日々の身辺雑記や考えたことなどを徒然なるままに書き連ねる「断腸亭日録」です。
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断腸亭日録~自転車日記
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2012.05.31 Thu
布川・龍ヶ崎・取手サイクリング~赤松宗旦『利根川図志』と柳田国男1
5月26日(土)。
チーム東葛主催の「柳田國男記念公苑ポタ~利根町、竜ケ崎を走る」に参加。


サイクリングには絶好の日和にて、出発前から心が躍る。
銚子に行って以来放置してあったACロードのタイヤに空気を充填して、いざ出発。
葛飾橋→紙敷→東松戸→五香→大津川で、手賀沼「道の駅しょうなん」へ。

IMG_0424_20120531072027.jpg
(青葉が眩しい田園地帯)

道の駅で、トイレを済ませて、さて集合場所の手賀大橋の袂に向かおうとしていると、若い自転車乗りの方から声を掛けられる。
「断腸亭さんですよね」。
「はい、そうですが・・・」。
聞いてみれば、この方が何と、いつもブログを拝見しているあちちさんだった(本日は、わざわざお見送りに来られたとのこと)。

あちちさんの普段の走行距離は、いわゆるベテランの自転車乗りのレベルと較べても遥かにそれを凌駕している。
私などからすれば呆れかえってしまうほどの尋常ならざる距離を走られてるので、さぞかし、超人ハルクのごとき怪物のような人物かと思いきや、爽やかな痩身の快男児だった。
因みに、今週末にも、会津若松往復600キロを1回で走られるとか。
私なぞは、会津若松まで片道だけで1泊したというのに・・・。

主催の東葛人さんの説明と自己紹介が行われる。

IMG_0425_20120531073355.jpg
あちちさんに三拝九拝するたすけさん)

今回の参加者は12名。
自転車種の内訳は、ロード5、小径3、クロス2、マウンテン1、リカンベント1。

早速走り始める。
爽快な大気の中、手賀沼CR→手賀川を快走。

IMG_0427_20120531075401.jpg
(実に気持ちのよい手賀沼CRを東進)

ところが、栄橋のところで、takezawaさんの後輪がパンク。

IMG_0428_20120531075726.jpg
(栄橋でパンク修理中)

そうして、パンクも一段落付いて、栄橋で利根川を渡って、すぐ右に曲がると、栄橋の喧噪はたちまちに遠のいて長閑な旧道が現れる。
200メートルほどその道を辿ると、右側に、立派な松の木がその玄関先にある「赤松宗旦旧居」のが見えてくる。

IMG_0429_20120531112054.jpg
(「赤松宗旦旧居」)

IMG_0431_20120531112754.jpg
(「赤松宗旦旧居」のある街道。栄橋方向を見る)

すみません、ここままでを1として、連載にさせていただきます。
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2012.05.23 Wed
柳田国男の「自転車村に入る」(『明治大正史世相篇』)を読む
柳田国男の明治大正史世相篇(1930年)は、大変に面白い本である。
一口で言えば、明治大正期の衣食住に関する日常的な物事の変遷を民俗学的に「記録」しておこうという試みである。
その全体像のいくらかを知るためには、本書の目次を通観するにしくはない。

目次;
1 眼に映ずる世相
  1.新色音論
  2.染物師と禁色
  3.まぼろしを現実に
  4.朝顔の予言
  5.木綿より人絹まで
  6.流行に対する誤解
  7.仕事着の捜索
  8.足袋と下駄
  9.時代の音
2 食物の個人自由
  1.村の香 祭りの香
  2.小鍋立と鍋料理
  3.米大切
  4.魚調理法の変遷
  5.野菜と塩
  6.菓子と砂糖
  7.肉食の新日本式
  8.外で飯食う事
3 家と住心地
  1.弱々しい家屋
  2.小屋と長屋の修錬
  3.障子紙から板ガラス
  4.寝間と木綿夜着
  5.床と座敷
  6.出居の衰微
  7.木の浪費
  8.庭園芸術の発生
4 風光推移
  1.山水と人
  2.都市と旧跡
  3.海の眺め
  4.田園の新色彩
  5.峠から畷へ
  6.武蔵野の鳥
  7.家に属する動物
  8.野獣交渉
5 故郷異郷
  1.村の昂奮
  2.街道の人気
  3.異郷を知る
  4.世間を見る眼
  5.地方抗争
  6.島と五箇山
6 新交通と文化輸送者
  1.人力車の発明
  2.自転車村に入る
  3.汽車の巡礼本位
  4.水路の変化
  5.旅と商業
  6.旅行道の衰頽
7 酒
  1.酒を要する社交
  2.酒屋の酒
  3.濁密地獄
  4.酒無し日
  5.酒と女性
8 恋愛技術の消長
  1.非小笠原流の婚姻
  2.高砂業の沿革
  3.変愛教育の旧機関
  4.仮の契り
  5.心中文学の起こり
9 家永続の願い
  1.家長の拘束
  2.霊魂と土
  3.明治の神道
  4.士族と家移動
  5.職業の分解
  6.家庭愛の成長

