日々の身辺雑記や考えたことなどを徒然なるままに書き連ねる「断腸亭日録」です。
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断腸亭日録~自転車日記
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2013.04.20 Sat
4月13日「春のマツムシコーヒーでリラックスしませんか」サイクリングに参加~偉大なる淫祠としての「魂生神社」~松虫寺異聞
この2年ばかり恒例化しつつある「マツムシコーヒーでリラックスしませんか in spring」のサイクリング企画(印西市のフリーさん主催)に参加。
前回の記録を辿ると、去年の初秋に参加したことが思い出された。
あの時は、松虫寺で皆さんとお別れして、銚子に向かったのだった・・・。

集合場所の布佐駅近くのコンビニまでは、家から約35キロ。
余裕をもって、2時間半前に出発。
葛飾橋→松戸→農免農道→手賀沼。
40分前に到着。

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(途中の農免農道)

定刻の9時前には、総勢14名が集合。
自転車種の内訳は、ロード10、小径車2、クロス1、マウンテン1。
いずれも、下総国葛飾郡(旧行政区)からの参加者である。
到着と同時に、おにぎりやサンドイッチを食べながら、楽しい自転車談議に花が咲く。

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(真っ赤に統一されたバイクフライデイ。折りたたんでいるところ)

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(レストアされたロードマン)

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(ズッロのクロモリロード。別名「青い淑女」、故に「ちかんに注意!」)

14台の自転車が、長閑な田圃の畦道や、川筋の道を走る。
あちこちからカエルや鶯の鳴き声が聞こえ、燕が見事な空中旋回を演ずるのを見る。

本日の(大まかな)ルートは、布佐駅近くのコンビニ→利根川CR→将監川沿い→長門川沿い→長門川水門→大鷲神社(魂生大明神)→松虫寺(「マツムシコーヒー」)→印旛沼→佐倉ふるさと広場(可動風車とチューリップ畑)→八千代道の駅(以上、約53キロ)。

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(長門川)

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(長門川が利根川に流れ込む所)

最初に訪れたのは、大鷲神社(魂生大明神)
私にとっては、初めての場所である。

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大鷲神社(魂生大明神)

説明板等によれば、現在の大鷲神社本殿(木彫が素晴らしい)は、江戸後期(1831年)の建造らしいが、神社そのものの起源はよく分からない。

ただ、大鷲神社及びその周辺には、魂生神社(魂生大明神)、御嶽神社、麗峰神社、鷲の杜稲荷、聖徳太子堂などが祀られていて、まるで習俗的信仰の百貨店のような聖域で、大鷲神社そのものはこれらを代表する「看板名」のような感じがしないでもない。

大鷲(おおわし)神社という名称にしても、明治の中頃に改名されたもので、それまでは、「鷲宮(鷲賀岡神社)」と称していたという。
大鷲(=鳥)系神社なので、そもそもの祭神は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)であろうか。
案の定、当神社では、酉(とり)の市も行われているという。

また、説明板によると、江戸初期、春日局(明智光秀の妹にして、第三代将軍家光の乳母)による「崇敬が非常に厚く、竹千代君が三代将軍となったとき、そのことを祝い、将軍の船の舳先に魔除けとして飾ってあった金の大鷲を将軍より願い受けて奉納」したのだという。

それにしても、春日局がどうして、よりによって下総の片田舎にある大鷲神社を尊崇することになったのか?
真相は不明だが、春日局が「崇敬」していたのは、看板の鷲宮ではなく、同じ敷地内にあった「魂生(コンセイ)神社」の方ではなかったか。

「魂生神社」の社には、複数の巨大な男根像を中心に大小様々な男根像が祀られていて、初めて訪れた者は、その異様に圧倒されるであろう。

NEC_0856.jpg
(魂生神社に祀られている男根像)

説明書きにはこうある。

「五穀豊穣、縁結び、子授け、安産、夫婦和合の神で、当杜の魂生神は高さ二・五メートル、周囲二・三メートルの石造りの男根が鎮座しており、日本一の大きさです。
一千年もの昔から、庶民に素朴な性信仰がおこり、男根神、女陰神に心をこめて崇拝されて来ました。
産むは生むに通じることから農家は豊作を祈願し、商家は繁栄を祈願する。
また子宝に恵まれない男女は特に灼な霊験を口づてに、多数の参拝者が全国から訪れております」。

