日々の身辺雑記や考えたことなどを徒然なるままに書き連ねる「断腸亭日録」です。
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断腸亭日録~自転車日記
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2014.12.29 Mon
柳田国男の銚子徒歩旅行~海鹿島異聞
「柳田国男の銚子徒歩旅行~海鹿島異聞」(前篇)

これまでも度々話題にしてきた『利根川図志』(赤松宗旦著・安政年間の1858年刊)だが、その岩波文庫版(1938年刊)を校訂し、解題を付したのは、柳田国男(民俗学者)である。

その柳田国男の筆なる巻頭の「解題」を読むと、『利根川図志』にたいして殊更に深い思い入れがあったことが分かる。
その理由は、著者の赤松宗旦の生地布川(ふかわ)は、国男自身が青少年時代を過ごした地であることに加え、宗旦の祖先も、国男と同じ播州(兵庫県南西部)の出だったからである。

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(『利根川図志』の著者赤松宗旦の旧居跡・茨城県北相馬郡利根町布川)

柳田国男は、その布川(下総国相馬郡布川村で、現在の茨城県北相馬郡利根町布川)と宗旦と自分とのつながりから書き起こしている。

『利根川図志』の著者赤松宗旦翁の一家と、この書の中心となっている下総の布川という町を、私は少年の日からよく知っている。この書が世に公にせられた安政五(1858)年から、ちょうど30年目の明治二〇(1887)年の初秋に、私は遠い播州の生まれ在所から出て来て、この地で医者をはじめた兄の家に3年ばかり世話になった。そうして大いなる好奇心をもって、最初に読んだ本がこの『利根川図志』であった。
(岩波文庫版3頁・新仮名新字体に直し、かっこ内に西暦を付した。以下の引用も同様)

柳田国男にとって、宗旦の『利根川図志』は、現代のわれわれとは違って、決して「古書」ではなく、私自身の同時代的な喩えで言えば、太宰治の『津軽』(1944年)を読むような感覚であったことが分かる。
それほど、柳田国男の世代にとって、幕末(あるいは、江戸時代)は近い時代だったというわけである。

IMG_0457_20141229135431e00.jpg
(少年時代に柳田国男が住んだ布川の家)

布川、そして後に、利根川対岸の布佐(千葉県南相馬郡布佐町・現我孫子市)に住んでいた少年の国男は、『利根川図志』をいわゆる旅行ガイドブックとして読んでいたようである。

此本は余りにも大きいのでポケットに入れて行くことも出来なかったが、その代わりには人々に是をよく読ませて、その記憶を携えてあるいたものである。
(同書14頁)

そして、「解題」の最後の方で、銚子まで利根川づたいに徒歩旅行をしたという、次のような大変興味深い体験を書いている。

思い出すことの一つは、最近亡くなった末弟が十四歳の時、僅かな金をもって夏の盛りに、利根川の堤を二人で下って行った。腹がへってもうあるくのはいやだというのを、あしか島をみせてやるからとすかし励まして、夜路を到頭(とうとう)銚子の浜まで行ってしまった。実は、船賃をのけると一泊の金が無かったからである。
(同書14頁)

「最近亡くなった末弟」というのは、松岡映丘(まつおかえいきゅう・日本画家)のことで、国男がこの「解題」を書く四ヶ月ほど前の1938年3月2日に亡くなっている。
その弟(1881年生まれ)が、「十四歳」の時というのだから、この銚子徒歩旅行は1895(明治28)年前後のことだと推定できる(年齢の数え方によって前後1年ずれるかもしれない)。
国男にとって、死んだ弟の思い出をこの「解題」に、是非とも書き留めておきたかったのかもしれない。

末弟
(後列左が若き日の松岡輝夫(映丘)、後列右が柳田國男、前列右から、松岡鼎、松岡冬樹(鼎の長男)、鈴木博、1897年前後の撮影)

柳田国男の年譜を紐(ひも)解くと、1895年(明治28年)には、布川から布佐に越している

1887年(明治20年) - 兄・鼎(かなえ)が、医院を開いていた茨城県北相馬郡布川村(現・利根町)に移住。
1893年(明治26年) - 兄・鼎の転居に伴い千葉県南相馬郡布佐町(現・我孫子市)に移住。

なので、この銚子徒歩旅行は、布佐が出発点だったに違いない。

そして、最終的には、めでたく銚子の「あしか島」に到着するわけだが、その距離たるや大変なものである。
夏の暑い盛り、国男(たぶん、二十歳)と映丘(十四歳)が、銚子をめざして、ひたすら利根川堤を歩きとおす姿をちょっと想像してみよう。

試しに、布佐から銚子までの道程を経路地図に描いてみた。
仮に現在の国道356号の旧道(いわゆる「銚子道」)を歩いたとして、次のようなルートが考えられる。


(布佐~海鹿島(柳田国男))

距離は、約85キロにもなる。
もちろん、当時の人は、誰でも一日に40キロほどは歩く脚力はもっていたし、人力車引きにしては、何と一日に70キロを移動するというのはざらだったというから、当時としては、さして珍しいことではなかったかもしれないが、現代のわれわれにとっては、気の遠くなるような話である。

歩行速度の平均である時速4~5キロで歩いたとして、休憩なども含めて、たぶん、最低20時間以上はかかったであろう。
ということは、夜明け前に出発し、銚子に到着したのは、どんなに早くても、翌日の朝ということになる。

