日々の身辺雑記や考えたことなどを徒然なるままに書き連ねる「断腸亭日録」です。
映画の日々 | エッセイ | 思い出 | 身辺雑記 | 日録 |  | 自転車 |  | 小さな旅(自転車) | 小さな旅 | 旅(自転車) | 未分類 | 自転車文学 | 
ブログ内検索
RSSフィード
リンク
断腸亭日録~自転車日記
≪2017.06  1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31  2017.08≫
プロフィール

higedancho

Author:higedancho
断腸亭髭爺です。
自転車関係の日記が多いです。
よろしく。

最近の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
カテゴリー
FC2カウンター
天気予報

-天気予報コム- -FC2-
ブロとも申請フォーム
フリーエリア
ブロとも一覧
--.--.-- --
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

スポンサー広告    Top↑

2011.07.29 Fri
墨田区内の古東海道を走る~関東最古の四辻か?
葛飾区の広報を見ていたら、葛飾区郷土と天文の博物館で「古代東海道と万葉の世界 ―かつしかに都と陸奥を結ぶ古代の東海道が通っていた―」という、私にとっては鼻血が出そうなぐらい興味深い企画展をやっていることが載っていた。

IMG_0278_20110729115809.jpg
(「古代東海道と万葉の世界」展。古代の東海道が、畿内の都から多賀城(宮城)までの間に、葛飾の立石を通っていたことを示す図案。9月4日まで)

葛飾区郷土と天文の博物館は、私の通勤ルートの一つである葛西用水路(旧曳舟川)沿いにあるので、さっそく通勤の途中に寄ってみることにした。

IMG_0277_20110729115641.jpg
(葛飾区郷土と天文の博物館の玄関。入館料:100円)

今回の企画展では、古代(上代)から近世までの「官道」(江戸期の五街道を含む)が、どのように造営され、また、時代とともにそのルートがどのように変遷したきたかということを、地図や説明板や遺物によって示そうとしたものである。

IMG_0288.jpg
(企画展の会場)

IMG_0289.jpg
(静岡県で発掘された上代の東海道跡の写真)

そもそも、街道の歴史には興味があるので、私としては、大変に面白く見ることができたが、葛飾区内から出土したの展示物があまり多くないこと、東海道全体の変遷地図が小さすぎること、また、当時の地名が現在のどこに比定できるのかという、研究成果からの詳しい説明も多少はあってもよかったと思う。
たとえば、各時代の箱根越えのルートにしても、現在のルートと異なることは分かるが、そんなことは、百科事典でも調べられるわけで、箱根のような、関東の人になじみ深い地域に関しては、もっと詳細な展示が求められるところである。
また、『奥のほそ道』でも有名な多賀城碑の原寸大レプリカを展示するのは悪くないが、葛飾区の「郷土」博物館なのだから、もっと地元を「定点」化するような方向性がほしかったと思う。

古東海道については、ブログでも何回か書いたことがある(たとえば、この記事)ばかりでなく、葛飾区内の古東海道は、その一部を毎日のように自転車通勤で走っているので、私にとっては馴染み深いものであるが、この展示会を見て、私の古街道探索熱に再び火がついた。

葛飾区内の古東海道は、何回も走ったことがあるので、今回は、墨田区内の古東海道を探索してみることにした。
今回触れるのは、墨田区内だけだが、葛飾・墨田両区に跨る古東海道の経路地図を先ず示しておこう。


(葛飾墨田の古東海道。東から西へのルート。荒川放水路の部分だけは、辿ることができないので、四ツ木橋を渡って迂回するしかない。葛飾と墨田区内においては、古東海道のほぼ九割ぐらいは、現在でも現役の道として使われている。荒川になった部分だけは、完全に水没して消滅)

もう一つ、まだ、荒川がなかった明治時代の地図上に、古東海道をなぞった地図も作ってみたので、以下の記事をお読みになる際に、適宜ご参照のこと。

古東海道
(明治時代の地図に、古東海道[赤いドット]を示してみた。ついでに、旧水戸街道[青いドット]も示しておいた。もちろん、まだ荒川は存在しない)

今回の出発地点は、荒川土手沿いの「ほがらか保育園」(墨田区墨田4丁目)である。

IMG_0238_20110729162618.jpg
(「ほがらか保育園」・地図

私の自転車が置いてある正面の道が、古東海道である。

この道は、荒川土手のすぐ下から延びている。

IMG_0240.jpg
(土手の上から見下ろしたところ)

