日々の身辺雑記や考えたことなどを徒然なるままに書き連ねる「断腸亭日録」です。
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断腸亭日録~自転車日記
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2013.02.21 Thu
「葛羅之井」探訪~永井荷風の「葛飾土産」にならいて
現在の千葉街道(国道14号線)は、上代の東海道だったことはよく知られている。
当時の東海道は、三浦半島南東の走水から船で内房に渡って、上総の国府を経て、内房沿いの街道を北進。
その後、千葉街道を経由して、下総の国府(国府台)に抜けるものだった。

当時の千葉街道(=東海道)は、ほんの数百年前にやっとのことで砂州になったばかりの地域で、いわば海岸道路であったはずである。
当時の海岸線は、ほぼ、現在の総武線に相当したからである。
松並木の植えられた街道を歩けば、そこここに漁師の苫屋(とまや)が散在し、投網を打つなど魚介を捕獲する人々の姿が見られる長閑な風景が展開していたことであろう。
また、街道からは、引き潮ともなれば葦原を伴う広大な干潟が現出し、その向こうには、静かな東京湾がのぞめたであろう。

しかしながら、現在の千葉街道も、縄文時代ぐらいにはまだ内海もしくは波打ち寄せる渚であったはずで、となれば、市川市界隈で最も古い道は、現在の国府台を擁する下総台地の上を通っていたはずである。

私は、かねがね、市川・船橋界隈の台地上に通る幾筋かの道は、新石器時代(縄文)から存在する古道だと睨んでいるが、それを今、つまびらかにする力はない。

ただ一つ言えることは、縄文後期から海が後退するにつれて、海岸線沿いの道がその都度出来上がっていったのは確かで、そういった等高線上に段階的に発達した海岸道路と、それ以前の縄文期以来形成されてきた集落と集落を結ぶ、いわば山の道とが互いに縦横に連絡しあっていたはずである(たとえば、この道なぞ、たぶん2千年前ぐらいにできたものかもしれない)。

中山法華経寺の東側から奥の院の前を通って、現在の京成西船駅の方角に南東へと抜ける道(地図)なども、かなり古い道だと思われる。

この道を素直に東へ辿ると、この記事の眼目たる「葛羅之井(かつらのい)」の辺りに至ることになる・・・。

旧聞に属する昨年の新緑の候、私は、永井荷風が1947(昭和22)年に「葛飾土産」(『永井荷風随筆集(上)』(岩波文庫・275~281頁所収)に書いた「葛羅之井(かつらのい)」を訪ねるべく、自転車で出かけた(ACクロス)。

水元公園→矢切→国府台で、葛飾八幡宮(市川市)でしばし休憩。

IMG_0335.jpg
葛飾八幡宮内の新緑の木陰で休憩)

京成線沿いの道を追いかけて、中山法華経寺の坂を登り若宮を抜けて、京成線の西船駅に至る。
途中、市川市と船橋市の市境あたりには、古道の雰囲気を残した道も多かった。

IMG_0320_20130220090409.jpg
(古道の雰囲気を残した道端には、江戸期のこんな石像もあった)

そして、京成線西船駅。

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(京成線西船駅の北側)

永井荷風の文章に倣(なら)えば、「葛羅之井(かつらのい)」への道程は、この駅が起点となる。
荷風は、この駅前の様子を次のように描いている。

松杉椿のような冬樹が林をなした小高い岡の麓に、葛飾という京成電車の静な停車場がある。
線路の片側は千葉街道までつづいているらしい畠。片側は人の歩むだけの小径を残して、農家の生垣が柾木や槙、また木槿(むくげ)や南天燭(なんてん)の茂りをつらねている。夏冬ともに人の声よりも小鳥の囀る声が耳立つかと思われる。
生垣の間に荷車の通れる道がある。

(『永井荷風随筆集(上)』(岩波文庫・273頁)

現在の京成線に「葛飾」という駅はない。
現在の「京成西船」駅がこれに当たる。

それにしても、どうして「葛飾駅」と名乗ったかと言えば、現在は千葉県船橋市西船にあるこの駅も、当時は、東葛飾郡葛飾町にあったので、その町名(ないしは村名)に従っただけという、実に「正直」な理由であった(1987年に西船駅となる)。