こんな無茶な旅をしたのも、ひとえに「船賃をのけると一泊の金が無かったから」である。

当時、銚子まで行くには、船に乗って利根川を下るのが普通であったのだが、国男たちは帰りの「船賃」しか持っていなかったので、徒歩旅行の途中一泊することもできず、仮眠を取りながら夜通し歩くという強行軍を敢行するしかなかったというわけである。

さて、銚子に着いてはみたものの、目的とした「あしか島」はどうであったか。

ところがその海鹿(あしか)島には、もう『利根川図志』のような海鹿は上がって居なかった。そうして評判の遠眼鏡(望遠鏡)は割れて居た。是がその獣の皮だという毛の禿げた敷物の上で、梅干と砂糖とだけの朝飯を食べて還って来た。
(同書14頁)

残念ながら、海鹿島には、あしかはいなかったのである。

(続く)
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2014.12.26 Fri
12月23日(火・祝)房州水仙巡りサイクリング~三芳の牛タン~房州蜜柑~房総往還
「12月23日(火・祝)房州水仙巡りサイクリング~三芳の牛タン~房州蜜柑~房総往還」

今年は、これで何回目になるだろうか。
今日もまた、房州サイクリング。
今回は、咲き始めた水仙を見て、房州ミカンを買い出してくるという趣旨。

市川駅から保田駅までは輪行(総武本線~内房線)。

■市川 4番線発 |  総武線快速(千葉行) 23.8km
|  07:13-07:34[21分]
|  1,663円
◇千葉 8番線着・3番線発 [11分待ち]
|  内房線(館山行) 71.3km
|  07:45-09:29[104分]
|   ↓
■保田(千葉)

大まかな経路は以下。

内房線保田駅~保田の水仙ロード~大崩水仙郷(佐久間ダム)~富津館山線(県道88号)~牛タン「蔵」~三芳道の駅(房州蜜柑購入)~房総往還(内陸ルート)~内房線岩井駅近くの中華店で反省会~市川駅まで輪行(途中君津駅で快速に乗り換え)。


(実走経路図)

保田駅から出発。
総勢4名で、全員ロード。
内訳は、クロモリ2、チタン1、カーボン1。

降り立った保田の浜からは、冠雪富士がくっきりと見えた。

IMG_0224_20141225053737e3e.jpg
(保田の浜から望む冠雪富士)

房州の山谷を水仙を求めて、坂道を登ったり下ったり。
雪の降らない房州の坂道は急峻である。
でも、滅多にクルマの来ない曲がりくねった坂は、登っていて楽しかった。

IMG_0242_2014122505373929f.jpg
(水仙ロード沿いの風景)

日本昔話に出てくるような狭隘の谷にひっそりと腰を落ち着ける集落。
そして、棚田。

IMG_0260_201412250537421c7.jpg
(うっとりするような房州の里山)

谷を越え山を越えて空高く流れてゆく
白い一片の雲のように、私は独り悄然としてさまよっていた。
すると、全く突如として、眼の前に花の群れが、
黄金色に輝く夥しい水仙の花の群れが、現れた。
湖の岸辺に沿い、樹々の緑に映え、そよ風に
吹かれながら、ゆらゆらと揺れ動き、踊っていたのだ。

I wandered lonely as a cloud
That floats on high o'er vales and hills,
When all at once I saw a crowd,
A host, of golden daffodils;
Beside the lake, beneath the trees,
Fluttering and dancing in the breeze.


(ワーズワース William Wordsworth 「水仙The Daffodils」より)

英国ロマン派詩人は、このように詠ったが、畦道にそっと咲いている一輪の水仙が私の好みである。
群なして咲く花は、どこか、人工の臭いがするからちょっと苦手。

ところで、房州保田(鋸南)の水仙は、江戸時代から有名であったという。
保田の水仙は、船で江戸に運ばれた。
別名、「雪中花」ともいう。
広重(三代目)も、「安房國水仙花」という絵を描いていて、この絵がまた、保田の水仙を有名ならしめた。

安房国水仙花
(広重(三代目)「安房國水仙花」。遠景には保田の海が見える)

水仙は、意外なことに、そもそもは地中海沿岸の原産で、学名をNarcissus(ナルキッソス)という。

これには、古い謂われがある。

古代ギリシャの話。
ナルキッソスという大変な美青年がいた。
この美青年、これまでにも、美の女神アフロディテ(ヴィーナス)やエコー(森の妖精)の申し出も袖にするぐらいの高慢ちきだったらしい。

そういう素行が、神の怒りに触れたのだろうか。
喉が渇いたナルキッソスは、とある泉に近づいて水を飲もうとする。
その水鏡(みずかがみ)に映った自分の姿に魅了され、接吻をしようとして、誤って泉に落ちて溺死する。
その泉の畔には、ナルキッソスの化身か、美しい水仙が咲いていたという。

周知のように、このナルキッソスの神話から、ナルシシズム(自己偏愛)という言葉ができることになる(フロイト)。
ことほどさように、水仙は、かなり幅広く奥行きのある文化的な含蓄のある花ということになる。

急峻な沢道を下ると海が見える。
台地に暮らした縄文人は、高台の集落から、こんな風景を見ていたのであろうか・・・。

IMG_0247_201412250537400c5.jpg
(山の坂道)

三芳の里の(里見八犬伝伝来の)城跡の麓に、牛タンを食わせる一軒家レストランあり(千葉県南房総市下滝田)。
最近、都会から移住して、ここにレストランを開業したとのこと。
小さな沢の一番奥まった所。
末広がりの沢の風景は、長閑でうっとりとする。

