日々の身辺雑記や考えたことなどを徒然なるままに書き連ねる「断腸亭日録」です。
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断腸亭日録~自転車日記
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2010.05.02 Sun
イザベラ・バード(『日本未踏地紀行』)の足跡を走る1~栃木宿から日光まで
最近、私は、イザベラ・バードという英国人女性にぞっこんである。
19世紀後期に世界のあちこちを旅してまわった紀行作家である。

その彼女が、九州の内戦(西南戦争)が終結したばかりの1878(明治11)年4月に日本にもやって来た。

明治11年と言えば、そのわずか10年前には、まだ戊辰の内戦中であった。
江戸を占領した西軍(新政府軍)は、東軍(幕府派軍)を追討。
東北地方や北海道で血で血を洗うような権力奪取のための激戦が繰り広げられていたわけだ。

その10年後に彼女が日本に上陸したわけだが、彼女が上陸した翌月には、新政府のマキャベリ的指導者たる大久保利通が、馬車で通勤中に暗殺されている(1878年5月)。

やっとのことで権力を握った新政府の地固が築かれつつあった頃とはいえ、奥州や「蝦夷地」では、なお江戸時代さながらの人々の生活が維持されていたにちがいない。
道路事情もしかり、食糧事情もしかり・・・。

そんな日本の「奥地(unbeaten tracks)」を、たった一人の通訳士(イトウ)を連れて、人力車と馬で約4ヶ月をかけて旅した記録が、『日本未踏地紀行』(平凡社版の邦題『日本奥地紀行』。講談社版の邦題は『日本紀行』。原題はUnbeaten Tracks in Japan)である。


(平凡社版『日本奥地紀行』)


(講談社版『日本紀行』上下巻)

イザベラ・バードのこの本の存在は以前から知っていたものの、興味を持ったのは、去年の夏に自転車で東北を旅した時だった。
新庄に着いた翌日、私は、金山という羽州街道(現・国道13号線)沿いの小さな町(山形県最上郡)を訪れた。
この町は、全国に先駆けて「町政」の完全情報公開に踏み切った自治体としても有名であるが、鯉が泳ぐ水路とよく保存された美しい街並みに、私は痛く感動した。

IMG_2836.jpg
(金山町の水路・去年の8月撮影)

そんな金山町を散策していると、広場の一角に、銀色の記念プレートを発見した。

IMG_2839.jpg
(金山町のイザベラ・バードの碑・去年の8月撮影)

私と同じように、新庄から金山まできたイザベラの記述が英和の対訳で刻まれている。
私は、これを読んで、ちょっとびっくりした。
今から130年以上前に、英国人女性が「旅」をするために、こんな山奥の集落に一人でやって来ていたなんて・・・。

東京に戻ってすぐに『日本紀行』(講談社)とその原書(Unbeaten Tracks in Japan)を注文したものの、本が届くまでに他のことに興味が移ってしまって(飽きやすい私)、つい最近まで読まずじまいだったのを、やっと読み始めて、その面白さの虜になってしまった(熱しやすい私)。

このイザベラ版「奥の細道」とも言うべき紀行で、彼女の辿ったルートはいささか意外である。
栗橋あたりまでは奥州街道、その後、いわゆる例幣使街道を北上して日光。
日光から会津を抜けて新潟に出た後、再び東進して、羽州街道を北上して、山形・秋田・青森を経由して北海道に渡っている。
奥州街道をそのまま北上するのが一般的のようにも思えるし、また、旅の利便性も高かったはずなのにどうしてだろう。
その理由は、今はよく分からないが、彼女の辿った羽州街道の一部を私も自転車で走ったという単なる偶然から、妙な親近感を覚えたのも事実である。

そんなとき、「チーム東葛」(自転車愛好家集団)の仲間が、連休中の5月2日に、自転車で日光まで走るという企画を立ててくれているのを知って、私も参加することにした。

イザベラは、日光が大変気に入って、9泊ほど滞在している(6月13~24日)だけではなく、その内少なくとも7晩泊まった宿(金谷邸)が、ほぼ当時のまま残っていることを知ったからだ。

