日々の身辺雑記や考えたことなどを徒然なるままに書き連ねる「断腸亭日録」です。
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断腸亭日録~自転車日記
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2010.03.10 Wed
東京大空襲の記憶~焦土と化した下町
65年前の今日、東京の街は、人類史上未曾有の地獄絵図と化していた。

太平洋上から日本列島を斜めに横切るようにして、米軍の大型爆撃機B29の大編隊が、午前零時過ぎ、東京上空に飛来。
女性と子供と老人ばかりの住む城東の下町に38万1300発(1783トン)の焼夷弾(カタカナ語で言うところの「ナパーム弾」)を投下した。
寝込みを襲われた住民はたまったものではなかった。
およそ2時間たらずの爆撃で10万人以上の命が奪われ、約100万人の罹災者を出すことになった・・・。

東京大空襲・戦災資料センター」(江東区北砂)には、前から行ってみたかった。
このセンターの偉いところは、被災者の遺族や有志の募金を原資に民間民営で運営されていることだ。
また、戦没者を弔う場所としても、有名な「千鳥ケ淵戦没者墓苑」や「東京都慰霊堂」と並んで、東京都民(ひいては日本人)にとっては極めて重要な施設だと思う。
今日初めて訪れる自分をやや恥ずかしく感じる・・・。

雨続きの後で、道中水溜まりが多いことを予想して、泥よけ付のルイガノクロスで出かけた。
いつもの通勤ルートで四ツ木橋→荒川サイクリングロード→小名木川筋→「東京大空襲・戦災資料センター」。

IMG_4408.jpg
(荒川右岸土手にて)

IMG_4409.jpg
(小名木川・江戸時代は、銚子から日本橋の魚河岸に鮮魚を運ぶためにこの川が利用された)

小名木川の川筋で、道が分からなくなって、地図を見ていると、自転車(スリックタイヤを履かせたマウンテンバイク)に乗ってきた70才ぐらいのオジサンに声をかけられた。

そのオジサン、私に道を聞いてきたのだ。
「あのぉ~、ご存知かどうか分かりませんが、このあたりに戦災資料センターという所があるはずなんですが、ご存知でしょうか?」という。
「ええっ!、私も今、ちょうどそこに行こうと思って地図を見ていたところなんですよ!・・・世の中には、同じことを考える人がいるもんですなあ」と私。

連れだって走りながら、そのオジサンと話をする。
柴又から走ってきたそうだ。
65年前の大空襲の翌朝に、自転車で柴又から砂町に来てみて、その惨状に驚いたという。
年齢は聞いていないが、と言うことは、現在、75才ぐらいだろうか。
真っ黒に日焼けして、いかにも毎日自転車で走っている軽快な走り方である。
二人して、あちこちで道を尋ねながら、やっと到着。

IMG_4410.jpg
(「東京大空襲・戦災資料センター」の入口)

東京大空襲・戦災資料センター」では、65周年ということで、ハープの演奏会が催されていた。
そのハープ奏者の方も、お父様が東京大空襲を経験されたのだという。
演奏後、譜面立てにお父様の遺影が置かれているのを発見して、思わず胸がつまる。

IMG_4411.jpg
(譜面立ての遺影)

関東大震災時に虐殺された朝鮮人を弔った時もそうだったが、「東京大空襲・戦災資料センター」の展示資料を見ながら、私は、胸が苦しくなって、居たたまれない気持ちになった。
怒りと同情と悲しみがどんどん押し寄せてきて見続けることができなくなってしまい、一端、館の外に出て深呼吸をする。

IMG_4413.jpg
(「みんな死んじゃった みんなもえちゃった」と言って泣く少女の絵)

IMG_4412.jpg
(大空襲の記録を残こす努力を惜しまなかった館長早乙女勝元氏の写真)

IMG_4415.jpg
(現在の江東・墨田・台東区のほとんどすべての公園や空き地が仮埋葬所となった)

IMG_4416.jpg
(言問橋・橋上に人が殺到。荷物に引火して熱さに耐えきれずに隅田川に飛び込んだ人のほとんどが溺死した)

IMG_4414.jpg
(東京大空襲の被爆地図・東京はほとんど焼け野原になった)

IMG_4421.jpg
(被災後は、至る所に黒こげになった遺体の山)

