、現在、営為、復元作業中。

5.
現在は、東大寺の付属物のような興福寺も、平安期には、奈良公園の大半を境内とし、事実上、大和国を領しているほどの一大勢力だったという。
であるが故に、平清盛と衝突し、1180年、重衡の軍勢により、興福寺と東大寺のほとんどの伽藍が焼き討ちにされた(もちろん、大仏殿も焼け落ち、大仏は一部を残して溶解)。
その後、鎌倉室町期に再建されたが、今度は、明治政府による廃仏毀釈という、全国的な文化財破壊運動のなかで、興福寺は、ほぼ、廃墟と化す。

日本は古来、地震や火事で、多くの文化財を失ってきたが、それでも、文化財に対し夥しい破壊を加えたのは、時の権力と外寇(米国)だったというのは、間違いない。
とりわけ、明治政府が音頭を取った廃仏毀釈運動は、日本列島の約半数の寺院を破壊し、米軍の無差別攻撃によっても、多くの貴重な文化財が灰燼にきした。

ここ、奈良の興福寺などは、明治初期の寺院破壊政策が、いかに凄惨なものであったかを物語っている。
興福寺を取り囲んでいたいた塀は、ことごとく破壊され、五重塔や三重塔は、金属を取り剥がした後で売りに出された。
五重塔などは、ある商人が、二十五円で買い取ろうとした。
それも、驚くべきことに、解体して、薪にして売ろうという魂胆だったという。
しかし、解体費に経費がかかりすぎると見て、今度は、丸ごと焼却し、後に焼け残った金属だけを売ろうしたが、近隣から、回りが類焼したら大変だという抗議が殺到し、断念したという。
この時に、燃やされていたら、今、私の目の前にある、室町時代に再建された五重塔は、存在しなかったことになる。

明治政府による寺院破壊活動は、神社を重んじる政策とセットであったわけだが、その頃のどさくさの中で新規造営された有名な神社が、東京都千代田区にある靖国神社である。
寺院破壊活動の「一環」として作られたこの神社は、由緒らしき由緒なぞどこにもない、ほんの百年ちょっと前に建てられたまことに胡散臭い宗教施設であるにもかかわらず、法外なほど世間を騒がせていているのは、これまた、摩訶不思議な現象である。

そんなことをつらつらと考えながら五重塔を見上げていると、また、鹿が寄ってきて、持っていないのに、鹿煎餅をせがんできてうるさくなり、昼飯もまだで空腹を覚えたので、いったん、興福寺をあとにすることにした。(続く)

0000018M.jpg

興福寺・五重塔。
偶然通りかかった美人さんにも入ってもらいました。

6.
奈良公園と言えば、鹿である。
鹿と言えば、奈良公園である。
鹿の話をしたい。

奈良公園に行くと、最初は、近寄ってくる鹿たちを鬱陶しく感じるのだが、歩いているうちに慣れてきて、むしろ可愛く感じられてきて、周囲に鹿が見あたらないと、探している自分に気づいたりする。

奈良公園の鹿は、興福寺や春日大社が創建されたときから確かにいたのである。
ただ、奈良公園に鹿がいるのは、興福寺や東大寺のお陰ではなく、同じ奈良公園内の東の方に広がる春日大社の方に由来する。

春日大社の縁起によれば、鹿が神の使いとして神鹿(しんろく)とされるのは、神社の主祭神である武甕槌命(タケミカヅチ・雷神)が、元々の本拠である鹿島(常陸・茨城県)から春日大社のある三笠山にやって来た際に、白鹿の背に乗ってきたことになっており、今の鹿は、それが繁殖したものだと言うのだ。
ちなみに、春日大社の創建は古く、768年(ポッと出の、近代になってにわかに建造された、かの東京都千代田区の靖国神社などどは格が違う)。

それにしても、なんでまた、雷神のタケミカヅチは、東国の鹿島(常陸・茨城県)くんだりから鹿に乗ってやって来たのか。
興福寺や春日大社の創建者は、もちろん、藤原氏で、その藤原氏が、常陸(ひたち)国の出身だという説(『大鏡』)もあるが、真相は分からない。

では、茨城の鹿島と鹿との関係は?
鹿島アントラーズがあるじゃないかという声が聞こえてくる。
然(しか)り。
アントラーズの命名は、もちろん、antlers(牡鹿の角)に由来する。
ところが、古くは、「鹿」島ではなく、「香」島と表記されていて(『常陸風土記』など)、鹿の字が当てられるのは後世のことである。「かしま」という地名はあちこちにあるが、いずれも海辺が多いのだが、語源としては、「神島」(かん+しま)だという説が有力ではある。
また、タケミカヅチと鹿との関係も不明。

しかし、8世紀当時、春日大社の山野一帯に棲息する鹿が「神鹿」とされ、その狩猟が禁じられたのは確かで、この法令は、江戸時代が終わるまで変わることがなかったが、明治時代になると、突然、有害獣に指定され、今度は逆に、1000頭近くが射殺されたりしている。

春日と鹿との関係を示す記録も夥しい。
そのほんの数例でも、ここに記しておきたくなる。

・8世紀ごろの和歌
「春日野に粟蒔けりせば鹿(しし)待ちに継(つ)ぎて行かましを社し留(とど)むる」(佐伯赤麻呂)
『万葉集』
[現代語訳:春日野に、粟(あは)が蒔いてあったら(あなたに逢えるのでしたら)、鹿を待ち伏せるように、毎日のように逢いにゆくのですけど。神の社(やしろ)があるので逢えなくてうらめしいことです。]

