日々の身辺雑記や考えたことなどを徒然なるままに書き連ねる「断腸亭日録」です。
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断腸亭日録~自転車日記
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2011.07.25 Mon
荷風「寺じまの記」を追走する7~バス停「小松嶋」の謎
永井荷風の「寺じまの記」について、続きがだいぶ滞ってしまった。

前回の記事で、「墨田堤」と「地蔵坂」の中間に位置したと思われる「小松嶋」というバス停の所在地に対して、いささかの疑義があるということを書いた。

「車は小松嶋(こまつしま)という停留場につく。雨外套の職工が降りて車の中は、いよいよ広くなった。次に停車した地蔵阪・・・」(251頁)。

私には、どうしても、「小松嶋」と「地蔵坂」のバス停の順番が逆であるような気がしてならないのだが、いずれ京成電鉄に問い合わせて、当時のバス(乗合自動車)路線図を調べてみるしかないだろうか・・・。

さて、その「小松嶋」であるが、やっと調べがついた。
いや、調べがついたのはバス停としての「小松嶋」ではなくて、このバス停名の由来となったと思われる小松嶋の方であるが。

過日、「すみだ郷土文化資料館」の閲覧室で鈴木都宣著『墨東向島の道』(文芸社、2000年刊)という、向島界隈の道の歴史を詳述した好著と出会って、さっそく注文したけど絶版だったのが、電子書籍で購入することができた(電子書籍を購入するのは初めてだが、検索ができるので便利)。

IMG_0119_20110725120615.jpg
(「すみだ郷土文化資料館」。墨東文化史を調べるならここ。入館料100円)

この本によると、「小松島」(と表記)というのは、「白髭橋の袂の南側」あたりにあった庭園のことで、宮城の松島を模した池が配されていたという。開園したのは、明治11年だったが、大正期には放置されたままになって、近傍の子供たちの遊び場になっていたという(同書152頁)。
つまり、荷風が訪れた昭和11年には、小松島庭園は、いわば、廃園として残存しており、バス停の名に引き継がれたということだろうか。

では、この辺りのことを地図で確認してみよう。

小松島
(左が明治期、右が昭和30年代の地図。赤丸が、小松島のあった場所)

なるほど、左の明治期の地図を見ると、二つの瓢箪を合体させたような形の池を中心に庭園らしき物が確認できる。
しかし、戦後の地図では、庭園は跡形もなく消滅して、工場になっていることが分かる。

それにしても、この小松島の位置関係からして、バス停「小松嶋」は、「地蔵坂」の手前ではなくて、「地蔵坂」の次であるべきだと思うのだが・・・。

現在の小松島跡は、もはや工場も取り払われて、何ともつまらない鉄筋コンクリートの高層住宅(「リバーサイド墨田」)がそびえ立っている。

明治期の地図を出したついでに、荷風が、この辺りの「変遷」について触れている次のくだりも読んでおこう。

「わたくしはふと大正二、三年のころ、初て木造の白髯橋ができて、橋銭(はしせん)を取っていた時分のことを思返した。隅田川と中川との間にひろがっていた水田隴畝(ろうほ)が、次第に埋められて町になり初めたのも、その頃からであろうか。しかし玉の井という町の名は、まだ耳にしなかった。それは大正八、九年のころ、浅草公園の北側をかぎっていた深い溝が埋められ、道路取ひろげの工事と共に、その辺の艶しい家が取払われた時からであろう。当時凌雲閣の近処には依然としてそういう小家(こいえ)がなお数知れず残っていたが、震災の火に焼かれてその跡を絶つに及び、ここに玉の井の名が俄に言囃されるようになった」(252頁)。

上掲の明治期の地図を今一度、ご覧になってほしい。
まず、荷風が書いているように、向島の一帯で街区になっているのは微高地だけで、ほとんどが「水田隴畝」である。
しかも、あちこちに池や沼らしきものが点在してしていることから、この一帯がそもそもは低湿地帯であったこともよく分かる。
また、関東大震災後、浅草の花街が衰えを見せたのと引き替えに、玉ノ井が隆興してきたこと。
さらに、明治になっても、いまだ江戸時代的な田園風景を残していた墨東も、大正期にもなると、その風情を喪失し始めた様子も描かれている。