IMG_0280_20141225053743456.jpg
(店の全貌)

この店を開いたご夫妻の心のこもった話を聞きながら、香ばしい牛タン定食を食す。
種も仕掛けもありませんという、素朴な美味しさ。
都会の価値観を拒否するような簡素な味わいである。
素晴らしいことである。
http://tabelog.com/chiba/A1207/A120704/12033513/

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(牛タン定食。麦ご飯+とろろ+牛スープ+自家製キムチ付で、1500円)

道の駅(三芳)で、房州蜜柑を購入。
リュックに詰め込んで、房総往還(内陸ルート平久里川に沿う道)を北上。

IMG_0285_20141225054023c8a.jpg
(房総往還・内陸ルート=新木の根街道)

もしかしたら、明治20年代、若き日の漱石も、この道を逆に辿ったかもしれない。
次回は、江戸期の道と明治以降の道を類推しながら、もっとゆっくりと走ってみよう。

内房線岩井駅近くの中華店(「武平館」)で、いつもにも増して、がっつりと反省会。
夜汽車に乗って帰る。

水仙の「黄金色」と蜜柑の「橙(だいだい)」、そして房州の海の「碧(あお)」が、列車で眠る私の夢で錯綜する。
彩り豊かな房州であると思う。

・ギブさん(市川)のこの日のブログもご参照。
http://blog.livedoor.jp/gibson1798/archives/51791974.html

・Bさん(鎌ヶ谷)のこの日のブログもご参照。
http://blog.livedoor.jp/kyf01405/archives/42568191.html

走行距離:65キロ(VIVALOロード)

テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報
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2014.12.26 Fri
12月26日(金)自転車散歩~ハンスホールベック~布施弁天
12月26日(金)自転車散歩~ハンスホールベック~布施弁天

守谷(茨城県)に住む娘(と孫)と食事をするために出かける。
北西からの強い風にて難渋せり。

店は、もちろん、「ハンスホールベック」(茨城県守谷市けやき台)。
ジャーマンステーキの定食を食べる。
ウマい、本当に、ウマいと言いながら、がつがつと食べる。
http://tabelog.com/ibaraki/A0803/A080301/8000944/

帰路は追い風気味にて、橋の上では、漕いでもいないのに、時速26キロにもなってしまう。
ただ、逆に、往きは、大変だった。
立ち漕ぎをしなくては進まないぐらい。

久しぶりに、布施弁天(9世紀初頭創建・千葉県柏市)に立ち寄る。
江戸期ぐらいには、利根川が直下まで迫っていたはずだが、その江戸期の記録(『利根川図志』)には、「古(いにしえ)は湖中の島」であったとある。
たぶん、中世ぐらいまでは、島だったに違いない。

「大同二年七月七日の朝、湖上に紅龍現れ、一の塊(つちくれ)を捧げて島を作」ったのがその始まりと言うが、その後、平将門に焼かれるが再興。

「此処は関東三弁天の一にして、諸人群集し、戸頭の渡舟を望み、曙山の桜楓を眺めて、頗(すこぶ)る勝景と称するに足れり」(以上、岩波文庫版『利根川図志』の110~111頁)とある。

関東三弁天。
あとの二つは、不忍池の弁天堂と、江ノ島の弁天様。

「戸頭(とがしら)」というのは、利根川の対岸の地名(茨城県)。
現在の新大利根橋は、この戸頭の渡しのあった場所に架けられていることになる。

「曙山(あけぼのやま)の桜楓(おうふう)」は今も変わらず、花の種類は多少違えども、四季折々の花々(ヒマワリ、コスモス、チューリップなど)の名所として「勝景と称するに足れり」というのは、その伝統を受け継いでいると言えよう。

竜宮城を連想させるような山門が特徴的である。
石段を登って山門をくぐると、朱色鮮やかな堂宇が弾けるように鎮座する。

裏手に回って、利根川の流れを追えば、正面に筑波山の山容が。
この風景も、昔と変わりないのではなかろうかと思う。

江戸川筋を下って、金町の街で買い物をして帰る。

走行距離:たぶん、65キロぐらい(VIVALOロード)

http://6119.teacup.com/danchoimage/bbs/1419

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2014.12.22 Mon
12月22日(月)千葉のカツ丼を食べにいく
12月22日(月)千葉のカツ丼を食べにいく

道の駅八千代で、自転車仲間のエンツォさん(柏)とジャズさん(流山)と待ち合わせ。
愚兵衛さん(印西)も現れる。

今日は、先日食べて非常にウマかった「大島屋」のカツ丼(千葉市花見川区三角町)を食べに行こうというもの。

今回は、蕎麦も頼んでみたが、これがまた、とてもウマかった。
ただ、その後、カツ丼を食べたら、120パーセントの満腹度。

近くのセブンでコーヒーを飲んで、花見川に出て解散。

その後、あまりの満腹感に走る気力を失う。
花見川CR~357沿いの緑道~谷津干潟~船橋~行徳・御成道経由で帰るも、途中、眠たくて仕方なかった。

・花見川から行徳までの経路地図


夕飯は、餃子大会。

走行距離:たぶん、100キロぐらい(VIVALOロード)

http://6119.teacup.com/danchoimage/bbs/1417

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2014.12.21 Sun
『鹿島紀行』で芭蕉が辿ったルートについて
『鹿島紀行』で芭蕉が辿ったルートについて