・10世紀ごろの和歌
「奥山にもみじふみわけなく鹿の声きくときぞ秋はかなしき」(猿丸太夫)
『古今和歌集』巻四

・また、8世紀から11世紀まで、たびたび、伊予、備後、常陸、太宰府等から、「白鹿」が献納されている。

・1580年には、織田信長が、鹿殺し密告者に二百貫の賞金を与え、犯人を処刑している。
・1694年には、松尾芭蕉が奈良を訪れ、「びぃと啼く 尻声悲し 夜の鹿」と詠んでいる・・・。

まさしく、奈良公園と鹿との関係は、まことに古くて興味深い。(続く)
4.gif


7.
鹿の話を続けたい。

そもそも、春日山に雷神タケミカヅチが白鹿に乗ってやって来たというが、無論、種としての「白鹿」は存在しない。しかし、突然変異としての白い鹿は、珍しいが、たまに生まれるという。

話が逸れるが、『古事記』に出てくる、有名な「因幡の白兎」の白い兎も、実は、突然変異種としか考えられない。
というのは、列島に種としての白い兎が登場するのは、地中海原産の兎が明治期に輸入されるのを待たなければならないからだ。
同じことが、白虎、白馬、白狐、白蛇などにも言えて、神話伝説の世界では、アルビノ(先天性白皮)症(?)の突然変異種が珍重・神聖視された例は多い。

いずれにせよ、春日の杜では、白鹿が「神鹿」とされ、前稿(「奈良へ6」)で書いたように、各地で白鹿が捕獲されると、それが春日大社に献納されていたということになる。
因みに、最近でも、1994年、奈良公園で白鹿の「モモちゃん」が誕生し、話題になったこともある。

奈良公園に棲息する鹿は、ニホンジカJapanese Sika(学名Cervus nippon)で、種としては、列島に棲息する鹿と特に変わらない。
しかも、奈良公園に棲息する鹿は、昔も今も、野生の鹿である。
観光客から鹿煎餅をもらっているが、寺社や公園当局から「飼育」されているわけではない。
園内に「鹿苑(ろくえん)」という施設があって、子鹿の保護や、怪我病気の鹿の治療を行ってはいるが、飼育が目的ではない。
だから、鹿たちは、奈良公園にいたくなければ、春日山を越えて、奈良県内のみならず、近隣の京都府や三重県の山々に分け入ることも自由で、そこここから里に降りて、農産物を荒らすこともあるわけだ。
現在は、1200余頭が奈良公園界隈に棲息するというのだから、よっぽど住環境が好ましいに違いない。

ただ、現在は、鹿の楽園のような奈良公園ではあるが、受難の歴史もあった。
先にも触れたように、奈良公園の鹿は、明治時代になって神格が解かれると、反転、有害獣に指定されて、多くの鹿が射殺され、35頭にまで激減した。その後は、再度、保護されるようになったが、太平洋戦争前後の食糧難時代は密漁が横行し、1945年には79頭にまで減少したという。

公園の鹿たちは、今、鹿煎餅で育っているように思うかもしれないが、実際はさにあらず。
芝や木の葉の方がむしろ主食である。

散策中、歩き疲れて、ふと、公園内の茶屋に入って蕨餅を食べたが、その店先にプラスティックのバケツが置いてあって、その中に入っている「餌」を一頭の鹿が、無心に食べていた。
何を食べているのかと中をのぞき込んで見ると、茶葉の出しガラだった。
それほどまでに、鹿は、この公園に馴染んでるのだ。(続く)

8.
鹿のことを、もうしばらく書きたい。

黒澤明の映画『まあだだよ』の老教授のモデルになった、作家、内田百(鈴木清純の『ツィゴイネルワイゼン』の原作者)は、すき焼きが好物で、馬肉と鹿肉を半々に入れた鍋を拵え、「馬鹿」鍋だと言って弟子たちに振る舞って面白がっていたという。
内田百でなくとも、古来、鹿は御馳走であったようである。

縄文時代以前から幕末までの長きに渡り、列島に棲息する四つ足獣の中で、食肉の双璧は、何と言っても、鹿と猪であった。
古語においては、シカの「シ」は「シシ(肉)」に由来し、肉そのものを意味したほどである。
だから、鹿が「かのしし」だとすれば、猪は「いのしし」と呼んだ。
同じく、カモシカは「あおじし」、ウシは「たじし」とも称されたという。
「鹿脅し(シシオドシ)」や「鹿踊り(シシオドリ)」のような言葉には、語源のシシ(肉)の響きが残っている。
また、先に引用した『万葉集』の「春日野に粟蒔けりせば鹿(しし)待ちに継ぎて行かましを社し留むる」(佐伯赤麻呂)でも、鹿を「しし」と読ませている。

とは言え、昭和生まれの私は、残念なことに、鹿肉は、生涯二度しか食べたことがない。
一度目は、数年前、京都府の綾部の知り合い宅で、骨付きあばら肉の薫製を。
二度目は、去年、東京は水戸街道沿いの地中海料理レストランMで、蝦夷鹿(「日本鹿」の亜種)のステーキを。
それが、鹿肉体験のすべてで、まことにおぼつかない限りであるが、味をうんぬんするほどの資格は無きに等しいが、大変に美味かった記憶がある。

ここで、いささか遠回りになるが、日本列島における食肉の歴史を振り返ることで、奈良公園に棲息する鹿の意味を違う観点から考えてみたい。

列島における食肉の原点たる鹿の歴史は、旧石器時代の霧の中に消えてしまうほど古く、遡って、その淵源を突き止めることができないほどであるが、何と言っても、鹿を最も「有効利用」したのは、縄文時代(約1万年前から紀元前300年くらい)である。
縄文人は、弓や落とし穴によって鹿を捕らえ、肉も内臓も骨髄もすっかり食べて、その皮も角も骨も、それこそ、残らず利用し尽くした。
鹿と双璧をなす猪も、まあ、同様であるが、縄文の遺跡からは、猪の像が出てくることから、何らかの意味で神格化されていたようであるが、鹿は、徹頭徹尾、衣食住のための「原料」だったようだ。