もちろん、これは私の推測に過ぎないが、もしかして春日局は、大奥に出入りする誰かから、下総の魂生神の噂を聞き知って、自分が目をかけた家光にも世継ぎができるように、将軍職に就けるように祈願したのではなかろうか。

さて、その「魂生(コンセイ)神」であるが、物の本によると、普通は「金精」様(コンセイサマ)という字を当てられることが多いが、金勢、金清、金生、魂生、根性、根精様などとも書かれ、別称には、かなまら様、お駒様、道鏡様、しゃくじん、男石様など、地方によりさまざまな呼称をもつそうで、男根像(女陰像を伴うこともあり)をご神体として祀るのが共通点である。

関東のわれわれにとってよく知られているのは、栃木と群馬県境に存する金精(こんせい)峠の「金精神社」である。

「金精様」は、主として関東から東北地方に多数存在し、説明板では「一千年もの昔から」としているが、「金精様」の起源は、それよりもはるかに古く、たぶん、縄文中期(5千年)ぐらい前まで遡ることができるであろう。

いわゆる「石棒」と称される男根像は、縄文時代の環状列石(ストーンサークル)の中心部や峠からよく発見される。
これまでにも、大小様々な夥しい数の石棒が発掘されている(あるいは、地上に露出している)。

石棒
2メートル以上ある縄文時代の石棒。縄文時代の石棒としては最大。長野県佐久市

また、こうした男根像は、しばしば峠に存することから、地域によっては、道祖神と同一視されている例もある。

たぶん、様々な例があるだろうが、後世の人々に発見された男根像は、里人から子授けや安産の神として祀られ、また、地域によっては、新たに木製の男根像が作られたり、祠(ほこら)が設けられたのであろう。

こうした男根崇拝の祠は、すでに述べたように、関東以北から東北地方に多い。
それは、縄文遺跡が同地域に多いこととぴったりと符合する。

実は、江戸時代までは、もっと多くの男根像があちこちにあったらしいが、明治初期の「淫祠邪教を戒める法令」によって、「淫猥」であるとして、撤去されたり、破壊されてしまったものも多い(「淫祠」については、過去のこの記事をご参照)。

明治時代というのは、実に不思議な時代である。
廃刀令や断髪令や廃城令などというヒステリックな法令は、武士社会の痕跡を抹殺したいという動機からすれば、まあ、分からないでもでもない(しかし、その割には、明治以降の軍人や政治家は、一生懸命になって、自分の行為や言説を武士らしく見せかけようと腐心している・・・)。

だた、多くの民衆が長らく当たり前のこととして行ってきたことを禁止する滑稽な法令も多い。
男女混浴禁止令を出したり、刺青を禁止したり、裸で外を歩くことを禁止したり。
男女混浴も、刺青も、褌(ふんどし)いっちょうで出歩くことも、誰も淫猥だとも、恥ずかしいとも、不快だとも思っていないのに、まったくもって大きなお世話なことに、「欧米的価値観」なるものに迎合するために、これら一連の滑稽な法令を乱発した。
このことは逆に、明治政府の高官たちが、かなり「淫猥」な連中であったことを示しているようにも思える。

先祖伝来の遺物を「淫猥」だと決めつけて壊すなんて、「文化人」のすることとは到底思えない・・・。
明治「政府」の文化レベルがいかに低劣なものであったかということを示す一例ではある。

ちなみに、私はここで、男根を象った「子孫繁栄の飴」なるものを購入した・・・。

われわれは、「大鷲神社」を後にして、またしても、里山のくねくね道を行く。
文化的に非常に価値の高い物を見学すると、嬉しくなって、ペダルを漕ぐ足も軽い。

次の立ち寄り処は、古刹「松虫寺」(印西市)とそれに隣接する「マツムシコーヒー」である。

松虫寺」に来るのは、たぶんこれで5回目ぐらいだろうか。
ただ、これまでは、きちんと勉強したことがなかったので、今回こそはと思って、事前に『利根川図志』の該当箇所を読んでから現地を見学した。

