日々の身辺雑記や考えたことなどを徒然なるままに書き連ねる「断腸亭日録」です。
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断腸亭日録~自転車日記
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2011.06.27 Mon
中村春吉『自転車・世界無銭旅行』を読む2~愛国者・詭弁家
中村春吉が何故、世界旅行を思い立ったかというその動機は、19世紀末から20世紀初頭の帝国主義思想そのものであると言ってよい。
しかも、こうした野望は、たぶん、明治時代の青年たちが共通に抱いていたものではないだろうか。

曰く。「この中村春吉は世界的日本人となって、日本の大利益を計りたいと云うのが、其の根本精神です・・・」
中国や朝鮮のことで、ごちゃごちゃ言っているのは、小さい小さい。
日本人は、広く南米やオーストラリアやアフリカやインド大陸にも進出して、「富源」を得るべく努力しなくてはならない。
そのために、男、中村春吉は、世界中をこの目で見てやるのだ。

呆れかえるほど正直に帝国主義的理念を開陳する春吉ではあるが、かたや愛国を強制しつつも似非「国際」主義を奨励して若者を世界に進出させるべく腐心する現在の我が国の教育方針と似ていなくもない。

45-3.jpg
(愛国者である春吉は、常に自転車に日の丸を掲げて旅をした)

春吉は言う。
自分は、幼き頃から冒険的なことが大好きだし、武道で鍛えた頑強な体躯を持っている。
12歳の時には、二銭銅貨を握りしめて、単独、朝鮮に渡って死にそうになったこともあるほどだ。
また、自分は「野蛮人」なので、外国語が得意であるとも言っている(これは、面白い理屈である。春吉は、各所で、自分のことを野蛮人と言っている)。

日本国に利益をもたらすのだという春吉の考え方は、しかし、ちょっと変わってもいる。
飴菓子を売るという例を使って、春吉は、以下のように説く。

「例えばここに9銭で仕入れて来た飴菓子がある。これを10銭で売って、1銭儲けてやろうと考えた場合、相手が日本人で、10銭は高い、9銭5厘にまけろと言っても、僕はまけない、嫌ならやめろと引っ込めてしまうが、相手が外国人で、10銭ではどうしても買わぬ、9銭5厘にまけたら買う、と言う場合には、僕は1銭儲ける所を5厘にまけて売ってやる。それで、中村春吉はけしからん奴だなどと悪口言った人も居たが、それは大いに間違っている、悪口を言う人こそけしからん人だ。何故かと言うに、たとい1銭で売ってやったところで、相手が日本人であれば、それは内輪の事だ。つまり一家中で金のやり取りをしたも同然、日本帝国という点から見ると、少しも国家の富を増やした事にはならない。しかし相手が外国人なら、1銭儲ける所を5厘で勘弁してやったにしても、その5厘という利益は、外国人の財布から取り上げた事になる。そうして外国人はペロリと飴を食べてしまえば何も残らないが、日本帝国には5厘だけでも富が残ると言うものだ」(58-59頁)。

かなり乱暴な議論ではあるが、これには不思議な説得力がある。
普通なら、同じ日本人には安く売ってやるが、外国人には高く売りつけるというのが「愛国」的行為と見なされるのかもしれないが、春吉の経済思想はもう一段深いものである。
しかも、economyというギリシャ語由来の言葉の語源、「オイコス(家)+ノモス(法)=家計」という意味合いを響かせてもいる。
なかなかの詭弁家である。

春吉の詭弁家としての面目躍如たる例をもう一つ。

船でラングーン(現・ヤンゴン)の港に着いた春吉は、下船しようとすると、税関吏から自転車の関税を払えと言われる。
持ち金が尽きそうな春吉は、ここで一計を案ずる。
春吉は、こっそりと靴を脱いで裸足になり、自転車に跨って、こう言い放つ。

「『もしもし、この国では旅人の履物に関税を掛ける法律があるのですか?』と真面目な顔をして問うと、税官吏は変な顔をして、『いや。履物に関税を掛ける国があるものか。何故そんな事を聞くのだ?』と訝(いぶか)る。
僕はしめた!と小膝を打ち、
『しからば僕の自転車に関税を掛ける法はありません!』
『そりゃまた如何いう訳で・・・?』
『どういう訳でもありません!他の自転車は知らぬが、僕の自転車は僕の履物です!ご覧の通り僕は素っ裸足です、何も履いておらぬ、即ちこの自転車が僕の履物です。この国では人間が履物を履く必要が無い、素っ裸足で歩けと言うなら仕方無いが、いやしくも履物に関税を掛けるという法律の無い以上は、僕の自転車に関税を掛けるのは不法です!』と、屁理屈捏(こ)ねると、税官吏は奇妙な顔をしておりましたが、余程可笑しかったものと見え、クスクス笑い出し、
『飛んだ大きな履物もあればあるもんだ、まぁ良い、見逃してやる』と言うので、僕はまた押さえられぬ内にと、急いで税関を抜け出し、スタスタ市街の方へ走り去りました」
(165-166頁)。

いやはや、これはお見事というほかはない!

挿絵
(書中の挿絵)

(続く)
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2011.06.24 Fri
中村春吉『自転車・世界無銭旅行』を読む1~明治の快男児現る
中村春吉(はるきち)という、実に愛すべき日本人のことをご存知だろうか。
かくいう私も、つい最近、自転車の歴史のことをあれこれ調べていて偶然知ったにすぎないが、この度、その著作『自転車・世界無銭旅行』(1909年、博文館刊、押川春浪編)を通読してみて、中村春吉という驚嘆すべき「快男児」の「かわいらしい」偉業に深い敬意を覚えたので、是非とも、その片鱗だけでもここに紹介してみたい。

ところが、この『自転車・世界無銭旅行』という本は、何しろ100年以上前の著作なので、現物を入手できたわけではなくて、国会図書館「近代デジタルライブラリー」に収められているデジタルデータで読んだ。
原書の全ページを見開き単位で写真撮影したものなので、ダウンロードに時間がかかるし、所々、文字が判読しにくくて読むのには多少苦労したが、読み始めたら、これが面白くて、夜が白み始めるのも忘れて、一気に読了した。

XBQEG17.jpg
デジタルデータの目次から第1章に入るあたり)

少なくとも日本列島人としては、最初に本格的な自転車ツーリングをした中村春吉という人物は、たぶん、ウィキペディアの同項目に載っていることぐらいしか分かっていないようだ。

1871(明治4)年に広島県(安芸)の呉市に生まれ、太平洋戦争の敗色濃厚な1945(昭和20)年2月に故郷にて死去(享年75歳)。
つまりは、ほぼ大日本帝国の建国からその滅亡までの期間を生き抜いた人間で、ある意味で、明治時代人の典型だとも言える人物である(春吉の方がずっと長生きしたが、ほぼ、夏目漱石と同世代)。

20歳代前半に日本を飛び出して、英語習得のため出稼ぎがてら数年ハワイで暮らす。
帰国後、長州は下関で「馬関忍耐青年外国語研究会」というユーモラスな名称の英語塾を経営。
30歳代になって、自転車世界無銭旅行を思い立ち、横浜港から船で出発。
約1年3ヶ月をかけて、中国-シンガポール-ビルマ-インド-イタリア-フランス-イギリス-アメリカを自転車で旅行する(もちろん、大洋は船を利用)。
ただし、横浜港に至る前の、下関から山陽道~東海道経由の東京・横浜港までも、春吉は「ちゃんと」自転車にて自走(約2ヶ月間)している。
まだ、ほとんど未舗装路であったであろう、当時の下関~東京ですらさぞかし大変だったろう(後述するが、箱根は、自転車を担いで山越え)。

nakamura1.jpg
(世界旅行中の春吉・米ボストンにて1903年頃撮影・自転車は、若き日の志賀直哉も愛用した米国製ランブラー・出で立ちが軍服のように見えるが、春吉は、軍人軍属ではなく、単なる一民間人にすぎない)