私は、さっそく「生垣の間に荷車の通れる道」に相当するものを捜しにかかった。
ところが、位置関係からして、それだと思われる道は、美しい生け垣も野鳥の囀りも聞こえない、何とも不細工な「道路」に変貌していた。

IMG_0324_20130220090418.jpg
(写真①。つまらない道路に変貌していた「生垣の間に荷車の通れる道」。右側の家並みのところは、当時は農家の生け垣だったのであろう)

その道の様子をさらに荷風は次のように描写している。

道の片側は土地が高くなっていて、石段をひかえた寂しい寺や荒れ果てた神社がある・・・
(同書、274頁)

上掲の写真(写真①)を見れば分かるように、荷風が書いている通り、確かに「道の片側は土地が高くなって」いる。

「石段をひかえた寂しい寺や荒れ果てた神社」を捜してみれば、道の左側に「宝成寺」(16世紀後期創建)なる寺院が見つかった。
当時は、入口が「石段」になっていたのだろうが、現在は、クルマ社会に迎合するようにスロープになっている。

IMG_0323_20130220090417.jpg
(「石段をひかえた寂しい寺」に相当すると思われる現在の「宝成寺」)

ただ、「荒れ果てた神社」に当たるものは見つけることができなかった。
おそらく、荒れ果てた末に、消滅してしまったのであろう。

・・・数町にして道は二つに分れ、その一筋は岡の方へと昇るやや急な坂になり、他の一筋は低く水田の間を向に見える岡の方へと延長している。
(同書、274頁)

今は「水田」こそ見えないものの、これも荷風が書いている通りである。

IMG_0327_20130220091016.jpg
(「道は二つに分れ、その一筋は岡の方へと昇るやや急な坂になり、他の一筋は低く水田の間を向に見える岡の方へと延長している」・地図

因みに、左の坂道を上がって道なりに進めば中山法華経寺に至り、まっすぐ進めば船橋市古作を抜けて中山競馬場の広大な敷地に阻まれ途絶する。

IMG_0328_20130220091030.jpg
(写真②。左の坂道)

IMG_0329_20130220091030.jpg
(直進する道。現在は、水田は消滅)

そして・・・、

この道の分れぎわに榎の大木が立っていて、その下に一片の石碑と、周囲に石を畳んだ一坪ほどの池がある。
今年の春、田家(でんか)にさく梅花を探りに歩いていた時である。わたくしは古木と古碑との様子の何やらいわれがあるらしく、尋常の一里塚ではないような気がしたので、立寄って見ると、正面に「葛羅之井(かつらのい)」。側面に「文化九年壬申三月建、本郷村中世話人惣四郎」と勒(ろく)されていた。そしてその文字は楷書であるが何となく大田南畝(おおたなんぼ)の筆らしく思われたので、傍の溜り水にハンケチを濡し、石の面に選挙侯補者の広告や何かの幾枚となく貼ってあるのを洗い落して見ると、案の定、蜀山人(しょくさんじん)の筆で葛羅の井戸のいわれがしるされていた。

(同書、274頁)

文化九年といえば、西暦1811年のこと。
長らく忘れられ、選挙ポスターがべたべた貼られていた石碑を、散歩中の荷風が、約150年ぶりに「発見」したわけである。
その書も、江戸期の大文人たる蜀山人(大田南畝)の手になるものだったのである。

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(「この道の分れぎわに榎の大木が立って」いる)

近寄ってみれば、見上げるのも困難なほどの榎の巨木で、圧倒的な神々しさが漂っている。

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(榎の巨木)

そして、その巨木の奥に、「葛羅之井(かつらのい)」がひっそりと水をたたえていた。

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(榎の大樹の奥をすかして見れば、石碑と柵の囲いが見える)

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(「葛羅之井」)