この目次に取り上げられた壮大な世界を想起するだけで、私なぞは、何だかワクワクしてくる。
話題は実に広く、衣食住をめぐる具体的な記述のみならず、恋愛の技法や家制度にまで及んでいる。

柳田国男は、その「自序」にて、「毎日われわれの眼前に出ては消える事実のみによって、立派に歴史は書けるものだ」(『柳田国男全集』第26巻、9頁)と豪語している。
これは、やれ秀吉がどうの家康がどうのといった、官製の権力争奪史的歴史観に対する批判であると同時に、「かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためし」(『徒然草』)のない日常的な事象を捉えてこそ、歴史の本質を掴むことができるという宣言でもある。
まさに、「神は細部に宿り給う」という思想の実践であり、これによって、柳田は、明治大正期の「常人」(common people)の暮らしを鮮やかに浮かび上がらせている。

本書が書かれたのは、1930(昭和5)年で、明治62年に当たる。
因みに今年(2012年)は、明治144年。
維新以来の大日本帝国が滅亡したのが明治77年(1945年)。
そういう意味では、今日のわれわれからすれば、柳田がこれを書いたのは、日本近代のおよそ中間地点に当たるということも念頭に置くべきだろう。
そろそろ「昭和平成史世相編」を書き始めてもよい頃かもしれない・・・。

さて、今回は、この本の中の第6章「新交通と文化輸送者」の「2.自転車村に入る」(184頁~)という節を中心に見てみたい。

柳田は、先ず、「1.人力車の発明」(180頁~)の節で、以下のようなことを書いている。
・人力車が西洋の馬車から着想を得て、日本で発明されたこと。
・明治期には、人力車が移動手段として一世を風靡したが、大正期になって、乗合馬車や鉄道の登場によって著しく衰微したこと。
・日本では、牧畜文化が発達していなかったので、意外なことに、人に車を引かせることに抵抗がなかったこと。

なお、人力車については、既に何本か記事を書いたことがあるので、そちらをご参照下されば幸いである。

日本橋
(明治初頭の日本橋絵図。馬車や自転車のほか、いろんなタイプの車輌が意図的に描かれている)

そして、人力車の次に、自転車について書いている。

自転車は最初の内は、移動(実用)手段というよりは、むしろ、娯楽品として、富裕階級の間で愛好された。
当時は、「嗜輪会」などという愛好者団体があったが、『自転車全書』(松居真玄著・1907年刊)などという本格的な自転車の手引き書も出版され始めたという。

自転車全書
(『自転車全書』の復刻版)

このあたりのことは、既に記事にした当時中高生だった志賀直哉の「自転車」という作品がよく伝えているところでもある。

最初に、自転車を「必要品」として用いたのは、「官吏」や「医者弁護士」だったというが、『蝶々夫人』でその後世界的に有名になるオペラ歌手の三浦環(たまき)が学生時代(1900年頃)、自宅から上野の音楽学校(後の芸大)まで自転車で通学したことが非常に話題になって、彼女をモデルにして書かれた新聞連載小説『魔風恋風(まかぜこいかぜ)』が大ベストセラーになった。