因みに、大正初期にここにはじめて架けられた木造の白髭橋であったが、大震災後再建された(1925年)のが、現在の鉄製の白髭橋である。

IMG_4018.jpg
(現在の白髭橋)

さて、荷風を乗せたバスは、まだ墨堤通りを北上中である。

「行手の右側に神社の屋根が樹木の間に見え、左側には真暗な水面を燈火の動き走っているのが見え出したので、車掌の知らせを待たずして、白髯橋のたもとに来たことがわかる。橋快(はしだもと)から広い新道路が東南に向って走っているのを見たが、乗合自動車はその方へは曲らず、堤を下りて迂曲する狭い道を取った。狭い道は薄暗く、平家建(ひらやだて)の小家が立並ぶ間を絶えず曲っているが、しかし燈火は行くに従つて次第に多く、家もまた二階建となり、表付(おもてつき)だけセメントづくりに見せかけた商店が増え、行手の空にはネオンサインの輝きさえ見えるようになった」(251~2頁)。

「行手の右側に神社の屋根が樹木の間に見え」とある、その神社というのは、もちろん白髭神社のことである。

IMG_0082_20110725185016.jpg
(白髭神社)

このあたりのバスの曲がり方が詳しく記されていないが、「白髭橋のたもと」まで回りこんでいるいることなどから、おそらく、現在の「白髭橋東詰」の交差点(地図)まで墨堤通りを北上するのではなくて、途中のどこかで左折して、隅田川畔沿いにあった道に出たものと推測される(乗合自動車の予想ルート地図をご参照)。

現場に行ってみて、あれこれ考えてみた結果、どうも現在の首都高の「高速向島」出口あたり(地図)に、昔の一般道が通っていて、荷風の乗ったバスは、そこを左折したものと思われる。

IMG_0079_20110725200508.jpg
(首都高の「高速向島」出口。荷風を乗せたバスはこの辺りを左折したのではないか)

高速の出口なので、ここを自転車で進入すればそれは自殺行為になってしまうので、困っていると、出口の道路と平行して集合住宅内を取り巻く道が見つかったので、その道に入ってみることにする。

IMG_0078_20110725200340.jpg
(高速の出口と平行に通った道)

この道を隅田川方向に辿ると、土手に登って、首都高の下に出る。

IMG_0077_20110725200942.jpg
(首都高の下の土手道)

現在は、徒歩か自転車でしかこの道を通ることはできないが、荷風を乗せたバスは、当時は一般道が通っていたこの土手道を走っていったものと思われる。

この道の右側(東側)には、かつては、小松島の庭園が広がっていたわけだが、先ほども触れたように、現在では、「リバーサイド墨田」という、聞くだに身体が痒くなるような名称の高層集合住宅が建っている。

IMG_0076_20110725201352.jpg
(リバーサイド墨田)

その後、荷風を乗せたバスは、意外な道筋を取る。
「橋快から広い新道路が東南に向って走っているのを見たが、乗合自動車はその方へは曲らず、堤を下りて迂曲する狭い道を取った」(251頁)と記している。

南東に向かって走っている「広い新道路」というのは、明らかに、現在の「明治通り」(当時は、「改正道路」や「十三間道路」と呼んでいたようである)のことだが、バスは明治通りで右折することなく、通りを渡って、「狭い道」に入ったと書いてある。
これはたぶん、現在の明治通りと平行に一本北を通る道のあるあたりではないだろうか(地図)。

IMG_0075_20110725202616.jpg
(「狭い道」というのは、たぶん、このあたりを通っていたと思われる。当時は道の両側には「平家建の小家が立並」んでいたはずである)

こうして、荷風を乗せたバスは、大正通りを経て、いよいよ、核心の「玉ノ井」に入っていくことになるのだが、疲れてきたので、今日はこのへんで終わりにしたい。

底本:「寺じまの記」(『永井荷風随筆集 上巻』岩波文庫所収)

(続く)

