日々の身辺雑記や考えたことなどを徒然なるままに書き連ねる「断腸亭日録」です。
映画の日々 | エッセイ | 思い出 | 身辺雑記 | 日録 |  | 自転車 |  | 小さな旅(自転車) | 小さな旅 | 旅(自転車) | 未分類 | 自転車文学 | 
ブログ内検索
RSSフィード
リンク
断腸亭日録~自転車日記
≪2017.06  1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31  2017.08≫
プロフィール

higedancho

Author:higedancho
断腸亭髭爺です。
自転車関係の日記が多いです。
よろしく。

最近の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
カテゴリー
FC2カウンター
天気予報

-天気予報コム- -FC2-
ブロとも申請フォーム
フリーエリア
ブロとも一覧
--.--.-- --
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

スポンサー広告    Top↑

2009.10.09 Fri
禁じられざる遊び
禁じられざる遊び

少年の頃の夏の朝、私は、よく近所の子どもたちと自転車で連れだって、利根川河口付近の海辺に出かけていった。
目的は、「棒火薬」というものを拾うためである。

銚子は太平洋に突き出た半島なので、3方を海と川に囲まれているわけだが、その目的地は、家からかなり距離があって、自転車を一生懸命こいでも40分はかかっただろうか。

さて、その棒火薬というのは、敗戦後、米占領軍が、銚子沖に投棄した旧日本軍の砲弾や爆薬が、海底で容器が朽ちて、海流の影響で、特定の砂浜に打ち上げらるようになった固形火薬片のことである。

棒状の、まるで管玉(くだたま)みたいな形をしていたので、こう呼んでいたのだが、薄い板状のものもあった。
大きさも、管玉と同じぐらいか、やや大きいぐらい。
火薬なので、火をつければ勢いよく燃えるわけで、「シュッシュッパ」と呼ぶ者もいた。
砲爆弾の原料火薬である。

この種の火薬は、軽いので、その砂浜に行けば、だいたいは打ち上げられてたが、大嵐の後などは、何と、金属製の弾丸そのものや、薬莢も流れ着いた。
朝になると、それを拾う子どもたちがたくさん集まってきたものだ。
「危険」だなどと、誰も思っていなかったし、親たちも、何も心配していなかったのだから、今の世の中と随分違うものだ。

ちょっと横道にそれるが、米軍の占領時代、銚子沖に投棄された旧日本軍の砲弾弾薬の量は、「イペリット等のガス弾450トン、爆弾・砲弾類 71,550トン、合計72,000トン」というのだから、たぶん、関東地方の弾薬類は、船や列車で全部銚子に集められ、海洋投棄されたのだろう。
因みに、何年か前に、井戸水汚染がきっかけで、旧日本軍の毒ガス弾が地中廃棄されたらしいことが明らかになった茨城県神栖町は、銚子から利根川を渡ると眼と鼻の先である。

さて、その棒火薬を使って、どんなふうに遊んだのか。
たぶん、今の親が聞けば、気を失うほど危険な遊びに興じていたのだ。

まず、拾ってきた火薬を新聞紙の上に並べて、よく乾かす。
棒火薬を小さく折ったり砕いたりして、、マニュキアのキャップにぎっしりと詰める。
土や板で発射台を拵えて、着火。
ピューという空気を切り裂く音を立てて、その「ロケット」は勢いよく飛んでいく・・・。
これは、相当なパワーで、板塀などは貫通してしまったのだから、身体に当たれば大変な怪我をすることは間違いないのだが、これまた、誰も危険だなどとは思っていなかった。

だが、これとて、下級生向けの幼稚な遊びで、中学生や高校生は、竹筒を使って「手榴弾」を拵え、地中爆破実験をしたり、もっと高度な遊びとしては、実弾を拵え、モデルガンに装填して、何と、森の中で試射していたのだ。
今のモデルガン(金属製)は銃口が埋まってしまっているが、当時のモデルガンは、鉛製で、銃口も開けられていたので、入手した薬莢を改造して銃弾を作れば、(自動拳銃は難しかったが)リボルバーなら、比較的簡単に改造銃を拵えることができたし、戦争経験のあるオジさんたちも、一緒に面白がって、智恵をかしてくれたものである。
こうして、少年たちによる、集団的な「銃刀法違反」の夏の午後は過ぎていった。

