日々の身辺雑記や考えたことなどを徒然なるままに書き連ねる「断腸亭日録」です。
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断腸亭日録~自転車日記
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2011.07.31 Sun
「旧街道を辿る赤線地帯サイクリング~向島老舗和菓子三昧」(8月13日)のお誘い
*「旧街道を辿る赤線地帯サイクリング~向島老舗和菓子三昧」(8月13日)のお誘い

厳冬(1月下旬)の「本懐!サイクリング~赤穂浪士引き揚げルートを走る」からおよそ半年経過しました。
盛夏の企画として相応しいかどうか分かりませんが、標記の如く「旧街道を辿る赤線地帯サイクリング~向島老舗和菓子三昧」という、いささか分裂症気味の企画を立ててみました。
まあ、お盆中なので、幾分かは都内の交通量が少ないこの時季に「墨東」を走るのもよい機会かもしれません。

本企画の趣旨は3つ。
1.旧水戸街道、古東海道、旧奥州日光街道の3つの旧街道を辿る(国道6号線は100メートルぐらいしか走りません)
2.墨田の「鳩の街」「玉ノ井」、足立の「千住柳町」の3つの赤線地帯を訪ねる
3.向島で名高い「長命寺桜餅」、「言問団子」、「日本一の吉備団子」の3つの老舗和菓子を食す

お昼は、下町名物「激安250円弁当」と買い集めた和菓子を持って、「向島百花園」で食べることにします。

ご参加の方は、コメントにその旨をお書き下さい。
あるいは、下記BBSにコメントをいただいても結構です。
http://www.teamtoukatsu.com/bbs/read.cgi?no=80

期日:8月13日(土)
集合時間場所:午前9時半、水元公園(葛飾区)内噴水広場
地図;

http://www.mapfan.com/m.cgi?MAP=E139.52.22.9N35.46.52.4&ZM=12
予定走行距離:40キロ未満
解散予定時間:16時前後
荒天中止


自転車種は、ママチャリからロードまで何でも大丈夫だと思いますが、途中、あちこちで止まりますので、取り回しの良い自転車が最適かと思います。
なお、赤線地帯は、現在は「営業」していませんので、あらかじめご了承下さい。

・予定ルート(当日の具合を見て適宜変更するも有)
水元公園(噴水広場)→金町関所跡→旧水戸街道(葛西神社)→江戸川CR→古東海道(葛飾・墨田区)→榎本武揚銅像→隅田川神社(東白髭公園)→木母寺(東白髭公園)→白髭神社→「玉ノ井」(赤線1)探訪→地蔵坂通り(子育て地蔵尊)→幸田露伴旧居跡→「鳩の街」(赤線2)探訪→向島花柳界→見番通り(芸妓の管理所あり)→弘福寺(若き勝海舟が通った禅寺)→長命寺桜餅(和菓子1)→言問団子(和菓子2)→墨田区少年野球場(王貞治少年が練習した野球場)→日本一の吉備団子(和菓子3)→下町名物激安250円弁当を買って→向島百花園(入園料150円)で昼食(買い集めた和菓子123をデザートとする)→白髭橋→千住大橋(船着き場)→旧奥州日光街道→奥のほそ道・矢立の碑→千住宿→「千住柳町」(赤線3)探訪→千住新橋→荒川CR→旧水戸街道(水戸橋から)→葛西用水路→「葛飾区郷土と天文の博物館」の「古代東海道と万葉の世界 ―かつしかに都と陸奥を結ぶ古代の東海道が通っていた―」展を見学(入館料:100円)→葛西用水路→旧水戸街道→モツ焼き街道→金町駅→水元公園(解散)

では、よろしくお願いします。

IMG_0048_20110731070246.jpg
(墨東の路地)
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小さな旅(自転車)    Comment(27)   TrackBack(0)   Top↑

2011.07.29 Fri
墨田区内の古東海道を走る~関東最古の四辻か?
葛飾区の広報を見ていたら、葛飾区郷土と天文の博物館で「古代東海道と万葉の世界 ―かつしかに都と陸奥を結ぶ古代の東海道が通っていた―」という、私にとっては鼻血が出そうなぐらい興味深い企画展をやっていることが載っていた。

IMG_0278_20110729115809.jpg
(「古代東海道と万葉の世界」展。古代の東海道が、畿内の都から多賀城(宮城)までの間に、葛飾の立石を通っていたことを示す図案。9月4日まで)

葛飾区郷土と天文の博物館は、私の通勤ルートの一つである葛西用水路(旧曳舟川)沿いにあるので、さっそく通勤の途中に寄ってみることにした。

IMG_0277_20110729115641.jpg
(葛飾区郷土と天文の博物館の玄関。入館料:100円)

今回の企画展では、古代(上代)から近世までの「官道」(江戸期の五街道を含む)が、どのように造営され、また、時代とともにそのルートがどのように変遷したきたかということを、地図や説明板や遺物によって示そうとしたものである。

IMG_0288.jpg
(企画展の会場)

IMG_0289.jpg
(静岡県で発掘された上代の東海道跡の写真)

そもそも、街道の歴史には興味があるので、私としては、大変に面白く見ることができたが、葛飾区内から出土したの展示物があまり多くないこと、東海道全体の変遷地図が小さすぎること、また、当時の地名が現在のどこに比定できるのかという、研究成果からの詳しい説明も多少はあってもよかったと思う。
たとえば、各時代の箱根越えのルートにしても、現在のルートと異なることは分かるが、そんなことは、百科事典でも調べられるわけで、箱根のような、関東の人になじみ深い地域に関しては、もっと詳細な展示が求められるところである。
また、『奥のほそ道』でも有名な多賀城碑の原寸大レプリカを展示するのは悪くないが、葛飾区の「郷土」博物館なのだから、もっと地元を「定点」化するような方向性がほしかったと思う。

古東海道については、ブログでも何回か書いたことがある(たとえば、この記事)ばかりでなく、葛飾区内の古東海道は、その一部を毎日のように自転車通勤で走っているので、私にとっては馴染み深いものであるが、この展示会を見て、私の古街道探索熱に再び火がついた。

葛飾区内の古東海道は、何回も走ったことがあるので、今回は、墨田区内の古東海道を探索してみることにした。
今回触れるのは、墨田区内だけだが、葛飾・墨田両区に跨る古東海道の経路地図を先ず示しておこう。


(葛飾墨田の古東海道。東から西へのルート。荒川放水路の部分だけは、辿ることができないので、四ツ木橋を渡って迂回するしかない。葛飾と墨田区内においては、古東海道のほぼ九割ぐらいは、現在でも現役の道として使われている。荒川になった部分だけは、完全に水没して消滅)

もう一つ、まだ、荒川がなかった明治時代の地図上に、古東海道をなぞった地図も作ってみたので、以下の記事をお読みになる際に、適宜ご参照のこと。

古東海道
(明治時代の地図に、古東海道[赤いドット]を示してみた。ついでに、旧水戸街道[青いドット]も示しておいた。もちろん、まだ荒川は存在しない)

今回の出発地点は、荒川土手沿いの「ほがらか保育園」(墨田区墨田4丁目)である。

IMG_0238_20110729162618.jpg
(「ほがらか保育園」・地図

私の自転車が置いてある正面の道が、古東海道である。

この道は、荒川土手のすぐ下から延びている。

IMG_0240.jpg
(土手の上から見下ろしたところ)

土手のこの箇所にはちゃんと階段がついている。
旧水戸街道の場合もそうだったが、荒川が開削された際に、主要道が分断されたときは、その分断された箇所には、昔の「名残(乃至は、罪滅ぼし)」とでも言うべきか、土手に階段がついていることが多い。

土手に登って、対岸の葛飾区(四ツ木3丁目)を眺めてみよう。

IMG_0239.jpg
(対岸の葛飾区側を眺める)

そうなのである。
当然のことながら、荒川(放水路)ができる前は、この道は、葛飾区側の古東海道とつながっていたものである(地図)。

ところで、今から950年ほど前の1180(治承4)年の9月初旬、この道を数万の大軍勢を率いて隅田川に向かっていた者がいた。
源頼朝その人である。

同年の8月、伊豆で挙兵した頼朝は、よく知られているように、石橋山の戦いで敗走して、真鶴から船で脱出。
駿河湾と相模湾を渡り、安房勝山に上陸する。
その時、僅か12騎だったという。
その後、上総を抜けて、下総街道を北上するにつれて、頼朝の挙兵を聞きつけた東国の武士たちがどんどんと結集しはじめて、現在の矢切(松戸市)あたりから江戸川を渡った(柴又あたりだと言われている)頃には、驚くべきことに、数万という大軍勢に膨れあがっていたらしい。

今、その道を私は一人で自転車で走ってみようとしている(とは言っても、残りはたった1キロ余りだが)。

だからと言って、この道が古道である縁(よすが)は、今となっては、まったくない。
下町の住宅街を通っている、ごく普通の一般道のようにしか見えない。
しかし、当時は、現在住宅などが建っているところはすべて、葦原や蓮田や水田であったろう。
湿地帯の中をまっすぐに一本道がついているような光景だった。

右に墨田変電所などを見ながら少し走ると、東武伊勢崎線の踏切にぶつかる。
この踏切上で鐘ヶ淵通り(1927年に造られた道)と交差する。

IMG_0241.jpg
(いつも混雑している鐘ヶ淵の踏切・地図

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(踏切を渡ってさらに直進)

踏切を渡ってから200メートルほど進むと、小さな十字路にぶつかる。

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(墨田区墨田2丁目の交差点。交差点名無し。地図

この交差点は、一見何の変哲もないように見えるが、おそらく東京でも、いや関東でも最古の四辻のひとつと言ってもよいかもしれない(官道の四辻として)。

ここの古東海道は、既に「太政官符」(835年)に「住田宿」の渡し(現「東白髭橋公園」付近)のことが記されていることから推測できるように、9世紀半ばには存在していたのは間違いない。

そして、この四辻で交わるもう一方の道は、「鎌倉街道下ノ道」(鎌倉~常陸)なのである。
ということは、こちらも、遅くとも12世紀には造営されていた官道ということになるので、この四辻は、約千年近くの歴史をもつことになる。
都心の名だたる大交差点の類なぞ、束になってかかっても敵わないほど古いのである。

この「鎌倉街道下ノ道」について書き出すと、また長くなりそうなので、ここでは詳しく触れないが、江戸以降の旧水戸街道の基礎になった道だと考えられる。
これについては、いずれきちんと走ってみてから書くことにしよう。

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(「鎌倉街道下ノ道」の南方向。東向島に出る)

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(「鎌倉街道下ノ道」の北方向。「多聞寺」あたりで荒川土手にぶつかって消滅)

さて、われわれは、古東海道を直進しよう。

この四辻を過ぎると、道幅がやや狭くなる。

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(四辻を渡った後、道は狭くなる)

そして、両側から木々がこんもりと繁っているところで墨堤通りとぶつかって、一端は途絶する。

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(墨堤通りとぶつかる・地図

昭和30年代までは、ここも、墨堤通りと四辻を形成していたはずだが、現在は、環七によくあるような中央分離柵に阻まれて、直進することはできない。
仕方がないので、近くの信号機まで行って、墨堤通りを渡って回りこむ。