貞享四(1687)年の秋、松尾芭蕉は、門人曽良(そら)と宗波(そは)を伴って、鹿島の月を見るために、深川の芭蕉庵を旅立った。
それをまとめた小さな本が、『鹿島紀行』(寛政2(1690)年)として、今日に伝わっている。

文庫本でも、たった6頁の小品であるので、夕べ、枕元で読んだ。
芭蕉が鹿島まで辿ったルートが鮮やかに思い起こされた。

そのルートはほぼ、こんなものだったに違いない。



『鹿島紀行』を読み終えて眠りにつく。
するとさっそく、利根川サイクリングロードのような所を自転車で走っている夢を見た。
芭蕉の一行を私は自転車で追い抜く。
だが、しばらく走ると、また、芭蕉が前にいる。
何回追い抜いても、芭蕉は私の前に現れたのであった・・・。

芭蕉が辿ったルートは、『鹿島紀行』の中に大雑把に書き込まれている。

「ふねにのりて、行德(ぎやうとく)といふところにいたる」。

深川(東京都江東区)の庵から芭蕉たちは船に乗る。
小名木川から旧中川を経由して(当時は、もちろん、荒川は存在しない)、新川に入り、江戸川に出る。
江戸川をやや遡って、行徳(千葉県市川市)に上陸。

行徳に上陸した芭蕉は、徒歩(かち)で、八幡(千葉県市川市)に出る(県道6号線)。
八幡からは、千葉街道(現国道14号線)を東進して、現在の鬼越2丁目の所から左折して木下街道(県道59号線)を北東進。
「ひろき野」と芭蕉が表現している「かまがい(=鎌ヶ谷)の原」まで来ると、前方に筑波の山が見えてきたと書いている。

そして、日没の頃、利根川舟運の拠点たる布佐(ふさ・千葉県我孫子市)にようやく到着。

一行は、布佐で一泊する。
布佐では、網代(あじろ)という鮭漁の仕掛けを目撃したと書いている。
鮭漁をする漁師の家に泊めてもらうことになるが、「よるのやどなまぐさし」とある。

布佐まで芭蕉が辿ったルートは、当時としては、江戸から鹿島神宮参りをする者の定番である。
木下街道は、江戸期には、銚子の海産物を行徳に運ぶための道であったと同時に、別名「かしま道」と言われたほどである。

「月くまなくはれけるまゝに、夜舟(よぶね)さしくだしてかしまにいたる」。

夜が明ける前に船に乗って布佐を出発。
月が煌々と川面を照らす、気持ちの良い利根川下りである。

こうして、芭蕉を乗せた船は、利根川を下って、常陸利根川を経て、北浦に入ったに違いない。

やうやく鹿島(茨城県鹿嶋市)に到着した芭蕉だが、その日は、残念なことに、「ひるよりあめしきりにふりて、月見るべくもあらず」。
仕方なく、鹿島の根本寺に一泊する。

すると、明け方になって、雲間から仲秋の月がぽっかりと姿を現した。
しかしながら、晴れたり降ったりという天気だったらしい。
「月のひかり、雨の音、たゞあはれなるけしきのみむねにみちて、いふべきことの葉もなし」とその感動を綴っている。

月はやし梢は雨を持(もち)ながら(芭蕉)

ここで、『鹿島紀行』は終わっており、帰路のことについは触れていない。

さて、この芭蕉の鹿島までのルートを自転車で走ってみたいという酔狂が起き上がってこないでもないが、木下街道(県道59号線)が自転車にとって地獄道であることを思うとやはり躊躇してしまう。

また、ご馳走を食べるためなら鹿島まで走ってもよいが、ただ月を見るためというのは、ちょっとご勘弁願いたい。
そういう私だからこそ、永遠に芭蕉を「追い抜く」ことができないのも道理なのである。

参考;
松尾芭蕉『鹿島紀行』全文

 らく(洛)の貞室(ていしつ)、須磨のうらの月見にゆきて、「松陰(まつかげ)や月は三五(さんご)や中納言」といひけむ、狂夫(きやうふ)のむかしもなつかしきまゝに、このあきかしまの山の月見んと、おもひたつ事あり。ともなふ人ふたり、浪客(らうかく)の士ひとり、ひとりは水雲(すゐうん)の僧。僧はからすのごとくなる墨のころもに、三衣(さんえ)の袋をえりにうちかけ、出山(しゆつざん)の尊像をづしにあがめ入(いれ)テうしろに背負(せおひ)、柱杖(ちゆうぢやう)ひきならして、無門(むもん)の関(くわん)もさは(障)るものなく、あめつちに独歩していでぬ。いまひとりは僧にもあらず、俗にもあらず、鳥鼠(てうそ)の間(かん)に名をかうぶりの、とりなきしまにもわたりぬべく、門(かど)よりふねにのりて、行德(ぎやうとく)といふところにいたる。ふねをあがれば、馬にものらず、ほそはぎのちからをためさんと、かちよりぞゆく。
 
 甲斐のくによりある人の得させたる、檜もてつくれる笠を、をのをのいたゞきよそひて、やはたといふ里をすぐれば、かまがいの原といふ所、ひろき野あり。秦甸(しんでん)の一千里とかや、めもはるかにみわたさるゝ。つくば山(やま)むかふに高く、二峯ならびたてり。かのもろこしに双劔(さうけん)のみねありときこえしは、廬山の一隅也。
  ゆきは不レ申先(まづ)むらさきのつくばかな
  