というわけで、たぶん、3回ぐらいで、中村春吉の世界ツーリングの面白さを紹介していきたい。
乞うご期待のほど。

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2011.06.21 Tue
シマノ社のシクロクロスCXシリーズの誕生~46~36tチェーンリングはありがたい
長らく放っておかれていたという感なきにしもあらざるシクロ系の部品セットが、シマノ社により刷新された。
しかも、この度は、コンポーネント(グループセット)という形をとった、本腰を入れての取り組みである(CXシリーズ)。

新部品セットとして新たに発売されるのは、2グレード(CX50とCX70)の、クランクセットとカンチブレーキとフロントディレーラーである。
価格及び仕様からして、CX50はティアグラ相当で、CX70は105相当といったところか。

CX 70試作車
(CX70で組まれた試作車)

今回、私が一番注目しているのは、クランクセット(10速仕様のダブルのみ)。
なかでも、そのチェーンリングである。
クランクセットのギア構成は、46-36tで、PCDが110ミリ(と、思わず太字にしてしまった!)。

FC-CX70.jpg
(CX70のクランクセット。46-36t)

これまでも、他社製なら、アウター46t(や48t)もないではなかったが、フロントディレーラー(シマノ製)などとの相性が今ひとつで変速性能を多少とも犠牲にしなければならないこともあった。
シマノ製品の場合、とりわけアウターギアは、ギアの裏面に仕掛けられた、チェーンを引っかけるためのピンの形状が独特なので、他社製品だと、微妙な狂いが生じるのかもしれない。
しかも、他社製は、かなり高価なので、買うのにも勇気がいる(シマノのチェーンリングは安い)。

しかも、このチェーンリングだが、既に太字で書いたように、ありがたいことに、PCDが110ミリなので、今や多くの人が使っているいわゆるコンパクトクランクに、そのまま取り付けることができるわけだ。
私は、クランクは押入にたくさんあるので、さっそく46tを単品で注文するつもりである。
たぶん、同じ事を考える人が一杯出てきて、最初のうちは、なかなか入手困難になるので、これはここだけの秘密にしましょう・・・。

しかし、その場合、問題なのは、フロントディレーラーである。
今回、アウター46tに適合したフロントディレーラーも発売される。

Shimano CX components - FD-CX70-F-D
(CX70のFD)

しかし、私の勘では、50t対応のFDでも、ほぼ問題なく動くと思うので、試してみるつもり。
バンド式なら、FDを数ミリ下に取り付ければよいのではないか。

また、かなり久しぶりにカンチブレーキの新製品も発売される。
しかも、なかなかデザインが良いように思える。

カンチBR-CX70
(CX70のカンチブレーキ)

このカンチブレーキのありがたいところは、キャリパーブレーキのブレーキシューが使えること。

そもそも、キャリパーブレーキのブレーキシューは、数が出るので、比較的安価だし、種類も多い。
しかも、ママチャリの前輪キャリパーブレーキと互換性があるので、使い古しのロード用ブレーキシューを、私はいつも、ママチャリに装着して使っている。
もちろん、効き目は抜群である。

しかし、このCXシリーズ、難を言えば、悪路を走るのが本分であるようなシクロクロスの部品をどうして10速にしたのか、疑問を感ぜざるを得ない。
最近のシマノは、マウンテンまで10速化し始めている。
いくら、消耗品の10速チェーン(高価)を売りたいからといって、必要以上の多段化をすれば、ギヤやチェーンの耐久性は落ちるし、価格も高くなる。
もっと、乗る人の立場に立った製品の開発を心がけてほしいものである。

しかしながら、このCXシリーズは、これまでのロードコンポの枠組みを破った製品であるところが実に興味深い。

シマノは、この勢いで・・・、

・ロードのブレーキレバーに対応するVブレーキ
・Vブレーキレバーに対応するキャリパーブレーキ
・ロードとマウンテンのFDの引き量を変換するコンバーター
・etc.

などをどんどん開発して作って欲しいものである。

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2011.06.20 Mon
新ティアグラ4600シリーズの正体やいかに~RDとクランクセットに注目!
(荷風「寺じまの記」についての続編は、この先を書くのにどうしても必要な資料が、ずいぶん前に注文してあるのだが、なかなか届かないので、しばらく休載とします。資料が届き次第、書き継ぎます。)

3月頃から話題になり始めたシマノ社のロードコンポ(英語では「グループセット」と言う)新ティアグラが密かに発売されていた。
先行する各種の記事では、来年2012年の発売予定と書かれていたので、しばらくは「安心」だと思っていたのだが、気がついてみたら既に発売されていて、ちょっとびっくりした。

Shimano Tiagra 10-spd drivetrain
(新ティアグラを装備した試作車)

デュラエイスやアルテグラや105の時のように大騒ぎせずに、発売はあくまでも来年ですよと言っておいて、できるだけ後ろに引っ張るような形で、その間、上位機種の105を買わせておいて、あたかも、Uボートのように深く潜行した挙げ句に突然浮上して魚雷攻撃を受けたような格好である。

ただ、3月頃の記事でも既に分かっていたことだが、新ティアグラ(4600シリーズ)は、私の予想に反して、何と、10速化されてしまったのだ。
私は、9速派なので、非常に落胆すると同時に、仕方がないので、旧ティアグラ(4500シリーズ・9速仕様)のSTIとスプロケ、及び、9速仕様の旧アルテグラのスプロケを数セットを急いで入手したものである。

新ティアグラは、10速になってしまったために、ブレーキなども含めて、上位グループとの互換性は完全に保証されたが、旧ティアグラと互換性があるのは、(特別な改造を施さない限りは)リア・ディレーラーのみとなってしまった(但し、旧10速シリーズとはブレーキやフロント周りは互換性なし)。

新ティアグラの一番注目すべき点は、リア・ディレーラーではないだろうか。

105までは、最大スプロケットが28tであったが、今回、30tに拡大された。
リア・ディレーラーは、シマノは認めていないが、事実上、何の問題もなく6~10速まですべて互換性があるので、たとえば、30tまでのスプロケなら、何速仕様であろうと、マウンテンのスプロケでも使用できるし、しかも、マウンテンのリアメカよりも軽量だという利点もある(但し、近く、105RDの30tバージョンが発売されるという噂もある)。

もちろん、それに合わせて、多くの人が待ちかねていたであろう歯数の、まるでマウンテンバイクのようなワイドレイシオのスプロケが安価(定価:¥2,989)で入手可能となったこと(但し、「9速主義者」の私にはカンケーないが!)。

12-30T:12,13,14,15,17,19,21,24,27,30T

RD
(新ティアグラのRDとスプロケ)

重量的にも、なかなか良い線を行っていると言わざるを得ない。

ティアグラ4600とティアグラ4500の重量比較・括弧内にその差(グラム)を示す。

rear derailleur RD-4600-SS: 256 (-1)
rear derailleur RD-4600-GS: 266 (-8)
front derailleur double FD-4600-B: 105 (-10)
front derailleur double FD-4600-F: 89 (-12)
front derailleur triple FD-4603-B: 132 (-8)
front derailleur triple FD-4603-F: 114 (-13)
crankset FC-4600 double: 943 (-47)
crankset FC-4650 compact: 903 (-66)
crankset FC-4603 triple: 1105 (-24)
Rapidfire Plus shifter SL-4600-R right: 137 (0)
Rapidfire Plus shifter SL-4600-L left: 137 (0)
Dual Control Lever ST-4600-L left: 251 (+7)
Dual Control Lever ST-4600-R right: 258 (+6)
Dual Control Lever Triple ST-4603-L left: 250 (+7)
cassette sprockets CS-4600 11-25T: 261 (0)
cassette sprockets CS-4600 12-28T: 310 (0)
cassette sprockets CS-4600 12-30T: 329
chain CN-4601 114 links: 277
brake lever BL-4600 front and rear: 375 (0)
brakee caliper BR-4600 set: 375 (0)
freehub FH-4600: 357 (0)
front hub HB-4600: 155 (0)