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(ちっとも面白くない墨堤通り)

回りこんで、墨堤通り越しにさっき出てきたあたりを見る。

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(墨堤通りをはさんで道の向こう側を見る。木が茂っているあたりが先ほどの場所)

墨堤通りをはさんで正面あたりにあるのは、巨大集合住宅団地の正面玄関のようなところで、ちょうどその場所に、以前の記事でも触れたことのある榎本武揚の銅像が立っている。

IMG_0250_20110729204708.jpg
(巨大集合住宅団地の正面玄関に立つ榎本武揚像)

この玄関アプローチこそが、古東海道ということになる。
幕末明治期に国家の枢要を担った榎本武揚であればこそ、古(いにしえ)の東海道を睥睨するに相応しいと考えることもできそうではあるが、現場に行くとさにあらず、集合住宅の住民たちのお出迎えをしている老人のようにしか見えないのは、まったくもって気の毒なことである。

さて、私は、自転車を引っ張って、玄関アプローチを登ってみる。
すると、玄関室が向こうに抜けられるようになっていて、その向こう側には東白髭公園が光っていた。
(近傍「玉ノ井」に縁のある永井荷風に因んで、ここにも「ぬけられます」という看板を出してほしいものである)。

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(玄関ホールそのものが古東海道になっている。珍しい例ではないか)

墨田区内の古東海道は、この玄関ホールをもって終わる。

この集合住宅ができる前は、古東海道のほぼ直線上に「隅田川神社」があって、その神社こそ、9世紀半ばには存在していた「住田宿」があった場所だと比定されているのだが、団地の造営に伴って、現在は、200メートルほど南に移築されてしまっている。
隅田川神社は、古東海道上にあってこそ、意味があるものなのだが・・・。

IMG_0254.jpg
(現在の隅田川神社)

たかがゼネコンに儲けさせるだけがねらいの団地建設のために、こういう重要な文化財の位置を勝手に動かしてしまう。これも、また、日本における近代とは何であったかを如実に物語る幾万例の一つではある。

源頼朝の話しに戻る。
1180年9月中旬、現在の東白髭公園や東向島一帯には、数万の軍勢が隅田川を渡るためにひしめき合っていた。
対岸には、江戸氏(武蔵国)の軍勢が対峙していて、頼朝軍の渡河を阻もうとしていたからだ。
しかし、頼朝の強気の交渉術の結果か、江戸氏も頼朝側に参戦することになり、舟橋を造って、大軍勢が隅田川を渡ることになる。
この渡河だけで、2週間以上を要したという。
長期間、大軍勢に居座られた地元の村人にとってはえらく迷惑なことであったろう。

IMG_0253.jpg
(東白髭公園)

参考文献:鈴木都宣『墨東向島の道』(文芸社刊、2000年)

お知らせ;
来たる8月13日(土)、「旧街道を辿る赤線地帯サイクリング~向島老舗和菓子三昧」を行います。
詳細は、下記BBSをご覧下さい。
http://www.teamtoukatsu.com/bbs/read.cgi?no=80
よろしくお願いします。

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2011.07.25 Mon
荷風「寺じまの記」を追走する7~バス停「小松嶋」の謎
永井荷風の「寺じまの記」について、続きがだいぶ滞ってしまった。

前回の記事で、「墨田堤」と「地蔵坂」の中間に位置したと思われる「小松嶋」というバス停の所在地に対して、いささかの疑義があるということを書いた。

「車は小松嶋(こまつしま)という停留場につく。雨外套の職工が降りて車の中は、いよいよ広くなった。次に停車した地蔵阪・・・」(251頁)。

私には、どうしても、「小松嶋」と「地蔵坂」のバス停の順番が逆であるような気がしてならないのだが、いずれ京成電鉄に問い合わせて、当時のバス(乗合自動車)路線図を調べてみるしかないだろうか・・・。

さて、その「小松嶋」であるが、やっと調べがついた。
いや、調べがついたのはバス停としての「小松嶋」ではなくて、このバス停名の由来となったと思われる小松嶋の方であるが。

過日、「すみだ郷土文化資料館」の閲覧室で鈴木都宣著『墨東向島の道』(文芸社、2000年刊)という、向島界隈の道の歴史を詳述した好著と出会って、さっそく注文したけど絶版だったのが、電子書籍で購入することができた(電子書籍を購入するのは初めてだが、検索ができるので便利)。

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(「すみだ郷土文化資料館」。墨東文化史を調べるならここ。入館料100円)

この本によると、「小松島」(と表記)というのは、「白髭橋の袂の南側」あたりにあった庭園のことで、宮城の松島を模した池が配されていたという。開園したのは、明治11年だったが、大正期には放置されたままになって、近傍の子供たちの遊び場になっていたという(同書152頁)。
つまり、荷風が訪れた昭和11年には、小松島庭園は、いわば、廃園として残存しており、バス停の名に引き継がれたということだろうか。

では、この辺りのことを地図で確認してみよう。

小松島
(左が明治期、右が昭和30年代の地図。赤丸が、小松島のあった場所)

なるほど、左の明治期の地図を見ると、二つの瓢箪を合体させたような形の池を中心に庭園らしき物が確認できる。
しかし、戦後の地図では、庭園は跡形もなく消滅して、工場になっていることが分かる。

それにしても、この小松島の位置関係からして、バス停「小松嶋」は、「地蔵坂」の手前ではなくて、「地蔵坂」の次であるべきだと思うのだが・・・。

現在の小松島跡は、もはや工場も取り払われて、何ともつまらない鉄筋コンクリートの高層住宅(「リバーサイド墨田」)がそびえ立っている。

明治期の地図を出したついでに、荷風が、この辺りの「変遷」について触れている次のくだりも読んでおこう。

「わたくしはふと大正二、三年のころ、初て木造の白髯橋ができて、橋銭(はしせん)を取っていた時分のことを思返した。隅田川と中川との間にひろがっていた水田隴畝(ろうほ)が、次第に埋められて町になり初めたのも、その頃からであろうか。しかし玉の井という町の名は、まだ耳にしなかった。それは大正八、九年のころ、浅草公園の北側をかぎっていた深い溝が埋められ、道路取ひろげの工事と共に、その辺の艶しい家が取払われた時からであろう。当時凌雲閣の近処には依然としてそういう小家(こいえ)がなお数知れず残っていたが、震災の火に焼かれてその跡を絶つに及び、ここに玉の井の名が俄に言囃されるようになった」(252頁)。

上掲の明治期の地図を今一度、ご覧になってほしい。
まず、荷風が書いているように、向島の一帯で街区になっているのは微高地だけで、ほとんどが「水田隴畝」である。
しかも、あちこちに池や沼らしきものが点在してしていることから、この一帯がそもそもは低湿地帯であったこともよく分かる。
また、関東大震災後、浅草の花街が衰えを見せたのと引き替えに、玉ノ井が隆興してきたこと。
さらに、明治になっても、いまだ江戸時代的な田園風景を残していた墨東も、大正期にもなると、その風情を喪失し始めた様子も描かれている。

因みに、大正初期にここにはじめて架けられた木造の白髭橋であったが、大震災後再建された(1925年)のが、現在の鉄製の白髭橋である。

IMG_4018.jpg
(現在の白髭橋)

さて、荷風を乗せたバスは、まだ墨堤通りを北上中である。

「行手の右側に神社の屋根が樹木の間に見え、左側には真暗な水面を燈火の動き走っているのが見え出したので、車掌の知らせを待たずして、白髯橋のたもとに来たことがわかる。橋快(はしだもと)から広い新道路が東南に向って走っているのを見たが、乗合自動車はその方へは曲らず、堤を下りて迂曲する狭い道を取った。狭い道は薄暗く、平家建(ひらやだて)の小家が立並ぶ間を絶えず曲っているが、しかし燈火は行くに従つて次第に多く、家もまた二階建となり、表付(おもてつき)だけセメントづくりに見せかけた商店が増え、行手の空にはネオンサインの輝きさえ見えるようになった」(251~2頁)。

「行手の右側に神社の屋根が樹木の間に見え」とある、その神社というのは、もちろん白髭神社のことである。

IMG_0082_20110725185016.jpg
(白髭神社)

このあたりのバスの曲がり方が詳しく記されていないが、「白髭橋のたもと」まで回りこんでいるいることなどから、おそらく、現在の「白髭橋東詰」の交差点(地図)まで墨堤通りを北上するのではなくて、途中のどこかで左折して、隅田川畔沿いにあった道に出たものと推測される(乗合自動車の予想ルート地図をご参照)。

現場に行ってみて、あれこれ考えてみた結果、どうも現在の首都高の「高速向島」出口あたり(地図)に、昔の一般道が通っていて、荷風の乗ったバスは、そこを左折したものと思われる。

IMG_0079_20110725200508.jpg
(首都高の「高速向島」出口。荷風を乗せたバスはこの辺りを左折したのではないか)

高速の出口なので、ここを自転車で進入すればそれは自殺行為になってしまうので、困っていると、出口の道路と平行して集合住宅内を取り巻く道が見つかったので、その道に入ってみることにする。

IMG_0078_20110725200340.jpg
(高速の出口と平行に通った道)

この道を隅田川方向に辿ると、土手に登って、首都高の下に出る。

IMG_0077_20110725200942.jpg
(首都高の下の土手道)

現在は、徒歩か自転車でしかこの道を通ることはできないが、荷風を乗せたバスは、当時は一般道が通っていたこの土手道を走っていったものと思われる。

この道の右側(東側)には、かつては、小松島の庭園が広がっていたわけだが、先ほども触れたように、現在では、「リバーサイド墨田」という、聞くだに身体が痒くなるような名称の高層集合住宅が建っている。

IMG_0076_20110725201352.jpg
(リバーサイド墨田)

その後、荷風を乗せたバスは、意外な道筋を取る。
「橋快から広い新道路が東南に向って走っているのを見たが、乗合自動車はその方へは曲らず、堤を下りて迂曲する狭い道を取った」(251頁)と記している。

南東に向かって走っている「広い新道路」というのは、明らかに、現在の「明治通り」(当時は、「改正道路」や「十三間道路」と呼んでいたようである)のことだが、バスは明治通りで右折することなく、通りを渡って、「狭い道」に入ったと書いてある。
これはたぶん、現在の明治通りと平行に一本北を通る道のあるあたりではないだろうか(地図)。

IMG_0075_20110725202616.jpg
(「狭い道」というのは、たぶん、このあたりを通っていたと思われる。当時は道の両側には「平家建の小家が立並」んでいたはずである)

こうして、荷風を乗せたバスは、大正通りを経て、いよいよ、核心の「玉ノ井」に入っていくことになるのだが、疲れてきたので、今日はこのへんで終わりにしたい。

底本:「寺じまの記」(『永井荷風随筆集 上巻』岩波文庫所収)

(続く)

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2011.07.22 Fri
志賀直哉の「自転車」を読む4~ランブラーの仕様について~やっぱり固定ギアじゃなきゃ
志賀直哉は、高校生に上がった頃、中学生時代に乗っていたデイトンを自転車屋(神田錦町)に50円で売って、別の自転車屋(神田美土代町)で新しいランブラーを140円で購入した(いずれも米国製)。
実は、この購入にまつわる心温まるエピソードが、「自転車」という作品のいわば「華」なのだが、ここでは触れない。

