日々の身辺雑記や考えたことなどを徒然なるままに書き連ねる「断腸亭日録」です。
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断腸亭日録~自転車日記
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2013.02.21 Thu
「葛羅之井」探訪~永井荷風の「葛飾土産」にならいて
現在の千葉街道(国道14号線)は、上代の東海道だったことはよく知られている。
当時の東海道は、三浦半島南東の走水から船で内房に渡って、上総の国府を経て、内房沿いの街道を北進。
その後、千葉街道を経由して、下総の国府(国府台)に抜けるものだった。

当時の千葉街道(=東海道)は、ほんの数百年前にやっとのことで砂州になったばかりの地域で、いわば海岸道路であったはずである。
当時の海岸線は、ほぼ、現在の総武線に相当したからである。
松並木の植えられた街道を歩けば、そこここに漁師の苫屋(とまや)が散在し、投網を打つなど魚介を捕獲する人々の姿が見られる長閑な風景が展開していたことであろう。
また、街道からは、引き潮ともなれば葦原を伴う広大な干潟が現出し、その向こうには、静かな東京湾がのぞめたであろう。

しかしながら、現在の千葉街道も、縄文時代ぐらいにはまだ内海もしくは波打ち寄せる渚であったはずで、となれば、市川市界隈で最も古い道は、現在の国府台を擁する下総台地の上を通っていたはずである。

私は、かねがね、市川・船橋界隈の台地上に通る幾筋かの道は、新石器時代(縄文)から存在する古道だと睨んでいるが、それを今、つまびらかにする力はない。

ただ一つ言えることは、縄文後期から海が後退するにつれて、海岸線沿いの道がその都度出来上がっていったのは確かで、そういった等高線上に段階的に発達した海岸道路と、それ以前の縄文期以来形成されてきた集落と集落を結ぶ、いわば山の道とが互いに縦横に連絡しあっていたはずである(たとえば、この道なぞ、たぶん2千年前ぐらいにできたものかもしれない)。

中山法華経寺の東側から奥の院の前を通って、現在の京成西船駅の方角に南東へと抜ける道(地図)なども、かなり古い道だと思われる。

この道を素直に東へ辿ると、この記事の眼目たる「葛羅之井(かつらのい)」の辺りに至ることになる・・・。

旧聞に属する昨年の新緑の候、私は、永井荷風が1947(昭和22)年に「葛飾土産」(『永井荷風随筆集(上)』(岩波文庫・275~281頁所収)に書いた「葛羅之井(かつらのい)」を訪ねるべく、自転車で出かけた(ACクロス)。

水元公園→矢切→国府台で、葛飾八幡宮(市川市)でしばし休憩。

IMG_0335.jpg
葛飾八幡宮内の新緑の木陰で休憩)

京成線沿いの道を追いかけて、中山法華経寺の坂を登り若宮を抜けて、京成線の西船駅に至る。
途中、市川市と船橋市の市境あたりには、古道の雰囲気を残した道も多かった。

IMG_0320_20130220090409.jpg
(古道の雰囲気を残した道端には、江戸期のこんな石像もあった)

そして、京成線西船駅。

IMG_0321_20130220090420.jpg
(京成線西船駅の北側)

永井荷風の文章に倣(なら)えば、「葛羅之井(かつらのい)」への道程は、この駅が起点となる。
荷風は、この駅前の様子を次のように描いている。

松杉椿のような冬樹が林をなした小高い岡の麓に、葛飾という京成電車の静な停車場がある。
線路の片側は千葉街道までつづいているらしい畠。片側は人の歩むだけの小径を残して、農家の生垣が柾木や槙、また木槿(むくげ)や南天燭(なんてん)の茂りをつらねている。夏冬ともに人の声よりも小鳥の囀る声が耳立つかと思われる。
生垣の間に荷車の通れる道がある。

(『永井荷風随筆集(上)』(岩波文庫・273頁)

現在の京成線に「葛飾」という駅はない。
現在の「京成西船」駅がこれに当たる。

それにしても、どうして「葛飾駅」と名乗ったかと言えば、現在は千葉県船橋市西船にあるこの駅も、当時は、東葛飾郡葛飾町にあったので、その町名(ないしは村名)に従っただけという、実に「正直」な理由であった(1987年に西船駅となる)。

私は、さっそく「生垣の間に荷車の通れる道」に相当するものを捜しにかかった。
ところが、位置関係からして、それだと思われる道は、美しい生け垣も野鳥の囀りも聞こえない、何とも不細工な「道路」に変貌していた。

IMG_0324_20130220090418.jpg
(写真①。つまらない道路に変貌していた「生垣の間に荷車の通れる道」。右側の家並みのところは、当時は農家の生け垣だったのであろう)

その道の様子をさらに荷風は次のように描写している。

道の片側は土地が高くなっていて、石段をひかえた寂しい寺や荒れ果てた神社がある・・・
(同書、274頁)

上掲の写真(写真①)を見れば分かるように、荷風が書いている通り、確かに「道の片側は土地が高くなって」いる。

「石段をひかえた寂しい寺や荒れ果てた神社」を捜してみれば、道の左側に「宝成寺」(16世紀後期創建)なる寺院が見つかった。
当時は、入口が「石段」になっていたのだろうが、現在は、クルマ社会に迎合するようにスロープになっている。

IMG_0323_20130220090417.jpg
(「石段をひかえた寂しい寺」に相当すると思われる現在の「宝成寺」)

ただ、「荒れ果てた神社」に当たるものは見つけることができなかった。
おそらく、荒れ果てた末に、消滅してしまったのであろう。

・・・数町にして道は二つに分れ、その一筋は岡の方へと昇るやや急な坂になり、他の一筋は低く水田の間を向に見える岡の方へと延長している。
(同書、274頁)

今は「水田」こそ見えないものの、これも荷風が書いている通りである。

IMG_0327_20130220091016.jpg
(「道は二つに分れ、その一筋は岡の方へと昇るやや急な坂になり、他の一筋は低く水田の間を向に見える岡の方へと延長している」・地図

因みに、左の坂道を上がって道なりに進めば中山法華経寺に至り、まっすぐ進めば船橋市古作を抜けて中山競馬場の広大な敷地に阻まれ途絶する。

IMG_0328_20130220091030.jpg
(写真②。左の坂道)

IMG_0329_20130220091030.jpg
(直進する道。現在は、水田は消滅)

そして・・・、

この道の分れぎわに榎の大木が立っていて、その下に一片の石碑と、周囲に石を畳んだ一坪ほどの池がある。
今年の春、田家(でんか)にさく梅花を探りに歩いていた時である。わたくしは古木と古碑との様子の何やらいわれがあるらしく、尋常の一里塚ではないような気がしたので、立寄って見ると、正面に「葛羅之井(かつらのい)」。側面に「文化九年壬申三月建、本郷村中世話人惣四郎」と勒(ろく)されていた。そしてその文字は楷書であるが何となく大田南畝(おおたなんぼ)の筆らしく思われたので、傍の溜り水にハンケチを濡し、石の面に選挙侯補者の広告や何かの幾枚となく貼ってあるのを洗い落して見ると、案の定、蜀山人(しょくさんじん)の筆で葛羅の井戸のいわれがしるされていた。