もちろん、縄文人は、鹿や猪の他に、狐、狸、熊などの多種多様な四つ足獣を食したが、ひとつだけ、例外がある。
それは、なんと、犬である。
一万年の長きに渡って、縄文人が、犬を食べたという証拠はほとんどない。
何でそんなことが分かるかというと、食べた獣の骨は、バラバラになって出てくるが、犬に関しては、一体にまとまった形で、丁寧に埋葬された状態で出土する。
あるいは縄文人は、狩猟の友である犬を大切に飼育していたのである。

ところが、渡来系の弥生人が列島にやってくると、事態は一変する。
弥生時代は、本格的に「栽培」が始まった時代ではあるが、同時に、縄文以来の狩猟採集の伝統もどこかで途切れずに継承されていて、農閑期には、鹿や猪も狩っていた(養豚も始まっていた)。
ところが、弥生時代の遺跡から出土する犬は、ほとんどバラバラで、解体して遺棄された骨格として出土するようになり、明らかに食べていたことが分かる。
その代わり、鹿は、食べていたにもかかわらず、鹿の(銅鐸)絵や埴輪が作られていることから、縄文とはうって変わって、ある種の「神格化」」の痕跡が推察できるのである。

さて、犬に関してであるが、列島の歴史の中では、弥生時代以降幕末まで、食べ続けられていたのだが、これは、何も珍しいことではなく、今でも、アジアでは、犬は広く食されており(韓国料理のポシンタンなど)、むしろ、犬を食べなくなったわれわれ明治以降の列島人のほうが、よっぽど特殊で例外的な存在なのである。(続く)

k-jsb3.jpg

縄文時代前中期(約5,500年前~4,000年前)・青森県の三内丸山遺跡から出土した鹿の角

9.
列島の肉食の歴史にひとつの事件が起こる。
七世紀に仏教が伝来すると、朝廷は正式に肉食の一部を禁じるのだ。

天武天皇四年(675年)と言えば、春日大社が創建されるおよそ100年ほど前のことであるが、『日本書紀』のその年に関する記述ににこうある(因みに、『日本書紀』の編纂の長は、天武天皇の五男の舍人(とねり)だったので、以下の記述は、ほぼ同時代の出来事に当たる)。

「今後、漁労や狩猟を営む者に、檻、穴、機槍(ふみはなち)などの仕掛けの類を設置することを禁ずる。また、4月1日から9月30日まで、簗(やな)を設置することを禁ずる。また、牛・馬・犬・猿・鶏の肉を食することを禁ずる。これ以外は、事例とはしない(自今以後、制諸漁獵者、莫造檻穽、及施機槍等之類。亦四月朔以降、九月卅日以前、莫置比彌沙伎理・梁、且莫食牛馬犬鷄之宍。以外不在禁例)」。

この文書だけから分かること。

まず、狩猟や漁労の仕掛け(檻、穴、機槍、簗)。
いずれも、縄文弥生時代以来、近世まで伝わっている鳥獣の伝統的捕獲法である。

さらに、牛・馬・犬・猿・鶏の食肉をわざわざ禁止しなければならなかったということは、逆に、これらの鳥獣を食する習慣があったということ。

また、さらに、肉食を禁じているわりには、この禁止リストの中に、食肉の二大巨頭たる、鹿と猪が入っていないことである。

しかも、肉食が禁止されているのは、四月から九月までであり、ほぼ、田植えから稲刈りまでの時期だけで、鳥獣の肥えて美味なる秋冬は、大いにこれを食してもよいということである。

これはまた、一説によると、『涅槃経』の「犬は夜吠えて番犬の役に立ち、鶏は暁を告げて人々を起こし、牛は田畑を耕すのに疲れ、馬は人を乗せて旅や戦いに働き、猿は人に類似しているので食べてはならない」という文書に影響されたらしい。

以上のことから、どういうことが推察可能か。

・稲作を「日本国」の基幹業とし、伝統的な狩猟採集業を押さえようとした。
・牛・馬・犬・猿・鶏は、益獣なので、肉食を禁じはしたが、鹿・猪は、農耕にとって害獣でもあるわけで、それらの駆逐と安定した食糧確保のため、禁食リストからはずした。

というところであろう。

ただ、天皇の詔(みことのり)とは言え、当時の列島で、「日本国」だった地域は、広く解釈しても、せいぜいが、北は多賀城(仙台北部)まで、南は北部九州までで、それ以外は「日本国」ではなかったばかりか、畿内以外の山海奥地では、なんと異国風で奇妙なお触れであるかと、呆れ果てるか、大笑いしたに違いない。(続く)

08a.jpg

古墳時代の鹿の埴輪(出雲出土)

10.
奈良編がなかなか書き終わらない。
実は、ソウル編も書き「終わって」はいないのだが、今は、行きがかり上、奈良編を書き続けたい。

戦乱や天災や悪政による破壊と、その後の再建を、馬鹿のひとつ覚えのように繰り返した奈良の寺社建築物。
同じように、人間という、最も愚かで残酷で貪欲な生物のために、その時々のとんだとばっちりを被った鹿たち。
そういう歴史の一切合切の結果として、現在の奈良があり、それがまた、とびきりに「美しい」。