現在は、民家の庭先のような場所になってしまったためか、池にも柵がが廻らされていて、中に入ることができない。

荷風は、この泉について、次のように書き継いでいる。

・・・仮名垣魯文(かながきろぶん)の門人であった野崎左文(のざきさぶん)の地理書に委しく記載されているとおり、下総の国栗原郡勝鹿(かつしか)というところに瓊杵神(ににぎのかみ)という神が祀られ、その土地から甘酒のような泉が湧き、いかなる旱天(かんてん)にも涸れたことがないというのである。
石を囲した一坪ほどの水溜りは碑文に言う醴泉(れいせん)の湧き出た井の名残であろう。しかし今見れば散りつもる落葉の朽ち腐された汚水の溜りに過ぎない。

(同書、274頁)

「甘酒のような泉が湧き・・・」。
何とも魅力的な表現であろうか。

私は、念のため、泉の水を持ち帰ろうと、空のペットボトルを持参したが、囲いに阻まれてその水を汲むこともできなかったし、また、約65年前に荷風が訪れた時でさえ、「散りつもる落葉の朽ち腐された汚水の溜り」であったわけなので、あまり飲料には適しているものとも思えなかった。

そして、件の石碑。

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蜀山人(大田南畝)の手になる「葛羅之井」の碑)

その側面には、蜀山人の「撰した」漢詩が彫られている。

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(碑の側面には、蜀山人の書なる漢詩が彫られていた。

その漢詩にはこうあった。

下総勝馬 郷隷栗原 神祀瓊杵
地出醴泉 豊姫所鑒 神龍之淵
大旱不涸 湛乎維圓 名日葛羅
不絶綿綿 南畝大田覃撰 文化九年壬申春三月 本郷村中世話人惣四郎

(下総勝鹿は郷栗原に隷す。神は瓊杵を祀り、地は醴泉(れいせん)を出す。豊姫の鑒(かん)する所にして,神竜の淵なり。大旱にして涸れず、湛乎(たんこ)として円なり。名づけて葛羅という。綿綿として絶えず。大田南畝が撰した)

この漢詩の意味については、先に引用した荷風が、手短に要約しているとおりである(「下総の国栗原郡勝鹿というところに瓊杵神という神が祀られ、その土地から甘酒のような泉が湧き、いかなる旱天にも涸れたことがない」)。

それにしても、近代になって忘れ去られていた「葛羅之井」の存在だが、少なくとも、江戸時代には江戸近傍の名所のひとつであったことは確かなので、件の『江戸名所図会』(1836年)に、果たしてこの泉のことが載っているかどうか調べてみた。

すると、項目としては挙げられていないものの、「葛飾明神社」の記述の中にこうあった。

社より東の方の林間、稲荷の小祠の傍らに葛(くず)の井と称する井あり、当社の御手洗といふ。土人相伝えて、この井の水脈竜宮界に通ずといふ。瘧疾を患ふる者、この井の水を飲みて験ありといへり。
(ちくま文庫版『江戸名所図会』、第6巻377頁)

この「葛(くず)の井」と、荷風や蜀山人の言う「葛羅之井」とが同一の物であるのは間違いないであろう。
「葛」は、古来「くずら」とも訓み、「葛」が「くずら」から「かつら」と音韻変化をして、漢文風に「葛羅(かつら)」という字を当てられたとしても不思議ではない。

それはともかく、『江戸名所図会』には、非常に貴重な挿絵が掲載されていた。

葛飾明神社
(『江戸名所図会』に掲載された「葛飾明神社」の挿絵。ピンクの丸が「宝成寺」、青丸が「葛羅之井」、赤丸が「葛飾明神社」、遠景に見える黄色丸が中山法華経寺。ちくま文庫版『江戸名所図会』、第6巻378~9頁)

この挿絵を見て私は些か驚いた。
荷風が京成西船駅から「葛羅之井」へと歩んだ「生垣の間に荷車の通れる道」(挿絵上で緑色で示した線)は、既に江戸時代以前から存在した道だということが分かったからである。

上掲の挿絵の左下隅には、荷風が「石段をひかえた寂しい寺」と表現した「宝成寺」も「椿の大樹」が有名な寺として描かれている。
そして、挿絵の右端には、ちゃんと「くずの井」が描かれている。
およそ170年前の絵なので、当然、榎の大木は見えない。