(同書、274頁)

文化九年といえば、西暦1811年のこと。
長らく忘れられ、選挙ポスターがべたべた貼られていた石碑を、散歩中の荷風が、約150年ぶりに「発見」したわけである。
その書も、江戸期の大文人たる蜀山人(大田南畝)の手になるものだったのである。

IMG_0326_20130220091014.jpg
(「この道の分れぎわに榎の大木が立って」いる)

近寄ってみれば、見上げるのも困難なほどの榎の巨木で、圧倒的な神々しさが漂っている。

IMG_0334_20130220091133.jpg
(榎の巨木)

そして、その巨木の奥に、「葛羅之井(かつらのい)」がひっそりと水をたたえていた。

IMG_0330_20130220091034.jpg
(榎の大樹の奥をすかして見れば、石碑と柵の囲いが見える)

IMG_0333_20130220091140.jpg
(「葛羅之井」)

現在は、民家の庭先のような場所になってしまったためか、池にも柵がが廻らされていて、中に入ることができない。

荷風は、この泉について、次のように書き継いでいる。

・・・仮名垣魯文(かながきろぶん)の門人であった野崎左文(のざきさぶん)の地理書に委しく記載されているとおり、下総の国栗原郡勝鹿(かつしか)というところに瓊杵神(ににぎのかみ)という神が祀られ、その土地から甘酒のような泉が湧き、いかなる旱天(かんてん)にも涸れたことがないというのである。
石を囲した一坪ほどの水溜りは碑文に言う醴泉(れいせん)の湧き出た井の名残であろう。しかし今見れば散りつもる落葉の朽ち腐された汚水の溜りに過ぎない。

(同書、274頁)

「甘酒のような泉が湧き・・・」。
何とも魅力的な表現であろうか。

私は、念のため、泉の水を持ち帰ろうと、空のペットボトルを持参したが、囲いに阻まれてその水を汲むこともできなかったし、また、約65年前に荷風が訪れた時でさえ、「散りつもる落葉の朽ち腐された汚水の溜り」であったわけなので、あまり飲料には適しているものとも思えなかった。

そして、件の石碑。

IMG_0331_20130220091117.jpg
蜀山人(大田南畝)の手になる「葛羅之井」の碑)

その側面には、蜀山人の「撰した」漢詩が彫られている。

IMG_0332_20130220091137.jpg
(碑の側面には、蜀山人の書なる漢詩が彫られていた。

その漢詩にはこうあった。

下総勝馬 郷隷栗原 神祀瓊杵
地出醴泉 豊姫所鑒 神龍之淵
大旱不涸 湛乎維圓 名日葛羅
不絶綿綿 南畝大田覃撰 文化九年壬申春三月 本郷村中世話人惣四郎

(下総勝鹿は郷栗原に隷す。神は瓊杵を祀り、地は醴泉(れいせん)を出す。豊姫の鑒(かん)する所にして,神竜の淵なり。大旱にして涸れず、湛乎(たんこ)として円なり。名づけて葛羅という。綿綿として絶えず。大田南畝が撰した)

この漢詩の意味については、先に引用した荷風が、手短に要約しているとおりである(「下総の国栗原郡勝鹿というところに瓊杵神という神が祀られ、その土地から甘酒のような泉が湧き、いかなる旱天にも涸れたことがない」)。

それにしても、近代になって忘れ去られていた「葛羅之井」の存在だが、少なくとも、江戸時代には江戸近傍の名所のひとつであったことは確かなので、件の『江戸名所図会』(1836年)に、果たしてこの泉のことが載っているかどうか調べてみた。

すると、項目としては挙げられていないものの、「葛飾明神社」の記述の中にこうあった。

社より東の方の林間、稲荷の小祠の傍らに葛(くず)の井と称する井あり、当社の御手洗といふ。土人相伝えて、この井の水脈竜宮界に通ずといふ。瘧疾を患ふる者、この井の水を飲みて験ありといへり。
(ちくま文庫版『江戸名所図会』、第6巻377頁)

この「葛(くず)の井」と、荷風や蜀山人の言う「葛羅之井」とが同一の物であるのは間違いないであろう。
「葛」は、古来「くずら」とも訓み、「葛」が「くずら」から「かつら」と音韻変化をして、漢文風に「葛羅(かつら)」という字を当てられたとしても不思議ではない。

それはともかく、『江戸名所図会』には、非常に貴重な挿絵が掲載されていた。

葛飾明神社
(『江戸名所図会』に掲載された「葛飾明神社」の挿絵。ピンクの丸が「宝成寺」、青丸が「葛羅之井」、赤丸が「葛飾明神社」、遠景に見える黄色丸が中山法華経寺。ちくま文庫版『江戸名所図会』、第6巻378~9頁)

この挿絵を見て私は些か驚いた。
荷風が京成西船駅から「葛羅之井」へと歩んだ「生垣の間に荷車の通れる道」(挿絵上で緑色で示した線)は、既に江戸時代以前から存在した道だということが分かったからである。

上掲の挿絵の左下隅には、荷風が「石段をひかえた寂しい寺」と表現した「宝成寺」も「椿の大樹」が有名な寺として描かれている。
そして、挿絵の右端には、ちゃんと「くずの井」が描かれている。
およそ170年前の絵なので、当然、榎の大木は見えない。

ただ、よく分からないのは、「葛飾明神社」の所在である。
『江戸名所図会』には、「葛飾明神社」についてこうある。

「葛飾明神社」。
中山より東の方、栗原本郷の街道より左へ四町ばかり入りて、叢林のうちにあり。葛飾の惣社と称すれども、祭神詳らかならず。同所真言宗万善寺別当たり。祭礼は九月十五日なり。

(ちくま文庫版『江戸名所図会』、第6巻376頁)

「栗原本郷の街道より左へ四町」とあるが、「栗原本郷の街道」がどの道を意味するか。
最初は、千葉街道(現国道14号線)のことかと思っていたが、どうもそれでは辻褄が合わない。
しかも、『江戸名所図会』の著者は、たとえば、中山村の所在地を説明するのに、「船橋街道の左側にあり」(同所370頁)と表現しているように、街道の名称はきわめて正確に書き分けている(ここで言う「船橋街道」とは「千葉街道」のこと)。
とすれば、「栗原本郷の街道」とは、挿絵の中で私が緑線で示した道であると解することができる。
つまりは、荷風が「生垣の間に荷車の通れる道」(写真①)とした道こそ、「栗原本郷の街道」であろう。
となれば、この道を左(写真②)に入って、四町(約440メートル)行ったところに「葛飾明神社」はあったことになる。
いや、こう解すれば、少なくとも『江戸名所図会』の挿絵や文章に描かれた位置関係と矛盾しない。