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(「松虫寺」。正面に見えるのが仁王門。いかにも古刹の雰囲気が漂っている)

さて、その「松虫寺」であるが、江戸末期に出版された『利根川図志』には、「松虫皇女廟」について、こんな短い記述が載っている(残念なことに挿絵はなし)。

「松虫皇女廟」;
松虫寺にあり。寺門の二王端慶の作。本尊七仏薬師如来、行基僧正作。人皇四十五代聖武天帝天平年中の御建立といふ。薬師堂の後の方に松虫皇女の墳(つか)あり。その側(かたわら)に社あり。里人姫宮と称す。松虫姫は聖武天皇第三の皇女(あるいは宮女とも云伝ふ)癩を病みてここに棄てらる。自らかなしみ此薬師仏を祈りて癒ゆうことを得玉ふ。後帝都に還幸して薨じ給ふ。而して後御骨を当山に安置すといひ伝ふ。
(岩波文庫版『利根川図志』209頁)

この記述が本当だとすれば、これまた、非常に古い寺である。
東大寺の大仏建立の頃なので、8世紀中頃の創建ということになる。

しかし、もっと興味深いのは、その由来の方である。
つまりは、聖武天皇の皇女である松虫姫(不破内親王)が、癩(ハンセン)病にかかったので、都からこの地に連れてこられ捨てられた。
途方に暮れた松虫姫は、薬師如来に祈願した甲斐あって、病が治る。
松虫姫は、その後、めでたく都(たぶん、奈良)に帰って、生涯をまっとうする。
そういうわけで、この寺にその遺骨を分骨した。
現在の薬師堂の後に松虫姫の墓と社がある、というもの。

金網があってよく見えないが、この記述によれば、仁王門の金剛力士は端慶の作である。

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(仁王像・「寺門の二王端慶の作」)

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(門前の大樹)

松虫姫が治癒を願って祈願した薬師堂も健在。
ただし、現在の建物は、1718(享保3)年の建造である。

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(薬師堂)

利根川図志にあるとおり、「薬師堂の後」には、「社」と「墳(つか)」がある。

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(「社」・松虫姫神社)

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(松虫皇女之御廟・松虫姫の墓)

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(松虫皇女之御廟の石碑)

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(松虫皇女之御廟の塚。塚には、大木が根をおろしている)

さて、松虫姫の話に戻ろう。
いったい、彼女の話は、われわれに何を伝えようとしているのであろうか。

ハンセン病人だった松虫姫は、気の毒なことに、都から追放されて、遠く下総の寺に棄てられてしまう。
これは、後世になってもなお続くことになる、ハンセン病患者の「隔離」政策の初期の例かもしれない。
皇室の人間(内親王)に対してすら、この種の処置が取られていたということでもある。

しかしながら、松虫寺の薬師如来には、もしかして、かねてより評判があって、意図的にここ松虫に棄てられたのかもしれない。
そう考えるとすると、薬師如来にたいして懸命に祈りを捧げれば、松虫姫のように、病が快癒するのだという教えを含んでいることになる。

あるいは、伝染病の蔓延や政治的な緊張などのために何度も遷都を繰り返した聖武天皇の時代の不安を反映しているのかもしれない。

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(なお、松虫寺周辺には、史跡などを廻る散策路もある)

松虫寺見学の後は、お楽しみの「マツムシコーヒー」でランチ(私はカレーを注文したが、クラブサンドやピザも美味しそうだった)。
イギリス風庭園の中にあるこの店のことは、以前にも書いたことがあるので、ここでは割愛する。

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(イギリス風庭園の中にある「マツムシコーヒー」)

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(「マツムシコーヒー」)

その後、印旛沼CR(「山田休憩所」で休憩)を走って、「佐倉ふるさと広場」に向かう。
ちょうどチューリップ祭りの開催中にて、広々とした野に一面、チューリップが咲き誇っていた。
なお、ここの風車は、ダミーではなく、折からの強風に、勢いよくクルクルと回っていた。
どうせなら、これで発電もすればよいのにと思った。