繰り返しになるが、そんな遊びを、誰も危険だなどとは思っていなかったのである。
幸せな時代に、少年時代を過ごせたことを、つくづく感謝したい気持ちである。

ただ、いま、こうして少年時代の危険な遊びのことを書いていて思い出すのは、今のイラク。
米軍が雨霰のように投下した、たとえばクラスター爆弾の不発弾などは、もし僕がイラクの少年だったら、確実に、その種の遊びの格好の材料になったであろう。
子ども、特に少年は、こういう危険なおもちゃが、いつの時代も大好きなものだからだ。

思い出    Comment(6)   TrackBack(0)   Top↑

Comment
わかります、わかります。 Posted by たすけ
飛地山の造成が始まり土崖があらわになった部分に、2B弾や爆竹をばらして、火薬量を多くしたミニダイナマイトで発破ごっこをやっていました。
さすがに、旧軍隊の火薬は使用しませんでしたが(笑)

小学4~5年生になった頃に、折り畳みナイフ(ノコギリ歯との2枚歯)の所持が高学年への仲間入りであり、所持が許された時はすごく嬉しかったですねー。それを持って笹林や雑木林に分け入り、紙鉄砲やパチンコやブーメランも自分たちで作ったものです。

私たちの頃は、里山・雑木林がゲームソフトだったんですねー
2009.10.10 Sat 09:49 URL [ Edit ]
変りましたね Posted by 相子
少年の好奇心は心身の糧。命の大切さは分かりますが、ガキ大将が育たない今、とても気になります。私が子どもの頃、勇ましかった男の子は今でも正義感が強く、頼もしく思えます。今の環境は人を束ねる良きリーダーを育てないような感じがします。
2009.10.10 Sat 09:50 URL [ Edit ]
ギャングエイジ Posted by 断腸亭髭爺
たすけさん

>私たちの頃は、里山・雑木林がゲームソフトだったんですねー

蓋し、名言です。

私も、爆竹で、蛙やらトンボやらを爆殺してました。
水面でも爆発する2B弾というのもやりましたっけ・・・。

当時の少年の遊びは、とどのつまりは、広い意味での「破壊実験」みたいなもので、人間の身体についても、このぐらいで殴れば痛いし、このぐらいで転べば痛くないといったような実験を、毎日毎日やっていたようなものです。

でも、こんなふうにして、物質や身体についての「勘」を養っていったのかもしれません。

玩具版の肥後守(ひごのかみ)にも、ずいぶんお世話になりました。

小学校に上がる前に、祖父から肥後守で鉛筆の削り方を教わったのですが、ナイフを学校に持って行ってはいけなかったので、役に立ちませんでした。

こういう教育の「断絶」が今を作っているのですね。
2009.10.10 Sat 18:11 URL [ Edit ]
失われた教育環境 Posted by 断腸亭髭爺
相子さん

男の子にしろ、女の子にしろ、野山を駆け回って育つのが「理想」ですね。

とは言え、ほんの数十年前までは、そんな状況は「理想」でもなんでもなくて、全国津々浦々に当たり前のように存在した環境だったのですが。

五感での直接的な体験が少なくなると、本来、人間が持っている生きる力がなくなってしまうものでしょうか。
2009.10.10 Sat 18:22 URL [ Edit ]
やっぱりあったんだ Posted by アンペイ
ふと、思い付き棒火薬を検索したら、いやー懐かしい。
少年時代、銚子に住んでいたので灯台の近くで探した。
黒茶色のアイスのホームランバーの棒みたいなやつ。
囓ってみると甘かった。
火薬は甘いのだなと知った。
2012.06.12 Tue 11:53 URL [ Edit ]
ちょっと寂しいです Posted by 断腸亭
アンベイさん

はじめまして。
コメント、ありがとうございます。

棒火薬、ホント、懐かしいですね。

灯台下でも拾えましたか。
私は、いつも川口の方へ行きました。
今は埋め立てられてしまって、浜辺は消滅してしまいました。

ちょっと寂しいです。

2012.06.13 Wed 10:25 URL [ Edit ]

管理者にだけ表示を許可する

Top↑

TrackBack
TrackBackURL
http://danchotei.blog75.fc2.com/tb.php/394-7c307143

Top↑

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。