「鈴(ベル)の音高く、見(あら)はれたのはすらりとした肩の滑り、デートン色の自転車に海老茶の袴、髪は結流しにして白いリボン清く、着物は矢絣(やがすり)の風通(ふうつう)、袖長ければ風に靡いて、色美しく品高き十八九の令嬢である」(『魔風恋風』より)。

自転車女学生
(自転車に乗る女学生。1903年頃に描かれた絵)

三浦環
(中央の人物が、上野音楽学校生だった頃の三浦環

ちょうどその頃、地方には、自転車の「曲乗り」の巡業が頻繁にやって来たようで、田舎の人にとっては、これが自転車と出会うきっかけだったらしい。

曲乗り
(19世紀末のアメリカの自転車曲芸師。19世紀末から20世紀初頭において、欧米では自転車の曲乗りが大流行したが、これがそのまま日本にも持ち込まれたものと思われる)

しかしながら、しばらくは、自転車は広く普及することなく、柳田の言葉を使えば、「遊民」の娯楽品にとどまっていた。

ところがその後、「国内にも製造が起こり、最初は部分品を(註:海外から)取り寄せて組み上げる職人から、次第に実用向きという工場にまで発展した。それが一方には修繕交換などの業務となって地方にも分散」(184頁)したのであった。

自転車屋明治末期
(明治時代末期頃の自転車屋)

自転車の普及とともに、国産の自転車が現れ始め、各地方の自転車屋組合が主催する県レベルの「自転車大会とか競走会」などが開かれるようになり、次第に自転車も社会的に認知されるようになったようである。
町中でも、自転車を実用品として用いるようになってきた。
その様子を柳田国男は、次のように描き出している。

「町では主として小店員をして、これを利用させることになったのは勘定に合った。商家の見習いは実際は使い走りに日を送っていたので、これが路草を食わぬことになると、入用の人数を半分にすることもできたからである。その他の多くの職業においても、途上に費やして棄てた勤労は皆省かれ、人は遠くへ出て働くことができるようになった」(185頁)。

電話がなかったこの時代、店の丁稚たちの主だった仕事は、細々とした「使い走り」だったのだが、自転車を使わせることによって、労働力の削減に貢献したことや、自転車通勤によって、以前よりも遠い職場に勤めることができるようになったことが指摘されている。

また、これに続いて、驚くべきことに、こうも書かれている。

「日返りの道程が倍にも延びて、旅館の必要がよほど減じて来た」(185頁)と。

つまりは、以前ならば、泊まりで往復する行程も、自転車の登場によって、旅館の利用客が大いに減少するという現象さえ起こったとのことである。
これらは、この当時としては、自転車こそが、陸上を自由に移動する手段としては、最も早い乗り物だったということを念頭に置かなければ理解し得ない事柄である。
やがて、村々でも、女髪結いや産婆も、自転車を利用し始めることになる。

産婆
(自転車に乗って妊婦宅に駆けつける産婆さん。大正時代)

同時に、農村にも自転車がかなり普及しはじめた。
ところが、家から田畑に仕事に出る際には、農具や収穫物を自転車で運ぶことができなかったので、実用には向かなかった。
しかも、当時は「自転車税」が課せられていたため、使わないのに自転車を所有しているのもモッタイナイということで、隣組での自転車の共用が行われた。
「東京四周の平地の多い県などでは、おのおの何万という農民が自転車税を課せられている」(186頁)。
因みに、明治初頭に発足した自転車税が撤廃されるのは、戦後(1958年)になってからであった。

「珍しい事実は日本だけに限って、後車を附けた自転車の盛んになっていることである。これをリーアカーなどと舶来のように考えているが、これもまた一種の人力車に他ならぬのであった」(186頁)。

大量の荷物を積載できないという自転車の弱点は、リアカーという日本独自の発明品によって克服されたということであるが、これは、人力車からの発想であったというところが面白い。

リアカー
(リアカー)

柳田国男は、このリアカーの操縦法について、面白い記述をしている。

「これ(リアカー)も市中に流行ったのは簡単な小形であったが、弘く農村に入ってからは路いっぱいの大ぶりなものになった。この操縦だけは輸入でも伝授でもない。元来人込みの中を器用に通る技能を、よく練習していた国民ではあるが、これでまた新たにむつかしい実験を添えた。走る力と前を行くものの動き方、通れるか曲がれるかの寸法の目分量、ほとんと尻に眼があるかと思うほどの気働きをもって、新たに間を測り程合を考えることなどは、学校以上の重要な教育であった」(187頁)。