ただ、よく分からないのは、「葛飾明神社」の所在である。
『江戸名所図会』には、「葛飾明神社」についてこうある。

「葛飾明神社」。
中山より東の方、栗原本郷の街道より左へ四町ばかり入りて、叢林のうちにあり。葛飾の惣社と称すれども、祭神詳らかならず。同所真言宗万善寺別当たり。祭礼は九月十五日なり。

(ちくま文庫版『江戸名所図会』、第6巻376頁)

「栗原本郷の街道より左へ四町」とあるが、「栗原本郷の街道」がどの道を意味するか。
最初は、千葉街道(現国道14号線)のことかと思っていたが、どうもそれでは辻褄が合わない。
しかも、『江戸名所図会』の著者は、たとえば、中山村の所在地を説明するのに、「船橋街道の左側にあり」(同所370頁)と表現しているように、街道の名称はきわめて正確に書き分けている(ここで言う「船橋街道」とは「千葉街道」のこと)。
とすれば、「栗原本郷の街道」とは、挿絵の中で私が緑線で示した道であると解することができる。
つまりは、荷風が「生垣の間に荷車の通れる道」(写真①)とした道こそ、「栗原本郷の街道」であろう。
となれば、この道を左(写真②)に入って、四町(約440メートル)行ったところに「葛飾明神社」はあったことになる。
いや、こう解すれば、少なくとも『江戸名所図会』の挿絵や文章に描かれた位置関係と矛盾しない。

ところが、現在の地図と見比べると、はなはだ不可解なことに、そのあたりには「葛飾明神社」らしきものが見当たらないのである。

仕方がないので、明治38年の古地図を当たってみたら、ちょうどそのあたりに神社が存在することが分かった。

地図
(明治38年の地図。青丸が「葛羅之井」。赤丸が「葛飾明神社」と比定できる神社)

ただ、その後の時代の地図を見ると、大正8年の地図からは、この神社のマークは消滅していた・・・。

現在、この近傍では、千葉街道沿いに「葛飾神社」(船橋市西船5-3-8)があるが、明治末期から大正期に、「葛飾明神社」が移されたのかもしれない。

これについては今後の課題として、再び現場を訪れてみることにしよう。

荷風は、「葛羅之井」についての文章を次のように結んでいる。

碑の立てられた文化九年には南畝は既に六十四歳になっていた。江戸から遠くここに来って親しく井の水を掬んだか否か。文献の徴すべきものがあれば好事家の幸である。
わたくしは戦後人心の赴くところを観るにつけ、たまたま田舎の路傍に残された断碑を見て、その行末を思い、ここにこれを識した。時維(ときにこれ)昭和廿二年歳次丁亥(ていがい)臘月(ろうげつ)の某日である。

(同書、275頁)

長らく忘れられていた「葛羅之井」を「発見」した荷風は、この石碑を作製した蜀山人とほぼ同じくらいの年齢であった(65歳過ぎ)。
老境に入り市川に独居する荷風は、約150年前に「江戸から遠くここに来って親しく井の水を掬んだ」蜀山人と自分とを重ね合わせ、その奇遇なる「交点」にさぞかし感動したのであろう。

さらにまた、殺伐とした「戦後人心の赴くところ」と対極にある「田舎の路傍に残された断碑」に、ある種の断腸の思いを感じたのかもしれない。

件の蜀山人は、晩年を駿河台で送り、75歳で他界した。
現在の淡路坂を登り切ったあたりである。

その辞世の句が残されている。

生き過ぎて
七十五年くいつぶし
限り知られる天地の恩

蜀山人

なんとも洒脱な大文人であることか・・・。

追記;参考までに、荷風が「葛羅之井」を訪れた頃の地図をここに載せておこう。

昭和20年
(昭和20年頃の、京成線「葛飾駅」界隈の地図)


(この項、了)
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2013.02.14 Thu
寺島サイクリング~向島百花園~イタリア料理店「ヴァチナーラ」~江戸三大大師としての蓮花寺(寺島大師)
長閑に晴れ渡った冬の休日(2月10日)。
まだ、ぎっくり腰の名残があったので、呑ちゃんと二人、近場の向島方面に出かけてみることにした。