この時、そもそも直哉が狙っていた自転車は、ランブラーではなく、新型のクリーヴランド(米国製)という自転車だったが、ランブラーのデザインを一目見て気が変わったのだという。

「横と斜のフレームは黒、縦は朱に塗った、見た眼に美しい車だった。・・・古くなったデイトンより遙かに軽く、乗り心地がよかった」(393頁)。

つまりは、今風に言えば、トップチューブとダウンチューブがブラックで、シートチューブはオレンジのカッコイイ自転車で、前のものより、はるかに乗り味が軽かったということであろう。

因みに、1880年代の世界の自転車業界は、英米がしのぎをけずっていた。
そして、1890年代に、最終的にこの競争に勝利を収めたのは米国で、日本に輸入される米国製自転車の台数も増加して、しかも、日本の自転車乗りに人気があるのも米国製だったようである。

自転車にめざとかった直哉は、このあたりの事情を次のように書いている。

「その頃、日本ではまだ自転車製造が出来ず、主に米国から輸入し、それに英国製のものが幾らかあった。英国製は親切に出来ていて、堅実ではあったが、野暮臭く、それよりも泥除け、歯止めなどない米国製のものが値も廉かったし、私達には喜ばれた」(384頁)。

その頃、つまりは、1890年代後半頃、「日本ではまだ自転車製造が出来ず」というのは、半分は正しいが、半分は間違っている。
「特製」の自転車としては、既に、明治初期から国産のものがあった(1881年の第2回「内国博覧会」には国産自転車が出品)が、大量生産品が出始めるのは、1890年ぐらい(宮田製銃所)で、しかもしばらくは、(「安全型自転車」には欠かせない)チェーンやスポークや(ボールベアリング仕様)ハブの部品類は、欧米からの輸入品であったようである。
また、その生産台数は僅少であったかもしれないが、既に1893(明治26)年には、タイヤ以外のすべての部品を国内で製造できるようになっていた(参照)のも事実である。

さて、その後のくだりの英米の自転車比較も面白い。
英国製=頑丈で品質はよいが格好悪い。
米国製=廉価で格好いい。
というような図式が当時はできあがっていたことが分かる。

米国製が格好いいのは、泥除けや「歯止め」がなかったこととも関係がありそうで、その「歯止め」とは、ブレーキのことに違いない。
泥除けのない自転車が格好いいという風潮は、現在のスポーツ自転車の流行にも通じることなので、これについては説明を要しないかもしれないが、ブレーキ(「歯止め」)の方はどうだろう。

そう言えば、切支丹坂を自転車で下るという「偉業」を成し遂げた直哉少年であったが、それについて書かれた一節では、志賀直哉はその時乗っていた自転車(たぶん、デイトン)には「ブレーキがない」ので、という書き方をしていて、「歯止め」という言葉を使っていない。

つまり、「歯止め」と「ブレーキ」という言葉をはっきり使い分けていることが分かる。

切支丹坂の件で直哉が「ブレーキがない」と書いているのは、戦後(昭和26年)の自転車では当たり前に付いていたキャリパーブレーキやドラムブレーキのことであろう。
つまり、戦後の時点では、「歯止め」と言っても、多くの読者はピンと来ないので「ブレーキ」という言葉を選択したものと思われる。

とすれば、「歯止め」という言葉を使ったのは、当時(19世紀末)の自転車のブレーキという意味合いを出したかったからだと考えられる。
この時点で、自転車に採用されていたブレーキは、主として3種類しかない。

1.ミショー型自転車の頃から存在した初期型のスプーンブレーキ。
2.1887年頃発明されたキャリパーブレーキ(現在でも、ママチャリの前輪やロードバイクで使用)。
3.1898年頃発明されたコースターブレーキ

IMG_0121_20110722130100.jpg
(コースターブレーキ。「自転車文化センター」にて撮影)

ところで、直哉が、ランブラーを購入したのは、1898年かその翌年の1899年である。
3のような新型のブレーキが発明されたからと言って、すぐに大量生産品に導入されたわけではなさそうなこと、および、米国から日本に自転車を運搬する最速の手段はまだ蒸気船による船便しかなく数ヶ月を要したであろうことなどを考え合わせると、ここで言う「歯止め」というのは、1の旧型のスプーンブレーキないしは2のキャリパーブレーキ(ダックブレーキを含む)のことを意味している可能性が高いのではなかろうか。

かくして、新たに購入した直哉の140円のランブラーも、当時の自転車乗りの好みからして、中学時代の愛車デイトンと同様、ノーブレーキの固定ギアだったと推測できる。

さらに、直哉は、当時流行っていた自転車の「曲乗り」にも凝っていたことも、固定ギアの自転車を選択したであろう傍証にもなる(391頁)。

そして「自転車」の最後の段落で、志賀直哉は次のように結んでいる。

「私は自転車に対し、今も、郷愁のようなものを幾らか持っているのか、そこにあればちょっと乗ってみたりもするが、自転車そのものが昔と変わってしまったために乗りにくくもあり、さすがに今は乗って、それを面白いとは感じられなくなった」(399頁)。

「自転車そのものが昔と変わってしまったために乗りにくく」というのは、おそらく、明治末期以降の自転車のほとんどに導入されたフリーホイール仕様(freewheel)の自転車のことを言っているのであろう。

切支丹坂をスキッド制動法でスリリングなひよどり越えをしたり、曲乗りを楽しんでいた志賀直哉にしてみれば、「今」の自転車はそんなに面白いものではなかったのかもしれない。

してみれば、1900年頃に中村春吉が下関で購入したランブラーも、固定ギア仕様だった可能性が高まってくるが、これは状況証拠にすぎない。
春吉については、また、改めて。

参考文献:
「自転車」(ちくま日本文学21巻『志賀直哉』所収、筑摩書房)
佐野祐二『自転車の文化史』(中公文庫、1987年)

承前の記事

(この項、了)

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2011.07.16 Sat
自転車のお勉強~自転車文化センター再訪3(自転車進化論の試み)
人類の進化の歴史は、大まかに言えば、「猿人」(アウストラロピテクスなど)→「原人」(北京原人など)→「旧人」(ネアンデルタール人など)→「新人」(ホモサピエンス)というプロセスを辿ってきたと言われている。

「安全型自転車」は、まさに、現代の自転車の直接的な先祖にあたるので、人類史上のホモサピエンス(約25万年前)に相当すると言えよう。
だとすれば、それ以前の「猿人」「原人」「旧人」それぞれの段階に相当するのは、どのタイプの自転車であろうか。

私が考えるに、「猿人」段階は、古代の戦車、馬車、牛車、荷車、人力車などの、「並列」車輪構造をもったペダルのない車輌で、これの淵源は、ピラミッドなどを運ぶための「コロ」に辿り着くだろう。
車輌の歴史の中では、明らかに、「並列」二輪から四輪以上までの車輌は、原始的な段階で、二つの車輪が「縦列」に並んだ瞬間、新たな段階に入ることになる。
だから、自転車進化論的な視点から言えば、クルマ(自動車)の方が、原始的な車輌(乗り物)ということになる(四足歩行動物のが、二足歩行動物よりも原始的なのとやや似ている)。

車輪がまだ、「並列」に並んでいた原初の時代の車輌としては、古代の戦車(chariot)などがその一例だと考えることができると思う。

戦車ピテクス
(古代の戦車[古代エジプト]=アウストラロピテクス)

その後、19世紀の初め、二つの車輪が初めて「縦列」に並んだ段階が、人類史で言えば、「原人」段階に相当し、車輪付の木馬やドライジーネ型自転車がこれに相当するだろう。
しかし、この段階では、まだ、足で地面を蹴って進むだけで、まだペダル&クランクはない。

北京ジーネ

(ドライジーネ=北京原人)

ペダル&クランクが導入された「ミショー型」や「オーディナリー型」が、差詰め「旧人」に当たる。
前輪駆動で車輪直結型のペダル&クランクで、まだ、チェーンを介する後輪駆動ではない。

ミショーデルタール
(「ミショー型」=ネアンデタール人)

そして、「安全型」の自転車こそ、現在の自転車につながるホモ・サピエンスだと言えるのではなかろうか。

セイフティサピエンス
(「安全型」=ホモ・サピエンス。人間の方は、あまり進歩していないようだ)

では、現在の「道路」(線路ではない)を走っているほかの車輌はどうなるか?

まず、オートバイ。
オートバイは、車輪が「縦列」に並んでいること、チェーンを擁していることでは、かなり高等な種だと言えるが、ペダルがないのは大変に残念である(その意味では、初期型の原付自転車はいい線を行っていた)。
しかも、オートバイは、せっかく足で地面を蹴れば進むものを、内燃機関など余計な物を積み込んでしまったお陰で過度に重量化したので、わざわざ化石燃料まで燃焼させなければ走ることができないという点では、ドライジーネより退化した不便な乗り物だと言えよう。
そういう意味では、高等なサルほどということになる。
まあ、チンパンジーかゴリラぐらいだろうか。

では、クルマは?
ペダルもないし、車輪が並列に並んでいることから、少なくとも、猿人以下である。
化石燃料を使うこと、きわめて車体が重いこと、高価であることなど、数え切れないほどの負の要素を考え合わせれば、古代の戦車以下ということになろう。
となれば、サル以下で、ネズミからサルに進化する過程にある生物(ハイエナかアライグマぐらい)といったところだろうか。

われわれは、(この列島では)80年間あまり、クルマを中心に価値観をで組み立てることに腐心してきたわけだが、それは、クルマ進化論的(クルマ中心主義的)な観点から物事を見たときにだけ一時的に成立する考え方で、自転車や徒歩や逆立ち歩きやウサギ跳びなどを中心に考えた場合、クルマという乗り物は、かなり退化した生ける「化石」(ちゃんと化石燃料を使っている)のような移動手段のように見えてくる。

ちなみに、乗り物ではないが、私は原発についても、同じように考えている。
何も今回の事故で初めて判明したわけではないが、電気を発電する仕組み(機械)としては、原発ほど、莫大なコストがかかり、人々の暮らしを脅かし、森羅万象を恐怖のどん底に突き落とすものはないという意味では、もはや、生物進化論の過程には置き換えられないぐらい破滅的かつ原始的な存在だと言える(強いて言えば、バクテリア以前)。
原発を前にしては、「命あっての物種」という、終末論的な言葉すら思い出させられるほどである。

さて今回は、ちょっと脇道に逸れたが、次回は、「安全型自転車」の細部的発展について、たとえば、ブレーキや変速機などの仕組みについて書くつもりである。

(続く)

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2011.07.15 Fri
自転車のお勉強~自転車文化センター再訪2(「安全型自転車」へ)
1860年代、「ミショー型自転車」において、最初にペダル(とクランク)が導入されたと書いたが、実は、それよりも20年ほどまえに、ペダルを採用した自転車が英国において登場していたことにも、触れておいた方がいいかもしれない。
それは、スコットランドの鍛冶職人カートパトリック・マクミランが考案した自転車で、蒸気機関車のロッド式駆動機構を応用したものだった。