ところが、現在の地図と見比べると、はなはだ不可解なことに、そのあたりには「葛飾明神社」らしきものが見当たらないのである。

仕方がないので、明治38年の古地図を当たってみたら、ちょうどそのあたりに神社が存在することが分かった。

地図
(明治38年の地図。青丸が「葛羅之井」。赤丸が「葛飾明神社」と比定できる神社)

ただ、その後の時代の地図を見ると、大正8年の地図からは、この神社のマークは消滅していた・・・。

現在、この近傍では、千葉街道沿いに「葛飾神社」(船橋市西船5-3-8)があるが、明治末期から大正期に、「葛飾明神社」が移されたのかもしれない。

これについては今後の課題として、再び現場を訪れてみることにしよう。

荷風は、「葛羅之井」についての文章を次のように結んでいる。

碑の立てられた文化九年には南畝は既に六十四歳になっていた。江戸から遠くここに来って親しく井の水を掬んだか否か。文献の徴すべきものがあれば好事家の幸である。
わたくしは戦後人心の赴くところを観るにつけ、たまたま田舎の路傍に残された断碑を見て、その行末を思い、ここにこれを識した。時維(ときにこれ)昭和廿二年歳次丁亥(ていがい)臘月(ろうげつ)の某日である。

(同書、275頁)

長らく忘れられていた「葛羅之井」を「発見」した荷風は、この石碑を作製した蜀山人とほぼ同じくらいの年齢であった(65歳過ぎ)。
老境に入り市川に独居する荷風は、約150年前に「江戸から遠くここに来って親しく井の水を掬んだ」蜀山人と自分とを重ね合わせ、その奇遇なる「交点」にさぞかし感動したのであろう。

さらにまた、殺伐とした「戦後人心の赴くところ」と対極にある「田舎の路傍に残された断碑」に、ある種の断腸の思いを感じたのかもしれない。

件の蜀山人は、晩年を駿河台で送り、75歳で他界した。
現在の淡路坂を登り切ったあたりである。

その辞世の句が残されている。

生き過ぎて
七十五年くいつぶし
限り知られる天地の恩

蜀山人

なんとも洒脱な大文人であることか・・・。

追記;参考までに、荷風が「葛羅之井」を訪れた頃の地図をここに載せておこう。

昭和20年
(昭和20年頃の、京成線「葛飾駅」界隈の地図)


(この項、了)

テーマ:自転車 - ジャンル:趣味・実用
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Comment
葛飾の辺り Posted by B
断腸亭さん、Bと申します。
初めてコメントさせて下さい。
今回の、この荷風の景色、とても懐かしく思います。
と、申しますのは、現在の西船橋駅に在った、葛飾小学校へ入学し、
2学年の時に西船橋駅が出来ると言うので現在の葛飾小学校の地へ
机や椅子をてんでんに持って引っ越しをしました。

その当時の葛飾の駅は、駅の南側は広大な空き地の荒れ地で葦やススキが生えてました。 その延長上の14号戸の間に勝又沼と言う溜め池が在りました。
日蓮は或る時この勝又に上陸して勝又沼の東京よりにある道を古作の
方へ上り京成の踏切を越え宝生寺の前を通り上記にある二又を過ぎその先の4ツ角を左に曲がって坂を上り法華経寺の奥の院へ入ったのだ
ろうと思えます。

宝生寺は移動した小学校へ通学する時の近道でした。
この寺の裏には墓地がありその中を通って東中山の方へ出られました。
また、榎の木の辺りは小学校、中学校への裏門で裏門の辺りには古作の山の中から流れて来た小川があり、しじみが採れたものです。

無論その当時は、行田の無線鉄塔が6基そびえてました。

いずれも、昭和30年前半の頃の思い出です。

 
2013.02.21 Thu 22:29 URL [ Edit ]
葛飾明神 Posted by B
断腸亭さん、お話が完結して無いうちに、いろいろと余計なコメントをして申し訳ありません。

どうも、お話と推理が面白くてついつい・・・・

江戸名所図会に出ている葛飾明神社と思えるものは、現在の葛飾神社のようですね。
本郷の街道から4町も合いますものね。

その葛飾神社ですが、元宮は葛飾明神とあり、ある方のブログによれば葛飾中学校の北にある公園の中に祠があると言うが、これが葛飾明神とすると葛羅之井が葛飾明神の御手洗と言うのですか? それだと手を清めてから明神までは泥田を越した対岸の山まで行かねばならぬので変です。

で、葛飾神社の由来によれば、葛飾明神は葛羅之井の西側の山にあり、それを今の葛飾神社に合祀したとか書かれてますね。

で、なんで元々の所を廃社し合祀しなくては成らなかったのか。
合祀したのは大正5年とかあるから、荷風が訪れた頃にはその残骸がまだ在ったのか。

なんか、不思議な話になって行きますね。

2013.02.22 Fri 12:49 URL [ Edit ]
感謝 Posted by 断腸亭
Bさん

ちょっと破綻しがちな文章を丹念に読んで下さってありがとうございます。

私よりやや先輩と拝察しますが、昭和30年代(荷風の文章の約10年後)の西船周辺の風景、夢見心地で拝読致しました。
さぞかし、素晴らしいところだったでしょうね。
もっと詳しくお話しを伺いたいぐらいです。

本文にも書いた通り、かつての「葛飾明神社」と思われる社が地図上から消え去るのは明治末から大正の初めなので、大正5年に現在の「葛飾神社」に「合祀」されたというはあり得ることだと思います。

ただ、「葛飾明神社」が現在の葛飾中学校の北にあったという説、私もネット上で見ましたが、『江戸名所図会』の記述と明らかに矛盾します。

「中山より東の方、栗原本郷の街道より左へ四町ばかり入りて、叢林のうちにあり。葛飾の惣社と称すれども、祭神詳らかならず。同所真言宗万善寺別当たり。祭礼は九月十五日なり。社より東の方の林間、稲荷の小祠の傍らに葛(くず)の井と称する井あり、当社の御手洗といふ。土人相伝えて、この井の水脈竜宮界に通ずといふ。瘧疾を患ふる者、この井の水を飲みて験ありといへり。」

「葛飾明神社」は、「葛の井」の西にあったはずだからです。
後で作り直したこの地図をご覧下さい。
http://blog-imgs-42-origin.fc2.com/d/a/n/danchotei/2013022214593926fs.jpg
(『江戸名所図会』に掲載された「葛飾明神社」の挿絵。ピンクの丸が「宝成寺」、青丸が「葛羅之井」、赤丸が「葛飾明神社」、遠景に見える黄色丸が中山法華経寺。ちくま文庫版『江戸名所図会』、第6巻378~9頁)

次は、「葛飾明神社」のあったはずの場所あたりに実際に行ってみるつもりです。

勝又沼も、万葉集にまで歌われた有名な場所なんですね。
次は、むしろこちらを主にペダルを漕いでみたいと思っております。

今後とも、よろしくお願いします。
2013.02.22 Fri 16:26 URL [ Edit ]
間違いの訂正です。 Posted by B
断腸亭さん、「本郷の道から4町」を間違えました。