四ツ木橋(荒川)を渡って、玉ノ井の路地に潜り込む。
因みに、私がこのブログでよく使う「玉の井」という地名は、実は、今も昔も存在したためしがない。

「玉の井」というのは、辞典的に言えば、「旧東京市向島区寺島町に存した私娼街(戦後は赤線地帯)」の名称であって、地名ではなかった。
したがって、売春禁止法の施行(1958年)以降は、荷風の『墨東奇譚』の舞台にもなったこの玉の井も、実体としてはもはや存在しない。
現在の東武線「東向島」駅の旧名が「玉の井駅」だったことに、わずかにその名残を留めてはいるが。

ついでだが、「東京市向島区寺島」という地名も聞き慣れない。
寺島」は、過去には存在したが、今は消滅してしまった地名である。
現在の墨田区東向島が、ほぼ寺島に相当する。

現在の町名としての「向島」と「東向島」は、ほぼ鳩の街通りを境に町域を分けている。

これまたついでだが、「向島」という地名は、浅草の側から見て、隅田川の向こうにあった陸地なので、こう呼ばれるようになったらしい。

まずは旧玉の井(いろは通り)を抜けて、「向島百花園」に春をさがしに行ってみることに。
実は、本日が春節(旧正月の元旦)に当たるので、ここ向島にも、多少の春が見つかるかもしれない。

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(向島百花園前の児童公園に駐輪)

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(ここに来るといつもホッとする向島百花園)

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(庭園としても、趣のある向島百花園)

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(風流な井戸)

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(百花園を散策中の呑ちゃん)

春の訪れということであれば、さすが梅の名所だけあって、既に梅花が咲き始めていた。

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(梅の花)

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(そして、盆栽風にアレンジされた春の七草がみずみずしい)

これから本格的な春に向かう季節。
週に一度は訪れて、梅の花のうつろいをめでたいものである。

ひとしきり園内を散策した後は、茶屋で甘酒を買い求めてしばしのんびり。

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(ここの甘酒はなかなかうまい)

そうこうしているうちに腹も減ってきたので、東向島のイタリアン「ヴァチナーラ」に向かう。
この店は、今回が初めて。
以前、入ろうと思って来てみたものの、シェフが怪我で臨時休業だった。

小さいながらも、暖かみのある店内。
黒板にランチメニューが載っている。

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(「ヴァチナーラ」の店内)

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(黒板のランチメニュー)

われわれは、最後の行に書いてあった「シェフのおすすめ」を注文。
前菜、魚料理、パスタ、肉料理、デザートのコースで、何と1780円。

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(甘鯛のパリパリ焼きカポナータ)

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(イモ豚肩ロースのグリル)

いずれの料理も、シェフ(比較的若い人)の腕が冴え渡っている。
私の勘では、日本料理の修業をしたことのある人ではないかと思う。
できるだけ少ない味付けで、素材の微妙な味わいを引き出そうとしている。
完璧だと思う。

お腹も満たされたので、再び自転車に跨って、すぐ近くの「蓮花寺」(寺島大師)に行ってみることにした。
この蓮花寺、実は以前から気になっていたのだが、つい最近、『江戸名所図会』(1836年)を拾い読みしていて、江戸時代には、とても有名な古刹であることを知った。
残念なことに震災と戦災によって、往時の威光は失われてしまったが、江戸期には、「江戸三大大師」(あとの二つは、川崎大師と西新井大師)の一つとして名を馳せていたという。

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(現在の「蓮花寺」。手前右が、後で触れる「太子堂」)

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(「厄除弘法大師」の石碑)

現在の蓮花寺の山門の前には、古い道標が建っている。

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(「大しみち」の道標。そもそもこの道標は、地蔵坂通りから墨堤通りに上がったあたりに建っていたと思われる。文化15年(1818)建立)。