さて、鹿の問題を片づけてしまいたい。

天武の詔勅にも禁制を免れた鹿は、無論、その後も食べ続けられたが、かと言って、禁止された牛・馬・犬・猿・鶏も、世間では、幕末まで食べ続けられた。
食べられた当該動物の遺物が「食べられた証拠になるような状態で」出土するので、これは厳然たる事実ではあるが、事実だからと言って、何ら、臆することはない。
第一、朝廷の親分である天皇自身が、パクパク食べている記録が残っているのだから、何ら、忸怩たるを要さない。
それどころか、日本列島の食文化が、アジアのそれと同一だということを再確認させてくれるので、啓発的でもある。
かといって、これら食用鳥獣は、決して、列島人の「主食」格ではなく、あくまでも、五穀蔬菜の付属食であったのは、言うまでもない。

にもかかわらず、天武の詔勅のおよそ100年後、春日の杜(奈良公園)の鹿「だけ」が神鹿として崇められ、狩猟の対象とするすることを禁じられたのは、何と言っても、仏教がその原因であると思う。

鹿苑寺・金閣寺という。
何故か。

釈迦族の王子の仏陀(ゴーダマ・シッダールタ)が初めて説法をした場所が、サルナートSarnath(鹿野苑/ろくやおん)であり、その名に因んでいるからだ。
事実、サルナートでは、当時、鹿が多く棲息したというし、現在でも、奈良公園のように鹿がいる(ただし、檻内での飼育)。
8世紀の大和の支配者たちは、インドの仏教の聖地サルナート(ベナレスの北10㎞ほど)への、一種のエキゾチックな憧れから、鹿肉食という列島の大伝統に逆らうようにして、春日の杜を「鹿苑(鹿の園)」にしようとしたのではないだろうか。

その想像が正しいかどうかは分からないが、8世紀の日本人には、異国風なこの領域が、ディズニーランドのような「神域」に感じられたのではないだろうか。

日本列島の町並みは、明治以来、急速に個性を失い、太平洋戦争後は、急速に、表層的で非現実的で疑似娯楽的な空間に統一されつつあるが、私には、その理念型が、ディズニーランドのような気がしてならない。
お母さんの握ったおにぎりを持ち込むことすら許さない、原住民の文化と隔絶された、米国流商業主義の殿堂ディズニーランド。
奈良時代の「鹿野苑」が、あたかも、明治時代には「鹿鳴館」(文明開化の殿堂)に変貌したかのようであり、ディズニーランドは、いわば、米国留学を果たした、鹿鳴館の曾孫あたりに当たるのではないか。

8世紀には、まだ、狩猟採集を基本とした非日本国「民」が、縄文以来の高度な狩猟採集生活を送っていたというのに、この、渡来人系の豪族の作り上げた都の中にある春日の杜という敷域だけは、鹿を狩ってはいけないという。
つまり、列島伝統の食文化の代表たる鹿を狩ることさえ許さない領域。

「奈良公園」は、いわば、大宝律令以来、古来日本列島に暮らしてきた人々にとっては荒唐無稽でしかない「中央(天皇)」文化が、半ば強制的に列島の隅々まで行き渡る、その発信モデル地区だったのではなかったか。

と、ここまで書いて、無理をしてでも、鹿は、全然悪くないことを思い出さなくてはならない。(続く)

sarut02.jpg

仏教の聖地サールナート(鹿野苑)

11.
鹿の園に迷い込んでしまい、なかなか抜けられない。
最近は、散歩している犬さえ、鹿に見えてくるし、夢の中にまで鹿が登場し、ビェ~と鳴きだす始末。
「鹿払い」をするためには、やはり、全部書いてしまうしかない。

てなわけで、今しばらく、お付き合い願いたい。

もしも、縄文人が、奈良公園にタイムワープしてきたら、狂喜乱舞するに違いない。
人間に対し何の警戒心もない鹿たちが、あんな狭い空間に1200頭もたむろしているのだから。
かと言って、縄文人は、得意の弓で全部の鹿をしとめてしまうことはしないだろう。
当面、必要な頭数だけを殺め、それを食べる。
ただそれだけのことであろう。
狩猟採集を基礎に生きなければならない人間たちが大抵そうであるように、縄文人は、無謀な乱獲はしないであろう。
乱獲をすれば、自然のバランスが崩れ、いずれ、自分たちが滅ぶことを知っているからである。

そういう縄文的な知恵が失われ始めたのは、たぶん、弥生時代からで、大和政権時代に加速し、明治期にさらに加速し、太平洋戦争後には、もう、どうしようもないぐらいに節操も消滅し恥も外聞もなくなり、ついに、その知恵が、もう、ほんのかけらぐらいしか残っていないのが、われわれの「預かっている」現代である。
現代の文明は、繁栄すればするほど、それだけ死に近づいているように思われる。

そんなテーマに、果敢に取り組んだ作品が、宮崎駿のアニメ『もののけ姫』(1997年)である。
簡単に図式化すると、縄文的な狩猟採集の原理と弥生的な稲作原理の闘争の物語。
すなわち、陸奥を本拠地とする縄文人の末裔であるもののけ姫サンと、エボシの率いる弥生人の末裔である製鉄集団との闘争の物語化である。

注目したいのは、この作品の中に出てくる自然を体現する大神は、「シシ神」と言う。
「鹿」として形象化されているシシ神は、森の生命の中心的な存在として、まさしく、列島における鹿の位置づけを正確に反映している。
無論、「シシ」とは、「奈良へ8」で書いたように、「肉」を意味する「鹿」の語源であり、宮崎駿も、このことから、シシ神と命名したのに違いない。
因みに、この物語には、食肉の両巨頭として鹿と双璧をなす猪も、人間によってその存在の基盤を破壊され、「荒ぶる」もののけと化した恐ろしい姿で見事に描かれている。

破壊し続けられた自然は、荒ぶる怨霊と化し、森を切り開き文明という人間中心で身勝手な世界を築こうとするタタラ集団に復讐を遂げることで、この物語は、まるで「振り出し」に戻されたかのように、後に残された人間たちは自然の中に放り出されたような状態で幕を閉じる。