自転車にリアカーを取り付けると、まるでトレーラーカーを運転するときと同様の難しさが生じる。
いわゆる前後輪差が出てくるからである。
ところが、昔から狭い道をうまく通り抜けることに長けた日本人ならでは、これを上手に操縦しているというのである。

そして、最後に、柳田はこんな指摘をしている。

「村に自転車が入ってから、若い者がとかく出あるいてこまるということを、こぼしている年寄りは多いようである」(187頁)。

自転車を得た若者は、これまで徒歩では容易に行けなかった町に遊びに行ってしまうという現象である。

これもまた、既に指摘したように、この当時としては、自転車こそが、陸上を自由に移動する手段としては、最も早い乗り物であることの証しである。

かくほどさように、自転車が世間に入ってからは、主として、移動できる範囲が広まることによって、人々の生活に比較的大きな変化をもたらしたことが分かるのである。

(この項、了)

底本;『柳田国男全集』第26巻(筑摩文庫)
参考URL;
http://www.eva.hi-ho.ne.jp/ordinary/JP/shiryou/shiryou.html

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2012.05.13 Sun
「帝釈道」を追走する~葛飾区内の古道まとめ
ずいぶん前に書いたもので恐縮だが、「旅する『望郷』としての寅さん」という記事の中で、旅先から東京に戻った寅さんが上野駅からどういう経路で柴又の家まで帰ったのかということを問題にしたことがあった。

つまりは、上野から常磐線金町駅経由だったか、はたまた、京成本線高砂駅経由だったかという話。

それとは別として、最近になって、漱石の『彼岸過迄』(1912年作)を読んでいたら、次のような一節に出くわしてはっとした。

「この日彼らは両国から汽車に乗って鴻の台(註:「国府台」)の下まで行って降りた。それから美くしい広い河(註:「江戸川」)に沿って土堤(どて)の上をのそのそ歩いた。敬太郎は久しぶりに晴々した好い気分になって、水だの岡だの帆かけ船だのを見廻した。須永も景色だけは賞めたが、まだこんな吹き晴らしの土堤などを歩く季節じゃないと云って、寒いのに伴れ出した敬太郎を恨んだ。早く歩けば暖たかくなると出張した敬太郎はさっさと歩き始めた。須永は呆れたような顔をして跟(つ)いて来た。二人は柴又の帝釈天の傍まで来て、川甚という家(うち)へ這入って飯を食った。そこで誂らえた鰻の蒲焼が甘たるくて食えないと云って、須永はまた苦い顔をした」(夏目漱石『彼岸過迄』より)

この二人の人物は、「旅する『望郷』としての寅さん」の中で、その経路の選択肢として、私が最初から排除してしまった「国府台」経由で江戸川土手側から柴又帝釈天に入っていることに驚いた。

つまりは、現JRの「両国駅」から総武線に乗って、ほぼ間違いなく市川駅で降りて、国府台まで出た後、土手沿いを北上し、文中には触れられていないが、「市川の渡」か「矢切の渡」を渡って(まだ江戸川に一本も橋は架かっていなかった由)、柴又に入ったことになる(因みに、まだ京成電鉄は存在していなかった)。

帝釈天明治43年
(『彼岸過迄』の頃の帝釈天界隈地図。赤丸が市川駅、黄丸が国府台、青丸が帝釈天。もちろん、江戸川にはまだ橋がかかっていない。明治43年頃)

この小説の人物たちが辿った経路が、当時として、どれほど一般的なものだったのかは分からない。
もしかしたら、柴又に行くついでに、江戸期以来、名所として名高かった国府台も見ておきたいという人も多かったのかもしれない。

国府台
(江戸期の国府台。広重「鴻の台とね川風景」・鴻の台=国府台、とね川=江戸川のこと)