と詠(ながめ)しは、我(わが)門人嵐雪が句也。すべてこの山は、やまとたけの尊の言葉をつたえ<へ>て、連歌する人のはじめにも名付(なづけ)たり。和歌なくばあるべからず、句なくばすぐべからず。まことに愛すべき山のすがたなりけらし。

 萩は錦を地にしけらんやうにて、ためなかが長櫃(ながびつ)に折入(をりいれ)て、みやこのつとにもたせけるも、風流にくからず。きちかう・をみなへし・かるかや・尾花みだれあひて、さをしかのつまこひわたる、いとあはれ也。野の駒、ところえがほにむれありく、またあはれなり。
 
 日既に暮(くれ)かゝるほどに、利根川のほとり、ふさといふ所につく。此(この)川にて鮭の網代(あじろ)といふものをたくみて、武江(ぶかう)の市(いち)にひさぐもの有(あり)。よひのほど、其(その)漁家(ぎよか)に入(いり)てやすらふ。よるのやどなまぐさし。月くまなくはれけるまゝに、夜舟(よぶね)さしくだしてかしまにいたる。
 
 ひるよりあめしきりにふりて、月見るべくもあらず。ふもとに根本寺(こんぽんじ)のさきの和尚、今は世をのがれて、此(この)所におはしけるといふを聞(きゝ)て、尋入(たづねいり)てふしぬ。すこぶる人をして深省(しんせい)を發せしむと吟じけむ、しばらく清淨の心をうるににたり。あかつきのそらいさゝかはれけるを、和尚起し驚シ侍れば、人々起出(おきいで)ぬ。月のひかり、雨の音、たゞあはれなるけしきのみむねにみちて、いふべきことの葉もなし。はるばると月みにきたるかひなきこそほゐ<い>なきわざなれ。かの何がしの女すら、郭公(ほとゝぎす)の歌得(え)よまでかへりわづらひしも、我(わが)ためにはよき荷擔(かたん)の人ならむかし。

                     和 尚
  お<を>りおりにかはらぬ空の月かげも
    ちゞのながめは雲のまにまに

  月はやし梢は雨を持(もち)ながら     桃 靑(=芭蕉)
  寺に寐てまこと顔なる月見哉       同
  雨に寝て竹起(おき)かへるつきみかな  ソ ラ
  月さびし堂の軒端(のきば)の雨しづく  宗 波
   神 前
  此(この)松の実ばへ<え>せし代や神の秋  桃 靑 
  むぐはゞや石のおましの苔の露  宗 は
  膝折ルやかしこまり鳴(なく)鹿の聲   ソ ラ
   田 家
  かりかけし田づらのつる(鶴)や里の秋  桃 靑
  夜田かり(刈)に我やとはれん里の月   宗 波
  賤(しづ)の子やいねすりかけて月をみる  桃 靑
  いもの葉や月待(まつ)里の燒(やけ)ばたけ タウセイ
   野
  もゝひきや一花摺(ひとはなずり)の萩ごろも ソ ラ
  はなの秋草に喰(くひ)あく野馬哉  同
  萩原や一(ひと)よはやどせ山のいぬ  桃 靑
   歸路自準(じじゆん)に宿(しゆく)ス
   塒(ねぐら)せよわらほす宿の友すゞめ   主 人
   あきをこめたるくねの指杉(さしすぎ)    客
  月見んと汐引(しほひき)のぼる船とめて  ソ ラ

   貞享丁卯(ていばう)仲秋末五日



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2014.12.18 Thu
12月18日(木)自転車通勤~師走の交通事情~バカ殿の田舎芝居
「12月18日(木)自転車通勤~師走の交通事情~バカ殿の田舎芝居」

このところ、関東でもいっきに寒さが厳しくなって、朝夕の自転車通勤はつらいこともある。

しかも、師走も半ば過ぎになると、都心はいよいよ走りにくくなる。
例年のことながら、この時期は交通量が増えて、頻繁に渋滞する。

しかも、搬入搬出が多いせいか、路駐も増えて、いっそう、自転車走行の障害になる。
タクシーを使う人が増えるのか、側道を走っていると、急にタクシーが割り込んで来てヒャっとすることも多い。

加えて、この時期は、何故か、運転がヘタッピーのドライバー率が多くなる。
事実、今日だけで、追突事故を二件も目撃。

路駐車の急発進と割り込みも怖い。

風の強い一日だった。
特に橋を渡っている際などは、寒風に車体がさらわれそうになることも。
とにかく、都内を走るには、一番危険な季節であるのは間違いなさそうだ。

景気の方も、いっそう冷え込んでいるせいか、例年に較べ、街の賑わいが少ない。
大繁華街のネオンサインも、どこか寂しげである。

午前中の業務終了後、久方ぶりに、神田古本屋街を散策。
学生時代は、毎日の日課だったのだが、このところはとんとご無沙汰。
悪い年の取り方をしている証拠であると、反省する。

岩波の「日本古典文学体系」が、店先で、何と二冊で500円で売られていた。
学生時代(約35年前)は、高嶺の花だったシリーズ。
全部買いたいぐらいだったが、重いので、二冊だけにする。
『義経記』と『東海道中膝栗毛』。

久々に明るい内に帰れそうだ。
地元で、買い物(牛乳、白菜、鶏肉など)をする。

買い物をする度に思う。
物価がどんどん高騰している。
買い物をする主婦たちの財布のヒモが、いや増しに固くなっているのが分かる。
消費税が上がったのに、収入は上がらないので、景気も低迷し続ける。
物の道理である。

