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断腸亭日録~自転車日記
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2014.12.29 Mon
柳田国男の銚子徒歩旅行~海鹿島異聞
「柳田国男の銚子徒歩旅行~海鹿島異聞」(前篇)

これまでも度々話題にしてきた『利根川図志』(赤松宗旦著・安政年間の1858年刊)だが、その岩波文庫版(1938年刊)を校訂し、解題を付したのは、柳田国男(民俗学者)である。

その柳田国男の筆なる巻頭の「解題」を読むと、『利根川図志』にたいして殊更に深い思い入れがあったことが分かる。
その理由は、著者の赤松宗旦の生地布川(ふかわ)は、国男自身が青少年時代を過ごした地であることに加え、宗旦の祖先も、国男と同じ播州(兵庫県南西部)の出だったからである。

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(『利根川図志』の著者赤松宗旦の旧居跡・茨城県北相馬郡利根町布川)

柳田国男は、その布川(下総国相馬郡布川村で、現在の茨城県北相馬郡利根町布川)と宗旦と自分とのつながりから書き起こしている。

『利根川図志』の著者赤松宗旦翁の一家と、この書の中心となっている下総の布川という町を、私は少年の日からよく知っている。この書が世に公にせられた安政五(1858)年から、ちょうど30年目の明治二〇(1887)年の初秋に、私は遠い播州の生まれ在所から出て来て、この地で医者をはじめた兄の家に3年ばかり世話になった。そうして大いなる好奇心をもって、最初に読んだ本がこの『利根川図志』であった。
(岩波文庫版3頁・新仮名新字体に直し、かっこ内に西暦を付した。以下の引用も同様)

柳田国男にとって、宗旦の『利根川図志』は、現代のわれわれとは違って、決して「古書」ではなく、私自身の同時代的な喩えで言えば、太宰治の『津軽』(1944年)を読むような感覚であったことが分かる。
それほど、柳田国男の世代にとって、幕末(あるいは、江戸時代)は近い時代だったというわけである。

IMG_0457_20141229135431e00.jpg
(少年時代に柳田国男が住んだ布川の家)

布川、そして後に、利根川対岸の布佐(千葉県南相馬郡布佐町・現我孫子市)に住んでいた少年の国男は、『利根川図志』をいわゆる旅行ガイドブックとして読んでいたようである。

此本は余りにも大きいのでポケットに入れて行くことも出来なかったが、その代わりには人々に是をよく読ませて、その記憶を携えてあるいたものである。
(同書14頁)

そして、「解題」の最後の方で、銚子まで利根川づたいに徒歩旅行をしたという、次のような大変興味深い体験を書いている。

思い出すことの一つは、最近亡くなった末弟が十四歳の時、僅かな金をもって夏の盛りに、利根川の堤を二人で下って行った。腹がへってもうあるくのはいやだというのを、あしか島をみせてやるからとすかし励まして、夜路を到頭(とうとう)銚子の浜まで行ってしまった。実は、船賃をのけると一泊の金が無かったからである。
(同書14頁)

「最近亡くなった末弟」というのは、松岡映丘(まつおかえいきゅう・日本画家)のことで、国男がこの「解題」を書く四ヶ月ほど前の1938年3月2日に亡くなっている。
その弟(1881年生まれ)が、「十四歳」の時というのだから、この銚子徒歩旅行は1895(明治28)年前後のことだと推定できる(年齢の数え方によって前後1年ずれるかもしれない)。
国男にとって、死んだ弟の思い出をこの「解題」に、是非とも書き留めておきたかったのかもしれない。

末弟
(後列左が若き日の松岡輝夫(映丘)、後列右が柳田國男、前列右から、松岡鼎、松岡冬樹(鼎の長男)、鈴木博、1897年前後の撮影)

柳田国男の年譜を紐(ひも)解くと、1895年(明治28年)には、布川から布佐に越している

1887年(明治20年) - 兄・鼎(かなえ)が、医院を開いていた茨城県北相馬郡布川村(現・利根町)に移住。
1893年(明治26年) - 兄・鼎の転居に伴い千葉県南相馬郡布佐町(現・我孫子市)に移住。

なので、この銚子徒歩旅行は、布佐が出発点だったに違いない。

そして、最終的には、めでたく銚子の「あしか島」に到着するわけだが、その距離たるや大変なものである。
夏の暑い盛り、国男(たぶん、二十歳)と映丘(十四歳)が、銚子をめざして、ひたすら利根川堤を歩きとおす姿をちょっと想像してみよう。

試しに、布佐から銚子までの道程を経路地図に描いてみた。
仮に現在の国道356号の旧道(いわゆる「銚子道」)を歩いたとして、次のようなルートが考えられる。


(布佐~海鹿島(柳田国男))

距離は、約85キロにもなる。
もちろん、当時の人は、誰でも一日に40キロほどは歩く脚力はもっていたし、人力車引きにしては、何と一日に70キロを移動するというのはざらだったというから、当時としては、さして珍しいことではなかったかもしれないが、現代のわれわれにとっては、気の遠くなるような話である。

歩行速度の平均である時速4~5キロで歩いたとして、休憩なども含めて、たぶん、最低20時間以上はかかったであろう。
ということは、夜明け前に出発し、銚子に到着したのは、どんなに早くても、翌日の朝ということになる。

こんな無茶な旅をしたのも、ひとえに「船賃をのけると一泊の金が無かったから」である。

当時、銚子まで行くには、船に乗って利根川を下るのが普通であったのだが、国男たちは帰りの「船賃」しか持っていなかったので、徒歩旅行の途中一泊することもできず、仮眠を取りながら夜通し歩くという強行軍を敢行するしかなかったというわけである。

さて、銚子に着いてはみたものの、目的とした「あしか島」はどうであったか。

ところがその海鹿(あしか)島には、もう『利根川図志』のような海鹿は上がって居なかった。そうして評判の遠眼鏡(望遠鏡)は割れて居た。是がその獣の皮だという毛の禿げた敷物の上で、梅干と砂糖とだけの朝飯を食べて還って来た。
(同書14頁)

残念ながら、海鹿島には、あしかはいなかったのである。

(続く)

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