とはいえ、やはり、一番手っ取り早かったのは、上野駅から常磐線で金町駅に出て、京成金町線の前身たる「帝釈人車軌道」で柴又に出るという経路だったにちがいない。

しかし、鉄道が敷設される前の時代は、東京(江戸)方面から柴又帝釈天をお参りするには、1.水戸街道→帝釈道か、2.千葉街道→篠崎街道かのいずれかを徒歩で辿るのが主たる道筋だったであろう。
現在の自転車乗りが、美味しい名店を求めて数十里を走るように、昔の人は、名にしおう各地の神社仏閣を目当てに数十里を歩いたもののだが、江戸期以降、柴又帝釈天もそのひとつであった。

ということで、今更ながらかもしれないが、今回は新宿(にいじゅく)あたりで旧水戸街道から分岐するいわゆる「帝釈道(たいしゃくみち)」を追走してみた。
「帝釈道」というのは、もちろん、柴又の「帝釈天題経寺」(葛飾区柴又七丁目)に参るための古道のこと。

先ず、その経路図を示しておこう。


(「帝釈道(たいしゃくみち)」)

帝釈道(たいしゃくみち)」の西側の出発点は、はっきりしていて、しかも、現在でもそこには明治30年に建立された立派な石の道標が立っている(地図)。

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(旧水戸街道沿いに建っている「帝釈道」の道標。明治30年建立・地図

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(道標の指し示す方向は、人間の手の形で象られている)

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(この石の道標を拵えたのは、亀有村の石工、「森田常作」と彫られている)

先ずは、この道標から南東方向にのびる道を辿ってみよう。

IMG_0407.jpg
(道標から南西方向にのびる道。因みに、左右に横切っている道は、旧水戸街道=陸前浜街道)

すると、すぐに「新金貨物線」の踏切を渡ることになる。

IMG_0411.jpg
(「新金貨物線」の踏切・地図

ここを通過する際は、是非とも、この踏切名に注目してほしい。

IMG_0410.jpg
(踏切名は、「柴又踏切」・地図

何と、「柴又踏切」という踏切名なのである。
この踏切のある地番は、葛飾区新宿(にいじゅく)4丁目で、「柴又」ではないにもかかわらずこの名称が与えられていることこそ、紛れもなく、ここが柴又帝釈天に至る古街道であったことを物語っているのである。

この踏切を渡って100メートルぐらい直進すると、交通量ばかりが多くて味気ない幹線道路(国道6号線)にぶつかるので、それを渡る。

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(国道6号線を渡る。道の向こう側に見える白い建物は「葛飾区立新宿図書館」)

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(いかにも旧街道らしくくねっている帝釈道)

やや進むと二股の道が現れるが、ここは左の方に行こう。

IMG_0419.jpg
(二股の道は左へ・地図

この二股の道の右の方は、実は、元々は水路(「小岩用水」)だった所で、ちょっと北側には、申しわけ程度に水路の痕跡が残っている。

IMG_0418.jpg
小岩用水の名残)

また、ここの交差点には、そもそも水路が流れていた頃に架かっていた橋の名残も残されている。

IMG_0417.jpg
(水路が流れていた頃の橋の跡。「長次郎橋」)

ついでだが、この「小岩用水」は、上記地点から南は、ほぼ全線暗渠化されてそのまま道路となっている。
道なりに南下すると、旧江戸川沿いの「前川神社」付近(江戸川区江戸川1丁目・地図)まで辿ることができる。
中川大橋東(国道6号線)あたりから、江戸川下流付近へと直接に抜ける最短ルートでもあり、交通量が多くないので、自転車でも大変走りやすいことも書き添えておこう。

さて、帝釈道をさらに先に進もう。
ここから先は、やや道幅が広くなる。

IMG_0421.jpg
(やや広くなる道幅)

しばらく走っていくと、6差路(地図)に出るがここは、迷うことなく直進すべし。

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(6差路は直進・地図

6差路を越えると、また道幅は狭くなるが、お陰で、クルマもあまり進入して来ないのかもしれない。

IMG_0423.jpg
(すると、再び、道幅がやや狭くなる)