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(マクミランが1839年に考案した自転車。ブレーキもあり。車重約26キロ。「自転車文化センター」にて撮影)

ペダルを踏み込むと鉄製のロッド(柄)が動いて後輪を回転させる構造で、後輪駆動という点では、現代の自転車につながるものではあるが、自転車発達史の中では、前輪駆動とはいえ、ミショーの考案したペダル&クランクの方が生き残ることとなった。

余談になるが、このこのマクミラン、一説によると、最初の自転車事故を起こした人物としても知られている。
1842年のグラスゴーの新聞は次のように伝えている。
「奇抜なるデザインの快走車(velocipede)に跨りし某紳士」が、グラスゴー市内で少女にぶつかって、5シリングの罰金を科されたと(出典)。

さて、「ミショー型自転車」と「オーディナリー型自転車」は、自転車にペダル&クランクやブレーキ機構を導入したことにおいて、自転車発達史上、きわめて画期的な存在だった。
とりわけ、後発の「オーディナリー型自転車」では、車輪軸(ハブ)にボールベアリングを採用した車種(1870年代後半)や、鉄製フレームが中空構造(パイプ)になった車種も出現することで、車重の軽量化への道も開かれた。

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(「ミショー型自転車」のクランク&ペダル。「自転車文化センター」にて撮影)

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(1860年代後半、パリに於いて「ミショー型自転車」による自転車レースが行われていた。「自転車文化センター」にて撮影)

「ミショー型自転車」も「オーディナリー型自転車」も、その後、1870年頃から1880年代前半にかけて、欧米や日本に於いて広く普及することになるが、致命的な欠点があった。

1.前輪にクランクとペダルが直に付いていたので、サドルからペダルまでの長さが固定されていまい、乗り手の身体の大きさによって調整が出来なかった。

2.特に「オーディナリー型自転車」において、前輪方向に重心がかかっていたので、坂を下るときやブレーキをかけた時に、前のめりに転倒することが多かった。

1のサイズ調整については、たとえば、クランクのペダル取り付け部の穴を横広にすることで対応しようとした機種もあったようである。

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(「ミショー型自転車」。ペダルの取り付け位置調整の仕組み。これは、現在の自転車でも採用できそうな仕掛けで、これならば、クランク長を自由に可変できる。「自転車文化センター」にて撮影)

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(「オーディナリー型自転車」のクランクにも、同様の工夫が施されていた。また、細い鉄製のスポークが導入され、車輪の軽量化がはかられていることも分かる。おそらく、ハブはベアリング仕様。「自転車文化センター」にて撮影)

しかしながら、クランク直付けの前輪駆動という構造的な限界を突破するにはやや時間を要したようで、「ミショー型自転車」の発明からちょうど20年後の1879年頃、チェーンによる後輪駆動車が考案され、現代の自転車の直接的祖型が登場することになる。
これがいわゆる「安全型自転車(safety)」と呼ばれるタイプの自転車である。

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(チェーンによる後輪駆動の「安全型自転車」。前輪にスプーン式ブレーキが確認できる。「自転車文化センター」にて撮影)

チェーンを介することで後輪駆動を実現し、全体の重心を後方に移動することができたお陰で、前のめりに転倒することがなくなった。
これにより、サドル+シートポストの導入も可能になり、体格に合わせた微調整もできる。
また、前後ギアの大きさを変えることで、自転車のスピード(ギア比)を可変させることができる(てこの原理を可変的に使用可能とする)。

さらに、1888(明治21)年、英国(スコットランド人)の獣医師にして発明家のジョン・ボイド・ダンロップによる空気入りタイヤの発明によって、自転車は、ほぼ、現在の形が完成することになる。

そして、この間、西欧では、3輪車を初めとする様々なタイプの自転車が現れていたことも忘れてはならないであろう。

ドイツの百科事典
(1887年のドイツの百科事典に掲載された様々な自転車のイラスト)

(続く)

参考文献;
佐野祐二『自転車の文化史』(中公文庫、1987年)
岸本孝『自転車の事典』(文園社、2002年)

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2011.07.14 Thu
自転車のお勉強~自転車文化センター再訪1
7月9日(土)

休日出勤である。
何と4週連続。
今期は、3月の奥羽大地震のため、スケジュールがぎちぎちに詰まってしまって、例年の仕事をこなすためには仕方がないのだという・・・。
こちらも「仕方がない」ので、どうせなら寄り道でもして、できるだけ有意義な通勤をしようというものである。

さて、高校生の志賀直哉が乗っていた米国製ランブレーは、ほぼ仕様が推測できる(多分、固定ギア仕様・理由は後日書く予定)が、さて、中村春吉が世界旅行に使用した米国製ランブレーの仕様が依然として不明である。

当時(19世紀末~20世紀初頭)の日本には、「ミショー型」(僅少)も、「オーディナリー型」(少数)も、「安全型」(多数)も入り乱れるように走っていたようだ(それぞれの型の自転車については後に解説)。
直哉も、春吉も、「安全型」で空気タイヤ仕様であることは分かっているが、春吉のランブレーについては、後輪ギアが固定であるかフリーであるかが謎である。
また、直哉は、文脈上、新品で買ったとことが分かるが、春吉は、新品で買ったのか、中古を買ったのかも不明である。
当時は既にフリーギアもコースターブレーキも実用化されていたことは分かっているが、春吉の自転車がそのいずれ(固定 or フリー)であったかを判断する決め手がなくて困り果てている・・・。

そういうわけで、出勤の途中、久々に北の丸公園の「自転車文化センター」に寄ってみることにした。

11時半に杉並の職場に到着しなくてはならないが、自転車文化センターが開館するのは9時半。
開館と同時に入館して、60分ほど見学して職場に向かえば何とか間に合う勘定である。

今日も、昨日に引き続き、ロードバイクで行くことにした(サドルバックを付けたままだし)。

ところが、途中、駿河台の明大通りを下って、駿河台下の交差点で信号待ちをしていたとき、びっくりするような光景に出くわした。
靖国通りを左(東)からものすごいスピードで、一台の青色のピストバイクが走り抜けて行く。
こちらの信号が青になった直後だったので、たぶん、赤信号になってから交差点に飛び込んだのだと思う。
土曜なのでクルマは少なかったが、ちょっと危険な信号無視だなと思って見ていたら、どうしたことか、そのピスト、そのまま渡った先の(三省堂の前の)歩道に走りこんだ。
と、その瞬間、自転車が高く飛び上がったと思うや、約1回転半前転して激しく転倒した。

私は、交差点をゆっくり渡りながら、乗り手のことが心配になって、しばらく様子を見ていたら、二十歳前後の青年(髪を金色に着色)がよろよろと立ち上がった。
ちょうど歩道を歩いていた人に、たぶん「大丈夫ですか」などと声を掛けられ、青年は頭をかきながらにやにやしていた。

その新品のピストには、ブレーキレバーは見えたが、ペダルにはトゥークリップが装着されていなかった。
また、ヘルメットを被っていなかったことなどから判断するに、おそらく、この乗り手は、まだ自転車の恐ろしさを知らない初心者だと推察する。

私が想像するに、高速で歩道に上がった際に、多少バランスを崩し、その上、前方に歩行者の姿が見えたのだが、スキッド(ペダルの逆転制動)ではとても止まりきれず、前のキャリパーブレーキをパニック気味に強引したため、前転(ジャックナイフ)したのではないだろうか?

この手の事故は、ピストだから起こったわけではないが、なぜか、ピスト乗りの人は、ノーヘル率が高いように思われる。
ロードバイクよりもずっと危険なピスト乗りの人がヘルメットも被らずに公道を走るのは、私にとっては、女子高生がスカートの下にステテコのようなものを履いているのと同じぐらい不思議である。

数日前のブログで、志賀直哉少年がノーヘル・ノーブレーキで東京の街を走り回っていたと、ちょっと面白めかして書いてしまったが、当時は、たとえば、二〇三高地を攻略する帝国陸軍の兵隊すら軍帽のみでヘルメットを被っていなかった時代なので、直哉少年がヘルメットを被って自転車に乗るなぞ、考えられないことだったのだ。
しかし、現在では、幼児すらヘルメットを被っている時代。
良い子のピスト乗りは、100年以上前の例を決して真似しないように・・・。

さて、私は、内堀通りから紀伊国坂を上がって、開館時間の9時半ちょうどに自転車文化センター前に到着。
自転車文化センター」に来るのは、これで3回目。
過去の2回は、「現代」の自転車にしか興味がなかったので、展示してある初期型の自転車にはほとんど目もくれずに通り過ぎてしまったが、今回ばかりは、過去の自転車のみをよく観察する気で満々であった。

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(北の丸公園に到着。ちょっと木陰で休憩)

入館すると、ちゃんと冷房が作動していたので、上着やパンツを引っ張って、身体に冷気を取り込む。

自転車に乗ることは好きだが、自転車の歴史に疎かった私は、最近になって、遅ればせながら猛勉強を始めたところで、やっと少しずつ分かってきたところである。

自転車の歴史は結構複雑だが、以下、「自転車文化センター」の展示物に沿って、簡単にまとめておこう。

まず、自転車の起源と言われるものが登場したのは、今から200年近く前の1818年のドイツに於いてで、ドライス伯爵の考案したドライジーネ型自転車である(これについては、過去の記事「自転車の起源~曲芸の実用化」をご参照)。

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(ドライジーネ型自転車の模造。向かって右が前。車重は約23キロ。「自転車文化センター」にて撮影)

ご覧のように、まだペダルがなくて、両足で地面を蹴って前に進んでいたのだが、ご想像の通り、ドライジーネ型自転車の前身は木馬であった。

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(自転車の前身だと思われる木馬。「自転車文化センター」にて撮影)

木馬(wooden horse)は、西欧では、いつの頃からか、子供用の玩具として着実に発展していたようたが、古代ギリシャのトロイアの木馬(ホメーロス『イーリアス』)の例もあるように、その起源については、とてもここで簡単に触れることができないほど過去の淵源まで遡らなければならないものであろう。

ミコノスの壺
(紀元前7世紀作製の壺に描かれたトロイアの木馬)

ただ、いわゆる伝統的な玩具たる「揺り木馬」(rocking horse)に車輪が付いたのはいつ頃なのかという問題は、是非とも解明しなければならない事柄なのだが、今の私の手に余る問題だし、加えて、「車輪」の起源とその歴史についても、「自転車の文化史」にとっては触れざるを得ない要因であると思われるが、これについても、只今勉強中にてここに書き表すことは到底できない。

ただ、ここで指摘しておいてよいのは、紀元前から始まった「乗馬」(たぶん、中央アジアが起源)と自転車に乗ることのアナロジー(類似性)である(分かりやすいところでは、サドル=鞍など)。
私見では、もし何世紀にも渡る乗馬という経験がなかったら、人類は、クルマはおろか、自転車も発明できなかったのではないかと睨んでいる・・・。

さて、いささか横道にそれたかもしれないが、次のいわゆる「ミショー型自転車」において、初めて「ペダル(とクランク)」が導入されることとなった(前輪駆動車)。

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(「ミショー型自転車」。これは、1877(明治10)年頃、日本において鍛冶職人によって製造されたもの。「自転車文化センター」にて撮影)