とはいえ、「チーム東葛」の日光サイクリングは、確かに日光まで行くものの、その途中のルートは、奥州日光街道を辿るもので、イザベラのルートとは違っていたので、まことに勝手ながら、途中の道筋は、単独で走らせてもらうという部分参加になってしまった。
また、できれば、イザベラも小さな馬に乗って登ったいろは坂を越えて、奥日光まで行ってみたいとも思っていた。

早朝、ロードバイクに乗って家を出る。
東武浅草駅から東武線に乗り込む。
始発なので、最後尾車輌のおあつらえ向きの場所に自転車を置くことができる(同じ車輌にクロスバイクの若い二人連れが乗っていた。別の車輌には、小径車の若者)。
列車内にて、おにぎりとサンドイッチを食べてしばし仮眠。
イザベラ・バードの栃木から日光までの記述を読み直す。
栃木駅で下車。

栃木駅。
堂々とした近代的な駅舎。
広々とした駅前広場。
その駅前広場には、栃木市出身の山本有三の石碑が建っていた。

IMG_4901.jpg
(山本有三の記念碑)

「たったひとりしかない自分を、たった一度しかない一生を、ほんとうに生かさなかったら、人間、生まれてきたかいがないじゃないか」。
う~ん、旅の始めの言葉としては、実にずっしりと響いてくる言葉で、「そうだそうだ、その通りだ!」と心の中で何回も頷く。

さて、イザベラが栃木宿に到着したのは、1878年6月11日の午後6時頃だったと思われる(講談社版上巻133頁)。
前日の宿は、粕壁(春日部)なので、一日で約40キロ以上も移動したことになる。
40キロと言えば、江戸期の一般的な旅人が一日に歩ける限界の距離(ちょうどフルマラソンの距離)で、日の出と同時に出発すれば、途中、昼飯やお茶の休憩などを入れても、およそ10時間近くで次の投宿地に明るいうちに到着できるわけだ(街灯がないので、夜の旅は論外)。
しかし、イザベラは「歩いた」のではなく、この先、日光までは、人力車を利用している。

人力車については、既に以前の日記に書いた
ことがあるが、明治4年に日本で発明された。

イザベラも、日本に来て初めて見る人力車には驚いたらしく、各所で詳しく記録している(たとえば、同書上巻44~46頁)。
彼女によると、都市部(この場合、東京近辺のこと)で展開している人力車の数は、何と2万3千台。
その人力車は、平地を走る場合、時速6.4キロ(早歩きぐらいの速度)で、一日に最長80キロを走ったという(上巻44頁)。

イザベラが徒歩で旅することができなかった理由は明白で、北海道までの長旅であったため、荷物(複数の柳行李)の重さが50キロもあったからである(上巻114頁)。
ただし、当時の人力車は、現在の浅草あたりで走っているものとはやや違っていた。
一番の違いは車輪で、現在の人力車の車輪は、自転車の車輪のように、金属製のスポークとリムに、空気タイヤを装着したものであるが、このタイプの人力車が登場するのは、明治末期から大正時代以降のこと。
明治初期の車輪は、木造で外側にに金属で縁取りしたようなもので、乗り心地が良いとはとても言えなかったはずである。

そんな人力車ではあるが、多分、当時の旅人にとっては、それでも、船旅に継ぐ快適かつ迅速な移動手段だったはずである(西部劇に出てくるような駅馬車は、都市部以外はほとんど存在しなかった)。

しかしながら、人力車を利用するためには、そこに人力車がなくてはならないし、人力車が走る道がなければならなかった。
日光までは人力車を利用できたものの、その先はほとんど馬(と川船)を利用せざるを得なかったのは、人力車とそれが走れるような道が存在しなかったからである。

昨日、箱根道を走った時にも確信したが、昔の峠は、マウンテンバイクでも走れない。
そして、現在のマウンテンバイクが走れない道は、人力車も走れないであろうということ。