一見、ほとんど変わらないようだが、新クランクセットのダブル(52-39t)とコンパクト(50ー34t)は、旧ティアグラのそれより、それぞれ47グラム、66グラム軽量だというのは実に注目に値する。
なぜならば、これは、ほとんど105に迫るような重量であるからだ。

これなら、105を買うよりも、新ティアグラを買った方が得であるに決まっている。
たぶん、性能はまったく同じなので、私だったら、迷わずにティアグラを選ぶであろう。

・・・と、そう思わせておいて、ちょこっとだけ「差異」を設けて、資本主義下の消費者根性(高い物を買うと自分が偉くなったような錯覚を抱く精神構造)をくすぐるというのが、シマノ商法!

実は、上位グループと大きく(?)異なる点があるあるのだ。

STIが違うのだ。
デュラから105までは、カンパと同様、シフトケーブルをバーテープの下に巻き込める仕様なのだが、新ティアグラは、従来型で、シフトケーブルが外部に飛び出している。

STI
(シフトケーブルの取り回しは従来型)

但し、STIのケーブルの付け根にワイヤー調整つまみが付いたのは、ありがたいことであろう。
この部品だけ注文すれば、従来型のSTIに取り付けることができるかもしれない。

しかも、オプティカル・ギア・ディスプレイ(何段に入っているかを示す目盛り)は、旧ティアグラをきちんと受け継いでいる。
オプティカル・ギア・ディスプレイを嫌う人がいるようだが、これが着いていたからと言って、何ら走行性能にとってマイナスになるものではないので、ご心配なく。

新ティアグラは、総じて、コストパフォーマンスも高く、自転車の需要がいや増しに高まりつつある現在、特にロードバイクの部品セットとして、かなり注目を集めるに違いない。

また、9速チェーン+9速フロントシフター+9速フロントディレーラーでも、ちょっと改造すれば、10速のクランクセットを問題なく使用できることを考えれば、9速使用者でも、とりわけ、新ティアグラのクランクセットは購入するに値すると思う(「新105のクランクセット改造~9速でも使用可能」を参照のこと)。

次回は、やはり近く発売予定のシマノ社のシクロクロス用コンポーネントCXについて、ご報告しよう。
実は、私には、こちらの方が大事件のように思われるのである。

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2011.06.18 Sat
荷風「寺じまの記」を追走する6~地蔵坂・向島百花園・入り金
「車は小松嶋(こまつしま)という停留場につく」。

荷風を乗せたバスは、墨堤通りの「大倉別邸前」を通過する。
そして、次に停まったのは「小松嶋」という停留所であったが、この停留所がどのあたりにあったのか、不明である。

墨堤通りを運行する現在の京成タウンバス([有01]浅草線。浅草寿町と亀有駅を結ぶ路線)では、「大倉別邸前」に相当する「墨田堤」の次のバス停は「地蔵坂」(当時も現在も同じ)である(現在の京成バス路線図)。

とすれば、幻の「小松嶋」は、現在の「墨田堤」と「地蔵坂」の中間に位置したことになる。
その「墨田堤」と「地蔵坂」との距離にしてみたところで、わずか300メートルぐらいである。
この中間付近にバス停が設置されていたすれば、あまりにもバス停間の距離が短すぎはしないか・・・。

ところで、この「小松嶋」という停車場の名称は、どうも、現在の白髭橋東詰あたりにあった庭園の小松嶋に由来するものと思われるが、これについては、もう少し後で書くことにしよう。

「次に停車した地蔵阪というのは、むかし百花園や入金(いりきん)へ行く人たちが堤を東側へと降りかける処で、路端に石地蔵が二ツ三ツ立っていたように覚えているが、今見れば、奉納の小さな幟が紅白幾流(いくなが)れともなく立っている。淫祠(いんし)の興隆は時勢の力もこれを阻止することが出来ないと見える」。

「地蔵阪」のバス停は、ほぼ、現在のそれ(「地蔵坂」)と同じ場所にあるが、戦後に於ける墨堤通りの拡幅工事のため、現在よりやや東にあったものと思われる。

それは、このあたりの当時の地図と現在の地図を比較すれば想像がつくであろう。

地蔵坂
(昭和初期の「地蔵阪」[左]と現在の「地蔵坂」[右]の比較地図・赤丸が地蔵阪の入口)

この地図を見ると、現在の広くて真っ直ぐな墨堤通りは、昭和初期には狭くて、所々屈曲していたことが分かる。
とりわけ、地蔵坂通りの入口のあたりは、道路が拡幅されたのに伴って、新道が造られたことも見て取れる。

画像 061
(上掲地図の赤丸のあたり。左が現在の墨堤通り。右が旧道。荷風を乗せたバスが進んだのは、もちろん、右の旧道だったはず。因みに、紅い幟が見えるのが「子育て地蔵」)

IMG_0081_20110618090356.jpg
(この旧道をそのまま200メートルほど進むと、白髭神社の脇を抜けて、新道と合流してしまう。右の杜は、白髭神社)

この場所は、荷風も書いているように、「百花園や入金(いりきん)へ行く人たちが堤を東側へと降りかける処」であった。

画像 062
(現在の地蔵坂通り。毎月4の日は、一年中、縁日が開かれている。まっすぐ進むと東向島3丁目で国道6号線と交差する)

「百花園」というのは、もちろん、現在の「向島百花園」のことで、古来、文人墨客の遊べる地として名高かった。尚、江戸期は、「新梅屋敷」と称していた)。

向島百花園
(現在の「向島百花園」入口)

「入金(いりきん)」というのが何なのか見当が付かなかったが、調べてみると、明治後期から大正初期に百花園の近くにあった有名な料理屋の屋号であることが分かった。
入山きんという女性が始めたシジミ汁を出す茶店であったが、向島で老後の隠遁生活を送っていた榎本武揚がこの店を大層気に入って、頻々と知り合い連中を呼んでは贔屓にしたのをきっかけに大いに繁盛したのだという。

戊辰の内戦時、東軍の司令官(ないしは「蝦夷共和国」総裁)として、五稜郭で西軍に降伏した榎本武揚は、その後の明治政府にも重用されたのだが、退官後は、ここ向島の地で静かな余生を送ったという(足尾鉱毒事件への明治政府の対応を批判して農商務大臣を辞任後、引退)。
近傍の人たちは、時に、隅田堤を馬で逍遙する榎本武揚の姿を見たという。

現在でも、墨堤通り沿いに、正装した榎本武揚像が建っている。

榎本武揚像
(墨堤通りの榎本武揚像)

さて、その「入金(いりきん)」であるが、残念ながら、今はない。
それどころか、荷風が「寺じまの記」を書いた1936(昭和11)年の時点でも既に存在しなかったのである。
ただ、所在地は分かっている。
南葛飾郡寺島村大字寺島1159番地(現墨田区東向島3-16-18付近)。
現在の「墨田区立花園保育園」あたりということになる。

IMG_0115_20110618165920.jpg
(「入金(いりきん)」の跡には、清潔で立派な保育園が建っている)

ところで、この保育園から西にほんの200メートルほど行った所に、有名な「白髭神社」があるが、その境内に、在りし日の「入金(いりきん)」の「縁(よすが)」を見ることができる。