江戸名所図会』の「蓮花寺」に関する記述は大変に興味深い(ただし、当時は、「蓮華寺」という字を当てている)。

先ず、冒頭に、古い「寺記」からの引用がある。

「昔この地は海原なり。後世やうやく干潟となりし頃。当寺を創建ありしゆえに、寺島の称あり」(ちくま文庫版第6巻201~202頁)。

この簡潔なくだりは、墨田区の地形の歴史と「寺島」の地名の起源を鮮やかに説明している。

古代の墨田区は、大きな河川(利根川)が海へ流れ出る河口部に位置した。
したがって、寺島付近も、古代には「海原」であったのだが、長い歳月、河川が堆積土を運んだことによって、中世頃から北から南へと次第に陸地化していった。
そして、鎌倉期あたりに寺島(=東向島)あたりも陸地化したので、そこにこの蓮花寺を創建したというのである。
またそれ故に、この地を「寺」島と称することになったわけである。

創建は、13世紀中葉とされているので、地質学的知見とも矛盾しない記述でもある。

しかも、その約600年後に著された『江戸名所図会』の挿絵にも、そういった地形の変遷を読み取ることができるかもしれない。

寺島 太子堂 蓮華寺
(19世紀に描かれた蓮花寺)

山門の写真は撮りそこねたが、本堂と山門の位置関係は、現在と同じだと思われる。
しかし、山門の外の参道のような広い空間は、現在では、隅田川高校(旧東京府立第七中学校)の構内になってしまっている。
だが、その手前の土手道に注目してほしい。

この土手道は、位置関係からしても、間違いなく、現在の「地蔵坂通り」(地図)である。
地蔵坂通りは、実は、上代に於ける海岸線(渚)であったのだが、中世以降、海岸線がさらに後退した結果、河岸になったのである。
河岸と言ってもピンと来ないかもしれないが、中世頃には、現在の白髭橋のやや下流あたりで隅田川は分流していて、「地蔵坂通り」(地図)と「鳩の街通り」(地図)を自然堤防とするもう一筋の隅田川が流れていたのである。
そのもう一本の隅田川は、想像しがたいことながら、現在の隅田川の本流と同規模の大河川で、南東へと向かって流れ、中川と合流して江戸湾に落ちていたのである。

画像 062
(現在の地蔵坂通り)

名所図会に描かれた土手道(=地蔵坂通り)は、その自然堤防の名残なのである。
加えて、この絵の土手道の北側には、溝川のような細流が見て取れるが、この溝川は、昭和初期まで存在していたが、その後、埋められてしまって、現在は、その痕跡は見つけられない(このあたりの事情に関しては、鈴木都宣『墨東向島の道』[文芸社刊、2000年]に詳しい)。

その後、江戸時代には、湿地が開拓され「新田」となり、さらに時代が下って大正期になると、荷風が書き留めているように「隅田川と中川との間にひろがっていた水田隴畝(ろうほ)が、次第に埋められて町になり初めた」(荷風「寺しまの記」)のであった。

また、『江戸名所図会』には、もう一つ、興味深い記述がある。

「太子堂 本堂の右にあり。本尊聖徳太子の像は、十六歳の真影にして、太子みずから彫造ありしという」(同書201頁)。

江戸名所図会』の挿絵にも、「本堂の右」に太子堂らしき建物が見える。
さっそく現場で確かめてみると、現在もなお、同じ場所に太子堂と思われる建物が建っていた(ただし、説明板なし)。

IMG_0590.jpg
(太子堂の本尊。十六歳の聖徳太子像)

もしこれが、『江戸名所図会』に記されているように、本当に「十六歳の真影にして、太子みずから彫造」したとすれば、まさしく超国宝級であろうが、どうなんだろう・・・。

さて、こうして、時間の旅も満喫したわれわれは、荒川を渡って、立石で洋菓子を買って葛飾区役所前の公園でそれを食すをもって旅の〆とすることにした。

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(マドレーヌ)

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(それをば、区役所前の噴水公園で食す)

自転車による「時空の旅」には、汲めども尽きぬ楽しみがある。

呑ちゃんのブログもご参照。
http://marichandengana.blog80.fc2.com/blog-entry-580.html

走行距離:23キロ(ACクロス)

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