土手のこの箇所にはちゃんと階段がついている。
旧水戸街道の場合もそうだったが、荒川が開削された際に、主要道が分断されたときは、その分断された箇所には、昔の「名残(乃至は、罪滅ぼし)」とでも言うべきか、土手に階段がついていることが多い。

土手に登って、対岸の葛飾区(四ツ木3丁目)を眺めてみよう。

IMG_0239.jpg
(対岸の葛飾区側を眺める)

そうなのである。
当然のことながら、荒川(放水路)ができる前は、この道は、葛飾区側の古東海道とつながっていたものである(地図)。

ところで、今から950年ほど前の1180(治承4)年の9月初旬、この道を数万の大軍勢を率いて隅田川に向かっていた者がいた。
源頼朝その人である。

同年の8月、伊豆で挙兵した頼朝は、よく知られているように、石橋山の戦いで敗走して、真鶴から船で脱出。
駿河湾と相模湾を渡り、安房勝山に上陸する。
その時、僅か12騎だったという。
その後、上総を抜けて、下総街道を北上するにつれて、頼朝の挙兵を聞きつけた東国の武士たちがどんどんと結集しはじめて、現在の矢切(松戸市)あたりから江戸川を渡った(柴又あたりだと言われている)頃には、驚くべきことに、数万という大軍勢に膨れあがっていたらしい。

今、その道を私は一人で自転車で走ってみようとしている(とは言っても、残りはたった1キロ余りだが)。

だからと言って、この道が古道である縁(よすが)は、今となっては、まったくない。
下町の住宅街を通っている、ごく普通の一般道のようにしか見えない。
しかし、当時は、現在住宅などが建っているところはすべて、葦原や蓮田や水田であったろう。
湿地帯の中をまっすぐに一本道がついているような光景だった。

右に墨田変電所などを見ながら少し走ると、東武伊勢崎線の踏切にぶつかる。
この踏切上で鐘ヶ淵通り(1927年に造られた道)と交差する。

IMG_0241.jpg
(いつも混雑している鐘ヶ淵の踏切・地図

IMG_0242.jpg
(踏切を渡ってさらに直進)

踏切を渡ってから200メートルほど進むと、小さな十字路にぶつかる。

IMG_0243_20110729195843.jpg
(墨田区墨田2丁目の交差点。交差点名無し。地図

この交差点は、一見何の変哲もないように見えるが、おそらく東京でも、いや関東でも最古の四辻のひとつと言ってもよいかもしれない(官道の四辻として)。

ここの古東海道は、既に「太政官符」(835年)に「住田宿」の渡し(現「東白髭橋公園」付近)のことが記されていることから推測できるように、9世紀半ばには存在していたのは間違いない。

そして、この四辻で交わるもう一方の道は、「鎌倉街道下ノ道」(鎌倉~常陸)なのである。
ということは、こちらも、遅くとも12世紀には造営されていた官道ということになるので、この四辻は、約千年近くの歴史をもつことになる。
都心の名だたる大交差点の類なぞ、束になってかかっても敵わないほど古いのである。

この「鎌倉街道下ノ道」について書き出すと、また長くなりそうなので、ここでは詳しく触れないが、江戸以降の旧水戸街道の基礎になった道だと考えられる。
これについては、いずれきちんと走ってみてから書くことにしよう。

IMG_0244_20110729202300.jpg
(「鎌倉街道下ノ道」の南方向。東向島に出る)

IMG_0245_20110729202522.jpg
(「鎌倉街道下ノ道」の北方向。「多聞寺」あたりで荒川土手にぶつかって消滅)

さて、われわれは、古東海道を直進しよう。

この四辻を過ぎると、道幅がやや狭くなる。

IMG_0246_20110729202839.jpg
(四辻を渡った後、道は狭くなる)

そして、両側から木々がこんもりと繁っているところで墨堤通りとぶつかって、一端は途絶する。

IMG_0247_20110729202948.jpg
(墨堤通りとぶつかる・地図

昭和30年代までは、ここも、墨堤通りと四辻を形成していたはずだが、現在は、環七によくあるような中央分離柵に阻まれて、直進することはできない。
仕方がないので、近くの信号機まで行って、墨堤通りを渡って回りこむ。

IMG_0248_20110729204011.jpg
(ちっとも面白くない墨堤通り)

回りこんで、墨堤通り越しにさっき出てきたあたりを見る。

IMG_0249_20110729204207.jpg
(墨堤通りをはさんで道の向こう側を見る。木が茂っているあたりが先ほどの場所)