まるで、その重い課題を、われわれに託すように・・・。(続く)

shishigami3.jpg

シシ神

12.
奈良紀がなかなか終わらないが、今回で終わらせられるだろうか。
書いてみないと分からない。

さて、『もののけ姫』の、鹿として形象化されたシシ神の角を見ていただきたい(奈良へ11の写真参照)。
まるで、草木の爆発的な生長力(豊饒)を象徴するような立派な角である。

今回、われわれが奈良公園を訪れた際、ちょうど、園内の「鹿苑(ろくえん)」にて「鹿の角切り」の行事が行われていた。
毎年、10月上中旬に行われる慣わしで、ちょうどその季節に当たったのは幸運ではあったが、700円の拝観料を取るということを知って、急に胡散臭いものを感じて興ざめし、見るのをやめた。

それは、さておき、秋になると雄鹿の頭にそそり立つあの立派な角は、われわれはあたかも、何年もかけて成長するものと考えがちであるが、実は、さにあらず。

雄鹿の角は、全部「一年もの」なのである。
つまり、春になると小さな突起が現れ、まるで植物のように次第に大きくなり、秋になるとほぼ最大に達するが、冬になると、自然と角は頭からはずれて、ぽろりと落ちてしまうのだ(「落角」という)。
そして、春になると再び「袋角」が発達し、それが角として成長し始める・・・。

縄文の遺跡から、何故、あんなにたくさんの鹿の角とその加工品(釣り針・角鏃など)が出てくるのか不思議だったが、これで納得がいく。
縄文人は、鹿の肉だけが目当てだったのではなく、その角も重要な資源だったわけだから、まず間違いなく、鹿狩りは、毎年、角の育った秋以降に行われたはずである(その肉も、猪同様、秋以降が、脂がのって旨いはず)。
しかも、毎年、新たな鹿の角が入手可能だったので、あれだけ大量の鹿の角の遺物が発掘されるわけだ(そう言えば、『もののけ姫』の、森の中心にある沼の水底にも、シシ神の生え代わった角がたくさん沈んでいたように記憶する)。

しかし、冬になれば、多くの木の実と同様、どうせ自然に落下してしまう鹿の角を、奈良公園(興福寺・春日大社)では、何故にわざわざ角切りをするのか。
「鹿の角切り」の行事の歴史は、比較的新しく、江戸初期の1671年で、秋になると鹿は発情期に入るので鹿同士が角突き合いをしたりして傷を負ったり、、人間に怪我を負わせたりすることを防止するために始められたという。

ただ、稲作農耕が本格的に始まった弥生時代以降、鹿が神格化されている事実は、実は、鹿の角と関係があるような気がしてならない。
というのは、春に生え始め、秋に完熟する鹿の角の成長のサイクルは、春に田植えをして秋に稲刈りをするサイクルとまったく一致するからである。
そのサイクルの一致に気づいた弥生人は、鹿に自然のサイクルの象徴を見いだし、一種の神格化を施したのではなかったか。

とは言え、ここに大きな矛盾が生まれた。
鹿は、既に書いたように、肉食の最大資源だったにもかかわらす、農耕民にとっては、作物を荒らす害獣である。
神格化して保護の対象になれば、作物を荒らされるし、鹿の肉が食べられないことになる。

その矛盾を正直に表現しているのが、天武天皇四年(675年)の「肉食禁止令」ではなかったか。
肉食を禁止をしておきながら、禁止リストから、鹿を除外しているというのがそれである。
ただし、8世紀になると、現在の奈良公園の鹿だけは、禁猟とされたのは、驚きとしか言いようがない。(続く)

horn1year.gif

鹿の角の年間サイクル

13.
ロビンフッドと子鹿物語

天武天皇四年(675年)の「肉食禁止令」の約100年後、春日の杜の鹿は禁猟の対象となった。
既に触れたように、ためにこの禁を犯した者は、江戸時代に至るも、死罪という厳罰が課せられた。

日本列島から遠く離れたイギリスでも、中世期(10~13世紀頃)、同じようなことがあった。
イギリスでも、鹿の肉獣としての重要性は日本列島と同様であったが、フランスのノルマンディに根城を築いたヴァイキングの末裔(ノルマン人)がにわかに力をつけて、イギリスに大挙攻め込み、国そのものを簒奪した(1066年「ノルマン人の征服」)が、そのノルマン朝の王が、シャーウッドの共有林などを王室専用猟場と指定し、平民による鹿の狩猟を禁じ、これを犯す者をことごとく死刑に処した(日本では、海外からの侵入によって、「国」そのものを奪われるという経験と言えば、元寇の際に危機的な状況にはなったが、低気圧や台風により難を逃れ、1945年以降の米国の占領以外はその例がないが、イギリスは、紀元前後の古代ローマ帝国による占領を初め、何回か被占領の経験することになるが、一番決定的だったのは、この10世紀の「ノルマン人の征服」である)。

これに果敢に挑戦したのが、有名な義民ロビン・フッドである。
弓の名手として知られるロビン・フッドは、王の定めた理不尽な禁猟法をわざと犯し、鹿を狩り、それを糧に森の中で仲間たちと暮らし、ときに街道筋で悪代官を襲って金品を奪い、民衆に分与したという。

しかし、イギリスの場合、問題だったのは、鹿の神格性ではなく、共有林とそこに住む鹿の「所有権」であり、これを王が「独占」したことが原因であったので、ロビン・フッドのような民衆のシンボル(実在の人物ではないようであるが)の闘争により、再度、共有化されれば問題は解決した。