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(広大なチューリップ畑と可動風車)

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(露店も多数出展。たくさんの人が来ていた)

こうして、八千代の道の駅まで走って解散。

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(ちょっと腹が減ったので、八千代の道の駅で焼き牡蠣を食べる)

帰路は、船橋のemoさんの先導で、市川組のお二人と一緒に走った。
emoさんのルートは、独創的かつ合理的でいつも驚かされるが、実際走ってみると、細かい道も多くて捕捉するのが結構大変である。
また、emoさんは、走行速度が速いので、私なぞはついて行くのがやっと・・・。
emoさんには、曽谷貝塚(市川市)まで送っていただいた。

江戸川まで出ると、ちょうど夕陽が地平線に落ちようとしていた。

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(江戸川の夕陽)

それにしても、北総、それも印旛沼界隈は歴史の宝庫である。
大分、道も覚えてきたので、今後ともじっくりと探訪してみたいと思う。

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走行距離:126キロ(VIVALOロード)
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2013.04.18 Thu
断ち切られた新学期~71年前の今日の出来事
「断ち切られた新学期~71年前の今日の出来事」

微睡みを誘うような風薫る春の日。
私は、以前から気になっていたことがあって、自転車で近所の「葛飾区教育資料館」に出かけた(ACクロス)。

水元公園のポプラ並木を自転車で走りながら、たぶん、あの日も、こんな長閑な春の一日だったことだろうと思う。
ただし、午前中までは・・・。

「あの日」というのは、ちょうど71年前の今日のことである。

1942年4月18日(土)。
東京市南葛飾郡水元村の水元国民学校、昼過ぎ。
土曜日なので半ドンである。
午前中の授業も済んで、教室の掃除も終えて、いよいよ帰宅しようという嬉しい時間帯。

新学期を迎えたばかりの校庭の桜の花も大方散ってしまい、小学生と言えども、そろそろ、夏野菜の植え付けや田植えの準備を手伝わなければならない時節。
当時の水元は、現在の印旛沼周辺の田園のような風景であっただろう。
土手道の柳には、黄緑色の新芽が芽吹いている。
木立からは鶯の素っ頓狂な囀(さえず)り。
水を入れたばかりの田圃からはカエルの長閑な鳴き声。

春の週末をどんな風に過ごそうかと思うだけで、子どもたちの胸は高鳴り、声は大きく、足は速くなった。

日本列島は、その後の地獄のような命運をいまだ知ることなく、真珠湾やマレー半島各地での連戦戦勝に沸きかえっていたことであろう・・・。

1942年4月18日(土)の未明、太平洋上の米空母ホーネットから16機のB-25(ミッチェル爆撃機)が日本列島に向けて飛び立った。
16機は、それぞれの進路をとりつつ、東京、川崎、横須賀、名古屋、神戸の各都市を攻撃して、そのまま日本海へと離脱して中国大陸に逃れるという、どう考えても無謀ともいえる作戦を決行した。
各機に積まれた燃料は片道分のみで、しかも護衛機なしという、いわば決死覚悟の作戦。
これこそが、米軍による最初の日本本土空襲であった。
この決死隊を指揮したドーリットル中佐の名をとって「ドーリットル空襲(Doolittle Raid)」と呼ばれる作戦である。
真珠湾奇襲攻撃から約4ヶ月後の出来事・・・。

B-25_on_the_deck_of_USS_Hornet_during_Doolittle_Raid.jpg
(空母で出撃を待つB-25)

「みなさん、さようなら!」という声を限りに、教室から子どもたちが駆け足で春の日溜まりに飛び出してくる。
すると突然、上空にB-25の爆音が轟き、校舎から散会したばかりの子どもたちを狙って12.7ミリ機関銃が炸裂した。

子どもたちは、茂みに逃げ込んだり、校舎に駆け込んだりした。
窓ガラスや壁を貫通して、学校の廊下にも、12.7ミリ弾15発が着弾。
そのうちの1発が、国民小学校高等科1年生(現在の中学1年生に相当)の石出巳之助君(13歳)を背後からその胴体を撃ち抜いた。
12.7ミリ機関砲は、対物兵器としてはさほどの威力を持たないが、子どもの人体に命中すれば五体がちぎれるほどの破壊力をもつ。
ほぼ、即死であった。