本郷からその道へ折れる角には「八百寅」と言う八百屋があります。
そこの角から4町だと、宝成寺を通り越して、ほぼ葛羅之井の辺りになりますでしょうか。

と、訂正のコメントを書き込もうとPCを立ちあげたら既に断腸亭さんの最終書き込みが終わってました(^^;

ところで、その明治38年の地図上の鳥居のマーク。
今現在その辺りは原木インターから松戸へ抜ける道の辺りですね。
この辺りは僕が鼻水小僧の頃とか、競馬場でオケラになった輩が肥溜めに落ちたりしていた所で一面の畑でした。
そんな神社のかけらさえ感じなかったですね。
でも、丹念に見たらなんか石碑とかあるかも知れない。

僭越で恐縮ですが、昼間、船橋市の教育委員会の文化財課に電話をして葛飾明神の事を調べてもらってます。

断腸亭さんは或る意味こうした古い事にグローバルな見識をお持ちです。 僕の場合は自分が見聞きした範囲の、更にこの辺りの事しか知りません。 しかし、悲しいかな、葛羅之井も知らなかった。 葛飾明神も知らなかったしそれが栗原郷の総社で有ったなんて事も知らなかった。 今kincyanが、アースダイバーとか言う中沢新一さんの本に首っ引きのようですが、断腸亭さんの今回のお話など、僕にとってはそれこそ鳥肌ものですよ。

是非、今後ともよろしくです。
2013.02.22 Fri 19:36 URL [ Edit ]
これほどに... Posted by たすけ
高尚なブログ記事になってしまうと...
なかなかコメントし難くなり、おそらくRom人多数だと思いますが(苦笑)

自転車を趣味としてから、これまで気づかなかったこと、見ていなかったものが
こんなに身近にあったのか!?...と感激したり、反省したりの繰り返しです。

それもこれも、断腸亭さんをはじめ輪友の記事が、きっかけとなっています。
今後も、RomからRunへのきっかけ記事をご期待申し上げます(^^) Go!Go!
2013.02.22 Fri 22:28 URL [ Edit ]
不思議なこと Posted by 断腸亭
Bさん

さっそくありがとうございます。

『江戸名所図会』の挿絵を見る限り、「葛飾明神社」は、結構大きな神社で、しかも、下総国葛飾郡の「惣社」でもあるので、普通ならそれ相当な扱いを受けるべき社であるはずです。

それが忽然と消え去ったのには、やはり、それ相当の理由があったはずだと想像します。

大震災後に、多くの寺社が消え去って他地に移築されるということはあったのですが、「葛飾明神社」の消滅は、大震災よりも前のことです。

今、私が証拠もなく勝手に推測するに、明治初期の「廃仏毀釈」の何らかの余波によって、寺社の配置換えが生じたのではないかというもの・・・。

船橋の教育委員会の方なら、その辺の経緯をご存知なのではないかと期待しています。

本文では扱いませんでしたが、もう一つ不思議なことがあります。

『江戸名所図絵』が出版されたのは1838年。
蜀山人の手なる「葛羅之井」が建てられたのが1811年。
それなのに、『江戸名所図会』にこの石碑のことは触れられていないし、挿絵にも、それらしき物が描かれていないということ。
もちろん、『江戸名所図会』は、出版された年こそ1838年だったとしても、斎藤父子3代で書き上げたものなので、栗原本郷を取材したのが1811年以前だったと考えれば一応辻褄は合いますが。

さらにもう一つ、荷風が『江戸名所図会』の記述について一切触れていないこと。
『江戸名所図会』は、荷風の愛読書であったことを思えば、ちょっと不思議な感じがします。

いずれ機会がありましたら、昭和30年代の西船地区を追想すべく、この界隈をご案内いただけたら幸いです。
2013.02.23 Sat 06:21 URL [ Edit ]
同感です Posted by 断腸亭
たすけさん

まったく同感です。

私も、様々な輪友の記事にいつも触発されています。たすけさんもそのお一人であることも間違いありません。

自転車や徒歩で移動すると、否応なく、その「土地」に興味を抱いてしまいます。
その土地の来歴とか地形とか物産とか。
そう言う意味では、微視的な旅を誘発する移動のスタイルだと思います。
2013.02.23 Sat 06:33 URL [ Edit ]
葛飾明神は Posted by B
断腸亭さん、どうも違うと思います。
焼酎を飲み飲み書いてますので、オカシナ言い回しがあったら勘弁です。
断腸亭さんが記した葛飾明神社の位置は、古地図を昭和30年代の頭で読み説けば、どうも現在の東中山のちょいと北の位置みたいです。
ここだと二子分になります。
印内でも本郷でもありません。
現在は建売とか建ってたと思います。 また、所謂オケラ街道沿いですね。
荷風は京成に乗って葛飾で降りた紀行文を記しているのだろうか。
八幡からずっと千葉街道を歩いて来て、八百寅のところから、当該道へ入ったのだろうか。
実際、葛飾駅の右手に畑なんてなく、かりに在ったとすれば確かに葛飾辺りでしか無いのですが、コメントの最初に記載した通り湿地的空き地で畑的な地質ではありません。
荷風は京成に乗らず中山奥の院の方から歩いて来たのかも知れません。
とにかく、印の社は葛飾から下りてトボトボと散策気味にあるく荷風
の目には触れない位置にあります。

下総の総社とすればさぞや規模も大きかった筈。 
そんな雰囲気の空き地や遺構は無かったよなぁ~。

断腸亭さん、時間が合えば幾らでもお伴致します。
ご指示下さいまし。

2013.02.23 Sat 18:41 URL [ Edit ]
何だかワクワクします Posted by 断腸亭
Bさん

面白いですねえ。
こういう話は、何だかワクワクします。

荷風が、この日(1947年旧暦の12月某日)、葛飾駅まで電車できたのか、徒歩で来たのかは、本文からは判断できません。
また、荷風は、「葛飾明神社」について、まったく触れていません。

当該の文章では、葛飾駅から、宝成寺を左に見ながら「葛羅之井」に至る行程しか書いていません。

明治38年の地図では、まだ京成電鉄がありませんが、駅の南側は、東の半分は田畑になっています。

また、因みに昭和20年の地図を見ても、驚くべきことに明治時代とは殆ど変化がなく、やはり、葛飾駅の南側は、東の半分は田畑になっています。
昭和20年の地図;
http://blog-imgs-42.fc2.com/d/a/n/danchotei/201302240623080e6.jpg

現在、駐車場になっている区域がほぼそっくり畑地だったようです。

とにかく、しばらく、教育課の返事を待ちましょう。

Bさん、是非、そのうち、中山・西船・印内・海神辺りのご案内をお願いします。
2013.02.24 Sun 06:40 URL [ Edit ]
Posted by kincyan
文学に自分の住んでいる場所がでてくるというのは、面映いものですが、これが80年?も前だと、考古学の一種になりますね。蜀山人は75年生きて感慨にふけったのですが、現代の我々はどうでしょう。父のように90まで生きれば、よく生きたなと思うでしょうね。
2013.02.24 Sun 17:36 URL [ Edit ]
ていたらくな私 Posted by 断腸亭
kincyanさん