そして、このような無差別大量殺戮を可能にした爆弾が、この焼夷弾である。

IMG_4420.jpg
(焼夷弾)

直径50センチぐらいの大きな筒の中には、直径10センチぐらいの小さな筒が格納されていて、空中でこれらがばらけて、屋根瓦を突き破って爆発する。
この焼夷弾こそ、日本の木造住宅を焼き尽くすために開発された殺戮兵器で、後に、アジア人をより「効率的に」殺戮するために、朝鮮戦争やベトナム戦争でさらに発展することになった。

そして、この東京大空襲の発案者にして総司令官だったのが、カーチス・エマーソン・ルメイ空軍少将(当時)であった。
まさに戦略爆撃のプロで、ベトナム戦争でも夥しいアジア人を殺戮した(「ベトナムを石器時代に戻してやる」という、後に映画『地獄の黙示録』のキルゴア大佐に言わしめた有名な台詞は、そもそもルメイが言った言葉である)。
たぶん、20世紀で一番多くの人間を殺した人物で、この人物を前にしては、かのヒットラーすら幼稚に見えるほどの殺人鬼ぶりである。

しかも、何と驚くべきことに、1964年、日本政府よりルメイにたいして勲一等旭日大綬章が授与された。
これはこれで、この種の勲章の胡散臭さを示す事例でもある。

1945年3月10日未明。
およそ2時間に渡る空爆をたっぷり「楽しんだ」米軍が去ったあとには、人々の希望を打ち砕くような焦土と化した東京の街が広がっていた。
たった2時間でこんなに多くの人々を殺したのは、たぶん、人類史上初めてだったに違いない。

展示を見終わって、私はまた、小名木川沿いに荒川に出た。
どうしても、そのまままっすぐに帰る気がしなくて、わざわざ大回りをして帰ることに。
荒川河口では、真っ赤な夕陽が沈むところだった。
私はふと、その夕陽の中に、あの日の業火を見たような気がした。

IMG_4424.jpg
(荒川河口の夕陽)

*台湾旅行の記録は、明日以降、3月9日の日記に書く予定。

走行距離:60キロ(ルイガノクロス)

テーマ:関東地域情報(東京 神奈川 埼玉 千葉 茨城 栃木 群馬 山梨) - ジャンル:地域情報
小さな旅(自転車)    Comment(10)   TrackBack(0)   Top↑

Comment
Deep Sorrow Posted by kaccin
私の母は、この空襲のとき下町に住んでいて必死の逃避行を行い何とか生き延びたそうです。その母に連れられて小学生のときに、この一帯を見に行き、この手の展示施設(震災センターだったかもしれませんが)を見学しながら泣きじゃくってしまったこと思い出しました。1昨年見学した広島でも、私も息苦しくなり1回外へ出てしまいました。同行のマレーシア人も涙が止まらなくなってしまいました。陽気な米国人、特に大統領に日本のこれらの施設見てもらいたいと思います。 あと、勲章の話知りませんでした、許すマジ!
2010.03.13 Sat 09:32 URL [ Edit ]
辛い辛い Posted by 相子
あの夜100㌔離れていた千葉県館山から見えた東京は大きな赤い塊が空を覆い、火の粉が舞い上がっているように見えました。8月はもう毎日B29が編隊で東京湾を北上して行きます。
11日の午後に被災者が館山駅にやっと辿り着きました。防空頭巾は焼け焦げ、衣服は着ていると言うだけ。何でと何時も思いだします。日本政府はこの敗戦濃きこの時期は未だ犠牲の大きさを考えず、8月の広島、長崎への原爆投下までぐずぐずしていたのですね。
2010.03.13 Sat 21:12 URL [ Edit ]
智恵持つ愚か者 Posted by しゃあ あずなぶる
東京大空襲は、人種差別そのものだと思います。

どうしたら、より多くの苦痛を与えられるか、智恵の限りを尽くして開発された兵器。
その運用もまた、効率を求める。智恵を絞って・・・手際よく。
文明って本当に進化してるのかな?
2010.03.14 Sun 05:51 URL [ Edit ]
大変だったでしょうね Posted by 断腸亭髭爺
kaccinさん

お母様も大変だったでしょうね。

私の母も、戦時中、砂町に住んでいましたが、東京への空爆が始まってまもなく銚子に移住したため助かりました。
砂町にそのまま暮らしていたら、現在の私は存在しなかったかもしれません。