これまでのように足で地面を蹴って進むのではなくて、前輪軸にクランクとペダルを直付けすることで、始めて、乗り手の足が地面か離れることになった(乗馬の「鐙(あぶみ)」からの発想か?明治時代、ペダルを表すのに「鐙」の字を当てていた)。
これの発明者は、ピエール・ミショーというフランス人で、1861年頃のことだと言われている。

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(ペダルを考案した鍛冶職人のピエール・ミショー。「自転車文化センター」にて撮影)

ミショーの息子
(自転車に乗るミショーの息子。1868年)

上の絵からも分かるかもしれないが、「ミショー型自転車(velocipede)」で、もう一つ注目しておかなくてはならないのは、ブレーキ(後輪)の導入である。
このような初期型の自転車ブレーキのことを「スプーンブレーキ」という。
後輪に直接押し付けることで制動する仕組みになっている。

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(スプーンブレーキ本体。「自転車文化センター」にて撮影)

われわれがその特徴のある形態からよく知っている「オーディナリー型自転車」(ペニーファージングとも、ダルマ自転車とも呼ばれる)というのは、大きな流れの中では、この「ミショー型自転車」の直系ないしは同類だと言える(速度を上げるために前輪が肥大化した。時速20キロ以上で走ることができたという)。

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(「オーディナリー型自転車」。1870年代に登場。英国を中心に普及。「自転車文化センター」にて撮影)

さて、やっとペダルが登場したばかりだが、疲れてきたので、「安全型」など後半は、次回にしよう。
自転車の「お勉強」はまだまだ続く・・・。

参考文献;
佐野祐二『自転車の文化史』(中公文庫、1987年)
岸本孝『自転車の事典』(文園社、2002年)

この日の走行距離:62キロ(ロードバイク)

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2011.07.11 Mon
石神井川を走る~素晴らしき遊歩道
7月8日(金)

仕事で、大泉中央公園というところに行かなくてはならなくなった。
その公園がどこにあるのか分からなくて、調べてみると、練馬区の北西の端で、和光市との市境あたりにある大きな公園であることが判明した。

私の住む葛飾区水元は、東京23区の北東の端にあるが、今日の目的地は、東京23区の北西の端にある。
一番、嫌なルートである。
数年前、練馬区の石神井公園まで自転車で行ったことがあったが、当時は自転車を始めたばかりで、道に関する知識がほとんどなかったので、どこに行くにも、クルマのカーナビが示すような大幹線路ばかりを走るしか能がなく、こともあろうに、地獄の環七(最短距離)を使った。
お陰で、二度と練馬方面には行きたくなくなった。

環七は、私にとって、悪夢のようにつきまとう。
駿河台の職場に行くためには、どこかで必ず1回は環七を渡らなければならないし、杉並の職場に行くには、何と2回も渡らなければならない。
渡るのさえ、否、見るのさえ、嫌である(そう言えば、学生時代も、環七の側に住んでいたっけ)。

もし私が東京都知事になったら、築地を絶対に移転しないことや、二度と東京でオリンピックをやらないことなどと並んで、「環七の撤廃」を実現したい!
環七を全面緑道化して、自転車と歩行者だけの通行を許す。
クルマのためには、環七を渡るためだけのトンネルまたは橋を設ける・・・。

なぜ、こんなことを言い出すのかといえば、環七の通っているルートは、都内を移動する場合、大変に便利であるということ(だから、いつも渋滞するわけだが)。
その環七が、自転車にとって地獄街道であることが悔しくてたまらないからだ。
特に、東京北郊の足立から練馬あたりを東西に抜けたり、東京西郊の練馬から世田谷あたりを南北に抜けたりするのに、その経路的な便利さの点では、環七の右に出る道はない。

とここまで考えて、待てよと思った。
そう思ったのは、先日、善福寺川沿いを走った時のことだった。
杉並の善福寺川をはじめとして、中野区を流れる妙正寺川も、そしてその善福寺川と妙正寺川の本流たる神田川も、さらに、神田川の北を平行に流れる石神井川も、東京西部の主だった川のほとんどが、西から東へと流れている。

それにひきかえ、墨東(隅田川以東)は、大きな河川(荒川放水路、中川、江戸川)が南北に流れている。
道は、そもそも川筋沿いに発達するものなので、墨東には、南北を結ぶ道が発達することになる。

この伝でいけば、墨西(ぼくせい・隅田川以西)は、比較的大きな河川が東西に流れているがゆえに、東西の道が発達しているはずである。

そういう眼差しで、地図を見直すと、いくつかの道が浮かび上がってくる。
北部の石神井川沿いの道。
中部の神田川沿いの道。
南部の渋谷川沿いの道。
これらの川にぴったりと寄りそう道はないとしても、その川の流れが作りだした谷に沿った道の中に、自転車でも走りやすい古い道があるはずである・・・。

そういうわけで、今回は、まだ走ったことのない石神井川沿いの道に挑戦してみることにした。
石神井川は、東京北部を東西に蛇のように身をくねらせながら流れている。
実際に行ってみないことには分からないが、事前の調査では、石神井川沿いには、まさに、(王子~石神井公園の区間では)ほぼ全線に渡って遊歩道のようなものが通っているようなのでありがたい。

石神井川は、北区の王子近辺(正確には、北区堀船三丁目)で隅田川に流れ込んでいるので、今風に言えば、隅田川水系、昔風に言えば、荒川水系の(第一級)河川である。

今日は、いささか遠乗りになりそうな気がしたので、久々にロードバイクを引っ張り出す(タイヤに空気を入れて、サドルバックを付け替える)。
あいにく雨が降っていたが、霧雨なので、かえって涼しくてありがたい。

まず、水元からは綾瀬経由で荒川(小菅)に出る(この区間についてはルート地図をご参照)。

最初は霧雨だったのだが、荒川に着く頃には本降りになってしまったので、橋の下でしばらく雨宿りをする。

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(荒川河川敷の橋の下で雨宿り)

15分ほど、煙草を吸いながら地図を見ていると、また、霧雨に戻ったので、出発する。
そのまま左岸サイクリングロードを遡って、江北橋で荒川を渡り、豊島橋で隅田川渡る。

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(江北橋右岸)

雨が降ったりやんだりで空模様が不安定であるが、だんだん暑くなってくる。
本当は、石神井川が隅田川に流れ込む河口を見たかったが、行き過ぎてしまったので、今回は断念。

せっかくなので、江戸期以来の景勝地である王子の「飛鳥山公園」に寄ってみることにする。
昭和30年代生まれで田舎者の私は、路面電車に馴染みがないので、途中、都電荒川線が、いかにも路面電車らしく大通りを走っているのを見て感動する。
電車が路上の信号を守っているのが、何とも不思議である。

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(大通りを走る路面電車)

雨上がりの「飛鳥山公園」は、辺り一面しっとりと水を含んで、湿気はあるが、まだ涼しい。

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(「飛鳥山公園」内の渋沢栄一邸跡)

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(そう言えば、以前、紅葉の頃、この場所で宴会をやったことがあるな)

さて、石神井川沿いの道にどうやって入ったらいいのか分からずに、とりあえず、その下を石神井川が流れる「音無橋」に行ってみることにする。

音無橋(地図)は、1930(昭和5)年に建造された美しい橋である。

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(音無橋の橋上)

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(音無橋全貌)

音無橋下のアーチは、お茶の水の聖橋に似ているが、設計者は別人のようである。
東京でも屈指の美しい橋ではないだろうか。

橋の上から下を見下ろすと、滝のようなものと複雑に交錯する遊歩道のようなものが見えた。
下からは、涼気が上がってくるようで、一刻も早く下に降りてみたい気分になる。

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(音無橋から下を見下ろす。わくわくするような光景である)

音無橋上から下の遊歩道に降りるには、自転車を担いで階段を降りるか、エレベーターに載せるしかないようだ(3階建てぐらいの高さ)。
エレベーターに自転車を載せてもいいかどうか分からなかったので、私は階段を下ることにする。

階段の踊り場の壁面には、たぶん、当時のこのあたりの風景を描いたと思われる大きな浮世絵が現れた。

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(この辺りの江戸期の風景画)

この浮世絵については、長くなりそうなので、ここでは詮索しないが、武蔵野台地から流れてきた石神井川は、この辺りの断層によって滝を形成していたようだ。
墨東の川とは違って、台地に深く切れ込んだ峡谷を成していたようである。
これを思えば、王子界隈は、大変な景勝地だったに違いない。

善福寺川も、神田川も、川沿いに遡ってみれば分かるが、渓谷のような相貌をとどめている。
どの川も、流れが段丘を掘り進むように走っている。
これが、東京西部の川の特質だと言えよう。

階段を降りてみると、緑豊かな不思議な空間が広がっていて、通勤やジョギングの人々が忙しそうに行き交っている。

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(音無橋下の遊歩道)

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(橋の下は、駐輪場になっている。自転車を駐車しておくだけではもったいない空間である)

想像以上に素晴らしい石神井川沿いの遊歩道を、私はさっそく西に向かって走り始めた。

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(途中の橋からの眺め。川の流れは深く切り込んだ谷を形成している)

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(遊歩道。狭い道だが雰囲気は素晴らしい)

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(遊歩道。桜の枝が川にしなだれている)

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(遊歩道の途中には、所々、気持ちの良い公園がある)

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(時として、息をのむような光景が現れる)

遊歩道の美しさに魅せられながら、石神井川を追いかけて、私は、ひたすら西進を続けた。

走っていると、ふと、一風変わった感じの橋に出たので、ブレーキをかけて自転車を止める。

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(一風変わった感じの橋)

説明板を読むと、この橋こそが、中山道中「板橋宿」の「板橋」(地図)だと言う。
なるほど、石神井川と交差するこの道が中山道であったか。

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(昔風に復元してある「板橋」の欄干)

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(旧中山道「板橋」。前方は日本橋方面)

私はここで、この目の前に現れた旧中山道を辿ってみたいという強い誘惑(板橋宿にある近藤勇の墓も見たい)にかられたが、今日は、行かなければならない目的地があるので、ぐっと我慢した。

板橋で、川沿いの道が途切れたので、迂回すべく、大通りに出てみたら、そこが、現在の中山道(国道17号線)だった。

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(現・中山道。国道17号線)

何というつまらない道であろうか。
私の仲間でもある自転車通勤族が、東京方面に自転車を走らせていたが、先を急ぐ通勤ならば、私もこちらの道を選択するかも・・・。

こうして私は、石神井川を氷川台駅あたりまで遡行したが、時間がなくなってしまったので、あとは一般道で「大泉中央公園」に向かった。

「大泉中央公園」でのことも書きたかったが、面倒になったので、今回は割愛する。

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(目的地である大泉中央公園での競技会)

飛鳥山公園界隈と石神井川沿いの遊歩道は、あと何回か訪れてみたい。
石神井川沿いの遊歩道は、道が狭くて石畳なので、速度は出せないが、自転車の「漫走」(ポタリング)には、まさしく打って付けである。
是非、走ってみてはいかがだろうか。

この日の走行距離:76キロ(ロードバイク)