イギリスの例を出したついでに、アメリカの例を一つだけ。
何と言っても、ローリングズ原作の『仔鹿物語』(1938年)であろう。
1947年度に、グレゴリー・ペック主演で映画化されたことでも有名である。
この物語は、大変に分かりやすい。
母鹿の死んでしまった子鹿を少年が飼い始めかわいがるが、子鹿が成長するに連れて、畑の耕作物を荒らすようになったので、少年は、悩んだあげくに、鹿を殺すという話である。ペットと害獣の矛盾と、少年の社会化された大人になる物語である。

図らずも、英米の例に、時間を割いてしまった。
次回は、また、奈良に戻りたい(続く)

14.
鹿肉の味

年末に、フレンチ料理の店(葛飾区)に行った。
以前にも、この店で、蝦夷鹿のステーキなるものを食べたのだが、今回、再び注文してみた。
厳密に言えば、蝦夷鹿のステーキを注文したのは私ではなく、連れの女性だったのだが、一口もらって食べた感じは、前回と同じで、やはり、「美味しい」と言えるものだった。
適度な歯ごたえがあって、噛むほどに滋味が滲み出てくるような感じとでも言おうか・・・。

だがしかし、その「美味しい」という感覚の内実が自分には曖昧で、この場合の「美味しい」には、「牛肉のようである」という意味合い、ないしは、「鹿にしては」美味しいという意味合いが含まれていないか、私は、自問自答せざるを得なかった。

現在の日本列島に暮らす多くの者は、豚・鶏・牛の肉の「素(す)」の味を知っている。
だからこそ、串焼き屋に行って、それぞれの肉の味を楽しむことができる。
魚類にしてみたところで同様で、われわれは、それぞれの魚介の「素(す)」の味を知っているからこそ、寿司屋のカウンターに座って、あれこれのネタを順繰りに楽しみことができる。

そう言えば、いつだったか、テレビを見ていたら、十代の名前の知らないアイドルが、戻り鰹(晩秋以降、寒流を下ってくる鰹)の刺身を食べて、こんなことをホザいた時には、ブラウン管越しに、殴ってやりたくなった。

「えーっ、これって鰹ですかぁ!超オイシイぃ・・・。まるで鮪みたいぃぃぃ!」。

美味しい魚の代表が鮪であるという、世間で罷り通っている「偏見」に対して、今さら、ごちゃごちゃ言う気ははないが、何かを褒めるときに、それとは「別のものに似ている」から「良い」という感覚に、無性に、腹が立った。

少なくとも、この砂利(ジャリ)タレ女は、寿司屋に行く資格はないぞ!

キャビアに似ているという理由で鱈子がうまいと言い、牛肉に似ているからという理由で馬肉がうまいと言い、ヨーロッパに風土が似ているから北海道が良いと言い、西欧人に似ているから美人だと言い、どこかのアイドルに似ているからカッコイイと言う・・・。

自分たちの国は、西欧の国々に似ているから、中国や朝鮮よりも偉い!・・・
どこかで聞いたことがある言い草ではある。

しかしこれは、何と醜悪で恥知らずな嗜好であろうか。
(アパルトヘイト時代の南アフリカ共和国で、有色人種としては日本人だけが「名誉白人」とされていることを自慢げに語っていたのは誰だ!)

では、他ならぬこの自分も、鹿肉は、「鹿の肉の味がするのでうまい」と自信をもって、言えるだろうか。
いや、悔しいが、言えない。
肉の「素(す)」の味を知らないからだ。(続く)

dsc00002.jpg

(将軍鹿狩りの図・江戸時代)

15.
さて、話が横道に逸れたようだ。
冒頭のフレンチ料理店の話に戻ろう。

このレストランのシェフの仕事は、私のような素人から見てもすごい。
山海の食材を大胆にフランス料理として仕立てていく巧みさと冒険心には、いつも驚くばかりである。

われわれが、大方食べ終わって、「あ~、生きててよかった!」と満足感に酔っていると、厨房からシェフが出てきて、われわれのテーブルまで挨拶にやって来た。

「どうでしたか?」。
シェフは、われわれに、感想を聞きにきたのだ。
「はい、大変美味しかったです」というこちらの応答が言い終わらぬうちに、「蝦夷鹿はいかがでした?」と訊いてきた。
やはり、このシェフにしてからが、鹿肉の塩梅が、一番、気になるらしい。
「前にもいただきましたけど、今回も、とても、美味しくて・・・、臭みもなかったし・・・」と応えながら、我ながら、何気なく口をついて出た「臭み」という言葉の中にある軽薄な調子に気づき、口ごもった。

「臭み」とは何か。煎じ詰めれば、その素材独特の香りのことのはずである。たとえば、薩摩芋の匂いのしない芋焼酎なら、飲まない方がましである。

シェフは、後を継いで言った。
「臭みのない鹿肉を手に入れるのが大変でして。今回使った鹿肉は、なかでも、一番臭みの少ないものです。でも、北海道の地元の人に言わせれば、臭みの強い肉の方が美味しいと言うんですが、試しに食べてみたら、何というか、肉全体が、レバーのような味なんで、難しいものです」。

なるほど、そうか。
この場合の「臭み」というのは、鹿肉の匂いというよりもむしろ、「血」生臭さのことだったのだ。(続く)

t19991202o.jpg

縄文人の冬の狩り・鹿の解体(想像模型・ 新潟県立歴史博物館)

16.
ここでちょっと寄り道をしたい。

われわれの魚の調理法、というか、処理法についてである。
たとえば、釣りをする人はよく知っていることだが、「野じめ」ということをやる。
鯛のような大きな魚ならば、釣り上げるなり、首と尾にナイフを入れ、血抜きをする。
鰺や鰯のような青物は、首をポキッと折ってしまえば、頸動脈から瀉血できる。
これをせずに、自然死させると、肉に血が周り、多少、生臭くなるからだ。

