日々の身辺雑記や考えたことなどを徒然なるままに書き連ねる「断腸亭日録」です。
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断腸亭日録~自転車日記
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2009.10.12 Mon
祖父のことなど
銚子に進駐した米占領軍の司令部が、ヤマサ醤油の社屋に置かれたということは、昨日の「日記」にも書いたが、戦時中、東京から疎開してきた母方の祖父は、戦禍をかいくぐり、戦後も銚子にそのまま住み着き、ヤマサ醤油に勤めていた。

この母方の祖父は、香川県の農家の次男坊として生まれたので、当時のしきたりとして、長男以外は土地がもらえず、結婚して東京に上京。
現在の中野で、大工、自転車屋、ラーメン屋など様々な商売をした後、空襲が激しくなってきてので、一家揃って銚子に疎開したものの、昨日も書いたように、疎開先の銚子でも激しい空爆にあったわけである。

母方の祖母も、香川の同じ地域の出身で、高等学校を出た後、祖父と結婚し、当然、同じ道程を歩んで銚子にやってきた。
祖母については、今は詳しく書かないが、庭の防空壕を直撃した焼夷弾を素手で撤去し、一家の蒲団を救ったという勇壮なエピソードのある端倪すべからざる明治女であった。

さて、占領軍が接収したヤマサ醤油に勤めていた祖父は、生来好奇心の強い性格ゆえか、米兵たちとかなり親しく付き合ったようである。
会社から戻るときは、米軍の缶詰や珍しい品々を持って帰ってきたそうだ。

私が幼い頃の祖父は、大変に厳しい人で、ご飯の時は正座、お茶碗のお米を一粒でも残すと叱られた。
でも、それ以外の時は、同年代の兄貴のように私と接してくれて、祖父と一緒に小屋を拵えたり、おもちゃの船や鳥籠を一緒に拵えたことは、つい最近まで忘れていたが、大切な思い出である。

祖父は、晩年、にわかに「柔らかい」人間になって、お酒を飲むと、高校生の私を隣に座らせ、昔の話をしてくれたものだ。

「あのな、あいつら(米兵)の便所は、小便用と大便用が別なんだよ。よく別々にできると思ったもんだ・・・」。

「村から日露戦争に出征する兵隊たちを見送った時、まだ子どもだったんだが、『お~い、露助をやっつけてこいよ~っ』て大声で叫んでなぁ・・・」。

他愛のない、しかも、繰り返しの話が多かったが、そこから、芋蔓式に、戦前戦中の話が出てきて、今となっては、もっとよく聞いておけばよかったと悔やまれる。

私が、高校を終えて上京をする数日前、祖父に呼ばれたので行ってみると、そこには、一冊の豪勢な辞典が置いてあった。
見てみると、1924年にイギリスで刊行された『技術用語辞典』というもので、占領時代に米軍の将校からもらった記念の品だという。
その辞典の何たるかは、私には判断がつかなかったが、御礼を言っていただいた。

その後、思い立って、その辞典を何回か開いてみた。
ところどころ、赤鉛筆で下線や書き込みがあった。
それは、英語なぞ、ほとんど読めなかったであろう祖父の、何とかその辞典を活用しようと悪戦苦闘した痕跡であった。

私はそこに、明治男のど根性を見たような気がして、姿勢のよかった祖父に習って、思わず身をただしたものである。

走行距離:6キロ(ママチャリ)

思い出    Comment(10)   TrackBack(0)   Top↑

Comment
昭和男のど根性。 Posted by しゃあ あずなぶる
ママチャリで6キロも?大丈夫ですか?
じっとしていられない気持ちは分かりますが・・・。

う~ん。ボクは祖父との思い出って殆ど無いなぁ。
もっと話しておけば良かったです。
2009.10.12 Mon 05:55 URL [ Edit ]
管理人のみ閲覧できます Posted by
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2009.10.12 Mon 08:15 [ Edit ]
煙草盆 Posted by 断腸亭髭爺
しゃあさん

ママチャリ6キロは、たぶん、主婦の全国平均走行距離ぐらいです・・・。

祖父は、本当にお酒の好きな人で、縁側を臨む廊下に籐椅子をおいて、庭を眺めながら晩酌をしていました。

そんな祖父が、「お~い、煙草盆をもってきてくれるかい」と少年の私に言いつけます。

私は、喜んで、祖父のもとに煙草盆を届けたものです。

祖父は、「しんせい」をキセルに入れて、うまそうに吸っていました。
2009.10.12 Mon 21:19 URL [ Edit ]
伝説的なお祖父さん Posted by 断腸亭髭爺
相子さん

なるほど、伝説的なお祖父さんだったんですね。

私の場合、両親とも、銚子の出身ではなかったので、祖父母より前の世代の親戚には会ったこともありませんし、あまり話を聞いたことがなくて残念です。

私も、飯岡の助五郎と知り合いだったことにしようかな・・・。
2009.10.13 Tue 08:21 URL [ Edit ]
懐かしい Posted by アンペイ
米軍司令部がヤマサに有ったとは知らなかった。
当時、唐子町に住んでて小学校は若宮。
線路を越えてヤマサにはよく行った記憶がある。
話は変わるけど、ヤマサの鮮度の一滴は美味い。
2012.06.12 Tue 12:13 URL [ Edit ]
同じ中学校ですね Posted by 断腸亭
アンペイさん

若宮小学校でしたか。
私は興野でしたので、中学校は同じ4中ですね。

唐子には、親戚が住んでいたので、よく遊びに行ったものです。

「線路を越えて」行かれた醤油工場は、ヒゲタ醤油じゃありませんか。
2012.06.13 Wed 10:28 URL [ Edit ]
なんか、嬉しいです Posted by アンペイ
断腸亭さん、返信ありがとうございます。
ヒゲタだったかも知れません。 小学校の社会見学で小さなガラス製のしょう油瓶を いただきました。
中学は4中です。 そこの柔道部でした。
裏門には脚の悪い方の経営する駄菓子屋さんがあり
梅田さんの 煎餅工場があった。
思い出させていただき、ありがとうございます。
2012.06.15 Fri 20:19 URL [ Edit ]
裏門の駄菓子屋 Posted by 断腸亭
アンベイさん

柔道部でしたか。
私は、吹奏楽部でした。

裏門からすぐでた所の駄菓子屋もよく行きました。
二時間目の休み時間に屋上で早弁をしてしまい、昼休みに食べる物がなくて、その駄菓子屋に行ったものです。

醤油工場、今でも見学に行くと、小さな卓上醤油瓶をもらえますよ。
2012.06.17 Sun 08:11 URL [ Edit ]
Posted by アンペイ
高校野球は銚子商業。そして木樽の優勝が印象に 残ってます。
銚子を離れて半世紀近く経つので、もう何もかもが
良い思い出になってます。
ありがとうございました。
2012.06.17 Sun 21:53 URL [ Edit ]
やや先輩のようですね Posted by 断腸亭
アンベイさん

その後、土屋投手の時、全国制覇しましたね。
どうも、私よりやや先輩のようですね。
今後とも、よろしくお願いします。
2012.06.18 Mon 06:53 URL [ Edit ]

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