入り金神饌料
(「永代神饌料 向しま 入きん」の石碑と白髭神社正面)

白髭神社の鳥居の近くに、「入金(いりきん)」から神社に捧げられた「神饌料」を銘じる石碑が現在も残っているのである。

さて、先の引用部分でもう一つ、触れておかなくてはならないのは、「地蔵坂」の名の起こりとなった子育て地蔵尊のことである。

「路端に石地蔵が二ツ三ツ立っていたように覚えているが、今見れば、奉納の小さな幟が紅白幾流(いくなが)れともなく立っている」。

この石地蔵は、現在でも同じ場所に残っている。
幟が何本か立っているのもほぼ同じである。

子育て地蔵
(子育て地蔵尊)

子育て地蔵尊については、興味深い伝説もあるようだが、ここでは割愛したい。

さて、今回も、バス停にしてひと駅分しか進むことができなかったが、いよいよ次回は、玉ノ井に到着できそうである。

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2011.06.12 Sun
荷風「寺じまの記」を追走する5~大倉別邸「喜翁閣」を船橋港に訪ねる
前回の最後に出てきた「大倉別邸前」というバス停は、残念ながら、今はない。
かつて、大倉別邸があったらしい場所には、不細工な倉庫が寒々しく建っているだけ。
その前には、「墨田堤」というバス停(京成)が今はある(地図)。

画像 055
(当時の「大倉別邸前」のあたりには、「墨田堤」というバス停がある。墨堤通り)

画像 057
(かつての別邸跡には、殺風景な倉庫が建っている)

しかし、そのバス停の背後に、小さな説明板が発見された。

画像 054
(「大倉喜八郎別邸跡」の説明板)

ところどころ文字が消えかけているところがあって、読みにくいが、さして重要なことが記されているわけではない。
要は、この場所に、大倉喜八郎という人の「蔵春閣」という別荘があったということ。
大倉喜八郎という人は、幕末明治期に戦争でボロ儲けした財閥の祖(ホテル・オークラの「大倉」である)で、人間として、特に意を払うに値するような人物ではない。
ただ、最後の下りに、その別荘は、「船橋のららぽーとに移築されている」とあったのには、声を上げそうになるぐらいびっくりした。

この墨堤通り沿いに昔の縁を忍べるものはほとんどない。
しいて言えば、後で触れることになる「白髭神社」と「子育て地蔵尊」ぐらいなもので、その昔には桜並木があった美しい堤には、大倉財閥の息のかかった某ビール会社の倉庫などが、まるで枯れ木も山の賑わいと言わんばかりに建ち並んでいるだけである。
そんななか、当時を忍ばせるような建築物が、移築保存されていようとは驚きである。

と同時に、私は、そう言えば、船橋ららぽーと近くの駐車場の近くに、重厚な木造建築物がそそり立っていたのを思い出して、あっ、あれか!と思い至った。

数日後、さっそく私は、所用で千葉に出かけるついでに、移築されているという大倉別邸を見るために、船橋港に寄ってみることにした(フジクロス)。
ただ、その別荘の名称だが、どんなに調べてみても、「蔵春閣」ではなく「喜翁閣」というらしいのだ。
まあ、名前はどうでもよい・・・。

水元桜土手→江戸川サイクリングロード→真間川→京葉道路沿いの道を走って、船橋ららぽーとに到着。
船橋の港自体は多少とも趣があるものの、ここに来ると、いつも溜息が出そうになる。
わざわざ金をかけてまで、何というつまらない施設を拵えたことであろうか。
浦安ディズニーランド風な安ピカ張りぼてで、殺伐とした空しさが辺り一面に漂っている。

我らは空ろな人間
我らは剥製の人間
藁(わら)の詰まった頭をもたれかけあいながら
風に吹かれる干草のように
地下室の床、壊れたガラスの上を走るねずみの足音のように
囁き交わす乾いた言葉に意味はなく・・・
(T・S・エリオット)

船橋港まで来れば、それはすぐに見つけられるであろう(地図)。
ホテルの近代的鉄筋コンクリートビルの傍らに、いかにも場違い風に見えるのが、かつては隅田川の畔に建っていた大倉別邸「喜翁閣」である。

画像 001
(船橋ららぽーとに移築された、大倉別邸の一部「喜翁閣」の遠景)

近づいて見ると、破風や構えの形状は江戸時代のそれを受け継いでいるが、明治後期特有の威容を感じさせる建築様式である。

画像 002
(「喜翁閣」近景1)

画像 003
(「喜翁閣」近景2。一部庭園も復元されている)

自転車を引っ張りながら、ぐるりを廻ってみたが、この建築物に関する説明板のようなものは一切見つからなかった。
現在これを所有するホテル(隣接)の施設として、貸し切り宴会などで利用されているようで、普段は閉め切られていて、内部を見学することはできないようだ。

1936(昭和11)年、荷風が京成バスで「大倉別邸前」を通り過ぎたとき、まだこの建物は墨堤通り沿いにあったわけだが、荷風も書いているように、「もう別荘らしい門構もなく、また堤には一本の桜もない」状態で、既にして、往時の墨堤の風情はなくなりつつあったようである。

さて、荷風を乗せたバスは、まだ墨堤通りを北上中であるが、今夜はここまでとしておこう。

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2011.06.11 Sat
荷風「寺じまの記」を追走する4~見番通りの華やぎ
いよいよ荷風を乗せた京成バスは、現・国道6号線の向島3丁目の交差点を左折する。

「車は電車通から急に左へ曲り、すぐまた右へ折れると、町の光景は一変して、両側ともに料理屋待合茶屋の並んだ薄暗い一本道である。下駄の音と、女の声が聞える」。

この「電車通」というのは、前回も触れたように、現・国道6号線のことである。

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(「電車通」を左折した所。正面に見えるのが隅田川堤と首都高。堤を越えた向こう側に、現在では、桜橋がある)

「すぐまた右に折れ」て入った(地図)のが、「見番通り」で、これについては、以前にも、比較的詳しく書いたことがある(「向島~「見番通り」と国道6号線回避ルート」)ので、ここでは、簡単に追っていくことにする。

「右へ折れると、町の光景は一変して、両側ともに料理屋待合茶屋の並んだ薄暗い一本道である」とあるのが、件の「見番通り」のことである。

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(「見番通り」。交通量も多くないので、6号線の抜け道としても重宝)

この界隈は、明治以降、向島の花街として、ほぼ昭和30年代までは、殷賑をきわめたという。
さすがに現在では、「下駄の音」も「女の声」もあまり聞こえなくなったなったようだが、当時の向島の芸妓衆と料亭を管理統括していた「見番」の伝統を継ぐ「向嶋墨堤組合」は、現在でもこの通りに立派な建物を構えている。

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(私の自転車通勤路にある、向島の料亭「千代田」。いつも気になっているが、今日に至るも、未だ財力不足のため足を踏み入れたことはない・・・)

「見番通り」をさらに先に進もう。

「車掌が弘福寺前と呼んだ時、妾風の大丸髷とコートの男とが連立って降りた。わたくしは新築せられた弘福禅寺の堂宇を見ようとしたが、外は暗く、唯低い樹の茂りが見えるばかり」。

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(幼き日の勝海舟が通ったことでも有名な弘福寺・地図

向島の花街の一角には、これまた有名な「鳩の街」の私娼街があったのだが、これについても、以前に書いたことがある(「 「迎春」サイクリング~「木場」・「鳩の街通り」など」)ので、ここでは割愛する。