12.7
(石出巳之助君を射殺したB-25の12.7ミリ機関砲。コクピット前に4連。その他にも75ミリ砲も装備)

葛飾区教育資料館」(地図・入館無料)は、復元移築された水元国民学校の校舎(大正末期建造)をそのまま利用している。

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(復元移築された水元国民学校の校舎。ご多分に漏れず、現在の多くの校舎よりも、はるかに美しい)

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(原寸大の人形を用いて、昔の教室の様子を再現。これがなかなかよくできている。明治大正期ぐらいの教室風景だろうか)

この資料館に、今回、私の目的だった、石出巳之助君に関する数点の展示品もある。

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(石出巳之助君の遺影)

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(旧校舎廊下に残された弾痕と12.7ミリ弾)

葛飾区教育資料館」を出た私は、眩(まばゆ)いばかりの春の碧空を見上げた。

そうだ、せっかく(命日)なので、石出巳之助君のお墓にもお参りをしに行こうではないか。

石出巳之助君が眠っているのは、「法林寺」という寺である。
幸いにも、資料館には、水元界隈の各種地図も数多く展示されているので、すぐに場所は分かった。
小学校から自転車で5分ほどである。

法林寺」(葛飾区西水元6-14-18)。
小さな寺だが、何と天正3(1575)年創建という古刹である。
墓地には、江戸時代以来の代々の墓石も多く見ることができる。

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(「法林寺」)

しばらく墓の中を歩き回った挙げ句に、石出巳之助君の墓を見つけることができた。

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(石出巳之助君の墓。戒名「悲運銃撃善士」)

「悲運銃撃善士」という戒名には、いささか、複雑な気持ちがする。

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(命日の昭和一七年四月一八日が刻まれている)

もし、現在生きていれば、私のお袋の年齢に近い84歳ということになる。

私は、墓前でヘルメットを脱いで手を合わせる。

悲運銃撃善士さん、いや、石出巳之助君、さぞかし無念であったことでしょう。
君の死が、軍部による戦意高揚のために利用されたことも含めて、実に悲運なことだと存じます。
同じ地元の人間として、このようなことが二度と起こらないよう、心底、祈念します。

この日の米軍の急襲は、後の東京大空襲などに較べれば、非常に規模の小さなものだったのだが、数々の問題を指摘することもできる。
多数の無差別攻撃があったからである。
機銃掃射をするほどの低空飛行であった以上、相手が民間人(しかも子ども)であったことは、当然分かったはずである。
別の場所では、日本軍機だと思って手を振った小学生に対しても、B-25は機銃掃射を加えている。

規模の小さな、最初の日本本土空襲ではあったが、その後の大空襲や原爆投下、そして、ベトナム戦争における残酷な空爆(枯れ葉剤投下など)、あるいは、イラク戦争に至るまでの米軍の伝統的「お家芸」とも言える「無差別爆撃」という特徴も既に見てとることができる。
そういう意味では、その後「空飛ぶ死神」と称されることになる米軍による大量殺戮の「実践訓練」が開始された記念すべき日だったとも言える。

他方の日本軍も、まともな迎撃ができずに終わった。
情けないことに味方軍機と誤認する事例が多く、何とか迎撃に飛び立った九七式戦闘機はB-25の速度に振り切られ、配備中の高射砲はことごとく命中しなかった(日本の陸海軍兵士は、虚しくも、三八式歩兵小銃を空に向けて撃つばかりであった)。
期せずして、日本の防空体制が穴だらけであることが判明したわけだが、この点に関しては、ついに敗戦の日まで克服することができなかったのである。
因みに、この攻防について、大日本帝国大本営は、「敵9機を撃墜、我方の損害は軽微なる模様」なる嘘八百の発表で茶を濁すことで日本国民を完全に愚弄し、かつ、欺いた。

