日々の身辺雑記や考えたことなどを徒然なるままに書き連ねる「断腸亭日録」です。
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断腸亭日録~自転車日記
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2012.04.30 Mon
荷風にならいて~真間川を下る
以下、写真及びそのキャプションと註は、私によるものであるあるが、地の文は、すべて、永井荷風が1947(昭和22)年に「葛飾土産」(『永井荷風随筆集(上)』(岩波文庫・275~281頁所収)として執筆したものである。

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千葉街道(註:国道14号線)の道端に茂っている八幡不知の藪(註:八幡の藪知らず)の前をあるいて行くと、やがて道をよこぎる一条の細流に出会う。

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(八幡不知の藪)

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(八幡不知の藪の説明板)

両側の土手には草の中に野菊や露草がその時節には花をさかせている。流の幅は二間くらいはあるであろう。通る人に川の名をきいて見たがわからなかった。しかし真間川(ままがわ)の流の末だということだけは知ることができた。

藪知らず
(江戸期の「八幡不知の藪」界隈。赤丸が「八幡不知の藪」。青丸が「「一条の細流」。黄丸が「葛飾八幡」。黒線が千葉街道=国道14号線)

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(かつてはその両岸に「野菊や露草がその時節には花をさかせて」いた「一条の細流」跡)

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(「一条の細流」跡。現在は暗渠になってしまっている)

真間川はむかしの書物には継川ともしるされている。手児奈(てこな)という村の乙女の伝説から今もってその名は人から忘れられていない。

市川の町に来てから折々の散歩に、わたくしは図らず江戸川の水が国府台の麓の水門から導かれて、深く町中に流込んでいるのを見た。それ以来、この流のいずこを過ぎて、いずこに行くものか、その道筋を見きわめたい心になっていた。

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(江戸川の水門から真間川が始まる・地図

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(江戸川堤から真間川を眺める)

これは子供の時から覚え初めた奇癖である。何処ということなく、道を歩いてふと小流れに会えば、何のわけとも知らずその源委(げんい)がたずねて見たくなるのだ。来年は七十だというのにこの癖はまだ消え去らず、事に会えば忽ち再発するらしい。雀百まで躍るとかいう諺も思合されて笑うべきかぎりである。
 
かつて東京にいたころ、市内の細流溝渠について知るところの多かったのも、けだしこの習癖のためであろう。これを例すれば植物園門前の細流を見てその源を巣鴨に探り、関口の滝を見ては遠きをいとわず中野を過ぎて井の頭の池に至り、また王子音無川の流の末をたずねては、根岸の藍染川から浅草の山谷堀まで歩みつづけたような事がある。しかしそれはいずれも三十前後の時の戯れで、当時の記憶も今は覚束(おぼつか)なく、ここに識す地名にも誤謬がなければ幸である。
 
真間川の水は堤の下を低く流れて、弘法寺の岡の麓、手児奈の宮のあるあたりに至ると、数町にわたってその堤の上に桜の樹が列植されている。その古幹と樹姿とを見て考えると、真間の桜の樹齢は明治三十年頃われわれが隅田堤に見た桜と同じくらいかと思われる。空襲の頻々たるころ、この老桜が纔(わずか)に災を免れて、年々香雲靉靆(あいたい)として戦争中人を慰めていたことを思えば、また無量の感に打れざるを得ない。しかしこの桜もまた隅田堤のそれと同じく、やがては老い朽ちて薪となることを免れまい。戦敗の世は人挙(こぞ)って米の価を議するにいそがしく、花を保護する暇がないであろう。

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(真間川に架かる橋から「弘法寺の岡」方向を眺める)

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弘法寺へ登る石段)

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(遠景に桜並木が現れる。「手児奈の宮のあるあたりに至ると、数町にわたってその堤の上に桜の樹が列植されている」)

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(もっと下流には、素晴らしい桜並木が健在である)

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(真間川の桜並木)

真間の町は東に行くに従って人家は少く松林が多くなり、地勢は次第に卑湿となるにつれて田と畠とがつづきはじめる。丘阜(きゅうふ)に接するあたりの村は諏訪田とよばれ、町に近いあたりは菅野と呼ばれている。真間川の水は菅野から諏訪田につづく水田の間を流れるようになると、ここに初て夏は河骨(こうほね)、秋には蘆(あし)の花を見る全くの野川になっている。堤の上を歩むものも鍬か草籠をかついだ人ばかり。朽ちた丸木橋の下では手拭を冠った女たちがその時々の野菜を洗って車に積んでいる。たまには人が釣をしている。稲の播かれるころには殊に多く白鷺が群をなして、耕された田の中を歩いている。

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(だが、場所によっては、殺風景な現在の真間川。「河骨」や「蘆の花」も、「鍬か草籠をかついだ人」も、野菜を洗っている「拭を冠った女たち」も、群をなしている「多く白鷺」も、田畑もない)