江戸期以降は、東京周辺が文学の舞台になることが多くなりましたが、それ以前は、圧倒的に畿内ですね。
私は、関東(あずま)に生まれ、関東で育ったので、日本文学の古典にはからきしです。

蜀山人は、実に偉大な江戸期の文人で、もっと読まれるべきかと思いますが、かく言う私もほとんど読んでないというていたらくです・・・。
2013.02.24 Sun 19:19 URL [ Edit ]
管理人のみ閲覧できます Posted by
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2013.02.25 Mon 19:33 [ Edit ]
感謝 Posted by 断腸亭
Bさん、感謝です。
さきほど、メール致しました。
よろしくお願いします。
2013.02.26 Tue 07:40 URL [ Edit ]
落掌いたしました Posted by 断腸亭
Bさん

例のファックス画像、落掌いたしました。
大変参考になりそうな資料で、これをば読み解いた上で、再度、現地を訪れてみたいと思っております。
ありがとうございまいした。
2013.02.27 Wed 08:25 URL [ Edit ]
もう一つ有りますが Posted by B
断腸亭さん

mail
にも書きました通り、地元の葛飾の郷土史家の書いた冊子と言うか
本が手元にあります。
内容は多分市史が出典元と思われますが、断腸亭さんのお手元に
お送りした市史と合わせてご活用思し召された方がよろしかろうとは
思いますが、あまりお送りして消化不良を被られてもと思い、わが
手元に置いておきます。

2013.02.27 Wed 22:03 URL [ Edit ]
ありがとうございます Posted by 断腸亭
Bさん

ありがとうございます。
今夜、お会いできますね。
楽しみです。
2013.03.06 Wed 06:10 URL [ Edit ]
葛飾明神の位置について Posted by 壽光庵
昔の記事に、突然、コメントいたしまして申訳ございません。
葛飾明神の位置について、既に、解決済みでしたら、マヌケなコメントになりますがお許し下さい。

私は七五三のとき(現在地の)葛飾神社にお参りしました。
子供の頃(昭和 30年代)は本郷の神社と呼んでおりまして、境内で映画をやったり、お祭りには露店が出ていた記憶があります。

明治38(1905)年の地図に青くマークなさった「葛羅之井」の上方やや左に神社の記号があります。
明治13(1880)年(?)の参謀本部編纂の迅速測図はここが「祠神明飾葛」となっております。

荷風が「道は二つに分れ、その一筋は岡の方へと昇るやや急な坂になり、・・・」という坂の途中です。
江戸名所図会の位置関係とほぼ一致します。

迅速測図は農業環境技術研究所の歴史的農業環境閲覧システムで閲覧出来ます。
http://habs.dc.affrc.go.jp/index.html

江戸名所図会に「いなり」と書かれた辺りに小さな祠を見つけましたが、他所さまのお庭の中でしたので、お稲荷さんかどうか確認しておりません。
また、「葛羅之井」の手前<R14に近い方>で道が二股になる辺りに庚申塚をお参りしている笠を冠って杖をついた村人(?)が描かれておりますが、ここ(と思しき辺り)に今でも庚申塚があります。

江戸名所図会は距離感はともかく、相対的な位置関係はかなり正確なのかも知れません。
すると、この坂の上の方に萬善寺というお寺があったはずです。

《奥に描かれているお寺のような建物は法華経寺ではなく「萬善寺」であろうと思われます。
早稲田大学図書館の画像を拡大してみると[萬善寺]と読めなくもない、というよな気がします。
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko10/bunko10_06556/bunko10_06556_0020/bunko10_06556_0020_p0040.jpg
同 pdf 一冊分:http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko10/bunko10_06556/bunko10_06556_0020/bunko10_06556_0020.pdf

先程の庚申塚の手前に湯ートピアというお風呂屋さんがあって、その前に「准四國第三拾番」と彫った石塔が立っています。
この左の側面に「葛井山萬善寺」とありますので、やはり、この近くに萬善寺があったのでしょう。

お寺や神社が消えて(?)しまったのは明治元(1868)年の神仏分離令や明治39(1906)年の神社合祀令の影響と思われます。
いずれにせよ、跡地(と思われるところ)が公共の施設ではなく民家やマンションになっておりますので、調べるのが何となく憚られるという雰囲気が漂って(?)おります。

当方、素人ですので神社やお寺、その他に関して使っている表現は正しくないと思いますがご容赦下さい。
いつか自分でまとめてみようと思いますがコメントさせていただきました。

長々と失礼いたしました。
2015.01.22 Thu 13:54 URL [ Edit ]
消えた明神様 Posted by B
壽光庵さん、Bと申します。
葛飾明神の行方は完結しておりません。
壽光庵さんの、コメントで、焼けぼっくりに火が点いて、またまた調べなおしました。
先ず、今さらながら思うに、仮説として、葛飾明神と萬善寺は同一のものではなかったのか。
名所図絵に
『中山より東の方、栗原本郷の街道より左へ四町ばかり入りて、叢林のうちにあり。葛飾の惣社と称すれども、
祭神詳らかならず。同所真言宗万善寺別当たり。祭礼は九月十五日なり。』
この文章を読むに、『杜は真言宗の別当、萬善寺で、その中に明神が祀られ、それが葛飾明神だ』と。
そうとれないでしょうか。
と、すれば、廃仏毀釈で寺である、明神が消滅したのも分かります。
いま、明らかに、『葛飾明神』と有るのは、葛飾中学の北側の古い印内分の地に、小さな祠として残ってます。
壽光庵さん、准四国第三拾番の石碑から、左手に満善寺と在るに、この寺は真言宗とありますから、弘法大師の四国88か所の下総版の札所だったのかも知れません。
で、真言宗とすれば、近隣の栄楽寺。 それから、明王院も真言宗です。 もしかすれば、これらの寺に、同宗派としての、萬善寺の記録があるかも知れません。
緑濃き春日の山と、葛の葉しげる地のロマン、楽しく夢見る思いです。
2015.01.22 Thu 20:52 URL [ Edit ]
謝辞 Posted by 壽光庵
他所さまのところで盛上がっては申訳無いのですが、私は Bさんの後輩です。
新築の校舎に昭和 35年に入学しました。

最近、同級生との話題に「校舎は新しかったけど机は古かったねえ。」というのがありました。
机はボロボロで傷だらけでした。

「古い学校から運んだんだろね。」
「昔のことだから、生徒が机を持って、ゾロゾロ、あの坂を上って行ったんだろね。」

まさしくその通りだったようで、私どもは Bさん達が運んで下さった机と椅子で勉強いたしました。
どうも有り難うございます。

あの西船橋から小学校へ向かう真っ直ぐな道は「みどり濃き春日の丘(?)」を削って昭和 10年に出来たらしいです。
それ以前の地図を見ると、農協の裏の道と今のみずほ銀行の脇の道が山をぐるっと回っています。
2015.01.22 Thu 22:10 URL [ Edit ]
要再調査・葛飾明神社の真相 Posted by 断腸亭
壽光庵さん、Bさん