「やがて公園の入口らしい処へ駐って、車は川の見える堤へ上った。堤はどの辺かと思う時、車掌が大倉別邸前といったので、長命寺はとうに過ぎて、むかしならば須崎村の柳畠(やなぎばたけ)を見おろすあたりである事がわかった。しかし柳畠にはもう別荘らしい門構もなく、また堤には一本の桜もない。両側に立ち続く小家(こいえ)は、堤の上に板橋をかけわたし、日満食堂などと書いた納簾を飜しているのもある。人家の灯で案外明いが、人通りはない」。

見番通りを後にして、「公園の入口らしい処へ駐って」とあるのは、たぶん、このあたり(地図)のことではないか。
この場所には、無論、「寺じまの記」の時代(1936年)には存在しなかったが、少年時代の王貞治が練習に励んだ「隅田公園少年野球場」(戦後の1949年に建設)がある。

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(「隅田公園少年野球場」)

さて、その次の「車は川の見える堤へ上った」とあるが、実は、これが難問である。
「堤」というのは、明らかに、墨田堤のことで、単純に解釈すれば、「墨堤通り」のことであるはずだ。
実際、この地点で見番通りは終わって、西から墨堤が右に曲がって合流している。
この曲がり方は、江戸時代の地図とも、昭和初期の地図とも合致する。

見番
(昭和初期のこの界隈の地図)

ところが、現在は、墨堤通りに「上っ」てみたところで、一向に川は見えそうにない。
確かに、長命寺前の見番通りから墨堤通りに入るところは現在でも坂になっている。

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(見番通りから墨堤通りに上がる坂道。正面が「隅田公園少年野球場」)

しかし、どう深読みしても、つまり、視界を被い塞ぐ首都高がなかったとしても、視点の位置が低すぎて、川面が見えるはずはなさそうである。

そこで、各種資料を調べてみると、どれほどの高さかは分からなかったが、戦後(昭和34~46年)における、墨堤通りの改修拡幅工事の際、墨堤の高さを削ったのだという(後日、要追加調査)。

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(見番通りから墨堤通りに上がりきったところ。左側に、隅田川は、絶対に見えそうにない)

さて、次に荷風が車掌から聞いたバス停名は「大倉別邸前」だという。
もちろん、現在の墨堤通りには、大倉別邸なるものは存在しない。
そこで調べているうちに、何と、船橋まで調査に行かなくてはならない羽目になった。

それについては、次回のお楽しみということに・・・。

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2011.06.08 Wed
荷風「寺じまの記」を追走する3~「改正道路」とはオレのことかと水戸街道言い
前回、荷風を乗せた京成バスは、吾妻橋→浅草通り→三ツ目通り→国道6号線と進んで、現在の「向島3丁目交差点」(地図)を左折するところまで書いた。

ここで、国道6号線(現・水戸街道)のことについて、簡単に説明しておかなければならない。
現在では、言問橋から四ツ木橋までの墨田区内の国道6号線を、誰しもが水戸街道だと呼んで憚らないが、荷風の作品の中で、この道路のことを水戸街道だと見なしている人は皆無である。

それもそのはずで、当時の水戸街道、つまり旧水戸街道(ただし、日本橋から千住までは、奥州街道と日光街道と水戸街道は同一路)は、現在の墨田区をまったくかすってもいなかったからである。
向島界隈の人にしてみれば、そもそも水戸街道は、葛飾(新宿)→足立(千住)→台東(浅草)を経由する幹線道のことであったので、もし、国道6号線を指さして、これが水戸街道ですと言えば、おそらく大笑いされたであろう。

しかも、そもそもが、「寺じまの記」の時代(昭和初期)、この道路を国道6号線だと見なしている人さえ皆無である。
墨田区内のこの道路が、国道6号線に指定されるのは、現在の四ツ木橋が架橋された戦後のことだと思われる。

とは言え、大正末期には、現在の国道6号線の道路建設自体は、既に始まっていた。
では、「寺じまの記」の時代(1936年)、この道路のことを、人々は何と呼んでいたのか?
「改正道路」や「電車通り」(この「電車」というのは、路面電車のこと)や「新道路」と呼んでいたようである。
因み、白髭橋東詰から南東に開通した明治通りも、「改正道路」や「新道路」と呼ばれている。
これらの新しい大幹線道路は、関東大震災の復興事業として、あるいは、陸上輸送網の拡大のために、東京のあちこちで建設されていた。

ここに、当時の玉ノ井界隈の地図がある。
1930(昭和5)年頃のもの(左)と1932(昭和7)年以降のもの(右)を並べてみよう。

玉ノ井地図
(地図上の赤丸が、現在の「東向島交差点・地図」)

地図上中央付近の赤丸が、国道6号線と明治通りが交差する、現在の「東向島交差点・地図」に当たる。
左の地図では、東向島までしか完成していない国道6号線は、右の地図では、荒川放水路の土手の所まで完成している(明治通りはもっと早くに完成してることも分かる)。
ただし、現在の四ツ木橋(昭和27年完成)はまだない。

「寺じまの記」の時代は、ほぼ、右の地図に近かったものと思われる(ただし、後述する予定だが、京成線の支線「白髭線」は、1936[昭和11]年1月に廃線)。

これら地図から分かることは、当時は、かなりの突貫工事で新道路が建設されていたこと。
また、従来からの古い道の付き方を完全に無視して、まるで、街を巨大なバリカンで苅るように、道路が建設されていることである。

思えば、「寺じまの記」が書かれた13年前に、向島界隈も、関東大震災の災禍を被った。
しかし、「寺じまの記」が書かれてから9年後には、米軍による東京大空襲によって、墨田区はほぼ丸焼けになってしまう。
そう考えると、荷風の活写した「寺じまの記」は、そういう移ろいのなかのつかの間の幻想のようにも思えるのである。

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(東京大空襲で丸焼けになった向島。中央の大通りが、国道6号線)

バスは、依然として、「向島3丁目」の交差点を左折中であるが、眠くなってきたので、この続きは次回にして、今夜はここまでとする。

後日注:戦中戦後の一時期、国道6号線、明治通り、目白通りなどを「十三間道路」と呼んでいたという。

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2011.06.06 Mon
荷風「寺じまの記」を追走する2~浅草から須崎町まで
暮れなずむ浅草雷門前。
街の灯りが輝き始めた浅草は、さぞかし賑々しく夢幻的だったに違いない。
荷風は、玉ノ井に向かうべく、京成バスに乗る。
平日の夕方のようで、帰宅を急ぐ人々でバスターミナル周辺は人とクルマでごった返しているが、まだ早い目の時間なので、郊外(向島や葛飾方面)に向かうバスに乗り込んだ客の数は案外少なかった。

この晩、荷風がどうして電車ではなく、バスで行ったのかは不明である。
当時は既に、現在と同じ場所に東武浅草駅があったわけなので、それに乗り込めば、「玉ノ井」駅まで連れて行ってくれるはずなのだが・・・。

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(雷門前から吾妻橋方面を眺める。現在は、人力車とバスとタクシーの待合所となっている)

荷風を乗せたバスは、さっそく吾妻橋を渡るのだが、ここから須崎町(現・東向島3丁目)あたりまでは、以下のように、さらりと書いている。

「車は吾妻橋をわたって、広い新道路を、向嶋行の電車と前後して北へ曲り、源森橋(げんもりばし)をわたる。両側とも商店が並んでいるが、源森川を渡った事から考えて、わたくしはむかしならば小梅あたりを行くのだろうと思っている中、車掌が次は須崎町、お降りは御在ませんかといった」

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(吾妻橋西詰)

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(吾妻橋東詰)

吾妻橋を渡ったあとに進む「広い新道路」というのは、現在の「浅草通り」のことで、上の吾妻橋東詰の写真の左から2番目の道のことであるが、この街道自体はずいぶん以前から存在したようなので、最近拡幅されたという意味であると思われる。