ただし、魚介類には相当にうるさい日本人は、その魚の血の味も、必ずしも嫌いなわけではない。
たとえば、鰹(青物)の刺身の味は、ある種、血の風味であるし、鮭の「めふん」(血腸)はなども、この類かもしれない。

また、血の味とはやや違うが、魚の腸(はらわた)の味も、われわれは好む。
秋刀魚や鮎の腑(キモ)は美味だし、鱈や河豚の白子(精巣)、アンコウやカワハギのキモ(肝臓)は御馳走である。
また、鰹のキモの塩辛(酒盗)や、最近スーパーなどでもよく見かける韓国由来のチャンジャ(鱈の腸の塩辛)も、立派な魚の内臓料理である。
さらに、鱈子、筋子、数の子(ニシンの卵)なども、腹わたの一部だと言えなくもない。

このように、われわれ日本人は、魚に関しては、臓物まで含めて、一匹丸ごとを食べ尽くす文化環境にいるわけだ。

この、日本における魚の嗜好に言えることすべてが、牧畜文化圏においては、畜獣について言えると思ってよい。
多彩で豊富な畜獣料理の(骨髄料理、血のソーセージ類、脳味噌料理、チーズ類など)も、われわれの魚料理に勝るとも劣らない。
そして、われわれが魚に施すような「血抜き」の工程を含む「屠畜解体」の技法も、無論、そこにはある。
ただし、血抜きをするのは、必ずしも、血の臭みを嫌うからではなく、血は血で別に取っておき、血のソーセージ(韓国にもありますね)や飲料(ベドウィン族など)として利用するためで、要は、血抜きをすることで各部位の風味をより直接的に味わうのが目的ではないか。

自分なりに、いろいろと調べてみた結果、次のことが言えそうである。

魚にしろ、四つ足獣にしろ、また、原始部族にせよ、高度資本主義社会にせよ、人間が食用を目的に脊椎動物(背骨のある生物)を解体処理する場合の基本は、「絶命と同時に血抜きをし、内臓と枝肉とを分ける」ということである。

ところで、どこで読んだかどうしても思い出せないが、すき焼きの歴史を読んでいたときに、明治期のすき焼き(牛鍋)草創期には、牛肉の「臭み」が強く、最初は、鍋の中央にてんこ盛りにした味噌で臭みを誤魔化しながら食さなければならなかったほどで、この「開化」的な食材を敬遠する人が多かったらしい。
ところが、牛豚の解体(血抜き・内臓抜き)および流通機構が確立され始めると、その「臭み」がなくなり、(関東大震災後には)すき焼き(味付けは「どじょう鍋」から発展)が爆発的に普及したという。食肉としての流通プロセスが確立され、血生臭さがなくなったというわけだ。

鹿肉にも同じことが言えそうであるが、それでは、どうして鹿肉は血生臭いのであろうか。

この背景にあるものは、実は、案外単純な事実だった。(続く)

17.
いつだか、テレビで、豚をペットとして飼っている人の話が出ていた。
薄ピンク色のかわいらしい子豚に犬用の首輪を付けて、しっぽにはリボンまで付けて、公園を散歩させていた。
不忍池の鴨を見ても涎の出る私は、思わず、「美味そうだなぁ~」と呟いていた。

もし私が豚をペットとして飼うとする。
まるまると成長するに及んで、やはり、美味そうなので食べてしまおうと思ったとする。
で、その豚ちゃんの命を奪って解体して、豚カツにして食べてしまった。
ダメです、これはいけません。
違法なんです。

ところで、もし私が子鹿をペットとして飼っていて、同じことしたら(豚カツならぬ「鹿カツ」にしたりして)どうか?
これは違法ではありません。
どんどん、食べて下さい。

どうしてなのか。

実は、一般には、あまり知られていない法律に、「屠畜場法」というものがある(私も今回初めて知った)。
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S28/S28HO114.html

その第一条(この法律の目的)には、「と畜場の経営及び食用に供するために行う獣畜の処理の適正の確保のために公衆衛生の見地から必要な規制その他の措置を講じ、もつて国民の健康の保護を図ることを目的」とするとある。

いかにも条文らしい、ややこしい言い回しだが、つまり、安全な食用獣畜を供給するための法律である。

で、その第十三条に、法的な条件を整えた「屠畜場(食肉処理場)」以外の場所で屠殺解体してはならない(「何人も、と畜場以外の場所において、食用に供する目的で獣畜をとさつしてはならない」)とあるので、勝手に豚君を「ばらした」私は、法に触れることになる。

では、鹿の場合はなぜ許されるのか。

この法律で述べている「獣畜」とは、「牛、馬、豚、めん羊及び山羊」(第三条)に限られるからである。
つまり、鹿は、このリストに入っていないので、勝手に屠殺解体しても、一向に構わないわけだ。
因みに、鶏もこのリストに入っていないからこそ、昔から、自宅の庭で「しめて」、鶏鍋にしていたのである(但し、鶏の食肉加工工場はあちこちにある)。

また、ここで注目してよいのは、既に書いたように、天武天皇四年(675年)の詔(食肉禁止令)と同様、この「屠畜場法」でも、列島における食肉の二大巨頭たる、鹿と猪が入っていないことである。
法律というのは、何と恣意的なものであろうかという気がしてくる。

では、その「屠畜場(食肉処理場)」ではどのように、屠殺解体が行われているのであろうか。

以下、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の屠畜場の項目から引用させていただきたい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A8%E7%95%9C%E5%A0%B4