一時(ひとしきり)、わたくしの仮寓していた家の裏庭からは竹垣一重を隔て、松の林の間から諏訪田の水田を一目に見渡す。朝夕わたくしはその眺望をよろこび見るのみならず、時を定めず杖をひくことにしている。桃や梨を栽培した畠の藪垣、羊の草をはんでいる道のほとり。いずこもわたくしの腰を休めて、時には書を読む処にならざるはない。

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(有名な市川の黒松)

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(真間川沿いの黒松)

真間川の水は絶えず東へ東へと流れ、八幡から宮久保という村へとつづくやや広い道路(註:県道51号線)を貫くと、やがて中山の方から流れてくる水(註:大柏川)と合して、この辺では珍しいほど堅固に見える石づくりの堰に遮られて、雨の降って来るような水音を立てている(註:地図)。なお行くことしばらくにして川の流れは京成電車の線路をよこぎるに際して、橋と松林と小商(こあきな)いする人家との配置によって水彩画様の風景をつくっている。

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(真間川が「八幡から宮久保という村へとつづくやや広い道路を貫く」あたり。宮久保橋・地図

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(「宮久保村」へと続く幹線道。宮久保橋より)

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(「中山の方から流れてくる水」と合するあたりからやや下流の橋。八方橋・地図

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(「川の流れは京成電車の線路をよこぎる」)
 
或日試みた千葉街道の散策に、わたくしは偶然この水の流れに出会ってから、生来好奇の癖はまたしてもその行衛(ゆくえ)とその沿岸の風景とを究めずにはいられないような心持にならせた。
 
流は千葉街道からしきりと東南の方へ迂回して、両岸とも貧しげな人家の散在した陋巷(ろうこう)を過ぎ、省線電車(註:現JR線)の線路をよこぎると、ここに再び田と畠との間を流れる美しい野川になる。しかしその眺望のひろびろしたことは、わたくしが朝夕その仮寓から見る諏訪田の景色のようなものではない。

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(遠景に見える橋・境橋が「千葉街道(=国道14号線)」・地図

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(境橋・「千葉街道(=国道14号線)」)

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(「千葉街道(=国道14号線)」を渡る)

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(「千葉街道(=国道14号線)」を渡ると、さらに川筋の道が続く)

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(「省線電車(註:現JR線)の線路をよこぎる」)

水田は低く平に、雲の動く空のはずれまで遮るものなくひろがっている。遥に樹林と人家とが村の形をなして水田のはずれに横たわっているあたりに、灰色の塔の如きものの立っているのが見える。江戸川の水勢を軟らげ暴漲(ぼうちょう)の虞(おそれ)なからしむる放水路の関門(註:「江戸川水門」のこと)であることは、その傍まで行って見なくとも、その形がその事を知らせている。
 
水の流れは水田の唯中を殆ど省線の鉄路と方向を同じくして東へ東へと流れて行く。遠くに見えた放水路の関門は忽ち眼界を去り、農家の低い屋根と高からぬ樹林の途絶えようとしてはまた続いて行くさまは、やがて海辺に近く一条の道路の走っていることを知らせている。畦道をその方に歩いて行く人影のいつか豆ほどに小さくなり、折々飛立つ白鷺の忽ち見えなくなることから考えて、近いようでも海まではかなりの距離があるらしい。

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(かつてこの一帯は、田圃が広がっていたが、現在は殺風景な住宅街である)

これは堤防の上を歩みながら見る右側の眺望であるが、左側を見れば遠く小工場の建物と烟突のちらばらに立っている間々を、省線の列車が走り、松林と人家とは後方の空を限る高地と共に、船橋の方へとつづいている。高地の下の人家の或処は立て込んだり、或処は少しくまばらになったりしているのは、一ツの町が村になったり再び町になったりすることを知らしているのである。初に見た時、やや遠く雲をついて高地の空に聳えていた無線電信の鉄柱(註:おそらく船橋市行田の「海軍無線電信所船橋送信所」のこと)が、わたくしの歩みを進めるにつれて次第に近く望まれるようになった。玩具のように小さく見える列車が突然駐って、また走り出すのと、そのあたりの人家の殊に込み合っている様子とで、それは中山の駅(註:JR「下総中山駅」)であろうと思われた。
 
水はこの辺に至って、また少しく曲りやや南らしい方向へと流れて行く。今まで掛けてある橋は三、四カ処もあったらしいが、いずれも古びた木橋で、中には板一枚しかわたしてないものもあった。然るにわたくしは突然セメントで築き上げた、しかも欄干さえついているものに行き会ったので、驚いて見れば「やなぎばし」としてあった。真直に中山の町の方から来る道路があって、轍の跡が深く掘り込まれている。子供の手を引いて歩いてくる女連の着物の色と、子供の持っている赤い風船の色とが、冬枯した荒凉たる水田の中に著しく目立って綺麗に見える。小春の日和をよろこび法華経寺へお参りした人たちが柳橋を目あてに、右手に近く見える村の方へと帰って行くのであろう。