アベノミクス。
インチキ商法のような経済政策。
耳に心地よい収奪システム。

鶏肉の値段も知らないようなバカ殿が、ヒステリックなかん高い声で、まったく辻褄のあわないデタラメを叫んでいる。
滑稽で、やがて哀しい田舎芝居のような政治。
これでは日本は終わりに近づいていくであろう。

インフレからの脱却と、まともな日本を取り戻せる日は、また、遠のいたようである。

さて、鶏鍋でも拵えるとするか・・・。

走行距離:35キロ(ACクロス)

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2014.12.14 Sun
12月14日(日)銚子半島一周~外川「GARE(ガレ)
「12月14日(日)銚子半島一周~外川「GARE(ガレ)」

昨日、銚子まで来たので、実家で一泊。
温暖な銚子でも、水溜まりには氷がはっていた。

午前中は、実家の冬支度を手伝う。
物置からストーブを出して、石油を給油。
大きな物の移動。
買い物など。

昼前に、自転車で出かける。
銚子半島を右回りに一周。

北西からの冷たい潮風に吹かれながら磯巡り。
利根川河口~銚子港~新生~海鹿島~君ヶ浜~犬吠埼~外川。

銚子在住のFB友達から、銚子電鉄の外川駅近くに新しくレストランができたとの情報を得ていたので行ってみる。
外川駅のレトロな車両を眺めながら食事ができるという立地。

「GARE」(銚子市外川町)。
私は、房総ポークの炭火焼き定食(800円)を注文。
大変美味しくて大満足。
http://inubouzaki.exblog.jp/21317378/

銚子駅まで走って、小岩駅まで輪行。

夜は、呑ちゃんと近所のお好み焼き(水元の「道頓堀」)へ。

走行距離:36キロ(VIVALOロード)

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2014.12.13 Sat
12月13日(土)北総神社仏閣巡りと銚子金目づくしサイクリング
12月13日(土)北総神社仏閣巡りと銚子金目づくしサイクリング

自転車仲間6人と北総の寺社を巡り、銚子で金目鯛を食べるサイクリングに行ってきた。

7時過ぎに出発。
高砂駅に向かうも、たった2キロほど走ったところで、左足のアキレス腱のあたりがつる。
寒さのせいなのか、夕べの深酒のせいなのか・・・。
こんなことで、今日は大丈夫だろうかと多少心配になるが、しばらく休んでいたらどうにか快復。

京成高砂駅から京成成田駅まで輪行。

成田山新勝寺総門に9時半に全員集合。
全員ロード(内訳は、カーボン4、チタン1、アルミ1、クロモリ1)。

しゃきりと寒い北総の里山を走り継ぐ。

成田山~多古経由~猿田神社~海上八幡~銚子。

実走経路図;


出発前に新勝寺を参拝。
いつ来ても、堂々の大伽藍である。

多古道の駅で、名産の米3キロを買う。
ために、道中、ちょっとつらい思いをする。

「猿田神社」(9世紀初頭創建・銚子市猿田町)。
私自身、この神社で七五三をやった懐かしい神社。
古人が、ここを聖域と定めた理由がよく分かる。
一帯は、常緑樹の茂る神々の杜である。

その後、「海上八幡宮」(9世紀初頭創建・銚子市柴崎町)へ。
訪れるのは初めて。
江戸期までは、たいそう栄えた八幡様だったとのこと。

旧道を走って銚子市内へ。
銚子大橋の真ん中付近まで行ってみる。
坂東太郎の広大な流れ。

銚子駅前の「かみち」で遅めの昼食(15時)。
金目づくし膳(2500円)。
脂ののった金目鯛は、つくづくとウマい。
http://tabelog.com/chiba/A1205/A120501/12000987/

駅で皆と別れ、私は銚子の実家に泊まる。
お袋と世間話をしながら一杯。
早々に床につく。

・ギブさん(市川)のこの日のブログもご参照。
http://blog.livedoor.jp/gibson1798/archives/51791160.html

シャオさん(松戸)のこの日のブログもご参照。
http://blog.livedoor.jp/xiaoxiong/archives/8652819.html

走行距離:66キロ(VIVALOロード)

http://6119.teacup.com/danchoimage/bbs/1412

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2014.12.10 Wed
12月10日(水)自転車通勤~疲労困憊~湯島聖堂築地塀沿いの銀杏並木
「12月10日(水)自転車通勤~疲労困憊~湯島聖堂築地塀沿いの銀杏並木」

昨日は、朝から夜まで張り詰めた業務にて疲労困憊。

その疲れが快復しないまま、真っ暗な中、朝6時前に出発。

快晴。
早朝にしては温(ぬく)い感じがする。

四ツ木付近で払暁。
向島の100円ローソンで、サンドイッチと缶コーヒーを買って、隅田川堤で食べる。

今日は、明神坂下から湯島坂を上がってみる。
途中、湯島聖堂築地塀沿いの銀杏並木があまりにも美しいので、自転車を停めて写真を撮る。

本郷通り→壱岐坂→後楽園で、いつものルートへ。

始業1時間以上前に、杉並の職場に到着。

例によって、すこぶる多忙にて、昼飯を食いっぱぐれる・・・。

17時前に業務終了するも、精も根も尽き果てた感じで、自転車で還る自信なし。
今日ばかりは、自転車を職場に置いて、鉄道で帰ることにする。
自転車通勤を始めてこの方、疲労が理由で鉄道で帰るのは初めてかもしれない・・・(飲酒が理由で鉄道は頻繁)。