逆に言えば、江戸期以来、将軍一行や朝廷の例幣使のみならず、庶民までもが日光参りをする習慣があったため、江戸から日光までの道路と交通手段はかなりよく整備されていたことの証しでもあろう。

さて、栃木である。
イザベラは、当時の栃木宿について、こう書いている。

「ここの特産品はさまざまな種類のロープで、このあたり一帯には大量の大麻が育っています。瓦屋根が多くあり、一見これまで通ってきた町より家屋が込んでいて、立派な町かと思います」(上巻133頁)。

これに続くくだりで、イザベラは、日本の宿の居心地の悪さについて、多くの不満を漏らしている。

障子だけで仕切られた部屋は、まったくプライバシーを守ってくれない。
しかも、勝手に障子を開けて、覗き込む者がいる。
夜中、芸者を上げてどんちゃん騒ぎをしているものだから、うるさくて眠れない等々・・・。

当時は盛んに作られていた大麻だが、もちろん現在では、どこを探しても見当たらない。
太平洋戦争後に、栽培が禁止されてしまったからである。
瓦屋根の立派な家屋が多かったのは、元城下町にして宿場町であっただけではなく、当時の栃木は、県庁所在地だったためであろう。
因みに、この6年後の1884(明治17)年、三島県令(薩摩閥)によって、宇都宮に県庁が移されて現在に至っている。

私も、さっそくに自転車を組み立てて、栃木の街中を走ってみることにした。

川筋の道へ出てみようとしばらく北西に走ると、すぐに例幣使街道が現れた。

IMG_4902.jpg
(例幣使街道の道標・栃木)

朝廷からの例幣使たちは、中仙道(東山道)から、ここ栃木宿を経由して、日光に北上した。
江戸期の朝廷は、貧乏大名のようなものだった上に、さらに幕府から「例幣使」という、いわば参勤交代のような義務(出費)を課されていたので、250年の間にすっかり根性がひねくれてしまい、大分ヘソを曲げていたようで、面当てに宿場宿場で、問屋関係者から金品をせびるなどの狼藉行為を働いてまわったというので、民衆からは相当嫌われていたようである。

例幣使街道とほぼ平行して北上する巴波(うずま)川に沿って走ってみる。
「蔵の街」栃木の名に恥じない素晴らしい遊歩道を遡る。

IMG_4904.jpg
(蔵の街・栃木)

イザベラが、栃木には瓦屋根が多いと記述したのは、もしかしたら、こうした蔵の並び立つ街並みだったのかもしれない。

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(巴波川を泳ぐ鯉のぼりたち)

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(川沿いの家並み)

イザベラが栃木宿で泊まった宿名などは不明であるが、おそらく現在の万町か倭町のあたりらしい(釜澤克彦『イザベラ・バードを歩く』彩流社を参照)ので、その辺りに行ってみる。

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(かつての宿場の中心地だったと思われる万町の交差点の交番・交番も蔵造りである)

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(倭町付近)

栃木には、資料館などの施設もたくさんあったようだが、なにしろまだ朝が早いので、どこも開いていないので、例幣使街道を北上することにする。

ここからのルートは、ほぼ昔の旧道に相当する県道3号→国道293号→国道121号を北上することになる。

県道3号線は、まあ走りやすい道であるが、交通量がもっと多かったら厳しかったかもしない。

イザベラも通ったであろう合戦場・金崎・鹿沼の街を通り抜けて、私は、一路日光を目指した。

IMG_4915.jpg
(例幣使街道沿いの古民家)

北関東自動車道をくぐったあたりから、遠く日光の山並みが見えてくる。
また、このあたりでは、いつも私が走っている千葉の北総地域などとはちがって、5月の連休になっても、まだ田圃に水が入れられてない。
入れられてないどころか、どこもここも、青々とした麦畑が薫風に波打っている。
このあたりでは、6月に麦を収穫した後に田圃にして水を引いて田植えをするという昔ながらの「順番」が生きている。
こうして生産された小麦が、佐野ラーメンになり、宇都宮餃子になるわけである。