その後、「向嶋行の電車と前後して北へ曲り」とあるのは、現在の「吾妻橋交番前」の交差点(地図)で左折して、三ツ目通りを北上したということ。
また、ここで同方向に曲がった「向嶋行の電車」とうのは、路線上、路面電車であるはずだ。

因みに、路面鉄道は、明治初期の馬車鉄道に始まり、明治後期には電化されていたので、昭和11年頃には、すっかり馴染みのある都会市民の足になっていた。

馬車鉄道
(明治中期。銀座通りを疾駆する馬車鉄道)

さて、三ツ目通りをそのまま北上すると、すぐに源森橋(地図)を渡ることになる。

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(源森橋。左の高架は東武線)

源森橋の下を流れているのは、荷風に従えば、「源森川」であるが、変だなあ、これはどう考えても、北十間川のはずなのだが・・・。
調べてみると、「以前は、大横川の分流点より西を源森川(別名源兵衛堀)、東を北十間川といった」とあった。
つまりは、源森川=北十間川なのである。
よかった、よかった。

そう言えば、130年ほど前に日本を旅した英国人女性イザベラ・バードが、日本人は、同じ川を地域によって別の名前で呼ぶので大変に困ると漏らしていたが、これなども、その一例かしらん。
因みに、隅田川にしても、古くは、上流域を荒川、中流域を浅草川、下流域を大川と呼んでいたという例も思い出される。

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(源森橋から言問橋東詰方面を眺める。高架は東武線)

その次の「小梅あたりを行くのだろうと思っている中・・・」の「小梅」というのは、当時の町名。
これも古い地名なのだが、現在では、ほほ向島3丁目になってしまっている。
つまり、荷風を乗せたバスは既に、三ツ目通りから現在の国道6号線に入ったことになる。

向嶋地図
(当時の向島の地図も参照のこと)

次の須崎町というのも、現在では消滅してしまった地名で、ほぼ向島5丁目にあたる。

この後、バスは、須崎町(向島3丁目交差点)を左折することになるのだが、今日はここまでとしたい。

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(国道6号線の向島3丁目の交差点。黄色い「桜井ふとん店」のところでバスは左折することになる)

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2011.06.05 Sun
荷風「寺じまの記」を追走する1~乗合自動車のルート
永井荷風の小品に「寺じまの記」という、1936(昭和11)年4月に書かれた文章がある。
現在、軽便なる岩波文庫の一冊(『荷風随筆集』上巻)に収められているので、私は絶えず持ち歩いては、何度も読み返している。

「寺じま」(寺島)というのは、戦後の町名変更によって消滅してしまった地名だが、ほぼ、現在の墨田区「東向島」に相当する。
「寺島」は、遅くとも、14世紀には存在した由緒ある地名であったというのに。
嘆かわしいことに、こうして、20世紀になって、抹殺されてしまった地名は列島中では数十万に及ぶであろう。
われわれは、全国各地に、地名供養の祠を拵えなければならないのではないか。

寺島が、東向島に変名されるのに伴い、東武線「玉ノ井」駅も「東向島」駅という、いかにも不細工な駅名に変わった。
「玉ノ井」とは、寺島のそのあたりの旧通名(街区名)のことである。

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(「東向島」駅の看板。下に小さく「旧玉ノ井」とある)

話しは横道に逸れるが、風聞によれば、東武線「業平橋」駅は、現在建設中の新電波塔が完成した暁には、「とうきょうスカイツリー」駅に変名されると言う。
吐き気をもよおすようなおぞましい駅名である。

実は、「業平橋」駅は、性懲りもなく、過去にも何回も駅名を変えている。
東武線開業時には、ちょっと背伸びをして「吾妻橋駅」。
しかし、明治43年には、強引にも「浅草駅」と変名。
ところが、昭和6年、隅田川の対岸に「東武浅草駅」が誕生したのに伴い、正当にも「業平橋駅」になったという経緯がある・・・。

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(吾妻橋)

さて、永井荷風の「寺じまの記」に戻ろう。

「寺じまの記」は、暮れなずむ頃に、雷門の近くから京成「乗合自動車」(バス)に乗って、玉ノ井に向い、玉ノ井の私娼街を彷徨した後で、帰路の乗合自動車に乗りこむまでの記録である。
短い文章なので、この日記の末尾に、その全文を引用しておいた。

墨田の向島は、そもそもが、探訪するには、非常に面白い地域なのだが、同時に、私の毎日の自転車通勤路にもあたるので、「寺じまの記」の文章と照らし合わせながら、その日の荷風が、どういう道筋を辿ったかをここに再現してみたい。

玉ノ井に着いてからの荷風の足取りを再現するのは不可能に近いのだが、往きのバスが辿ったコースを再現することはできそうである。


(荷風「寺じまの記」の乗合自動車のルート)

これが文章から再現した乗合自動車のルートであるが、墨堤通りから白髭橋のあたりは、道路が拡幅されたり、当時あった道が消滅したりしているので、道なき道を通らざるを得ない箇所もある。