その後の展開を知っている現在のわれわれにとっては、まさに、誰にとっても「悲運」としか言いようのない一日だった。

本日の走行距離:15キロ(ACクロス)

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小さな旅(自転車)    Comment(6)   Top↑

2013.04.03 Wed
新品チェーンの初期グリスの扱いについて~シェルドン・ブラウンに学ぶ
自転車のチェーンのことを思うにつけ、いつも感じるのは、こんな「精巧」な部品がこんなに安くてよいものだろうかということである。
一番普及しているシングル(ママチャリ単速)用のチェーンなら千円以下、多段用でも、いろいろグレードはあるものの、千円代(6~9速)から2~3千円(9~11速)ぐらい(但し、チェーンのグレードは、大抵の場合、材質や設計の差異ではなく、塗装の差異ではあるが)。

チェーン
(自転車のチェーン)

以前、使用済みのチェーンを利用して、キーホルダーを何十個も作ったことがあったが、その際も、(ローラー)チェーンというのは、実に偉大な発明品だと感心したものである。
思えば、前輪駆動時代から、現在の殆どの自転車の原型となった後輪駆動に転換するのに大きな役割を果たしたのも、チェーンであったことはよく知られている。

さて、そのチェーンだが、自転車乗りの皆さんは、どんなメンテナンス(修繕)の仕方をしているであろうか。

自転車の部品は、いつかは壊れて交換しなければならなくなるのは、他のすべての「形ある物」の常であるにしても、できるだけ、長持ちさせたいし、快適な状態で使いたいのは当然のことである。

しかしながら、かく言う私にして、実は、チェーンの掃除はほとんどしない。
チェーンが伸びて変速性能が低下したと感じられたり、見かけ上、えらく汚れてきたり、錆が浮いてきたりした場合は、まだあまり距離を走っていなくても、一番安い9速チェーン(HG53)に即交換。
古いチェーンは、状態によっては、多段ママチャリに卸して再利用することにしている(註1)。

ことほどさように、私はチェーンの掃除について語る資格がないので、ご関心の向きは、このサイトあたりを参考にされたし。

chain-innerouter.jpg
(自転車チェーンの構造)

さて、ところで、チェーンの扱いに関して、かねてより、私が疑問を感じていたことがある。
それは、新品のチェーンに塗布されている初期グリスをどうするかという疑問である。
これについては、諸説あって、どれが「正しい」のか分からない。

諸説と言っても、およそ次の二つの意見に大別できる。
1.石油など(の洗浄剤)を使って初期グリスを徹底的に落としてから、自分の方法で注油して使用。
2.何もせずにそのまま使用。

私としては、1が正しいと思っていた。
ただ、正しいとは思っていながら、面倒くさがり屋の性分にて、結局、2の方法に甘んじてきた。
まさしく、思想と行動が乖離するという、よく見られる現象ではある。

1の意見の持ち主は、ベテランの自転車乗りに多く、確信的で説得力もある。
2の意見の持ち主は、自転車初心者からベテランにまで遍在するが、無意識的で消極的である。

だから、「本当は1の方がいいんだけど、とりあえず、2の方にいておこうか」派が、多数を占めているのではなかろうか・・・。

ところが、先日、ちょっとしたこと(固定ギア車について)を調べたくて、私が愛読しているとともに、自転車のことに関しては一番本格的かつ信頼できるサイト、「シェルドン・ブラウンの自転車技術情報(Sheldon Brown's Bicycle Technical Info)」というページを見ていたら、この件に関して、実に歯切れの良い記述があって、目から鱗が落ちた思いがしたので、そのことを少し書いておきたい。

シェルドン・ブラウン(1944~2008年)というのは、自転車の技術の歴史や仕組みに関して、アマチュア的な姿勢に徹しながら、百科全書派的な「研究」をした米国人。
残念なことに、5年ほど前に惜しくも他界したが、彼のHPは現在でも健在である。

シェルドン・ブラウン
(自転車を楽しむことを貫いた、在りし日のシェルドン・ブラウン)