先ほどの6差路から400メートルほど進むと、今度は、変形5差路(地図)が現れるが、これは左折して大通りに入ればよい。

IMG_0425.jpg
(変形5差路は左折して大通りへ・地図

左折するとすぐに、左に「柴又八幡神社」(境内に6世紀の古墳跡あり)が見えてくる。

IMG_0427.jpg
(「柴又八幡神社」)

すぐに京成金町線の踏切が見えてくるので、そこを渡る。

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(京成金町線の踏切を渡る)

IMG_0429.jpg
(すぐ右手には、私のお気に入りの「ゑびす家」が見える)

さらに、柴又街道(「柴又帝釈天前」交差点)を渡って、そのまま直進すれば、帝釈天の山門の側面に辿り着く。

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柴又帝釈天山門)

さらに、そのまま直進して江戸川土手に上がれば、江戸川CRに乗ることもできる。

IMG_0434.jpg
(江戸川CRにも容易に接続)

さて、これまで、葛飾区内の古道・旧道についていくつかの記事を書いてきたが、ここに一枚の地図にまとめておこう。

帝釈道
(青丸が帝釈天。赤線が「帝釈道」、緑線が「旧水戸街道」、黄線が「旧佐倉街道」。明治末期の地図を使用)

これらの古道は、自転車でも走りやすく、しかも、ショートカットするにも重宝な道なので、是非、利用していただきたい。
なお、この地図の範囲より南を通っている「古東海道」については、以下をご参照のこと。
http://danchotei.blog75.fc2.com/blog-entry-320.html

(この項、了)

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2012.05.11 Fri
新ソラの正体やいかに~画期的なSTIレバーの刷新
今年度、シマノはついにデュラエイスの11速化(9000シリーズ)に踏み切るようである。
まあ、ライバルのカンパニョロ社に対抗しての新製品開発ではあろうが、これで、従来の10速仕様のコンポとの互換性がかなり失われるのは確実である。
また、11速化されれば、チェーン(タイヤにつぐ消耗品)やスプロケは間違いなく高額化するので、無償で部品が支給されるプロの競走屋さんはいざ知らず、多くの趣味の自転車乗りにとっては、百害あって一利なしの改変だと言えよう。

デュラ9000
(デュラ9000のクランクセット)

とまれ、これからの一生涯、9速仕様で通そうという私なぞは、今回のデュラの改変は雲の上の出来事であって、せいぜいがこの11速仕様の波がデュラとアルテグラあたりだけで留まってほしいと祈るのみである。

そんなデュラの新製品よりも、私にとってはるかに関心があるのは、やはり今年度モデルチェンジされることになったソラ(3500シリーズ)の方である。

現ソラ(3400シリーズ)は、コンポーネント(グループセット)としては、デュラ→アルテグラ→105ティアグラ→ソラという「階梯」の中で、最底辺に位置するとは言っても、私の考えでは、コストパフォーマンスとしては最高峰である。
重量的には確かに上位グループより劣るものの、性能的には、これといって遜色があるわけではない。

目隠しをされて、たとえば、アルテグラ組みとソラ組みの自転車の性能の違いを判別できる人がいったいどれだけいるであろうか。
大抵の人は、より高価な製品というだけで、何の根拠もなしに、少しでも上のグレードの部品をその価格差の分だけ優れた製品であると思い込んでいる(あるいは、そう思いたい)だけなのではないだろうか。

そんな人に限って、RDさえまともに調整することさえできない場合が多いのはなぜか・・・。
よく調整されたソラ組の自転車の方が、調整が疎かなデュラ組みの自転車よりも、はるかによく走るのは当然のことである。

1996年に開発された77デュラ以降の9速メカニズムは、私見では、かなりの完成度を達成していると思うし、昨年、ティアグラ(4600シリーズ)が10速化されて以降、ソラこそが9速の最後の砦だったわけなので、先ず第一に、新ソラが10速化されなかったことが、私にとっては何よりもありがたいことだが、まあ、これは「改変」とは言えない。

ソラ完成車
(新ソラ組み完成車見本)

以下、新ソラの改変事項を箇条書き風に列挙してみよう。

一番画期的な改変は、STIレバーである。
従来の親指シフトから上位機種と同様のシフトアップレバーの方式がついに採用された(オプティカル・ギア・ディスプレイ・何段に入っているかを示す目盛りは現ソラのそれをきちんと継承)。