今回は、ここまで。
これから数回にわたって、「寺じまの記」の文章に即して、自転車で走ってみた記録を書き継いでいくことにする。

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「寺じまの記」(全文)
永井荷風


 雷門といっても門はない。門は慶応元年に焼けたなり建てられないのだという。門のない門の前を、吾妻橋(あずまばし)の方へ少し行くと、左側の路端に乗合自動車の駐る知らせの棒が立っている。浅草郵便局の前で、細い横町への曲角で、人の込合う中でもその最も烈しく込合うところである。
 ここに亀戸、押上、玉の井、堀切、鐘ヶ淵、四木(よつぎ)から新宿(にいじゅく)、金町などへ行く乗合自動車が駐る。
 暫く立って見ていると、玉の井へ行く車には二種あるらしい。一は市営乗合自動車、一は京成乗合自動車と、各その車の横腹に書いてある。市営の車は藍色、京成は黄いろく塗ってある。案内の女車掌も各一人ずつ、腕にしるしを付けて、路端に立ち、雷門の方から車が来るたびたびその行く方角をきいろい声で知らせている。
 或夜、まだ暮れてから間もない時分であった。わたくしは案内の女に教えられて、黄色に塗った京成乗合自動車に乗った。路端の混雑から考えて、とても腰はかけられまいと思いの外、乗客は七、八人にも至らぬ中、車はもう動いている。
 活動見物の帰りかとも思われる娘が二人に角帽の学生が一人。白い雨外套(あまがいとう)を着た職工風の男が一人、絣(かす)りの着流しに八字髭を生しながらその顔立はいかにも田舎臭い四十年配の男が一人、妾(めかけ)風の大丸髷(おおまるまげ)に寄席芸人とも見える角袖(かくそで)コートの男が一人。医者とも見える眼鏡の紳士が一人。汚れた襟付の袷(あわせ)に半纏(はんてん)を重ねた遣手婆(やりてばば)のようなのが一人――いずれにしても赤坂麹町あたりの電車には、あまり見掛けない人物である。
 車は吾妻橋をわたって、広い新道路を、向嶋行の電車と前後して北へ曲り、源森橋(げんもりばし)をわたる。両側とも商店が並んでいるが、源森川を渡った事から考えて、わたくしはむかしならば小梅あたりを行くのだろうと思っている中、車掌が次は須崎町(すさきまち)、お降りは御在ませんかといった。降る人も、乗る人もない。車は電車通から急に左へ曲り、すぐまた右へ折れると、町の光景は一変して、両側ともに料理屋待合茶屋の並んだ薄暗い一本道である。下駄の音と、女の声が聞える。
 車掌が弘福寺前と呼んだ時、妾風の大丸髷とコートの男とが連立って降りた。わたくしは新築せられた弘福禅寺の堂宇を見ようとしたが、外は暗く、唯低い樹の茂りが見えるばかり。やがて公園の入口らしい処へ駐って、車は川の見える堤へ上った。堤はどの辺かと思う時、車掌が大倉別邸前といったので、長命寺はとうに過ぎて、むかしならば須崎村の柳畠(やなぎばたけ)を見おろすあたりである事がわかった。しかし柳畠にはもう別荘らしい門構もなく、また堤には一本の桜もない。両側に立ち続く小家(こいえ)は、堤の上に板橋をかけわたし、日満食堂などと書いた納簾を飜しているのもある。人家の灯で案外明いが、人通りはない。
 車は小松嶋(こまつしま)という停留場につく。雨外套の職工が降りて車の中は、いよいよ広くなった。次に停車した地蔵阪というのは、むかし百花園や入金(いりきん)へ行く人たちが堤を東側へと降りかける処で、路端に石地蔵が二ツ三ツ立っていたように覚えているが、今見れば、奉納の小さな幟が紅白幾流(いくなが)れともなく立っている。淫祠(いんし)の興隆は時勢の力もこれを阻止することが出来ないと見える。
 行手の右側に神社の屋根が樹木の間に見え、左側には真暗な水面を燈火の動き走っているのが見え出したので、車掌の知らせを待たずして、白髯橋のたもとに来たことがわかる。橋快(はしだもと)から広い新道路が東南に向って走っているのを見たが、乗合自動車はその方へは曲らず、堤を下りて迂曲する狭い道を取った。狭い道は薄暗く、平家建(ひらやだて)の小家が立並ぶ間を絶えず曲っているが、しかし燈火(とうか)は行くに従つて次第に多く、家もまた二階建となり、表付(おもてつき)だけセメントづくりに見せかけた商店が増え、行手の空にはネオンサインの輝きさえ見えるようになった。
 わたくしはふと大正二、三年のころ、初て木造の白髯橋ができて、橋銭(はしせん)を取っていた時分のことを思返した。隅田川と中川との間にひろがっていた水田隴畝(ろうほ)が、次第に埋められて町になり初めたのも、その頃からであろうか。しかし玉の井という町の名は、まだ耳にしなかった。それは大正八、九年のころ、浅草公園の北側をかぎっていた深い溝が埋められ、道路取ひろげの工事と共に、その辺の艶しい家が取払われた時からであろう。当時凌雲閣の近処には依然としてそういう小家(こいえ)がなお数知れず残っていたが、震災の火に焼かれてその跡を絶つに及び、ここに玉の井の名が俄に言囃されるようになった。
 女車掌が突然、「次は局前、郵便局前。」というのに驚いて、あたりを見ると、右に灰色した大きな建物、左に『大菩薩峠』の幟を飜す活動小屋が立っていて、煌々と灯をかがやかす両側の商店から、ラヂオと蓄音機の歌が聞える。
 商店の中で、シャツ、ヱプロンを吊した雑貨店、煎餅屋、おもちゃ屋、下駄屋。その中でも殊に灯のあかるいせいでもあるか、薬屋の店が幾軒もあるように思われた。
 忽ち電車線路の踏切があって、それを越すと、車掌が、「劇場前」と呼ぶので、わたくしは燈火や彩旗(さいき)の見える片方を見返ると、絵看板の間に向嶋劇場という金文字が輝いていて、これもやはり活動小屋であった。二、三人残っていた乗客はここで皆降りてしまって、その代り、汚い包をかかえた田舎者らしい四十前後の女が二人乗った。
 車はオーライスとよぶ女車掌の声と共に、動き出したかと思う間もなく、また駐って、「玉の井車庫前」と呼びながら、車掌はわたくしに目で知らせてくれた。わたくしは初め行先を聞かれて、賃銭(ちんせん)を払う時、玉の井の一番賑な処でおろしてくれるように、人前を憚らず頼んで置いたのである。
 車から降りて、わたくしはあたりを見廻した。道は同じようにうねうねしていて、行先はわからない。やはり食料品、雑貨店などの中で、薬屋が多く、次は下駄屋と水菓子屋が目につく。
 左側に玉の井館という寄席があって、浪花節語りの名を染めた幟が二、三流立っている。その鄰りに常夜燈と書いた灯を両側に立て連ね、斜に路地の奥深く、南無妙法蓮華経の赤い提灯をつるした堂と、満願稲荷とかいた祠があって、法華堂の方からカチカチカチと木魚を叩く音が聞える。
 これと向合いになった車庫を見ると、さして広くもない構内のはずれに、燈影(ほかげ)の見えない二階家(にかいや)が立ちつづいていて、その下六尺ばかり、通路になった処に、「ぬけられます。」と横に書いた灯(あかり)が出してある。
 わたくしは人に道をきく煩いもなく、構内の水溜りをまたぎまたぎ灯の下をくぐると、家と亜鉛(トタン)の羽目とに挟まれた三尺幅くらいの路地で、右手はすぐ行止りであるが、左手の方に行くこと十歩ならずして、幅一、二間もあろうかと思われる溝にかけた橋の上に出た。
 橋向うの左側に「おでんかん酒、あづまや」とした赤行燈(あかあんどう)を出し、葭簀(よしず)で囲いをした居酒屋から、するめを焼く匂いがしている。溝際には塀とも目かくしともつかぬ板と葭簀とが立ててあって、青木や柾木(まさき)のような植木の鉢が数知れず置並べてある。
 ここまでは、一人(ひとり)も人に逢わなかったが、板塀の彼方に奉納の幟が立っているのを見て、其方(そちら)へ行きかけると、路地は忽ち四方に分れていて、背広に中折を冠った男や、金ボタンの制服をきた若い男の姿が、途絶えがちながら、あちこちに動いているのを見た。思ったより混雑していないのは、まだ夜になって間もない故であるのかも知れない。
 足の向く方へ、また十歩ばかりも歩いて、路地の分れる角へ来ると、また「ぬけられます。」という灯が見えるが、さて共処まで行って、今歩いて来た後方(うしろ)を顧ると、何処も彼処も一様の家造(やづく)りと、一様の路地なので、自分の歩いた道は、どの路地であったのか、もう見分けがつかなくなる。おやおやと思って、後へ戻って見ると、同じような溝があって、同じような植木鉢が並べてある。しかしよく見ると、それは決して同じ路地ではない。