職場近くの店で、本を読みながら餃子でビール。
こんな一時もまた良いものである。

・本日、特定秘密保護法施行。
暗い時代が始まる予感。

走行距離:33キロ(ACクロス)

http://6119.teacup.com/danchoimage/bbs/1410

メモ;
「特定秘密保護法施行 権力が暴走しないか」(東京新聞)

 特定秘密保護法が十日に施行された。「安全保障」の名が付けば、国が恣意(しい)的に重要情報を隠蔽(いんぺい)できる。権力が暴走を始めないか、懸念を強く持つ。

 国家の安全保障にかかわる重要情報は厳重に管理すべきだ-。そのように単純に考えてはならない。本当に秘匿すべき重要情報なのかどうか、確かめられる方策がないからだ。公正なチェックが働くかは極めて怪しい。

 特定秘密とは知らずに、情報を得ようとしただけで処罰されることはないのか。むしろ、公務員側が過度に萎縮して、秘密でない一般情報までも囲い込み、国民に知らせなくなる心配は強い。

◆立法の必要性は「弱い」

 公務員らが国家の不正を知った場合、その情報の要約を通報できる制度はあるが、失敗すれば、過失漏えい罪で処罰される危険にさらされる。事実上、通報させないようにする仕組みなのだ。

 この法律はさまざまな問題点を抱えたまま動きだす。だが、そもそも法律をつくる、どんな理由があったのだろうか。立法事実と呼ばれる問題だ。実は、この必要性が弱いと政府内部でも考えられていたことがわかっている。

 内閣情報調査室(内調)が二〇一一年に特定秘密保護法の素案を作り始めたとき、内閣法制局から、法律の必要性を示す根拠が「弱い」と指摘されていたのだ。

 「ネットという新たな漏えい形態に対応する必要がある」との内調の説明に対しても、法制局は消極的な答えだった。

 重罰化の根拠となる事例もなかったのが実情だ。内調が列挙した八件中で実刑だったのは、〇〇年のボガチョンコフ事件のみだ。海上自衛隊の三佐が在日ロシア大使館の駐在武官に内部資料を提供したとして、自衛隊法違反容疑で逮捕された。だが、この事件でも「懲役十月」である。

◆軍機保護法の過去が

 〇一年には自衛隊法が改正され秘匿度の高い情報を「防衛秘密」と指定し、漏えい罪の罰則を五年以下の懲役に引き上げている。その後、どんな重大な情報漏えい事件が起きただろうか。

 昨年の国会で安倍晋三首相は「過去十五年間で情報漏えい事件を五件把握している」と答弁した。だが、起訴猶予か、執行猶予付きの判決で終わっているものばかりなのだ。その中で特定秘密に当たるとされるのは一件のみで、〇八年に中国潜水艦が火災を起こしているとの事故情報を新聞記者に漏らした事件だ。

 このケースでも、一等空佐は書類送検されたものの、起訴猶予で終わっている。「防衛秘密制度を設けた後の漏えい事件が少なく、あっても起訴猶予のため、重罰化の論拠になりにくい」と法制局が考えたのも当然である。

 一〇年には沖縄県・尖閣諸島沖の中国漁船衝突事件の映像流出事件があった。これについても、法制局は「秘密に該当するのかわからない」と見解を示した。刑事責任を問うには、形式的に秘密としているだけではなく、実質的に秘密として保護するに値する内容でなければならない。

 こうした種類の情報すら、秘密保護法は恣意的に秘密扱いにしてしまうのではないか。

 さらに、国家が情報をコントロールし、国民監視を強める結果にならないか。それを危惧する。

 戦前戦中にあった「軍機保護法」がその先例である。軍機は固く保護されねばならない-。そう単純に考えられない。実態はこの法律を国家は自在に使い、国民を縛り上げるのに使ったからだ。

 「宮沢・レーン事件」が有名だ。一九四一年に北海道帝国大の学生宮沢弘幸さんと英語教師のハロルド・レーン夫妻が軍機保護法などの違反容疑で逮捕された。「ある北大生の受難」(上田誠吉著)によれば、旅行好きだった宮沢さんは千島列島に旅した帰りに、汽車で根室の海軍飛行場について乗客が話すのを聞いた。それを帰宅した後、レーン夫妻に話した。

 そんな容疑事実で逮捕された。根室の海軍飛行場に関する情報の探知漏えいにあたるというのだ。宮沢さんは激しい拷問の末、懲役十五年の実刑を受けた。網走刑務所に送られ、重度の栄養失調と結核を患った。敗戦で釈放されたが、一年四カ月後に病死した。

◆国民を統制する道具

 では、この海軍飛行場の存在は本当に秘密にあたるのだろうか。実は三一年に米国のリンドバーグが着陸しており、世間には広く知られていた。罪に問うべき秘密などなかったのだ。法律は国民を統制する道具として機能した。

 果たして遠い昔の話なのか。一般国民とは無関係な法なのか。無関心のままでいると、いつの間にか、プライバシーも「知る権利」も侵食されていく。

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2014.12.08 Mon
12月8日(月)自転車通勤~カレー屋「エチオピア」~冴える月
12月8日(月)自転車通勤~カレー屋「エチオピア」~冴える月