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2011.07.07 Thu
志賀直哉の「自転車」を読む3~「切支丹坂」の怪
3.「切支丹坂」異聞

永井荷風の『日和下駄(ひよりげた)』(1915[大正4]年刊)は、言ってみれば、極上の「江戸東京散歩案内」といったところだろうか。
今では、軽便な文庫本として刊行されている(『永井荷風随筆集』上巻所収、岩波文庫)ので、サイクリングやウォーキングの友として懐中に忍ばせておけば、思いがけずも、荷風と時間とによって醸成された江戸東京の風景に近づくことができるというものである。

日和下駄挿絵
(荷風『日和下駄』の自筆原稿・挿絵)

さて、学習院の学生であった志賀直哉が、19世紀末に自転車で「ひよどり越え」をしたという「切支丹坂」であるが、小石川(現・文京区春日2-20-25)で生まれた荷風も、もちろん、『日和下駄』のかなで言及している。

「私の生れた小石川には崖が沢山あった。第一に思い出すのは茗荷谷の小径から仰ぎ見る左右の崖で、一方にはその名さへ気味の悪い切支丹坂が斜(ななめ)に開けそれと向い合っては名前を忘れてしまったが山道のような細い道が小日向台町(こびなただいまち)の裏へと攀登(よじのぼ)っている。今はこの左右の崖も大方は趣のない積み方をした当世風の石垣となり、竹薮も樹木も伐払(きりはら)われて、全く以前の薄暗い物凄さを失ってしまった」(『永井荷風随筆集』上巻、岩波文庫、85頁)。

かつて(明治期)の切支丹坂の雰囲気は、まさに「道幅が一間半ほどしかなく、しかも両側の屋敷の大木が鬱蒼と繁り、昼でも薄暗い坂」だったという志賀直哉の記述とも一致しているが、荷風が指摘しているように、大正期には既に「竹薮も樹木も伐払われて」「以前の薄暗い物凄さ」は失われてしまっていたというのだから、現在の切支丹坂も、まったくつまらない坂道になってしまっている可能性が高いものの、とにかく、地図を調べて、現場に行ってみることにした。

ちょうどその日は、中野の方南町で職務上の会合がある日だったので、その途中に寄ってみることにした(フジクロス)。
とても暑い日だった。

厩橋の交差点から春日通りを西進する。
春日通りというのは、隅田川から御徒町・本郷・後楽園・小石川あたりを抜けて、大塚池袋方面に至るなかなか便利な幹線道路ではあるが、台地を貫いて通っているので、何というか、無用に坂が多いような気がして、普段はあまり使わない。
改めて地図を見てみると、切通坂、真砂坂、富坂などが連なっている。
富坂などは、かなり迫力のある坂で、墨東から東京西部に楽に抜けるには、台東区あたりからは別の道を利用した方がよいと思う。

春日通りを「茗台中学校前」の交差点で左折する(地図)。

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(春日通りを左折したところの住居表示街区案内板)

南西にのびる道を辿って行くと、急激に道は狭くなって、突然、眼前にものすごい坂が現れた。
坂というよりは、ほとんど崖で、その存在を知らずに猛スピードで走り込めば、転落しないとも限らない。

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(突然眼前に現れた激坂)

これが切支丹坂かと思って、ふとあたりを見ると、坂を登り切った所に「庚申坂」という案内板が建っているではないか。

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(「庚申坂」の案内板)

案内板の説明を読んでみたが、書かれていることの意味が今ひとつよく分からなかった。
でもまあ、少なくとも、これは「切支丹坂」ではないから構わないという気持ちで、乗ったままではとても無理なので、自転車を引きながら恐る恐る坂を下る。

「庚申坂」を下りきると、トンネルが現れる。

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(「庚申坂」を降りきると前にはトンネルが現れた)

坂下から改めて坂を見上げる。
それにしても、すごい坂だなあ・・・。

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(「庚申坂」を坂下から見上げる)

持ってきた地図を開いて、「切支丹坂」の位置を確認する。
なるほど、このトンネルは、丸ノ内線の下をくぐっていて、このトンネルを抜けた先が「切支丹坂」であることが分かったので、自転車に跨って、トンネルを進んだ。

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トンネルを抜けるとすぐに急坂が現れた。
どこにも表示板のようなものは見当たらないが、地図によると、これが間違いなく「切支丹坂」である。

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(「切支丹坂」。坂下より)

多少急ではあるが、短いので、自転車でも比較的簡単に登ることができる(ママチャリでも、立ち漕ぎをすれば登坂可能)。
降りるのは、至極簡単だと言える。
しかも、直哉や荷風が書いていたような気味悪さは微塵もなくて、長閑な住宅に囲まれて、どこからともなく、香しいクチナシの花の香りが漂っていた。

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(「切支丹坂」。坂上から)

最初の「庚申坂」には度肝を抜かれたが、「切支丹坂」の雰囲気は、あまりにも凡庸で、多少がっかりしながら、私はその場を後にした。

中野の方南町での用事を済ませ私は、帰宅すると、さっそくこのブログを書くべく、この記事で既に引用した荷風(『日和下駄』)の記述などから「切支丹坂」について、地図と照らし合わせながらいろいろと調べ始めた。
ところが、どうもしっくりと来ない点がある。

荷風の記述によると、小石川台側の坂が「切支丹坂」で、「それと向い合っては名前を忘れてしまったが山道のような細い道が小日向台町」にのびているとある。
このあたりの地形を略記すると、ほぼ南北に「茗荷谷」という深い谷が走っていて、現在はそこに丸ノ内線が走っているのだが、その東側が小石川台地、西側が小日向台地ということになる。

ということは、荷風に従えば、小石川台地側の坂が「切支丹坂」ということになるのだが、私の実地調査によれば、この小石川側の坂はどうしても「庚申坂」でなければならないのである。

さすがの荷風も何らかの勘違いをして、誤記したのか?
でも、荷風のような地元の人間が、そんな単純なミスを犯すだろうか?

さらに、ネット上をいろいろと調査した結果、やっと謎が解けた。

決め手になったのは、松本崇男という方の「切支丹坂考」という論文であった。

切支丹坂の所在についての力作論考で、そのあらましを跡づけることことさえ煩雑に過ぎるので、ここでは省略するが、結論から言えば、荷風が「切支丹坂」と呼んでいたのは、現在の「庚申坂」に相当する
また、明治時代の多くの文人たち(漱石など)も、現在の「庚申坂」のことを「切支丹坂」と呼んでいたということである。
ということは、志賀直哉が「切支丹坂」と呼んでいたのも、ほぼ間違いなく、現在の「庚申坂」のことだと断言してもよかろう

しかも、私がよく理解できなかった「庚申坂」の説明板の意図するところも、これで分かったことになる。
それにしても人騒がせな話しで、文京区教育委員会も、説明板の最後に、「ただし、明治時代には、多くの人々がこの坂を切支丹坂だと見なしていた」というぐらいの但し書きを加えてもよいところではないか。

つまり、現場の写真で、これまで私が「庚申坂」と書いてきた坂こそが、「実際には」、「切支丹坂」だったことになる。
現在は、階段がついてしまっているが、当時は未舗装路の坂だったにちがいない。
志賀直哉は、道幅は1間半ほどと書いていたが、ほぼ一致する。
最初から分かっていれば、志賀直哉の真似をして、あの坂を自転車で下ってみるんだったと考えなくもないが、あの坂を自転車で下った直哉少年に、改めて、敬意の念を覚えざるを得ない。

(続く)

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2011.07.05 Tue
志賀直哉の「自転車」を読む2~ノーヘル・ノーブレーキの直哉
2.自転車のひよどり越え

志賀直哉と言えば、学習院時代は、大変な勉強嫌いだった(常に最下位を争って2度落第している)一方で、テニス、水泳、ボート、ラグビー、棒高跳び(高校生の時、3メーター17センチを飛んだという)など何でもこなす万能スポーツマンぶりを発揮していたというが、自転車の方も、なかなかの乗り手だったことが分かる。

まず、毎日の通学は、もちろん自転車。麻布三河台(現・六本木4丁目付近)の自宅から学習院まで往復約18キロ。
自転車倶楽部(「双輪倶楽部」)の仲間と、稲毛海岸まで「遠乗り」(美しい言葉ですねえ。復活させましょう)をしたこともあるという(往復約80キロ)。
他にも、千葉や江ノ島にもよく行ったという(それぞれ、往復で約90キロと約110キロ)。
また、「横浜往復の遠乗りは数えきれないほどした。遠乗りとも思っていなかった」(387頁)という(横浜往復で、約70キロ)。

直哉住居跡
(学習院時代の直哉が住んでいた住居跡地。麻布三河台(現・六本木4丁目付近))

さらに、志賀直哉少年は、学習院のフランス語教師がオーディナリー車(ダルマ型自転車)で九段坂を降ったという話しに触発されて、「東京中の急な坂を自転車で登ったり降りたりする事に興味を持った」(385頁)。
三分坂(赤坂)、霊南坂(虎ノ門)、江戸見坂(虎ノ門)など。
中でも、出色なのは、小石川の切支丹坂(きりしたんざか)の下りに挑戦した際の記述である。

「恐ろしかったのは小石川の切支丹坂で、昔、切支丹屋敷が近くにあって、この名があるといふ事は後に知ったが、急ではあるが、それほど長くなく、登るのはとにかく、降りるのはそんなにむずかしくないはずなのが、道幅が一間半ほどしかなく、しかも両側の屋敷の大木が鬱蒼と繁り、昼でも薄暗い坂で、それに一番困るのは降り切つた所が二間もない丁字路で、車に少し勢がつくと前の人家に飛び込む心配のある事だつた。私はある日、坂の上の牧野といふ家にテニスをしに行つた帰途、一人でその坂を降りてみた。ブレーキがないから、上体を前に、足を真直ぐ後に延ばし、ペダルが全然動かぬやうにして置いて、上から下まで、ズルズル滑り降りたのである。ひよどり越を自転車でするやうなもので、中心をよほどうまくとつていないと車を倒してしまう。坂の登り口と降り口には立札があつて、車の通行を禁じてあつた。しかし私は遂に成功し、自転車で切支丹坂を降りたのは恐らく自分だけだらうという満足を感じた」(385-6頁)。

自転車乗りというのは、いつの時代でも、同じようなことを考えるもので、たとえば現在でも、「大江戸じてんしゃ三昧」というグループが、東京の坂を片端から登るという面白い企画を立てたりしている。

さてここで注目したいのは、直哉の下り方である。
まず、彼の自転車にはブレーキがなかったと書いてある。
ということは、固定ギアの自転車であることが分かる(現在の、ある種の幼児用自転車やピストレーサーと同方式)。
なので、ペダルが廻らないようにしっかりと足で固定する。
しかし、それだけでは、後輪ががロックしてしまって前に進むことができない。
そこで、前方に重心を移すことによって後輪にかかる体重をできるだけ解放することで、前輪だけを回転させて、後輪は絶えずスリップさせるような状態で「ズルズル滑り降りた」というわけである。
1世紀以上も後になって、今さら直哉少年を叱責するつもりはないが、彼はノーヘル・ノーブレーキで東京の街を走り回っていたことになる。