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(前方の橋が「やなぎばし」・地図

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(現在の「やなぎばし」)

中山法華経寺
(江戸期の中山法華経寺。北向き。「小春の日和をよろこび法華経寺へお参りした人たちが柳橋を目あてに、右手に近く見える村の方へと帰って行くのであろう」)

流の幅は大分ひろく、田舟の朽ちたまま浮んでいるのも二、三艘に及んでいる。一際こんもりと生茂った林の間から寺(註:「妙行寺」)の大きな屋根と納骨堂らしい二層の塔が聳えている。水のながれはやがて西東に走る一条の道路に出てここに再び橋がかけられている。道の両側には生垣をめぐらし倉庫をかまえた農家が立並び、堤には桟橋が掛けられ、小舟が幾艘も繋がれている。

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(「妙行寺」遠景)

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(「妙行寺」の「二層の納骨堂」。「一際こんもりと生茂った林の間から寺の大きな屋根と納骨堂らしい二層の塔が聳えている」)

遥に水の行衛を眺めると、来路と同じく水田がひろがっているが、目を遮るものは空のはずれを行く雲より外には何物もない。卑湿の地もほどなく尽きて泥海になるらしいことが、幹を斜にした樹木の姿や、吹きつける風の肌ざわりで推察せられる。
 
たどりたどって尋ねて来た真間川の果ももう遠くはあるまい。
 
鶏の歩いている村の道を、二、三人物食いながら来かかる子供を見て、わたくしは土地の名と海の遠さとを尋ねた。
海まではまだなかなかあるそうである。そしてここは原木(ばらき)といい、あのお寺は妙行寺と呼ばれることを教えられた。

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(「妙行寺」山門)

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(「妙行寺」本堂)

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(「妙行寺」本堂の彫刻は素晴らしい。柴又帝釈天のそれに匹敵す)

寺の太鼓が鳴り出した。初冬の日はもう斜である。
 
わたくしは遂に海を見ず、その日は腑甲斐(ふがい)なく踵(きびす)をかえした。

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(私も、「腑甲斐なく踵をかえし」て、家路についたのだった。江戸川放水路の「新行徳橋」付近)

-------------------
経路地図;



テーマ:旅先での風景 - ジャンル:旅行
小さな旅(自転車)    Comment(6)   TrackBack(0)   Top↑

Comment
偶然でしょうか Posted by 相子
今日の朝日朝刊千葉版 荷風と歩く 真間川が掲載されておりました。女学校に入学して直ぐ真間の入江の手児奈の和歌を教えられました。今回の文は長いのでゆっくり読ませて頂きます。
2012.05.01 Tue 19:33 URL [ Edit ]
Posted by kincyan
断腸亭さんの面目躍如の文でしょうか。知る人ぞ知る、市川のローカルな話ですのでコメントできる人は少ないでしょう^^。手児奈の伝説の類似系は色んなところにあるようですね。男二人に愛され、どちらも取ることが出来ずに死んでしまう。現代にはありそうにない心根ですね。(何かの比喩なのかな....)
2012.05.02 Wed 21:32 URL [ Edit ]
市川の街の変遷 Posted by 断腸亭
相子さん

永井荷風が市川に疎開してくれたお陰で、戦中・戦後の市川の街の変遷がよく分かります。
川筋が好きだった荷風の好みは、自転車乗りと一脈通じるところがあると思います。
荷風の文章をじっくり味わって下さい。
2012.05.03 Thu 03:40 URL [ Edit ]
空間の移動=時間の移動 Posted by 断腸亭
kincyanさん

自転車で走っていると、昔(開幕以前)の台東から墨東あたり風景は、たぶん、現在の手賀沼界隈の風景のようだったはずだと思うことがあります。
また、荷風が疎開した頃の市川は、明治大正期の墨東のようだった書かれています。
空間を移動することが同時に時間を移動することだということを荷風は知っていたのだと思います。
「葛飾土産」については、もう1本、記事を書くつもりです。
2012.05.03 Thu 03:50 URL [ Edit ]
いいですね~。 Posted by dadashin
いいですね~。真間川沿いを歩く荷風の随筆文を感じてサイクリング紀行。よく背広姿でバックを持ちながら散歩中の荷風の当時の写真も見かけますね。
鬼高に住んでいたころは冴えない川の風景だなと感じていましたが八幡に住むようになって真間川の風情の良さに惚れてきております。まあ歳も取ってきたというのもあるでしょうけれど。次回も期待しております。
2012.05.03 Thu 16:11 URL [ Edit ]
現在を引き出す過去 Posted by 断腸亭
dadashinさん

当時(約65年前)と較べると、現在の市川は、概ね、「悪い」方へ変化しているは確かですが、荷風の文章を噛み砕いていると、不思議なことに、現在の市川の素晴らしさが現出してきます。
もはや存在しない過去が、現在のある一面を引き出すという作用に、ちょっと驚いています。
2012.05.06 Sun 05:48 URL [ Edit ]

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