ソラSTIブレーキ
(新ソラのSTIレバー。上位機種と同様のシフトアップレバーの方式となった)

しかも、この新STIレバーは、驚くべきことに、Vブレーキにも対応していることである。

ソラSTI
(新ソラのSTIレバー。レバー軸の「モード・コンバーター」を切り替えることによってVブレーキにも対応)

ブレーキレバー軸の「モード・コンバーター」を切り替えることによって、従来のマウンテン用のVブレーキにも対応できるということである。
これまで、Vブレーキ仕様の自転車(クロスバイクなど)をドロップハンドル化する際の「鬼門」になっていたブレーキ互換の問題が、これで簡単に解決されるわけである。

それに伴い、シマノ社はこの度、ロード用のVブレーキ(「コンパクトVブレーキ」)も製品化することにした(たぶん、他社製のいわゆる「ミニV」のようなものだろう)。

ソラVブレーキ
(「コンパクトVブレーキ」。 BR-R353-S compact V-brake)

なお、ブレーキ関係で言えば、フラットバー用の新ブレーキレバーも発売されるとのことである。

なお、シフトケーブルについては、105以上の機種が実現しているような、テープ内に巻き込めるタイプではない。

次は、クランクセット。
それほど大きな改変とは言えないが、標準で、46-34t(「スーパーコンパクト」クランク)のクランクセットが製品化されることになった。

ソラ46-34
(新ソラクランクセットには、「スーパーコンパクト」として46-34tギアのセットもラインナップ)

アウターギアを46tぐらいにできれば、私のような貧脚ライダーや女性ライダーのように、時速40キロ以上で走る必要が滅多にない人にとっては、大変にありがたいことである。

この46tギア利用は、これまでも、CXシリーズ(シクロ用コンポ)の部品を援用することで可能ではあったが、新ソラとして製品化されることで、単品として求めやすくなったばかりか、完成車に採用されることになるだろうから、以前にも増して、ロードバイクの世界に近づきやすくなるだろう。

ソラクランクセット
(新ソラのクランクセット)

ソラfd
(新ソラのクランクセット。もちろん、各種歯数対応のFDも刷新される)

また、新ソラには、12-30tや11-30t(もちろん、いずれも9速)の新スプロケが加わるほか、それに合わせるように、RDも30t対応になる。

ソラRD
(30t対応の新ソラのRD)

新ソラの発売時期は、まだ正式に発表されてはいないが、5月から7月にかけて、部品ごとに順次発売されるようである。

ついでだが、ソラ以外のシマノ社の新製品情報も少々。

・ロード系シリーズとして、ソラの下に新たに「ターニー」が誕生する。
・アルテグラのRDが30t対応に。
・105とティアグラのRDが32t対応に。

ターニーSTI
(ロード系新コンポ「ターニー」も誕生)

続々の新製品、これから夏にかけて楽しみである。

以上、英国の総合自転車サイト『バイクレイダー』の記事を参照にした。

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2012.05.10 Thu
「春うらら・銚子一泊サイクリング」記~雨ニモマケズ
5月4日から5日にかけて、チーム東葛の皆さんと「春うらら・銚子一泊サイクリング」に参加した。

これほどの多人数(約10名)で宿泊サイクリングに行くのは初めてだったのだが、とにかく個性的な面々が勢ぞろいした今回のサイクリングは、まるで珍道中ものよろしく、面白いおしゃべりや出来事の連続で、心底楽しかった。
ご参加の皆さん、いろいろとありがとうございました。
近いうちに、また、第2弾をやりましょう!(輪行がらめの日帰り仕様なら案外簡単にできますね・・・)。

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(雨にも負けず、風にも負けず、空腹にも、坂の険しさにも負けずに、犬吠埼に到着)

1日目は、出発地点の「葛飾橋」付近から、国道やサイクリングロードを一切使わずに、県道・農道などを走り継いだ(愚兵衛さんに感謝)。
曇り時々雨の天候で、雨足が強くなると雨宿りも強いられたが、簡易合羽(100円ショップ製など)でどうにか凌ぐことができた。