> ・・・搬入されシャワーで汚れを洗い流してから食肉衛生検査所の
> 獣医師の免許を持つ「と畜検査員(ほとんどは都道府県や政令指定
> 都市の職員)」による病気等外観の検査(生体検査)を受ける。屠
> 殺は、前頭部への打撃あるいは電撃によって昏倒させたあと頸動脈
> を切開し、両後肢の飛節に通した鉄棒で吊り上げ、失血死させると
> いう方法で行われる。屠体はそのまま施設の天井に取り付けたレー
> ルに沿って各作業配置を順に廻り、解体されていく。途中で適宜と
> 畜検査員により病変組織のサンプリングと検査が実施される。解体
> 順序はごくおおざっぱに言って、頭部切断・剥皮・内臓の摘出・背
> 割り・枝肉検査などと続き、半頭分の肉の塊(半丸枝肉)となる。
> たいていは解体ラインの階下に白モツなどの内臓を分別・洗浄・パ
> ッキングするための作業場があり、ラインで切り離された臓器をシ
> ュートに投入することにより下の作業場に送られる仕組みになって
> いる。 ・・・

要約すると・・・、

・洗浄と生体検査
・屠殺と頸動脈切開による失血
・内臓を抜き、魚流に言えば、二枚におろす

という工程になる。(続く)

main1.jpg

蝦夷鹿のロースト

18.
というわけで、鹿に関しては、屠畜場(食肉処理場)で解体する義務がないかわりに、捕獲した人たちが自分流に解体していることになる。このため、絶命してから長時間放置されたり、血抜きがなされなかったり、不十分だったりで肉質にばらつきがあって、「臭み」が残ることもあるのではないか。

ところで、本稿では繰り返し、鹿肉は「血生臭い」と書いてきたが、実は、四つ足獣の中で一番「癖」がないのが、鹿肉だというのが、むしろ、大方の評価なのである。

たとえば、社団法人エゾシカ協会会員の発言によると、「日本人がふだん食べ慣れている豚肉や牛肉に比べると、とてもあっさりしてクセがない、という印象かも知れません。野生動物ですから、筋肉に余分な脂肪は一切ありません」(http: //www.yezodeer.com/qbox/qbox03.html)。

また、フランスを中心に、古来、ジビエ(gibier)料理という部門の「野禽獣」料理が盛んである。
鉄砲で捕らえた山ウズラ(ペルドロー)、山シギ(ベカス)、雷鳥(グルーズ)、野ウサギ(リエーヴル)、鹿(シュヴルイユ)などの野生の禽獣を食べさせるジャンルの料理で、たとえば、日本の高級フランス料理店で出される兎や鹿は、フランスで、この方法によって捕獲処理された素材である場合が多いという。
その中でも、一番さっぱりしていて癖のない肉の定番と言えば、やはり、鹿肉なのである。

野獣としての鹿の解体は、大抵、猟場のハンターに依存せざるを得ない。
鉄砲による狩りなので、捕獲(射殺)と同時に絶命するからだ。
ところが従来、山野で射殺された鹿は、ほとんどの場合、その場で適切な処理がなされないまま流通にのってしまうため、どうしても、臭みが残り、鹿肉本来の味が分かりにくくなりがちである。

つまりは、鹿も、牛豚羊と同様の解体処理をおこなえば、美味しい鹿肉が食べられるはずである(猪についても、同様であろう)。

ネットで調べてみたら、案の定、うまい鹿肉を供給するために、北海道では、エゾシカ協会という組織が設立され、現場のハンターに、次のような「クリーンキル」という捕獲処理法を指導推奨している。
http://www.yezodeer.com/index.html

> 動物福祉の立場から、できる限り苦痛の少ない方法でシカを射殺し、
> おいしい肉が回収できるように収穫しなければなりません。これを
> クリーンキルといいます。
> できる限り短時間に殺処分するためには、急所、すなわち中枢神経
> 系(脳か脊髄)か循環器系(心臓や動脈)にダメージを与えること
> がいいのですが、同時に放血が速やかに行なわれ、ただし、消化器
> 官などに傷をつけて消化管内容物で肉が汚染されることのないよう
> にしなければなりません。
> その点でベストショットは頸椎を破壊すると同時に動脈を切断し体
> 外に短時間で放血する頸部着弾ですが、これはかなり難しいショッ
> トになります。そこで、胸部にあたるように撃ち、心肺機能を破壊
> すると同時に胸腔内へ大部分の出血がおこるように撃つことが薦め
> られています。
> こうして撃てばシカは短時間に絶命し、放血も十分行なわれ、かつ
> 横隔膜以下の内臓(胃・腸管・肝臓など)を傷つけることなく、お
> いしい肉が収穫できます。

この「クリーンキル」という処理法は、猟場において、まさしく屠畜場と同様の「血抜き」効果を施すことを目的にしていると言ってもよい。また、それを普及指導するための講習会なども開催されている。
http://www.vill.nishiokoppe.hokkaido.jp/Villager/Ryouku/INDEX.HTM

このような努力がなされているので、美味しい鹿肉が、われわれの食卓に上る日は近いのではないか。
いや、既に可能なのである。

たとえば、北海道上川郡の上田精肉店では、「クリーンキル」によって捕獲された鹿肉を通信販売している。
http://www.ezodeer.com/
その商品リストをご覧いただきたい。
http://www.ezodeer.com/mart/index.html

はてさて、これでしばらく鹿について考える必要はなくなったかもしれない。
あとは、通販で取り寄せてじっくりと料理して食べるだけであると思いたいものである。(了)

ex038_08b.jpg

一万数千年前のスペインの洞窟壁画・鹿狩りの風景

   Comment(0)   TrackBack(0)   Top↑

Comment

管理者にだけ表示を許可する

Top↑

TrackBack
TrackBackURL
http://danchotei.blog75.fc2.com/tb.php/87-b73cc2c3

Top↑

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。