日々の身辺雑記や考えたことなどを徒然なるままに書き連ねる「断腸亭日録」です。
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断腸亭日録~自転車日記
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2011.07.04 Mon
志賀直哉の「自転車」を読む1~海老茶色のデイトン
志賀直哉と言えば「小説の神様」として知られているが、実は、青少年期の直哉が、かなりの自転車フリークだったことは、あまり知られていないかもしれない。

自転車関係の書籍を読んでいると、漱石の「自転車日記」、萩原朔太郎の「自転車日記」と並んで、志賀直哉の「自転車」という回顧録風短編小説が取り上げられることがあるので、自転車に関心がある人はどこかで見かけたことがあるかもしれない。

志賀直哉の「自転車」(1951年)という作品は、私が思うに、その研ぎ澄まされた文体も相まって、日本の文人が書いた自転車に関する文章としては、今後もかなり先まで、最高峰でありつづけるであろう。
自転車に「耽溺」し、それを自分の身体の一部となるまで乗りこなした人間にしか書けない筆致の躍動が伝わってくる。
しかも、19世紀末から20世紀初頭における日本の自転車事情などにも触れているこの文章は、自転車文化史的観点から見た資料的価値もかなり高いのではないかと思う。

ただ、この作品は、まだ(著者の死後50年を経ていないため)版権フリーになっていないので、ネット上では読むことができない。
『志賀直哉全集』(岩波書店)の第四巻に収められているが、手軽に入手できるのは、「ちくま日本文学シリーズ」の『志賀直哉』(筑摩文庫・880円)である。

さて、この「自転車」という文章が書かれたのは、戦後の1951(昭和26)年だが、書かれている内容は、その半世紀ほど前の、直哉13歳から18~9歳ぐらいの5~6年間のことである。
年代で言えば、1895(明治28)年から1901(明治34)年ぐらいに相当し、中村春吉が、自転車世界旅行を思い立ち、山陽道~東海道を走ったり、その後、世界中を走り回っていた頃と重なる期間なので、自転車フリークの直哉は、中村春吉の偉業をどこかで聞き知っていた可能性は高い。
因みに志賀直哉は1883(明治16)年生まれなので、1871(明治4)年生まれの中村春吉とはほぼ同時代人と言ってもよいが、12歳ほど年下ということになる。

直哉の次の文章は、彼の自転車への入れ込みようのみならず、当時の東京の交通事情が鮮やかに描き出されている。

「私は十三の時から五六年の間、ほとんど自転車気違い(ママ)といってもいいほどによく自転車を乗廻していた。学校の往復は素より、友だちを訪ねるにも、買い物に行くにも、いつも自転車に乗って行かない事はなかった。当時は自動車の発明以前であったし、電車も東京にはまだない時代だった。乗物としては、芝の汐止から上野浅草へ行く鉄道馬車と、九段下から両国まで行く円太郎馬車(明治期の乗合馬車のこと・引用者注)位のもので、一番使われていたのはやはり人力車だった。箱馬車幌馬車は官吏か金持の乗物で、普通の人には乗れなかった」(384頁)。

当時の直哉は、通学はもちろん、どこに行くにも、自転車を使っていたというのは、まるで現在の私と同じなので、非常に親近感を覚える。
また、中高生の自転車通学というのは、現在では、列島中のありふれた光景になっているが、既に110年以上も前から行われていたことが分かる。
さらに、東京の街を走っていたのは人力車と鉄道馬車と乗合馬車と自転車という「自然エネルギー」を利用した乗り物だけで、化石燃料を使う乗り物はまだ登場していなかったようだ。

1.海老茶色のデイトン

直哉が乗っていた自転車は、中学校時代は、主として米国製のデイトン(Dayton)という「海老茶がかった赤い」自転車。
高校生になって、中村春吉と同じ米国製ランブレーに乗り換えたが、まず、デイトンについて見てみよう。

デイトンは、デイヴィスミシン製造会社が生産していた自転車の商標名。
色は違うが、中学生の直哉が乗っていたデイトンは、たぶん、このブログに載っている、実に美しい自転車に近いものであったろう。

因みに、海老茶色のデイトンと言えば、当時の流行の最先端(ハイカラ)であったようだ。

たとえば、1903(明治36)年に新聞に連載された小杉天外の大人気小説『魔風恋風』にもデイトンは登場する。

「鈴(ベル)の音高く、見(あら)はれたのはすらりとした肩の滑り、デートン色の自転車に海老茶の袴、髪は結流しにして白いリボン清く、着物は矢絣(やがすり)の風通(ふうつう)、袖長ければ風に靡いて、色美しく品高き十八九の令嬢である」

三浦環
(自転車に乗る女子学生。1903年に描かれた絵。ブレーキレバーがないので、固定ギアかコースターブレーキ車であることが分かる)

袴姿の令嬢が、デートン色(=海老茶色)の自転車に乗って、颯爽と街中を走り抜ける姿を描いている。
実は、この小説のモデルになったのは、『蝶々夫人』で当時世界的に有名になったオペラ歌手の三浦環(たまき)。
三浦環は、学生時代(1900年頃)、芝の自宅から上野の音楽学校(後の芸大)まで(約9キロ)自転車で通学したのだが、それが非常に話題になったのだという。
詳しくは、このページをご参照。

さて、中学生の直哉(13歳ぐらい)が、デイトンを祖父に買ってもらったときは、自転車(たぶん、700C車)が大きすぎて、というより、身体が小さすぎて、足がペダルに届かなかったという。
そこで「足駄の歯のような鉄板をネジでペダルに取り付け、ようやく足を届かすことが出来た」(386頁)という。