今日は、昨日の疲れが残っている感じ。

快晴。
久々に、千住・上野経由で出勤。
金杉通り沿いの大衆食堂で昼食(味噌焼肉定食)。

8時に業務終了。
老舗カレー屋の「エチオピア」(小川町)で夕飯(チキンカレー3倍)。
やはり、ここのカレーはウマい!
http://tabelog.com/tokyo/A1310/A131003/13000638/

この数日、寒くなって、いっそう、月が冴えている。

真珠湾奇襲攻撃、73周年。

走行距離:37キロ(ACクロス)

新聞切り抜き;

「「戦争はゲームじゃない」 真珠湾攻撃に参加 元零戦搭乗員」(東京新聞・朝刊)。

 日米開戦の口火を切った真珠湾攻撃から八日で七十三年を迎える。当時の奇襲作戦を回想できる体験者は日米を通じてほとんどいなくなった。零式艦上戦闘機(零戦)の搭乗員として参加した元海軍中尉の原田要(かなめ)さん(98)=長野市=は二度と戦争を繰り返してはならないと、二十数年前から戦争体験を語り続けている。九死に一生を得た元戦闘機乗りは、集団的自衛権の行使容認に舵(かじ)を切った日本の安全保障政策に危機感を隠さない。 (宮畑譲)

 一九四一年十二月八日未明(現地時間七日朝)。ハワイ・オアフ島の真珠湾に停泊中の米太平洋艦隊に、三百機を超える日本海軍の航空機が襲いかかった。一時間余で戦艦四隻を撃沈、他の十数隻を損傷させ、航空機数百機を破壊した。

 「戦艦を沈めた」「格納庫を爆破した」-。原田さんが乗る空母「蒼龍」に帰艦した仲間は戦果を自慢し、艦内はお祭り騒ぎ。艦隊の上空で空母を護衛していた原田さんには、手柄を立てられなかった悔しさと同時に引っ掛かりもあった。

 蒼龍の零戦の未帰還は三機。一機は空母の場所を見失って帰艦できなかった。艦隊は位置を知られないよう無線を封止していた。「艦隊を守るため一人、二人の命は簡単に捨ててしまう。大きな虫を守るため小さな虫を犠牲にする。人間として扱わない、戦争ほど罪深いものはない」と思ったという。

 約半年後、旧日本軍はミッドウェー海戦で大敗。蒼龍は米軍機の爆撃で撃沈し、七百人以上が戦死した。着艦する空母を失った原田さんは燃料切れで海に不時着し、漂流中を味方の駆逐艦に救助された。その四カ月後のガダルカナル島の戦いではジャングルに不時着。基地にたどり着いたが、マラリアなどを発症し生死の境をさまよった。回復後、内地で搭乗員の教官を務め、北海道の千歳海軍航空隊で終戦を迎えた。

 「話すと当時のことを思い出す」と、半世紀近く体験を積極的に語らなかった。心境が変わったのは九一年の湾岸戦争。「テレビゲームみたい」と若者が話したと知り危機感を覚え、講演などを引き受けるようになった。

 自衛隊は海外で活動し、米軍への支援活動にも踏み出した。安倍政権は今年、集団的自衛権を認める閣議決定をした。九十八歳の目には平和国家の歩みが逆行し始めたように映る。「戦前と同じ、割り切れない不安を感じて心配しています」

http://6119.teacup.com/danchoimage/bbs/1409

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2014.12.07 Sun
12月7日(日) 総州サイクリング~豚カツと自然遺産的な坂
「12月7日(日) 総州サイクリング~豚カツと自然遺産的な坂」

上総・下総をVの字に切り取るサイクリング(ちはら台~茂原~勝田台)。
寒かったが、実に楽しいサイクリングだった。

京成高砂からちはら台駅まで輪行。

■京成高砂 3・4番線発 |  京成本線特急(成田空港行) 17.0km 中央
|  07:45-08:01[16分]
|  792円
◇京成津田沼 [14分待ち]
|  京成千葉線(ちはら台行) 12.9km 前
|  08:15-08:32[17分]
|   ↓
◇千葉中央 ≪直通≫ 2番線着・2番線発 [0分待ち]
|  京成千原線(ちはら台行) 10.9km
|  08:32-08:44[12分]
|   ↓
■ちはら台

参加者は、7名。
全員ロードで、内訳は、クロモリ4、カーボン3。

冬の里山を走る。
何とも爽快である。

Bさん(鎌ヶ谷)は、できたてほやほやのズッロのクロモリ(トニカ)で登場。
気品のある自転車に仕上がったものである。

茂原の優良とんかつ屋「優膳」で昼食(ウマかったので、当然のことながら、もし近くにあれば、頻繁に行くであろう)。
http://tabelog.com/chiba/A1205/A120504/12003688/

その後、これまでの人生に中で、最も素晴らしい坂に出会う(千葉県大網白里市砂田)。
ほとんど、「坂遺産」と言ってもよかろう。
地肌の露呈した切り通し。
太古の歴史を刻む地層の模様。
こんな坂に出会える幸せを噛みしめる。
春夏秋冬の、この坂の姿を見届けたいと思った。

勝田台駅近くの店(「赤門」)にて反省会。

実走経路図;


・Bさん(鎌ヶ谷)のブログもご参照。
http://blog.livedoor.jp/kyf01405/archives/42306268.html

・均ちゃん(行徳)のブログもご参照。
http://blog.livedoor.jp/liveokubo/archives/52157555.html#more

走行距離:89キロ(VIVALOロード)

http://6119.teacup.com/danchoimage/bbs/1411


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