興味深い書き込み、ありがとうございました。
2年ほど前に書いた戯れ文を丁寧に読んでくださって、ありがたいやら申し訳ないやらです。

下総国葛飾郡の総社の位置が分からないなどというのは、あってはならないことですね。

お二人の書き込みから、かなり葛飾明神社の真相に肉薄したという印象を持ちました。
お二人には、このあたりには土地勘がおありなので、説得力もひとしおです。

こうなったら、再度、現地調査をしなくてはなりませんね。

日程が合えば、壽光庵さんも一緒にいかがですか。

因みに、Bさんとお知り合いになったのは、この記事のやり取りがきっかけで、今では、一番の自転車友達でもあります。
Bさんのブログも実に面白いですよ。
http://blog.livedoor.jp/kyf01405/

2015.01.23 Fri 06:01 URL [ Edit ]
葛飾明神と萬善寺について Posted by B
壽光庵さん、断腸さん、何も出て来ないと思いますが、現地調査、実施いたしましょう。
今月の31日(土曜日)辺りいかがでしょうか?
探索ルートは断腸さんにお決め頂きたいと思いますが。

2015.01.23 Fri 15:27 URL [ Edit ]
スーパー・カブ主 Posted by 壽光庵
私はホンダのスーパー・カブ主ですので足手まといになるかも知れませんが宜しくお願い致します。
この辺りの古い道は競馬開催日には全く通れなくなります。

通行止めの標識に「競馬開催日に限る」と書いてあるのですが、何時、競馬が開催されているかなんて分かりません。
何故、真摯な研究(?)が博奕ごときに邪魔されなければならないのか?腹立たしい限りであります。
2015.01.23 Fri 22:05 URL [ Edit ]
管理人のみ閲覧できます Posted by
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2015.01.23 Fri 22:09 [ Edit ]
分かったこと Posted by 壽光庵
Bさん

萬善寺は下総四郡八十八カ所の 30番目の札所だったようです。
また、ウィキペディアで明王院を調べますと、「寺院本末帳(江戸時代)を参照すると本郷村の満善寺(明治期に廃寺)、海神村の大覚院と吉祥院、寺内村の常楽寺、河原村の龍厳寺(現双輪寺)等、五ヶ寺の門徒を有していたという。」とあります。

本郷村の「満」善寺は「萬」善寺の誤りではないか?と思われます。
(誤)満善寺→(正)萬善寺

仰せの通り、真言宗萬善寺は葛飾明神の別当寺ということで葛飾明神とほぼ同じところ、つまり、あの坂の上の方にあったんだろうと思います。
廃仏毀釈で、先ず、標的(?)になったのはこういう(神社に併設(?)された真言宗の)お寺だということです。

ただ、近くにある八坂神社には光明寺という真言宗のお寺が残っております。
どこが無くなってどこが残ったのか、坊主の日頃の行いや人柄が関係したのか、そこら辺のところは良く分かりません。

印内1丁目公園の傍(?)にある、現在、元宮と呼ばれているところを訪ねましたが「奉勧・・・」というところまでしか読めませんでした。
「奉勧請葛飾大明神」とあるようで、記録では天保10(1839)年11月吉日となっているそうです。

印内から川、湿地、田圃を隔てた対岸にある葛飾明神へ行くのに(、田圃の中を通って行くという手もあるのかも知れませんが、)競馬場の方か勝間田の池の方か、ぐるーっと回って行くのは大変だからこの地に勧請(分祀)したということじゃないでしょうか?
そもそも、あすこら辺は神社があるような立地ではなく湿地、川岸、田圃の傍というところで、勧請したとあるからには元宮であるはずがないと思われます。

現在の葛飾神社の境内に「大正五年一月十三日 一郡総社葛飾大明神を千葉県東葛飾郡葛飾村本郷一四一番地[現 船橋市文化財 西船六丁目葛羅の井戸](昔、葛飾大明神御手洗の井戸)の西側台地より此の地に奉遷奉斉し、熊野権現社へ合祀し村社葛飾神社と改称し現在に至る。」と書かれた案内板(?)があります。
確かに、大正6(1917)年の地図を見ると元の場所の神社の記号は消えております。

萬善寺は明治初期の廃仏毀釈で破壊(?)されたけれど、葛飾明神は大正5年までは元の場所、つまり江戸名所図会に描かれたところにあったのではないでしょうか。
明治元(1868)年の神仏分離令に端を発する(?)廃仏毀釈により多くのお寺が姿を消したようですが、明治39(1906)年に神社合祀令が出されて神社もかなり整理されてしまったようです。

それにしても、合祀まで 10年かかっておりますし、葛羅之井の碑文に「神祀瓊杵」とあるのが江戸名所図会では「祭神詳ならず」となっていたり、「一郡総社葛飾大明神」が「村社葛飾神社」に降格(?)されたり、いろいろなことがあったのでしょうが、分からないことが多くあります。
神様は跡を濁さず、すんなり、引越出来るのかも知れませんが、人の世はそうは行かず、生臭い(?)ドロドロしたものが伴うのではないか?と思って、俗っぽいアプローチも試みております。

他にも「印内」は「院内」だったということですが、この「院」とはどこのことなのか?
「寺内」の寺とはどの寺か?

謎は深まります。
また、長くなってしまいました、スイマセン。
2015.01.23 Fri 22:38 URL [ Edit ]
葛飾迷神 Posted by B
寿光さん
>ウィキペディアで明王院を調べますと、「寺院本末帳(江戸時代)を参照すると>本郷村の満善寺(明治期に廃寺)、海神村の大覚院と吉祥院、寺内村の常楽寺、寿光さん
>河原村の龍厳寺(現双輪寺)等、五ヶ寺の門徒を有していたという。」とありま>す。
この中で、「五ヶ寺の門徒を有していたという」と、言う表現も少し妙ですよね。
明王院がこれらの寺を末寺としていたと、言う表現ならいいまですが、上記表現だと、これらの寺をトンネル化して門信徒を直轄していたと取れてしまいます。
これらの寺が無住だったら分かりますが、妙な記述です。

>仰せの通り、真言宗萬善寺は葛飾明神の別当寺ということで葛飾明神とほぼ同じ>ところ、つまり、あの坂の上の方にあったんだろうと思います。
>廃仏毀釈で、先ず、標的(?)になったのはこういう(神社に併設(?)された>真言宗の)お寺だということです。

神社でも『明神』と言う号も問題だったようですね。
それに、お祀りしている神様もはっきりしない。
それと、ここに住していた神官がやたら「うさんくさい」商売をし、村人の反感を買い訴訟を起こされ、揚句がどこかへ逐電した事も、「いいかげんな神社」と、その別当(よく意味はわからない)としての萬善寺も廃寺の原因だったのでしょうか。

>印内1丁目公園の傍(?)にある、現在、元宮と呼ばれているところを訪ねまし>たが「奉勧・・・」というところまでしか読めませんでした。
>「奉勧請葛飾大明神」とあるようで、記録では天保10(1839)年11月吉日となっ>ているそうです。

この件に対する、ご説はなるほどと思いました。
あの祠の下は、直ぐ谷津田だったはずですし、また、あそこは古い道でもありますね。
どこに、元宮が在ったのか? には賛成です。

>他にも「印内」は「院内」だったということですが、この「院」とはどこのこと>なのか?
>「寺内」の寺とはどの寺か?