ここ栃木県では、イザベラが旅したころから小麦の生産が盛んだったことが分かる。
彼女は、6月初旬に古河あたりで利根川を渡って、現在は谷中湖の水底になってしまった道を辿って北上するのだが、その変化についても鋭く観察している。

利根川ないしは渡良瀬川を渡ると、「田んぼは少なくなり、木立、家屋、納屋は大きくなって、遠くには高い山々がかすみのなかにぼんやりとそびえています。こちらでは小麦はパンではなく麺をつくるのですが、その小麦は多くがすでに[東京方面に]運搬されています」(同書上巻131頁)。
イザベラは、また、道筋の村で小麦の刈り取りや脱穀の模様を詳しく観察している(同書上巻131ー2頁)・・・。

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(途中の橋から見えた男体山)

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(小倉橋・国道293号)

小倉橋からの思川の眺めが素晴らしい。
この橋からも、冠雪の男体山を眺めることができる。

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(小倉橋から遠く男体山を望む)

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(行方も知らぬ恋の道かな・・・というかの如く奔放に流れる思川)

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(街道筋に並んだ江戸時代の墓碑)

国道293号(例幣使街道)は、楡木宿の「追分」で、奥州街道から分岐した「日光西街道」(国道352号)と合流していよいよ交通量が増してくる。

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(国道293号はだんだんクルマが込んできて、走りにくくなってくる。楡木宿付近)

そして、楡木の先の樅山(もみやま)あたりで、最初の杉並木の「残滓」と出会うことになる。
「残滓」というのは、イザベラがこの街道を辿ったころには、このあたりからずっと杉並木が存在していたのであるが、その後、枯死したり伐採されたりして、今は当時の半分ぐらいしか残っていないというわけである。

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(樅山あたりからちらほらと杉並木が現れ始める)

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(杉並木の「残滓」)

御成橋で黒川を渡ると、もうこのあたりから、日光へ続く長い登り坂が始まる。
御成橋から日光までの国道121号は、距離にして約25キロで、ずうっと登り坂であるが、宇都宮から入って日光街道(国道119号)を辿っても同じことで、こちらは30キロ以上の登り坂が間断なく続く。
つまりは、日光に参るには、どこから入っても、「登る」ことは避けられない。

このあたりのイザベラの記述を拾ってみよう。

「道がやや上り坂になり、車夫は疲れて速く走れなくなっていましたが、わたしたちは30マイル[約48キロ]([栃木宿から今市までのことか])を9時間で踏破しました。車夫がわたしに対しても、また車夫同士でも親切で礼儀正しいおかげで、つねに気持ちよく過ごせました。笠とふんどししかつけていない男たちが丁重に挨拶し合うのを見るのはたいへん愉快なものです。ことばをかわし合うときはきまって笠を脱ぎ、また必ず三度深くお辞儀をするのです」(同書上巻134頁)。

当時の車夫の超人的なパワーを物語る記録である。
100キロ以上の荷(人間+車重)を引いて、9時間(食事や休憩時間込み)で、あの坂道を走破するとはまことに驚くべきことである。
また、イザベラは、車夫や馬子たちの礼儀正しさ(乃至は親切なこと)については、旅行記の随所で触れていて、車夫たちがお別れの際に山から花を摘んできてくれたという微笑ましいエピソードや、イギリスの馬丁とは違って、法外なチップを要求するようなことが一切なかったことなどを記している。