デイトン
(向かって左が、デイトンに跨る、学習院の制服を着た志賀直哉少年。既に普通のペダルになっているので、身体が成長した中等科2年か3年時か。後で触れるが、ノーブレーキの固定ギア車であった)

(続く)

テーマ:自転車 - ジャンル:趣味・実用
自転車文学    Comment(8)   TrackBack(0)   Top↑

Comment
この頃の自転車は Posted by しゃあ あずなぶる
やはり高価だった事でしょうから
自分専用に乗れるのは、お金持ちの子ですかね。
2011.07.05 Tue 10:08 URL [ Edit ]
現在のクルマぐらいの値段 Posted by 断腸亭
しゃあさん

たぶん、当時の150円(現在の150万円)ぐらいで、現在のクルマぐらいの値段だと思います。
従って、当時の志賀家は、現代で言えば、クルマが買えるぐらいの家ではあったと想像できます。
ただし、中高生の期間、すべて自転車で移動したので、交通費の節約にはなったと思います。
2011.07.05 Tue 10:15 URL [ Edit ]
貸自転車 Posted by やまびこ
しゃあさんの仰るように、志賀家はお金持ちだったのですね。

わたしが小学生のときは(1960年大前半頃)貸自転車が全盛でした。
町のあちらこちらに自転車屋さんがあって、学校から帰るとガキンコたちが大勢借りに行ってましたっけ。時間制で30分で50円くらいだったかなあ。

自転車で芸大まで通った三浦環、かなりふくよかな(太った)方だったらしいので、役作りのためのダイエットにもなった事でしょうね(^^)

2011.07.05 Tue 12:38 URL [ Edit ]
アルプス Posted by 横山
 筑摩文庫のほか、下記の新潮文庫にも収録されていますので、図書館で気軽に読めます。
http://www.junkudo.co.jp/detail.jsp?ISBN=9784101030067
 作品中に出てくる萩原はアルプス(先年閉店したランドナーメーカー)の前身です。直哉はボートの選手で、70歳のときに和服を着て竹馬でバック(後進)が出来たそうですから、高度な運動神経の持ち主だったようです。
2011.07.05 Tue 14:34 URL [ Edit ]
物の値段 Posted by 断腸亭
やまびこさん

貸自転車屋は、明治時代からあったそうです。
でも、昭和30年代の私の田舎では見かけませんでした。
たぶん、人口が多い地域でないと、やっていけなかったのかもしれませんね。

明治後期の自転車は、ほぼ、現在のクルマの値段と同じですが、大正時代になって、クルマが普及し始めると、自転車の価格はどんどん安くなり始めて、大卒初任給ぐらいの価格になるようです。
物の値段の変遷は、非常に複雑ですが、面白いですね。

三浦環の体型については、専門ではないので触れないことにします・・・。
2011.07.05 Tue 19:15 URL [ Edit ]
スポーツ万能の志賀直哉 Posted by 断腸亭
横山さん

ご無沙汰しております。

新潮文庫のが安くていいですね。
また、志賀直哉のような「文豪」の本は、必ず図書館に置いてあるので、ありがたいです。

アルプス、閉店したと聞いて、残念でなりません。
知っていたら、一度、行っておくべきでした。

そうそう、学習院時代の志賀直哉のスポーツマンぶりはすごいですね。
スポーツばかりやっていたので、2度も落第したそうです。
落第すれば小説家になれるわけではありませんが、落第しても小説家になれるという励みにはなりますね。
2011.07.05 Tue 19:21 URL [ Edit ]
女性も乗る自転車 Posted by 相子
三浦環さんの自転車通学の話は聞いておりましたが、画や写真で見たのは初めてです。
また私事ですが、母は千葉の白浜で一番最初に自転車に乗った女の子だったそうです。
でもこの中の文章を読みますと、母が乗ったのはそう早い時期ではありません。多分大正の終わりころか昭和の初めだと思います。
2011.07.06 Wed 23:17 URL [ Edit ]
それは大変なことだと思います Posted by 断腸亭
相子さん

相子さんのブログの、自転車に関する記事、拝読していたのですが、その際は、コメントする機会を失してしまいました。
http://aikoqipao.blog47.fc2.com/blog-entry-1287.html

お母様が、そんな早い時期に自転車に乗っておられたのは、やはり大変珍しいことだと思います。
自転車が大普及したのは、国産車が大量生産され、価格も手頃になり始めた大正期だと思いますが、女性が自転車に乗ることへの偏見があったので、さぞかし勇気が必要だったと思います。
但し、戦時中は、何せ鉄製品なので、軍需物資の生産に押されて、自転車は入手が難しくなりました(戦地での軍による自転車の需要が増えたのも原因)。

大正期に自転車が普及し始めるにつれて、荷物を運搬する道具として、自転車が使用されるようになりました。
以前のブログでのご質問ですが、自転車にスタンドが付いたのは、このころだったと思います。

志賀直哉が乗っていた初期の自転車には、まず、スタンドは付いていませんでした。
これは、軽量化のためではなく、スタンドそのものが存在しなかったからだと思います。

スタンドの需要は、たぶん、自転車が荷物を運搬する道具として注目されはじめた頃に発生したのではないかと思います。

私の経験からしても、実用上、荷物を積まないのならば、スタンドは必要ないと思います。

私の母も、若い頃は、祖父の真っ黒な自転車を借りて、通勤や遠乗りをしていたそうです。
2011.07.07 Thu 06:07 URL [ Edit ]

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