テーマ:自転車 - ジャンル:趣味・実用
小さな旅(自転車)    Comment(7)   TrackBack(0)   Top↑

Comment
こんにちは Posted by jacksbeans
都営地下鉄の広報誌「東京時間旅行 荷風!」というのをいつも楽しく読んでいたのですが、なんと今のが最終号となっていました。残念! 表紙の「荷風の人形」も、なかなか味があってよかったんですよ。
2011.07.27 Wed 16:28 URL [ Edit ]
今の荷風人気 Posted by 断腸亭
jacksbeansさん

都営地下鉄で、そんなシリーズを出しているとは知りませんでした。
今の荷風人気は、たぶん、近年の江戸ブームと関係があると思います。
荷風は、フランスとアメリカに遊学し、当時としては超エリートになるべき経歴をもっていた人でしたが、帰国してしばらくすると、西欧近代(明治近代)よりも、結局、江戸文化のが素晴らしかったと言い出した人です。
それも、「思想」というよりは、「嗜好」というレベルで押し通したというところが面白いと思います。
しばらくは、荷風にならいて参りたいものです。
2011.07.27 Wed 20:36 URL [ Edit ]
Posted by kincyan
おはようございます。
隅田川周辺のこのあたりは風情があってよろしいですね。特に大正昭和初期あたり文献や小説も多くあり、またその時代の建物も少し残っており、面影を追いかけるに最適です。歩くと少ししんどいので、チャリでふらふらと徘徊するには丁度です。しかし、先日玉ノ井いろは通に行きましたが、赤線のムードは残っておりませんでしたね。私の実家は、大阪の旧赤線地域に接していますが、いまもその雰囲気を残しています。(まだ営業もしているようで、少しこわいですが...)
2011.07.28 Thu 05:56 URL [ Edit ]
東京の花街 Posted by 断腸亭
kincyanさん

東京の花街は、震災(1923年)と戦災(1945年)と売春禁止法(1958年)という三つの大波によってさらわれてしまい、ほとんど往時の面影をとどめていませんが、私が花街に関心を持つようになったきっかけは、10年ほど前に、大阪の友人に案内されて訪れた「飛田新地」でした。
夕暮れの中に走馬燈のように浮かび上がる家々の美しさにすっかり魅了されました。
残念ながら、東京には、あのような風流な場所は一つも残っていないと思います。
なので、東京の花街探訪は、どうしても、どこか「考古学」的になってしまいますね。
ただ、おっしゃるように、資料は山ほどあるので、多角的な楽しみ方も可能だと思います。
玉ノ井も、鳩の街も、大通りから一本入ると、昔の風情を感じさせる所もありますが、かなりの想像力を要します。
近く、「赤線地帯探訪サイクリング」を企画しようと思っています。
2011.07.28 Thu 07:42 URL [ Edit ]
Posted by kincyan
おはようございます。「赤線地帯探訪サイクリング」ぜひお誘いください。(土日じゃないとだめですけどね)

私の実家は「飛田」とならぶ大阪の旧赤線地帯である「松島」の目の前です。小学校時代の友人は、遊郭の息子や娘がいました^^;。小さいときに彼らの家に遊びに行って、なぜ彼らの家はこんなに立派な「昔風の」家なんだろうと不思議に思っていました。無邪気でしたね。
2011.07.29 Fri 06:42 URL [ Edit ]
羨ましい・・・ Posted by 断腸亭
kincyanさん

そうでしたか。
子供には、立派な家にしか見えませんね。
でも、羨ましいです(?)。

赤線地帯サイクリングは、13日(土)にしようかと思っているところ。
一両日中に、東葛のBBSかこのブログでお知らせしますね。
2011.07.29 Fri 13:10 URL [ Edit ]
旧街道を辿る赤線地帯サイクリング Posted by 断腸亭
kincyanさん

「旧街道を辿る赤線地帯サイクリング~向島老舗和菓子三昧」のお誘い(8月13日)、チーム東葛のBBSに出しました。
http://www.teamtoukatsu.com/bbs/read.cgi?no=80
もしよろしかったら、どうぞご参加下さい。
2011.07.30 Sat 15:35 URL [ Edit ]

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