杉並木の威容についても、ずいぶん紙面を割いているイザベラであるが、少しだけでもここに引用したくなる。

「二本の街道が日光に通じています。わたしは一般的な宇都宮経由の道[現・国道119号]を避けたので、奥州街道という幹線道路に沿ってほぼ55マイル[約88.5キロ]続く、立派なほうの並木道は見られませんでした。わたしのとった例幣使街道に沿った並木道は30マイル[約48キロ]続き、この2本の並木道はしょっちゅう村で途切れながら、日光から8マイルの今市の村で合流し、日光の町の入口ではじめて終点となります。・・・並木としてもおそらく最高のものです。例幣使街道の並木道は良好な馬車道で、高さ8フィート[約2.4メートル]の傾斜した盛土がついており、草や羊歯が生えています。この盛土の上にあるのが杉で、それに草の生えた2本の歩道があり、歩道と耕作地のあいだに若木と下生えの目隠しがあります。杉の大半が地面から4フィートの高さで二股に分かれています。幹の多くは周囲が27フィート[約8.2メートル]あり、50から70フィート[約15~18メートル]の高さに達するまで細くなることも枝分かれすることもありません。非常に高くそびえて見えるのは、赤みがかった色の樹皮が約2インチ[約5センチ]の幅で縦に細長く割れているせいでもあります。・・・このみごとな並木は葉陰も大きくて木漏れ日が躍り、まれに高い山々が垣間見られるので、非常に荘厳な感じがします。これをたどって行けば、ここと同じように壮麗ななにか出会えるはずだと直感でわかるのです」(同書上巻137頁)。

この約130年前にイザベラによって書かれた日光の杉並木の記述は、現在は並木の大半が失われてしまって、その長さこそ短くなってしまったものの、現在でも完全に当てはまる描写である。
また、イザベラの記述の特長として、物のサイズが克明に記されているのも、このくだりからも分かるのだが、しかしながら、何というか、技師的な数量描写ではなくて、まるで風景を「触知」して測っているような文体で、けっして「うるさく」感じないのが不思議である。
このような文体は、もしかしたら、19世紀の小説を読んで鍛えたものではなくて、たとえば、ハドソンの『ラプラタの博物学者』(岩波文庫)のような、活写する文体に近いような気がする。
ともあれ、「これをたどって行けば、ここと同じように壮麗ななにか出会えるはずだと直感でわかる」という一文は、この杉並木が壮大な「参道」を成していることを見事に描破すると同時に、まるで、俳句の発想に近いある種の「洞察」をさえ感じとることができる。

IMG_4925.jpg
(御成橋。この橋を渡ると、国道293号から国道121号線に入り、日光への「入口」感を覚える)

御成橋を渡って、国道121号線に入ると、残っている杉並木がだんだんと多くなってくる。

IMG_4926.jpg
(だんだん多くなってくる杉並木)

以下、しばらく、杉並木の変化を写真を手がかりに追いかけてみよう。

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(杉並木は、西側の方がよく残っている。しかし、後から植えられた楡や桜の樹も多い。この写真の場所では、東側の杉はもはや存在せずに、「盛土」だけが残存している。なお、西側の歩道は、細いながら舗装されていて、自転車で走ることができる)

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(杉並木ではなく、桜並木になってしまっている場所)

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(そしてだんだんと杉並木が増えてくる)

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(まだ、舗装された歩道が続くが、杉の葉がたくさん落ちている)

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(杉並木についての石碑と説明板)

IMG_4934.jpg
(そして本格的な杉並木が始まる)

本格的な杉並木が始まるとすぐに、舗装された歩道は消滅して、未舗装になってしまい、マウンテンバイクでも走りにくいような道になるので、本道の杉並木を走らざるをえなくなる。
しかし、幹線道路なので、交通量が多いばかりか、両側に盛土があるので逃げ場がなくて、歩道のない橋を渡るのと同じくらい走りにくい。
しかも、今市の手前からは坂が急になって、34×25tを使わないと登れないような坂も稀にある。

IMG_4936.jpg
(路肩が狭いので、どうしても、クルマに煽られながら走ることになり疲れる)

IMG_4938.jpg
(たぶん、イザベラがこの道を通ったときからここにあるであろう杉の巨木)

IMG_4939.jpg
(路肩に休憩スペースがないので、盛り土に上がって一休み)

やっとのことで今市で国道119号(日光街道)と合流。
しかし、ここから日光までは大渋滞で、路肩のどぶ板走行を強いられる区間も。
それでも、今市から日光までの杉並木道は、未舗装ないしは石畳ではあるが、遊歩道として整備されている区間もあるので、国道がクルマで渋滞すると、杉並木に逃げ込んでのんびり走ったりする。

IMG_4945.jpg
(未舗装の杉並木道。こちらはクルマは通行禁止なのでのんびりと走れるが、スピードは出せない)