ピスト
(現代のピストバイク)

ただ、この走行法(ないしは制動法)は、固定ギアの自転車に乗っている人なら、必ず習得しなければならない技法(スキッド)なので、普段から路上で使っていた方法を坂降りに応用したにすぎないとも言える。

さて、ここまで書いて、どうしても、切支丹坂を見たくなったので、通勤の途中に寄ってみることにした。
それについては、次回、書くことにしたい。

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(直哉が通っていた学習院の仏語教師が乗っていたオーディナリー型自転車。江戸東京博物館にて撮影)

(続く)

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2011.07.04 Mon
志賀直哉の「自転車」を読む1~海老茶色のデイトン
志賀直哉と言えば「小説の神様」として知られているが、実は、青少年期の直哉が、かなりの自転車フリークだったことは、あまり知られていないかもしれない。

自転車関係の書籍を読んでいると、漱石の「自転車日記」、萩原朔太郎の「自転車日記」と並んで、志賀直哉の「自転車」という回顧録風短編小説が取り上げられることがあるので、自転車に関心がある人はどこかで見かけたことがあるかもしれない。

志賀直哉の「自転車」(1951年)という作品は、私が思うに、その研ぎ澄まされた文体も相まって、日本の文人が書いた自転車に関する文章としては、今後もかなり先まで、最高峰でありつづけるであろう。
自転車に「耽溺」し、それを自分の身体の一部となるまで乗りこなした人間にしか書けない筆致の躍動が伝わってくる。
しかも、19世紀末から20世紀初頭における日本の自転車事情などにも触れているこの文章は、自転車文化史的観点から見た資料的価値もかなり高いのではないかと思う。

ただ、この作品は、まだ(著者の死後50年を経ていないため)版権フリーになっていないので、ネット上では読むことができない。
『志賀直哉全集』(岩波書店)の第四巻に収められているが、手軽に入手できるのは、「ちくま日本文学シリーズ」の『志賀直哉』(筑摩文庫・880円)である。

さて、この「自転車」という文章が書かれたのは、戦後の1951(昭和26)年だが、書かれている内容は、その半世紀ほど前の、直哉13歳から18~9歳ぐらいの5~6年間のことである。
年代で言えば、1895(明治28)年から1901(明治34)年ぐらいに相当し、中村春吉が、自転車世界旅行を思い立ち、山陽道~東海道を走ったり、その後、世界中を走り回っていた頃と重なる期間なので、自転車フリークの直哉は、中村春吉の偉業をどこかで聞き知っていた可能性は高い。
因みに志賀直哉は1883(明治16)年生まれなので、1871(明治4)年生まれの中村春吉とはほぼ同時代人と言ってもよいが、12歳ほど年下ということになる。

直哉の次の文章は、彼の自転車への入れ込みようのみならず、当時の東京の交通事情が鮮やかに描き出されている。

「私は十三の時から五六年の間、ほとんど自転車気違い(ママ)といってもいいほどによく自転車を乗廻していた。学校の往復は素より、友だちを訪ねるにも、買い物に行くにも、いつも自転車に乗って行かない事はなかった。当時は自動車の発明以前であったし、電車も東京にはまだない時代だった。乗物としては、芝の汐止から上野浅草へ行く鉄道馬車と、九段下から両国まで行く円太郎馬車(明治期の乗合馬車のこと・引用者注)位のもので、一番使われていたのはやはり人力車だった。箱馬車幌馬車は官吏か金持の乗物で、普通の人には乗れなかった」(384頁)。

当時の直哉は、通学はもちろん、どこに行くにも、自転車を使っていたというのは、まるで現在の私と同じなので、非常に親近感を覚える。
また、中高生の自転車通学というのは、現在では、列島中のありふれた光景になっているが、既に110年以上も前から行われていたことが分かる。
さらに、東京の街を走っていたのは人力車と鉄道馬車と乗合馬車と自転車という「自然エネルギー」を利用した乗り物だけで、化石燃料を使う乗り物はまだ登場していなかったようだ。

1.海老茶色のデイトン

直哉が乗っていた自転車は、中学校時代は、主として米国製のデイトン(Dayton)という「海老茶がかった赤い」自転車。
高校生になって、中村春吉と同じ米国製ランブレーに乗り換えたが、まず、デイトンについて見てみよう。

デイトンは、デイヴィスミシン製造会社が生産していた自転車の商標名。
色は違うが、中学生の直哉が乗っていたデイトンは、たぶん、このブログに載っている、実に美しい自転車に近いものであったろう。

因みに、海老茶色のデイトンと言えば、当時の流行の最先端(ハイカラ)であったようだ。

たとえば、1903(明治36)年に新聞に連載された小杉天外の大人気小説『魔風恋風』にもデイトンは登場する。

「鈴(ベル)の音高く、見(あら)はれたのはすらりとした肩の滑り、デートン色の自転車に海老茶の袴、髪は結流しにして白いリボン清く、着物は矢絣(やがすり)の風通(ふうつう)、袖長ければ風に靡いて、色美しく品高き十八九の令嬢である」

三浦環
(自転車に乗る女子学生。1903年に描かれた絵。ブレーキレバーがないので、固定ギアかコースターブレーキ車であることが分かる)

袴姿の令嬢が、デートン色(=海老茶色)の自転車に乗って、颯爽と街中を走り抜ける姿を描いている。
実は、この小説のモデルになったのは、『蝶々夫人』で当時世界的に有名になったオペラ歌手の三浦環(たまき)。
三浦環は、学生時代(1900年頃)、芝の自宅から上野の音楽学校(後の芸大)まで(約9キロ)自転車で通学したのだが、それが非常に話題になったのだという。
詳しくは、このページをご参照。

さて、中学生の直哉(13歳ぐらい)が、デイトンを祖父に買ってもらったときは、自転車(たぶん、700C車)が大きすぎて、というより、身体が小さすぎて、足がペダルに届かなかったという。
そこで「足駄の歯のような鉄板をネジでペダルに取り付け、ようやく足を届かすことが出来た」(386頁)という。

デイトン
(向かって左が、デイトンに跨る、学習院の制服を着た志賀直哉少年。既に普通のペダルになっているので、身体が成長した中等科2年か3年時か。後で触れるが、ノーブレーキの固定ギア車であった)

(続く)

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2011.07.02 Sat
中村春吉『自転車・世界無銭旅行』を読む3~何故、自転車か?
自らの目で世界を「視察」してやるのだという春吉は、さっそくそのための移動手段を考えた。

まず、徒歩はどうか。
たぶん、今も昔も、道中の森羅万象を観察するのに一番優れているのは、何と言っても、徒歩であろうが、いかんせん、荷物の運搬力と速度において劣るので、春吉はこれを採用しなかった(『東海道中膝栗毛』などは、春吉の愛読書だったと思われる)。

次に、馬は如何?
馬は、当時としては、たぶん最も理想的な移動手段であったろうが、春吉は、餌の調達に苦労するだろうと考える(福島中将なるものが馬で世界半周旅行をしたと春吉は述べている)。
馬は、英語でeat like a horse(大食する)という慣用句があるように、案外大食漢で、その辺の草を食べさせておけばよいというものではないらしい。
因みに、英国産業革命期に、馬車鉄道から蒸気機関鉄道へと転換した背景にも、実は馬の餌にかかる大きな負担が原因だったことも今や定説になっている。

さて、では、クルマ(自動車)はどうか。
そうなのだ。当時、クルマは既に存在していたのである。
春吉に言わせれば、クルマは千円以上(現在の1000万ほど)もするので、とても買えたものではないという(因みに、当時、「普通に」世界旅行をする場合、数万円かかったと春吉は書いている)。
まあ、たとえ買えたとしても、奥地での燃料(ガソリン)の調達がほぼ不可能な上に、深山幽谷の小径は通えない。
因みに、内燃機関らしきものは、既に19世紀中頃には発明され、19世紀末には欧米でちらほらと実用化が始まっていたが、20世紀初頭になっても、世の中の主流は、何と言っても蒸気機関だった。
たとえば、春吉の世界旅行のすぐ後に勃発した日露戦争時になっても、バルチック艦隊を撃破したわが連合艦隊の艦船は、石炭を燃料とする蒸気機関であったことからもそれは明らかであろう。

そこで、春吉は自転車に白羽の矢を立てることになる。
自転車は、高価(後で触れるが、たぶん、現在の150万円ぐらい)ではあるが、何とか買える額ではあるし、徒歩・馬・クルマより取り回しがよくて、人力で動くのでさしたる燃料も必要ないというのが、体力には絶対の自信をもっていた春吉の決め手だったのである。
しかも、徒歩には劣るものの、どこにでも行けるし、砂漠や森林地帯や山岳地帯のような道なき道なども自転車なら担いで移動すればよいし、なおかつ、何と言っても、快速である。

当時において、自転車がかなり速度の速い移動手段だったということは、注目しておいて良い。
現在では、自転車は、リアカーに次いで鈍足な「車輌」ではあるが、春吉が世界旅行に出かけた20世紀初頭において、路上を走る交通手段で、たぶん最速なのが自転車であったことも銘記しておくべきであろう(無論、既定の鉄路しか走れない鉄道には劣るが、乗馬や乗合馬車よりも速かった)。

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(旅装の春吉)

そういう理由で、春吉は、移動手段として、自転車を選択することになる。

では、春吉が買った自転車とは、どういうものだったのだろうか。
実は、これがよく分からない。
ただ、特定はできないが、推測することはできるかもしれない。

『自転車・世界無銭旅行』から分かるのは、米国製のランブラーという自転車であることだけ。
春吉がその自転車をいつどこで買ったかも、不明であるが、まあ、順当に推測すれば、購入した場所は、当時住んでいた下関であろう。

では、いつ頃、購入したのか。
これを考えるには、ちょっと回り道をしなければならない。

春吉は、世界旅行を決意してから、「予行演習」として「日本内地の諸方」を自転車で旅行したのだというが、たぶん、前後関係からして、それは世界旅行に出発する年の上半期頃かその前年(1900年か1901年)ということになろう。
因みに、予行演習として春吉が国内ツーリングをした地域というのは、大雑把にしか記されていないが、山口~広島~京都~三重~大阪~愛知~静岡~横浜~東京だったらしい。
つまりは、本番の世界旅行の際にも、春吉は、下関から東京・横浜まで自走しているが、ほぼ、東海道~山陽道全行程を往復する旅だったと考えられる。
下関~東京間は約1000キロなので、往復、2000キロになる。
単純に、1日100キロ走ったとしても、20日間かかる距離である。

しかし、当時の道は、ほとんどすべてが未舗装路だったので、たとえば、現在のロードバイクで走っても、ゆうに1ヶ月以上はかかっただろう。
しかも、この旅は、春吉にとって、自転車の練習だけではなく、広く日本の各地を見聞して、外国に行ったときに、日本のことを質問されてもたちどころに答えられるような知識を身に着けるためのものだったので、走りさえすればよいというブルぺ的なものではない(しかも、春吉の場合は、ツーリング仕様で荷物満載)。
春吉は、途中で、何と茶道や華道や琵琶奏法などの習得にも励んでいる。
また、各地各地で、名所旧跡を訪ねたり、知人と会ったりもしたであろう。
結局、この旅に春吉が要した期間は、約1年間だと言われている。
世界旅行に出発すべく、春吉が下関を出発したのが1901年の11月なので、春吉が自転車を購入したのは、それよりも最低1年以上前の1900年中だった可能性が高いことになる。