「東京大空襲・戦災資料センター」が創設されたのは2002年ですので、たぶん、行かれたのは墨田区あたりの施設だったのではないかと推測できます。

実はまだ、広島の原爆記念館には行っておりません。
一度は行かなければと思っています。
2010.03.14 Sun 06:31 URL [ Edit ]
何とも無惨な Posted by 断腸亭髭爺
相子さん

当時銚子からも、深夜だというのに、西の空が夕焼けのように見えたそうです。

この3月10日の空爆から、米軍は、作戦を変えて、低空飛行による爆撃を開始したそうです。
月島の高射砲は、約1万メートルに照準を合わせていたので、編隊のはるか上空で虚しく炸裂するのみだったそうです。
また、陸軍参謀部は、この夜、「混乱を避けるため」空襲警報の発令を躊躇したため、逃げ遅れた市民も多かったことでしょう(連合軍による航空ビラでは、爆撃が予告されていたそうです)。

それにしても、この東京大空襲の時点で降伏していれば、この後の大阪などへの大都市への空爆も、沖縄戦も、広島も、長崎も回避できたことになり、約100万人ぐらいの人々が助かったことでしょう。

何とも無惨なことです。
2010.03.14 Sun 06:48 URL [ Edit ]
空飛ぶ死神 Posted by 断腸亭髭爺
しゃあさん

確かに人種差別的な側面もなかったとは言えませんが、必ずしもそうとは言えない反証的な事実もあります。

それは45年2月のドレスデン大空襲で、英米軍は、ドイツ人に対してもほぼ同規模の爆撃を行っているからです。

因みに、無差別テロ的な空爆を最初に行ったのは、ピカソの絵でも有名なドイツ軍によるゲルニカ空襲(37年)です。
その後、1939年以降、日本軍も、重慶に対して相当大規模な無差別爆撃を行いました。

これらを戦略的なヒントにして、米軍の作戦ができあがっていったものと思われます。

戦後の米軍は、空飛ぶ死神として世界覇権を握ることになります。
2010.03.14 Sun 06:58 URL [ Edit ]
知りませんでした。 Posted by しゃあ あずなぶる
以前、英国の哲学者の書いた「東京大空襲と原爆は本当に必要だったか」なんて本を読みました。
それによると、米軍はヨーロッパでは危険を冒して、昼間に軍事施設を標的して爆撃を行ったそうです。
何故、日本に対しては夜間、無差別に爆撃したのでしょう。
断腸さんの書いたとおり、殺戮を「楽しんだ」のだと思います。

そういえば昔、爺さんが「地獄は人間が造るものだ」って言ってたなぁ。
やっぱり体験すると、そう思うのかな。
2010.03.16 Tue 15:20 URL [ Edit ]
人間は動物以下ですね Posted by 断腸亭髭爺
しゃあさん

もしかして、バートランド・ラッセルの本かな・・・?

ドレスデン大空襲も、夜間攻撃でした。
レーダー等の発達によって、夜間でも空爆できるようになったのだと思います。

確かに、人間がいなければ地獄はないと思います。
そういう意味では、人間は動物以下ですね。
2010.03.17 Wed 00:27 URL [ Edit ]
戦災焼失区域表示 帝都近傍図 Posted by tko_bbq
「戦災焼失区域表示 帝都近傍図」は、日文研のサイトで見ることが出来ます。
http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/images/1815885-o.html
で、こちらが戦災復興の都市計画図
http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/images/1815893.html
100米道路、60米道路、、、
焼失区域と緑地計画を重ね合わせて描いてあるのが、痛々しいです。
2010.03.17 Wed 02:02 URL [ Edit ]
「きれいに焼き払って」くれたもんです Posted by 断腸亭髭爺
tko_bbqさん

ご無沙汰しております。

それにしても、「きれいに焼き払って」くれたもんですねえ。
葛飾区は、ほとんど戦禍を被っておりませんが、立石近辺は空爆されていますね。

都市計画図の100メーター道路は、その後、一つも実現しなかったようですね。
全部、首都高になってしまったようです。

戦災にあった地区は、今では、まがいなりにも道が碁盤状になっています。
2010.03.17 Wed 09:35 URL [ Edit ]

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