杉並木が終われば日光に到着することを知っていたので、走りにくいこの杉並木が早く終わってくれないかと願いながら走っていると、何というか、唐突に杉並木は終了して、あたりがぱっと明るくなったと思いきや、日光に到着していた。

IMG_4946.jpg
(昼前に日光に到着)

宇都宮経由で日光に向かっている「本隊」の動向が気になったが、どの辺りまで来ているか分からないので、取りあえず、国道119号線をさらに登って、「神橋(しんきょう)」まできて一休み。
日光から東照宮までの道も大渋滞で、しかも、暴走族同士の小競り合いまで発生して、日光の静寂を楽しむどころではなかった。

IMG_4947.jpg
(神橋)

明治神橋
(参考までに、明治時代に撮影された神橋)

騒然たる東照宮の前を後にして、さらに5キロほど坂を登って、やっと「いろは坂」の登り口の「馬返し」に到着した(この「馬返し」までの上りがきつかった!)。

IMG_4956.jpg
(東照宮の先の日光街道の坂)

クルマが渋滞して路肩が狭い上に、その路肩は、バイクの集団が轟音を轟かせて登って行く。
これを見て、体力的にも時間的にも、今回は、「いろは坂」登坂を断念する。
「いろは坂」は、一通なので、途中で引っ返すことができないのも、断念した理由である。
いずれ、オフシーズンのウィークデイなどに挑んでみよう。
(「馬返し」の写真なし。間違って動画モードで撮影してしまったため、ぐちゃぐちゃの映像になってしまった)。

私は、坂を下って、イザベラ・バードが泊まった宿を捜すことにしたが、腹が減っていることを思い出して、地元の人が行くような大衆食堂で生姜焼き定食を食べる。
その店の女将さんに「金谷ホテル創業の地」はどのあたりにあるのかを尋ねると、国道119号線沿いであるという。
ということは、既に、先ほど坂を登ったときにその前を通り過ぎてしまっていたのだが、聞けば、木々に被われていて見えにくいという。

ブレーキを引きながら、ゆっくりと下って行くと、それらしき場所が見つかったので自転車を止めて歩道に上がった。

IMG_4957.jpg
(「金谷ホテル創業の地」。「この屋敷は寛永年間(1641頃)に当時の武家の住まいとして建てられたものです。明治の初期, ヘボン式ローマ字の制定で有名な J.ヘボン博士をお泊めしたのを端緒として, 金谷家はこの住まいを外国人の宿泊に提供することとし, KANAYA COTTAGE INN と名づけて明治6年(1873)から25年(1891)までここに多数の外国人をお泊めしました。これが金谷ホテルの創業であります」と書かれている)

1878年の6月中旬、イザベラ・バードは、日光に9泊ほどしている。
6月21日の妹宛の手紙の書き出し(そもそも『日本未踏地紀行』そのものが妹への手紙から成っている)では、「これで日光に来て九日になるのですから、『けっこう!』ということばを使う資格はできたでしょう」という冗談が出てくるほど、日光には馴染んでいたようである(同書上巻145頁)。

イザベラの日光滞在を一層快適なものにしたのは、現在も「金谷ホテル創業の地」として残っている金谷善一郎の私邸に宿泊できたことも大きい。

「この家のことはどう書けばいいのかわかりません。まさに日本の牧歌的生活がここにはあります。家の内外ともに目を喜ばせないものはなにひとつありません・・・」(同書上巻141頁)。

イザベラは、この家の様子をかなり詳しく記している(同書上巻141-4頁)が、長くなるので、ここでは引用することは止める。

ただ、旅の各地で彼女自身が残したスケッチの中に、金谷邸のものがあるので、ここに載せておこう。

金谷邸
(イザベラの描いた金谷邸のスケッチ)

そして私も、イザベラの絵と同じアングルで写真を撮影してみた。

IMG_4950.jpg
(旧金谷邸)

細部は、やや違っているが、130年前に彼女が泊まった金谷邸のままであると言えよう。

IMG_4951.jpg
(旧金谷邸)