まったくですね。

2015.01.26 Mon 06:38 URL [ Edit ]
31日の経路地図 Posted by 断腸亭
31日の件です。
船橋市古作の常楽寺と明王院も立ち寄るルートに書き直しました。
距離は、2キロ増えて約8キロに。
http://latlonglab.yahoo.co.jp/route/watch?id=174e3c629ae23fc435c0d5f471a5c77c
2015.01.28 Wed 09:17 URL [ Edit ]
了解です! Posted by 壽光庵
知ってる範囲で、勝間田公園、奥の院、法華経寺(二カ所)、葛飾八幡宮前にトイレがあります。

図書館で「葛飾誌略」というのを読みました。
誰が書いたのか分からないということですが、1810(文化10)年頃までに書かれたもののようです。

明王院について「末寺五ケ寺。此寺末寺ありて本寺なし。」と書いてありますので Bさんの幽霊会社説(?)が当たっているのかも知れません(が、現地を訪れて確かめるのには勇気(?)が要りそうです)。
萬善寺は「葛井山といふ。眞言古作妙王院末。」となっています。

明王院と妙王院は書き間違いか誤植か分かりませんが同じお寺だと思います。
常楽寺は、現在、海見山常楽寺だったと思いますが、ここでは馬光山とされています。

同じく図書館で見た「船橋の歴史散歩」には「もとは古作村の真言宗豊山派の明王院の末寺であったが、一九四九(昭和二十四)年に宗教法人として独立したとき新義真言宗に改宗した。」とありまして、私メは戦後、独立したということしか分かりません。
当日、コピーをお持ちします。

さて、俗な(?)アプローチも効果を上げております。
また、江戸名所図会の「葛の井」の手前の分かれ道に立っている二つの石塔の一つは庚申塚だと思うのですが、もう一方はこれじゃないか(?)という候補を見つけたので、当日、お二人にご覧になって判断して戴きたいと思います。

物事が順調に進んでいて、何か起きるんじゃないか?と心配していたら、やはり、起こってしまいました。
真相の解明(?)に向けて悪い事ではありません。

むしろ決定打!と呼べるものかも知れません。
しかし、かなり、脱力(?)することでした。

これも、当日、お話し出来ると思います。
勿体ぶった話ばかりで申訳ありません。
2015.01.28 Wed 21:50 URL [ Edit ]
ところで、寿光さん Posted by B
般若湯やら、お神酒の類は嗜まれるのでしょうか?
2015.01.28 Wed 22:37 URL [ Edit ]
燃費改善 Posted by 壽光庵
お神酒を戴きながら書いているのがバレたでしょうか?
歳をとりましたので泡般若より濃いのは胃の負担になるようです。

夏場は 3リットル/日ほど戴いておりましたが、三分の一程度に控えております。
60キロ/リットルのホンダ・スーパー・カブ・プロを導入して、燃費を十分の一に改善したのに較べると情けないことであります。

という訳でトイレ情報が気になりました。
2015.01.28 Wed 23:06 URL [ Edit ]
なーるほど Posted by B
寿光さん、それは楽しみです。
2015.01.28 Wed 23:35 URL [ Edit ]
御神酒系 Posted by 断腸亭
壽光庵さんが御神酒系の人なのが、何よりも、楽しみです。
当日は、弥次喜多道中的に参りましょう。

それにしても、一日3リッターというにはすごいですねえ。
そういう「荒修行」をなされた方とお会いできるのが楽しみです。

「葛飾明神社」の次は、「日蓮上陸と中山の古道」をやりませんか。
http://www.city.ichikawa.chiba.jp/net/kyouiku/rekisi/rekihaku/ronbun/yuasa/yuasa86.htm

そうそう、当日は、流山のKさんも参加します。
今のところ、総勢4名ということで。
2015.01.29 Thu 07:28 URL [ Edit ]
Posted by 壽光庵
何と!

申し遅れましたが、私は「日蓮の道」が本業(?)です。
古作の熊野神社に鎌倉時代にはあそこら辺まで海だったよなことが書いてありますので、果たして、八百寅道(?)が鎌倉時代にあったのかどうか調べていてこんなことになりました。

リンク先は、当日、持って行くつもりでプリントアウトして用意しておりました。
日蓮方面でもご指導の程お願い申上げます。

で、八百寅なんですが、江戸名所図会の勝間田池を見ておりましたら、八百寅の傍の道祖神(?)やお米屋さん(?)なんかが描かれているように見えました。
そう思って見るからそう見えるのかも知れませんが、国道(?)の曲がり具合など絶妙です。

あの絵描いたシトはスゴいな!と感心しております。
2015.01.29 Thu 11:28 URL [ Edit ]
Posted by B
八尾寅の角の石碑は『これより葛飾大明神一町半』と書かれたものならば現、葛飾神社に移設されている筈です。(確認要)

それから、円柱の道標と、葛飾明神の鳥居も葛飾神社内に移設されているようですね。(確認要)

米屋の所はまだ肉屋ですかね。 自転車屋でしたっけ?
2015.01.29 Thu 16:21 URL [ Edit ]
Posted by 壽光庵
鳥居は、もともと、熊野神社のモノなんじゃないか?と疑っています。
根拠は、またしても、江戸名所図会です。

勝間田池の熊野神社には今のと良く似た形の鳥居が描かれていますが、葛飾明神には鳥居がありません。
四角や円柱の道標は、一町という距離からすると R14にあったものではなく、葛羅之井の手前にある庚申塚の辺りにあったんじゃないか?と思います。

グーグル・マップで計ったところ、そこから葛飾明神の本殿(?)まで 120メートルほどでした。
つまり、江戸名所図会の分かれ道に描かれている大小の石塔は庚申塚とこの四角の道標じゃないかと考えております。

八百寅のところにあるのは道祖神かな?と思うのですが、詳しい皆さんに見て戴きたいと存じます。
お米屋さんは建物(の跡)が残っているように思うのですが、お隣の民家になっている辺りだったかも知れません。

子供の頃はお米屋さんの向かいに魚屋さんがありました。
お米屋さん、角(?)に乾物屋さんがあって、R14に面して自転車屋さん、肉屋さんだったと思います。
2015.01.29 Thu 23:16 URL [ Edit ]
道標とか Posted by B
葛飾明神付近の庚申塔の辺りだとしても、妙な気もします。
なぜなら、あの辺りからなら葛飾明神は丸見えでしょうから、強いて道標を建てたか。
あるいは、この古作へ続く道ではなく、上の姥山への道、つまりは明神の裏からの案内だったのではと言う仮説はいかがですか。
と、言うか、当てに成らない文献には、寿光さんが『ここだ』と言う場所とは違い、坂道を挟んだ反対側の家の中だと言う説もあります。 ただ、気に成るのは、『ここだ』の辺りが異様に空き地になっている事。 あそこはいままでなんだったんだろう。

八百寅の石碑が道祖神として、その道祖神は今はどこに?