以上は、単なる推測に過ぎないが、春吉が米国製ランブラーを購入したのは、下関のあたりであり、しかもそれは1900年中であったろうということ。

ではさて、その米国製ランブラーという自転車がいかなるものであったかということは、これまた難しい問題ではあるが、疲れてきたので、次回にまわすことにする。

表紙
(口絵)

(続く)

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2011.07.01 Fri
ある日の自転車通勤覚え書き~季節による経路の変化など
荷風(寺じま)と春吉(自転車世界旅行)についての続きを書かなければならないが、暑くて、本とにらめっこするのが苦痛なので、今日は久々に、自転車通勤のことを少々。

自転車通勤というのは、何しろ毎日のことなので、書いているうちに、書くことがなくなってしまうので困る。
季節の移ろい、立ち寄った場所、道中での不測の事態や偶然出会った出来事などを書いているうちはまだよいが、季節の変化は毎年ほぼ同じだし、新たに立ち寄る場所もなくなってくるし、不測の事態なぞそうそう簡単に起こるものではない(また、あまりに頻繁に起こってもらっても困るが)ので、備忘録として記録する価値はあるかもしれないが、それを人が読んでも、大して面白くないかもしれない。

ただ、自転車通勤者は、様々な経路を自由に選択して職場に通うことができるので、変幻自在に経路を変更して、そのこと自体を楽しむことはできるのだが、現実には、できるだけ早く目的地(職場や家)に着きたいということが優先されるので、9割以上は、幾通りかの決まり切った経路を走ることになる・・・。

さて、朝6時、私はフジクロスに乗って、家を出る。
冬なら、まだ暗い内に出発しなければならないが、夏になると、日の出が早いので大変ありがたい。
夏の早朝のサイクリングは、たぶん、多事多端な人生のなかでも、とびきりに爽快な体験ではなかろうか。
ただし、爽快と言えるのはせいぜい9時過ぎぐらい(自分の身長よりその陰が短くなり始める頃)が限度で、その後は、暑さとの闘いになるが、それはそれで、慣れれば「亦、楽しからずや」になってくる。

さて、水元→青戸→立石→四ツ木橋→東向島といういつもの経路(ルート地図)を辿って、隅田川に出る。
途中、朝飯として東向島で購入した激安250円弁当を、いつもの隅田川土手のベンチで広げる。

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(隅田川土手にて朝食を)

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(いつもの激安250円弁当・ハンバーグ。夏場は、900ミリペット。中身は、自家製麦茶。五合あれば、ほぼ夜まで大丈夫)

隅田川土手のこの場所は、午前中は首都高が日陰を作って涼しい(冬は寒い)が、午後になると西日が差してきて暑い(冬は暖かい)。

そうなのだ。
自転車通勤は、(当たり前だが)野外を走ることになるので、季節や天候によって、通う経路が自ずと変わってくる。
冬場は暖かく快適なルートは、夏場は暑くて不快なルートに変じる。
自転車通勤の季節や天候による快適度の方程式は、以下のようなものである。

A:夏快適=雨の日快適=冬不快。
B:冬快適=雨の日不快=夏不快。


お分かりのように、上記A式とB式は、同一のことを逆に表現しているだけである。
つまりは、日陰を作ってくれるような場所は、夏や雨の日はよろしくても、冬は寒いということ(たとえば、「雨の日自転車通勤ルート」をご参照)。

また、ついでながら、大雑把な話しではあるが、夏は、細い道ほど日陰が多いので快適
逆に、冬は、日向が多いので、太い道路のが快適
強風の日も、これに準ずるが、ただ、強風の日でも、幹線道路は、クルマの流れが順風を作るので、かえって走るのが楽だという現象もある。

たとえば、私の場合、秋葉原付近から四ッ谷見附までの経路は、夏と冬とでは違う。
そんなに意図的に変えているわけではないが、自然と変わってくる感じである。

冬は、内堀に出て、内堀沿いに代官町通りを通り、麹町を抜けて新宿通り(甲州街道)に出ることが多い(ルート地図)が、夏は、駿河台を抜けて、水道橋あたりからは、外堀の内側の道をたどりつつ、市ヶ谷を抜けて、四ッ谷見附に出ることが多い(ルート地図)。

今日は、夏の暑い日だったので、ほぼ、後者のルートを行くことにした。

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(国道6号線と蔵前橋通りの交差点)

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(昌平橋を渡る。昌平橋より、神田川上流を見る)

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(「三崎町」の交差点。水道橋の日大経済学部のあたり。前の大通りは、白山通り。地図。ここを渡って直進)

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(「飯田橋駅東口」の交差点。前の大通りは、目白通り。地図。ここを渡って直進)

この交差点の信号待ちでいつも気になる壁の文字がある。

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(謎の文字。「いいだべえ」とは何ぞや?)

しかも、この文字を見る度に、毎回、私は、サイモンとガーファンクルの歌詞の一節を思い出して、口ずさんだりする。

・・・the words of the prophets are written on the subway walls
And tenement halls・・・
Sound of Silenceより)

この歌詞の一節は、かねてより、私にとって意味不明なのだが、この飯田橋駅近くの文字も、意味不明である。
調べれば、ひょっとしたら何か分かるかもしれないが、これに関しては、今後とも、両者とも、謎の「預言」のままにしておくことに決めている。

ここから市ヶ谷までの外堀沿いの道は、多少、登ることになるが、江戸時代から存在していた道であるだけに、緑も多くて、自転車で走っても爽快である。
また、駿河台下から市ヶ谷あたりまでの靖国通りの裏道として、大変に重宝であることも言い添えておこう。

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(江戸城趾の牛込御門跡が残る飯田橋の神楽坂口付近・地図

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(法大前付近・美しい松並木が江戸の昔を忍ばせる・地図

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(法大の前の公衆便所の所で私はよく休憩をとる。法大は、六大学のなかでは、東大に次いで、周辺の自然環境が良好だと思う)

この道(一般道)と平行に長細い「外濠公園」があって、そこには素晴らしい桜並木の遊歩道が通っているが、残念ながら、自転車通行禁止。
荷風によれば、戦前には、この高台から、濠を挟んだ向こう側に小石川~本郷台地(文京区)の雄大な眺望が開けていたというが、現在の小石川は、ビルが林立してしまって、見るに暑苦しいだけである。

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(外濠公園の遊歩道。下に見えるのが、中央線快速の線路)

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(「新見附」の交差点。一口坂の北端。「新」見附は、明治期になって、新設された地名で、江戸期には存在せず・地図・ここも道なりに直進)

やがて、なんとなくクルマのエンジン音が近くに聞こえてきたと思ったら、そこが「市ヶ谷駅」の交差点である。

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(「市ヶ谷駅」の交差点。前の大通りは、靖国通り。ここからちょっと難しいが、このスクランブル交差点を斜めに渡って、正面に見えるみずほ銀行の向こう側の小径を入る・地図

そのみずほ銀行脇の道に入ってしばらく走ると、靖国通りの馬鹿馬鹿しい騒々しさが嘘のような静寂が訪れる。

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(私の好きな道の一つ。「東京中華学校」の裏手あたり。地図

この道をそのまま辿ると、比較的大きな道(二七通り)とぶつかる。
そこを右折すると、すぐに、四ッ谷駅前に出る。

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(「四ッ谷駅」の交差点。前方左が上智大学。ここは右折する)

ここからは、しばらくは新宿通り(甲州街道)を疾走。
この手の都市部の幹線道路は、走っていてもちっとも面白くないし、排気ガス(煙草の煙よりも、たぶん、100倍以上は危険)もすごいので、できるだけ短時間でやり過ごせるように猛スピードでぶっ飛ばすのがよい。
また、幹線道路は、低速で走ると、たとえば、路駐のクルマを迂回する際などかえって危険なので、ある程度、高速で走ろう。

さらに、通勤ルートの中に、ゆっくり走って楽しい区間と、この手の幹線道路を塩梅よく織り込めると、かえって変化がついて、飽きなくて済む(何せ、毎日のことなので・・・)。
望んでもいないほどのスピードを出すのは本望ではないかもしれないが、緩急のあるコースのほうが、全体として楽しいと私は思う。

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(「四ッ谷三丁目」の交差点。交差するは、環状3号線相当の外苑東通り)

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(「四ッ谷四丁目」の交差点。手前の通りは、新宿御苑トンネルへ。一つ向こうの通りが、新旧甲州街道)

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(夏も涼しい新宿御苑沿いの道・江戸期は、これが甲州街道だった)

地獄の新宿陸橋を越えて、しばらく甲州街道を走り、「西新宿」の交差点で右折。

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(「西新宿」の交差点で右折)

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(「角筈市民センター前」の交差点。ここから甲州街道と平行して走る旧玉川水道道路(都道431号角筈和泉町線)が始まる・地図

新宿からの甲州街道(国道20号線)は、多くの人の予想に反して、それほど自転車で走りにくい道ではない。
走っていて楽しい道ではないが、路側帯が割合広いし、クルマの車列が追い風を作ってくれるので、結構楽でもある。
しかしながら、真上に首都高が通っているので、排ガスのため、すこぶる空気が悪い。
煙草の間接喫煙を普段から心配しているような人は、もしかしてショックで死亡してしまうのではないかと思うぐらいである。

なので、私は、一本北側を通っている「旧玉川水道道路(都道431号角筈和泉町線)」を走ることにしている。

以前にも書いた
が、この道がよいのは、路側に「自転車専用」帯があるので、普通の道よりは走りやすいことだ。
この自転車専用帯は、角筈から環七にぶつかる直前までついている。

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(「自転車専用」帯。ただ、時間帯によっては、平気で路駐するクルマが多い)

こうして私は、杉並区永福の職場に、始業1時間前には到着する。

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(職場の敷地内に停められた私の自転車)

始業までの1時間は、結構忙しい。
自転車服から平服に着替える。
コーヒーを飲んで煙草を吸う。
山のように届いた郵便物を捨てる。
資料などを作って印刷するなど。

こうして、ごそごそやっているうちに、その日のノルマが終わって、また自転車で帰ることになるのだが、今日は、帰りに阿佐ヶ谷駅の近くで会合があるので、そちらに寄る。

地獄の環七を走れば早いけど、それでは単なる「苦行」になってしまうので、話しには聞いていた善福寺沿いの道を走ってみることにした。

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(善福寺川が流れる和田堀公園

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(善福寺川沿いの遊歩道)

この道のお陰で、非常に快適に阿佐ヶ谷まで辿り着くことができた。

ここで、東京西部の川の特質や学生時代に住んでいた阿佐ヶ谷界隈のことも書きたいのだが、疲れてしまったので、これで終わりとする。

そうそう、帰りは、新宿までは、青梅街道を利用したが、思いがけず、走りやすい道だったことも書き添えておこう。

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(夜の新宿)

この日の走行距離:70キロ(フジクロス)

テーマ:自転車 - ジャンル:趣味・実用
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