IMG_4953.jpg
(旧金谷邸の側から前を通る日光街道を見る)

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(旧金谷邸前庭の池)

IMG_4955.jpg
(旧金谷邸の表札・「金谷侍屋敷 SAMURAI HOUSE」とある)

イザベラが、この屋敷について「家の内外ともに目を喜ばせないものはなにひとつない」(141頁)と書いているように、実に簡素な落ち着きと静かな美しさをもった建物である。

さて、宇都宮方面から日光に向かっている「本隊」の動向が気になるところだったが、いずれにせよ、17時に宇都宮駅で合流することになっているので、そろそろ日光を後にして、宇都宮に向かうべく国道119号(日光街道)を降り始めることにする。
日光から宇都宮までは、約30キロあるが、ほぼずうっと杉並木ないしは杉のあとに他の樹を植えた並木道になっており、しかも降り坂である。
クルマの交通量は多いものの、かなりのスピードで宇都宮の町にたどり着く。

街中の橋の上で、たすけさんたちの「宇都宮別働隊」と合流。
さらにその後、流山から約180キロを走破したえいじさんたちの「本隊」とも合流。
橋の上で、みんなで計画の成就を祝う。

IMG_4958.jpg
(本隊も合流)

こうして、われわれは、駅前の餃子専門店で打ち上げをして、輪行で帰途に着く。

IMG_4961.jpg
(宇都宮餃子)

IMG_4963.jpg
(宇都宮線車輌内の輪行袋)

イザベラ・バードの道程を辿る旅はまだまだ続くが、日光編はこれにて了とする。

(走行距離:124キロ)

テーマ:関東地域情報(東京 神奈川 埼玉 千葉 茨城 栃木 群馬 山梨) - ジャンル:地域情報
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Comment
Posted by imba_potter
早速はしられたんですね。実走レポートも楽しみです。5月2日の浅草東武線・・・、自分は8時発の特急で南会津を目指してました。ヒョットして、同じ電車だったんでしょうか?倉の街栃木、バードの事を考えつつ通過しました。
2010.05.06 Thu 05:42 URL [ Edit ]
書き込み、ありがとうございます Posted by 断腸亭髭爺
imba_potterさん

書き込み、ありがとうございます。

そうですか、東武浅草駅から輪行だったんですね。
私は、5時代の列車だったので、同じ列車ではありません。
日光から会津西街道を抜けるルート、この夏、是非、走ってみたいです(坂が厳しそう)。

栃木の街は、大変美しくて、次は、半日ぐらいかけて廻ってみたいものです。

イザベラの辿った道を私も走ってみたい。
今は、そのことで一杯です。
2010.05.07 Fri 06:07 URL [ Edit ]
正に鉄人。 Posted by しゃあ あずなぶる
124キロって凄いですね。

金谷ホテル。いつか泊まってみたいな。
2010.05.11 Tue 06:16 URL [ Edit ]
大したことはありません Posted by 断腸亭髭爺
しゃあさん

この日の私の走行距離は、大したことはありません。
本隊の人たちは、180キロ以上走っていると思います。

金谷ホテルは、すごく高いようですね。
私は、キャンプ場の方がいいかな・・・。
2010.05.11 Tue 16:37 URL [ Edit ]
なるほど! Posted by やまびこ
例弊使街道を検索していたらここに着きました^0^/

前に読んだはずなのに忘れていたみたい。
写真見ながら、あら、ここもここも!と呟いてます。
実際に自分が辿ってみてから読ませていただくと、描写された景色や道の由来、地霊の蠢きのようなものが、ことさらに心に響くようです。

イザベラさんの本、購入してみます。



2011.12.28 Wed 13:13 URL [ Edit ]
「ねばり強い」旅 Posted by 断腸亭
やまびこさん

よくぞ辿り着いてくれました。

イザベラ・バードの本は、講談社版がお勧めです。
平凡社版は、全訳ではないから。

こういう「ねばり強い」旅のできる人は、現代では少ないのではないでしょうか。
2011.12.28 Wed 21:59 URL [ Edit ]

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