彼の「研究」には、自転車を「楽しむ」という姿勢が貫かれていて、自転車を愛する人には、彼の自転車への傾注ぶりに、ある種の畏敬の念をさえ禁ぜざるを得ないであろう。

さて、その自転車のチェーンに関するシェルドン・ブラウンのページ(「チェーンのメンテナンス」)は、冒頭からしてこう始まる。

「チェーンのメンテは、一番意見が別れる領域である。チェーンの耐久性は、その人の乗り方、変速の仕方、雨や雪の日に乗るかどうか、走る地域の土壌、注油の種類やその方法、スプロケの歯数やその状態に大きく左右されるからである」。

シェルドン・ブラウンの記述は、常に科学的な方向を追求する。
この態度は、日本の自転車批評界は大いに学ぶべきである。
世に流布する多くの自転車雑誌の、いわゆる「インプレ(使用感)」の記事には、その場限りの試乗者の印象とスポンサーの思惑ばかりの、毒にも薬にもならない文章が横行している。
もっと、ある種「公明正大」な視点から、あるいは、「科学的」な視点から、自転車の世界に切り込んでほしいと思う。

語を継いで、彼はこう書いている。

「・・・いろんな人がチェーンのメンテについてそれぞれの一家言を持っているものの、それも、とどのつまりは、根拠のない個人的な「体験的印象」に過ぎない。チェーンのメンテに関しては、自転車の専門家でさえ、ときに鋭く意見が対立することもあるほどである。その意味では、チェーンのメンテというのは、それぞれの人の「信仰」に近い要素がある・・・」。

この「信仰(religious)」という言葉は、日本的な風土においては、「単なるこだわり」と訳してもよいかもしれない。
因みに、この「こだわり」という日本語は、そもそもは、「自らの思想(ないしは趣味)と実践との一致を貫き通すこと」を意味したが、最近では、「根拠が薄弱でも許される独りよがりの好み」の意味で使われることが多くなって、言葉としての価値を著しく下落させつつある。

こうした前置きをしながら、シェルドン・ブラウンは、さらに念を押すように、次のように書いている。

「ただし、この論考にしてみたところで、私自身のこれまでの体験や理論に基づいているもので、もし、読者諸氏が私の意見と違っていても、そういう方々のことをアホ呼ばわりするなどというつもりは毛頭ない・・・」。

さて、チェーンの初期グリスの扱いについてであるが、シェルドン・ブラウンはこう主張している。

「新品のチェーンは、あらかじめ、工場においてグリスのような比較的粘度の高い塗油が施されている。この工場での塗油は、非常に優れたもので、チェーンの細部まで油が浸透している。
工場の塗油は、その後に使用者が施すいかなる油よりも優れている。
だから、工場の塗油された優秀な初期グリスをわざわざ洗浄してしまうのは、大きな間違いである。
工場の塗油は、かなりの長距離を、たとえ雨や土埃の中を走っても堪えられるものなので、新品のチェーンには、どうしても再注油が必要になるまでは、どんな種類の注油も施してはならない
・・・」。

なるほど、自転車の新品チェーンは、何もせずに、そのままの状態で交換すれば良いということか。
これは、生来ものぐさな私の性向にも適っていて、実にありがたいことである。
今後とも、自信をもって、「何もしない」ことにしよう。

ただし、この考え方に強い疑念を抱く人もいることであろう。
だが、そもそもこの手のことは「信仰」の問題であるので、せいぜい、現在世界で繰り広げられている馬鹿馬鹿しい宗教対立に発展しないように意をはらいたいものである。

註1
自転車のチェーンは、仕様によって太さは違うがピッチは同一なので、その互換性は高い。
但し、多段仕様の場合、おおよそ、次のような原則がある。

「スプロケの段数<チェーンの仕様段数」は○。
「スプロケの段数>チェーンの仕様段数」は×。

つまりは、たとえば、6段のスプロケに9段のチェーンは○だが、その逆の、9段のスプロケに6段のチェーンは×。
やってみればすぐに分かるが、たとえば、9速仕様に6~7段用のチェーンを付けると、絶えず、チェーンは大きなギアへ上ろうとガチャガチャ音を立てることになる。

テーマ:自転車(スポーツ用) - ジャンル:スポーツ
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