2日目は、晴天。主として、銚子市内観光に専念し、帰路は昼下がりの列車で輪行(宴会列車)。

以下、二日間の行程を簡単に記しておこう。

1日目(走行距離「葛飾橋」より約135キロ):「八千代・道の駅」→佐倉→高崎川・手繰川流域(愚兵衛さんのご案内)昼食は、11時頃、「しょうね家」(讃岐うどん・富里)→県道45号→国道126号の抜け道ルート→飯岡海岸(漁港)→飯岡灯台(刑部岬)→国道126号の抜け道ルート→屏風ヶ浦→犬若海岸(「犬岩」)→長崎海岸→「外川駅」(銚子電鉄終点駅)→犬吠埼灯台→夕食「かみち」(銚子駅前)→「太陽の里・一望の湯」泊(館内の居酒屋で宴会)

下総の里山
(下総の里山を快走)

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(昼食は、富里の「しょうね家」)

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(飯岡灯台・刑部岬からの荘厳な風景)

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(飯岡灯台・刑部岬から太平洋を望む)

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(屏風ヶ浦)

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(雨に煙る犬吠埼遠望)

外川駅
(「銚子電鉄」終点、外川駅)

お袋
(何と、外川の街では、路傍を歩行中の私のお袋に遭遇。驚愕すべき偶然である。kincyanさん撮影)

かみち
(夕飯は、駅前の「かみち」で)

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(「太陽の里・一望の湯」にて泊)


(佐倉から八日市場まで・国道296号の抜け道。実際に走った経路とはやや異なる。このルートに関する解説は、ここをご参照)


(国道126号抜け道ルート・古街道を辿る。実際に走った経路とはやや異なる。このルートに関する解説は、ここをご参照)

なお、1日目の走行ルートについては、kincyanさんによる次のルート図が完璧なものである。
http://latlonglab.yahoo.co.jp/route/watch?id=e79aeccbbe7645e47bb766777c887d59

2日目(走行距離約45キロ):7時出発。犬吠埼灯台→「犬若食堂」(朝食)→「渡海神社」(奈良期創建・極相林)→「妙福寺・藤祭り」→ヒゲタ醤油見学→銚子電鉄機関庫(仲の町駅)→銚子大橋(見るだけ)→銚子漁港→利根川河口→「飯沼観音」(「さのや」の今川焼きを食す)→「銚子ポートタワー」(登らない)→「ウォッセ21」→「海鹿島海岸」→「君ヶ浜」→「若松食堂」(銚子駅前)→「セレクト」(物産店・銚子駅前)→銚子駅(輪行・14:29銚子発の総武本線普通)

ご来光
(宿からのご来光)

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(出発を前に、宿の前で泥だらけの自転車を洗車中)

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(昨日とは打って変わって晴れ渡った早朝の犬吠埼へ)

怒濤めぐり
(犬吠埼下の怒濤めぐり)

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(朝食は、「犬若食堂」)

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(刺身とかき揚げとフライの盛り合わせでご飯をもりもり)

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(「渡海神社」鬱蒼たる極相林が繁る)

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(妙福寺の藤棚)

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(「銚子電鉄」仲の町駅の記念板)

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(「銚子電鉄」仲の町駅)

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(銚子電鉄旅客運賃表)


(二日目の銚子周遊ルート。実際に走った経路とはやや異なる)

なお、もっと詳しいレポートは、参加者の以下のリンクをご参照のこと。

*参加者とそのブログのリンク集

・Gibsonさん

http://blog.livedoor.jp/gibson1798/archives/51664489.html
http://blog.livedoor.jp/gibson1798/archives/51664533.html
・NOBさん
http://nobnojitensyablog.blog.so-net.ne.jp/2012-05-05-1
・kincyanさん
http://blog.livedoor.jp/liveokubo/archives/52012645.html
・emoさん
http://emochin.blog.shinobi.jp/Entry/72/#more
・dadashinさん
http://sasa06.blog92.fc2.com/blog-entry-553.html
・愚兵衛さん
たすけさん
・テガさん
・TCR-Nさん
・IWAさん

・「画像掲示板」
http://8217.teacup.com/teamtoukatsu/bbs/t6/l50

二日間の走行距離:189キロ

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