栗原本郷道と言うのは千葉街道を指すのか、あるいは古作道を指すのか、はたまた姥山、柏井方面の道を指すのか。
小田原評定は続きます。
2015.01.30 Fri 08:32 URL [ Edit ]
道祖神とか? Posted by B
あらら 気が付きませんでしたが、八百寅と旧魚屋の間に祠があるのですね。 是非明日は拝観させて頂きましょう。
ストリートビューで今、観ました。
2015.01.30 Fri 10:07 URL [ Edit ]
薮の中 Posted by 壽光庵
○郷村に夷おとしといって大黒尊を描いたお札を売歩く舞大夫甚右衛門という者があった。
この男が○飾明神の神主になろうとして別当○善寺僧にとりいった。

さらに、○善寺の本寺である○王院にも金品を贈り、延享三年(1746年)同院住職良秀より「○飾明神神主たるべし」という書付を得て宇賀山大膳と名乗った。
大膳は大黒尊のお守札を、無理矢理、配布しようとしたから、近隣の村をも巻込んだ大騒ぎになった。

良秀は逐電し、萬善寺の僧も行方をくらました。
○郷村は幕府直轄領であるので評定所の裁きとなった。

大岡越前守が登場した。
寛延三年(1750年)いかなる大岡裁きがあったのか、大膳は所払いとなって一件落着、村に平和が戻った。

メデタシ。
逃げた坊主と○飾明神のその後については書かれていない。
2015.01.30 Fri 10:54 URL [ Edit ]
Posted by B
そう言う経緯や伝承があり、イの一番に廃寺や廃宮となって行ったのでしょうね。
2015.01.30 Fri 11:10 URL [ Edit ]
楽しくなりそうな予感 Posted by 断腸亭
壽光庵さん

いやましに。楽しくなりそうな予感。

明日は、われわれ3名のほかに、流山在住のKさん、市川鬼越在住のGさん、船橋在住のEさんも参加することになりました。
つまりは、総勢6名です。

私ども、『江戸名所図会』(ちくま文庫版)の当該箇所、すなわち、362~380頁までの拡大コピーを人数分用意しました。

他に、Bさんも、何やら資料を持ってきてくれるそうです。

日陰の箇所が凍結しているかもしれません。
私は、トレッキングシューズで参ります。

よろしくお願いします。
2015.01.30 Fri 18:49 URL [ Edit ]
Posted by 壽光庵
身の程わきまえず、私メも資料(?)なんぞを用意いたしましたが人数分間に合いません。
どうしてもというモノがありましたら、明日、コピーしましょう。

資料の検討で何処へも行かれない!などということがありませんように・・・。
目印に丸いサングラスをかけて行きます。
2015.01.30 Fri 21:44 URL [ Edit ]
Posted by 壽光庵
昨日は、ども、有難うございました。
部外者が混ざりまして、自転車のお仲間に遠足(?)をさせてしまい申し訳なく思っております。

皆さまから戴いた資料を興味深く拝見しております。
重ねて御礼申し上げます。
2015.02.01 Sun 11:29 URL [ Edit ]
感謝 Posted by 断腸亭
寿光庵さん

夜討ち朝駆けで、昨日(日曜)は、自転車で旧東海道と弘明寺(横浜)参りに出かけていたので、ご返事遅くなりました。

土曜日は、お付き合いというか、「先導」していただきありがとうございました。

次は、梅の頃、「日蓮上陸と市川の古道」といったようなテーマで第2弾を挙行したく存じます(また、メールでご連絡します)。

当日参加した自転車仲間にも、大変に好評で、梅と引っかけて、酒も引っかけて、是非にという声多数です。
因みに、当日参加のギブさん(鬼越)は、さっそくブログを書いてくださいました。

http://blog.livedoor.jp/gibson1798/archives/51795106.html

私は、簡単な記録をフェイスブックに書いたきり。
時間があるときにまとめますね。

以下、フェイスブックの記事。

「1月31日(土)葛飾郡歴史散歩~荷風にならいて」。

永井荷風が、戦後「発見」した「葛羅之井」の石碑を手がかりに、謎の「葛飾明神社」と「萬善寺」の比定地を探索。
さらに、古道を辿りつつ、日蓮と縁が深い中山一帯を散策。
10キロほどの道のりを、輩(ともがら)5名とてくてく。

ああだこうだ言いながらの行きつ戻りつの散策は、とても楽しかった。

〆は、荷風御用達の「大黒家」で、荷風セット(カツ丼+お銚子)。
五臓六腑に染みわたる。

やはり、その土地を本格的に探るには、自転車はダメ。
人間は、時速10キロを越えると、路傍の詳細が「触知」できなくなるからだ。

最終にして最高の移動手段は、古今東西において、「徒歩」であることを痛感。

順路;
京成線西船橋駅(南側の1番出口)に10時半集合。
→「勝間田の池」跡(「勝間田公園」・「船橋街道の傍」)
→現「葛飾神社」
→「磯丸水産」にて、軽い昼食を取りながら作戦会議。
http://tabelog.com/chiba/A1202/A120201/12032925/
→「葛羅之井」
→「葛飾明神社」比定地・「萬善寺」比定地探索
→「常楽寺」
→「明王院」
→「若宮八幡宮」(現「若宮八幡神社」・「奥の院より1丁ばかり東」)
→「奥の院」
→「中山法華経寺」
→「高石明神社」(現「高石神社」・「八幡より東の方、佐倉街道鬼越村深町の入口、道より左の岡)
→「葛飾八幡宮」
→「大黒屋」(反省会)
http://tabelog.com/chiba/A1202/A120202/12000794/
2015.02.02 Mon 08:18 URL [ Edit ]
Posted by B
当日の記事をブログに書きました。
しかし、詳細は書けず。
書けばド壺にはまりそうです。
ご容赦の程。
http://blog.livedoor.jp/kyf01405/archives/43186881.html#more
2015.02.02 Mon 20:37 URL [ Edit ]
Posted by 壽光庵
私メも何か書かなければ!と思って書き始めたんですが、とても、人様のブログのコメント欄に書ける量ではなくなってしまいました。
ンなもん書き込まれたって迷惑だかんネ!

という訳で、開店休業している自分のトコの古いスペースを使って書くことしましたが、少し、はみ出してしまいました。
山下清画伯の日記のようにズルズル(失礼!)と物事を書き連ねていると、次々に調べなければいけないことが見つかって際限無く、葛羅之井の底に引き込まれるような気がしました。

「一郡総社葛飾大明神」は何所にあったのか?
http://rickos.seesaa.net/article/390798459.html
2015.02.11 Wed 22:37 URL [ Edit ]

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