墨堤通りをはさんで正面あたりにあるのは、巨大集合住宅団地の正面玄関のようなところで、ちょうどその場所に、以前の記事でも触れたことのある榎本武揚の銅像が立っている。

IMG_0250_20110729204708.jpg
(巨大集合住宅団地の正面玄関に立つ榎本武揚像)

この玄関アプローチこそが、古東海道ということになる。
幕末明治期に国家の枢要を担った榎本武揚であればこそ、古(いにしえ)の東海道を睥睨するに相応しいと考えることもできそうではあるが、現場に行くとさにあらず、集合住宅の住民たちのお出迎えをしている老人のようにしか見えないのは、まったくもって気の毒なことである。

さて、私は、自転車を引っ張って、玄関アプローチを登ってみる。
すると、玄関室が向こうに抜けられるようになっていて、その向こう側には東白髭公園が光っていた。
(近傍「玉ノ井」に縁のある永井荷風に因んで、ここにも「ぬけられます」という看板を出してほしいものである)。

IMG_0251_20110729205802.jpg
(玄関ホールそのものが古東海道になっている。珍しい例ではないか)

墨田区内の古東海道は、この玄関ホールをもって終わる。

この集合住宅ができる前は、古東海道のほぼ直線上に「隅田川神社」があって、その神社こそ、9世紀半ばには存在していた「住田宿」があった場所だと比定されているのだが、団地の造営に伴って、現在は、200メートルほど南に移築されてしまっている。
隅田川神社は、古東海道上にあってこそ、意味があるものなのだが・・・。

IMG_0254.jpg
(現在の隅田川神社)

たかがゼネコンに儲けさせるだけがねらいの団地建設のために、こういう重要な文化財の位置を勝手に動かしてしまう。これも、また、日本における近代とは何であったかを如実に物語る幾万例の一つではある。

源頼朝の話しに戻る。
1180年9月中旬、現在の東白髭公園や東向島一帯には、数万の軍勢が隅田川を渡るためにひしめき合っていた。
対岸には、江戸氏(武蔵国)の軍勢が対峙していて、頼朝軍の渡河を阻もうとしていたからだ。
しかし、頼朝の強気の交渉術の結果か、江戸氏も頼朝側に参戦することになり、舟橋を造って、大軍勢が隅田川を渡ることになる。
この渡河だけで、2週間以上を要したという。
長期間、大軍勢に居座られた地元の村人にとってはえらく迷惑なことであったろう。

IMG_0253.jpg
(東白髭公園)

参考文献:鈴木都宣『墨東向島の道』(文芸社刊、2000年)

お知らせ;
来たる8月13日(土)、「旧街道を辿る赤線地帯サイクリング~向島老舗和菓子三昧」を行います。
詳細は、下記BBSをご覧下さい。
http://www.teamtoukatsu.com/bbs/read.cgi?no=80
よろしくお願いします。

テーマ:自転車 - ジャンル:趣味・実用
小さな旅(自転車)    Comment(2)   TrackBack(0)   Top↑

Comment
Long time no see! Posted by kaccin
ご無沙汰しています。相変わらずの海外で、最近は豪州、中国とまわり本日はバンコクからです。中国ではNetにつながらず、あるいはつながっても規制有りストレス溜まりまくりでしたが、本日、久しぶりに断腸亭さんのブログ拝見して癒されると共に通信の自由を満喫しました。中国では西安の更に200キロ先まで行っていて、もうちょっとで陽関を出そうなところでした。来週には日本へ帰れそうです。 また、ご一緒するの楽しみにしています。
2011.07.30 Sat 17:57 URL [ Edit ]
A lot of water under the bridge Posted by 断腸亭
kaccinさん

ご無沙汰しておりましてすみません。
私の憧れの「西域」のあたりまで行かれたんですね。
13日(土)の「赤線サイクリング」、もし予定が合えば、ご一緒下さい。
ベトナムや各国の自転車事情など、いろいろ聞かせて下さい。

ところで、その節はお世話になったマージのフレームですが、いつ入荷するか分からず、とても待てないので、キャンセルしました。
来年度版を狙っています・・・。
2011.07.31 Sun 07:14 URL [ Edit ]

管理者にだけ表示を許可する

Top↑

TrackBack
TrackBackURL
http://danchotei.blog75.fc2.com/tb.php/643-e9f482c1

Top↑

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。