 路地の両側に立並んでいる二階建の家は、表付に幾分か相違があるが、これも近寄って番地でも見ないかぎり、全く同じようである。いずれも三尺あるかなしかの開戸の傍に、一尺四方位の窓が適度の高さにあけてある。適度の高さというのは、路地を歩く男の目と、窓の中の燈火に照らされている女の顔との距離をいうのである。窓際に立寄ると、少し腰を屈めなければ、女の顔は見られないが、歩いていれば、窓の顔は四、五軒一目に見渡される。誰が考えたのか巧みな工風である。
 窓の女は人の跫音(あしおと)がすると、姿の見えない中から、チョイトチョイト旦那。チョイトチョイト眼鏡のおじさんとかいって呼ぶのが、チイト、チイートと妙な節がついているように聞える。この妙な声は、わたくしが二十歳の頃、吉原の羅生門横町、洲崎(すさき)のケコロ、または浅草公園の裏手などで聞き馴れたものと、少しも変りがない。時代は忽然三、四十年むかしに逆戻りしたような心持をさせたが、そういえば溝の水の流れもせず、泡立ったまま沈滞しているさまも、わたくしには鉄漿溝(おはぐろどぶ)の埋められなかった昔の吉原を思出させる。
 わたくしは我ながら意外なる追憶の情に打たれざるを得ない。両側の窓から呼ぶ声は一歩一歩急(せわ)しくなって、「旦那、ここまで入らっしゃい。」というもあり、「おぶだけ上ってよ。」というのもある。中には唯笑顔を見せただけで、呼止めたって上る気のないものは上りゃしないといわぬばかり、おち付いて黙っているのもある。
 女の風俗はカフェーの女給に似た和装と、酒場で見るような洋装とが多く、中には山の手の芸者そっくりの島田も交っている。服装のみならず、その容貌もまた東京の町のいずこにも見られるようなもので、即ち、看護婦、派出婦、下婢(かひ)、女給、女車掌、女店員など、地方からこの首都に集って来る若い女の顔である。現代民衆的婦人の顔とでも言うべきものであろう。この顔にはいろいろの種類があるが、その表情の朴訥穏和なことは、殆ど皆一様で、何処となくその運命と境遇とに甘んじているようにも見られるところから、一見人をして恐怖を感ぜしめるほど陰険な顔もなければまた神経過敏な顔もない。百貨店で呉服物見切(みきり)の安売りをする時、品物に注がれるような鋭い目付はここには見られない。また女学校の入学試験に合格しなかった時、娘の顔に現われるような表情もない。
 わたくしはここに一言して置く。わたくしは医者でもなく、教育家でもなく、また現代の文学者を以て自ら任じているものでもない。三田派の或評論家が言った如く、その趣味は俗悪、その人品は低劣なる一介の無頼漢に過ぎない。それ故、知識階級の夫人や娘の顔よりも、この窓の女の顔の方が、両者を比較したなら、わたくしにはむしろ厭(いと)うべき感情を起させないという事ができるであろう。
 呼ばれるがまま、わたくしは窓の傍に立ち、勧められるがまま開戸の中に這入って見た。
 家一軒について窓は二ツ。出入の戸もまた二ツある。女一人について窓と戸が一ツずつあるわけである。窓の戸はその内側が鏡になっていて、羽目(はめ)の高い処に小さな縁起棚(えんぎだな)が設けてある。壁際につッた別の棚には化粧道具や絵葉書、人形などが置かれ、一輪ざしの花瓶(はないけ)には花がさしてある。わたくしは円タクの窓にもしばしば同じような花のさしてあるのを思い合せ、こういう人たちの間には何やら共通な趣味があるような気がした。
 上框(あがりかまち)の板の間に上ると、中仕切(なかしき)りの障子に、赤い布片(きれ)を紐のように細く切り、その先へ重りの鈴をつけた納簾のようなものが一面にさげてある。女はスリッパアを揃え直して、わたくしを迎え、納簾の紐を分けて二階へ案内する。わたくしは梯子段を上りかけた時、そっと奥の間をのぞいて見ると、箪笥、茶ぶ台、鏡台、長火鉢、三味線掛などの据置かれた様子。さほど貧苦の家とも見えず、またそれほど取散らされてもいない。二階は三畳の間が二間、四畳半が一間、それから八畳か十畳ほどの広い座敷には、寝台(ねだい)、椅子、卓子(テーブル)を据え、壁には壁紙、窓には窓掛、畳には敷物を敷き、天井の電燈にも装飾を施し、テーブルの上にはマッチ灰皿の外に、『スタア』という雑誌のよごれたのが一冊載せてあった。
 女は下から黒塗の蓋のついた湯飲茶碗を持って来て、テーブルの上に置いた。わたくしは啣(くわ)えていた巻煙草を灰皿に入れ、
「今日は見物に来たんだからね。お茶代だけでかんべんしてもらうよ。」といって祝儀を出すと、女は、
「こんなに貰わなくッていいよ。お湯(ぶ)だけなら。」
「じゃ、こん度来る時まで預けて置こう。ここの家は何ていうんだ。」
「高山ッていうの。」
「町の名はやっぱり寺嶋町(てらじままち)か。」
「そう。七丁目だよ。一部に二部はみんな七丁目だよ。」
「何だい。一部だの二部だのッていうのは。何かちがう処があるのか。」
「同じさ。だけれどそういうのよ。改正道路の向へ行くと四部も五部もあるよ。」
「六部も七部もあるのか。」
「そんなにはない。」
「昼間は何をしている。」
「四時から店を張るよ。昼間は静だから入らっしゃいよ。」
「休む日はないのか。」
「月に二度公休しるわ。」
「どこへ遊びに行く。浅草だろう。大抵。」
「そう。能(よ)く行くわ。だけれど、大抵近所の活動にするわ。同(おん)なじだもの。」
「お前、家(うち)は北海道じゃないか。」
「あら。どうして知ってなさる。小樽だ。」
「それはわかるよ。もう長くいるのか。」
「ここはこの春から。」
「じゃ、その前はどこにいた。」
「亀戸(かめいど)にいたんだけど、母(かア)さんが病気で、お金が入(い)るからね。こっちへ変った。」
「どの位借りてるんだ。」
「千円で四年だよ。」
「これから四年かい。大変だな。」
「もう一人の人なんか、もっと長くいるよ。」
「そうか。」
 下で呼鈴(よびりん)を鳴す音がしたので、わたくしは椅子を立ち、バスへ乗る近道をききながら下へ降りた。
 外へ出ると、人の往来(ゆきき)は漸く稠(しげ)くなり、チョイトチョイトの呼声も反響するように、路地の四方から聞えて来る。安全通路と高く掲げた灯の下に、人だかりがしているので、喧嘩かと思うと、そうではなかった。ヴィヨロンの音と共に、流行唄(はやりうた)が聞え出す。蜜豆屋がガラス皿を窓へ運んでいる。茄玉子(ゆでたまご)林檎バナナを手車に載せ、後から押してくるものもある。物売や車の通るところは、この別天地では目貫きの大通であるらしい。こういう処には、衝立のような板が立ててあって、さし向いの家の窓と窓とが、互に見えないようにしてある。
 わたくしは路地を右へ曲ったり、左へ折れたり、ひや合いを抜けたり、軒の下をくぐったり、足の向くまま歩いて行く中(うち)、一度通った処へまた出たものと見えて、「あら、浮気者。」「知ってますよ。さっきの且那。」などと言われた。忽ち真暗な広い道のほとりに出た。もと鉄道線路の敷地であったと見え、枕木を掘除いた跡があって、ところどころに水が溜っている。両側とも板塀が立っていて、その後の人家はやはり同じような路地の世界をつくっているものらしい。
 線路址の空地が真直に闇をなした彼方のはずれには、往復する自動車の灯が見えた。わたくしは先刻(さっき)茶を飲んだ家の女に教えられた改正道路というのを思返して、板塀に沿うて其方(そちら)へ行って見ると、近年東京の町端(まちはず)れのいずこにも開かれている広い一直線の道路が走っていて、その片側に並んだ夜店の納簾と人通りとで、歩道は歩きにくいほど賑かである。沿道の商店からは蓄音機やラヂオの声のみならず、開店広告の笛太皷も聞える。盛に油の臭気を放っている屋台店の後には、円タクが列をなして帰りの客を待っている。
 ふと見れば、乗合自動車が駐る知らせの柱も立っているので、わたくしは紫色の灯をつけた車の来るのを待って、それに乗ると、来る人はあってもまだ帰る人の少い時間と見えて、人はひとりも乗っていない。何処まで行くのかと車掌にきくと、雷門を過ぎ、谷中へまわって上野へ出るのだという。
 道の真中に突然赤い灯が輝き出して、乗合自動車が駐ったので、其方を見ると、二、三輌連続した電車が行手の道を横断して行くのである。踏切を越えて、町が俄に暗くなった時、車掌が「曳舟通り」と声をかけたので、わたくしは土地の名のなつかしさに、窓硝子に額を押付けて見たが、木も水も何も見えない中に、早くも市営電車向嶋の終点を通り過ぎた。それから先は電車と前後してやがて吾妻橋をわたる。河向(かわむこう)に聳えた松屋の屋根の時計を見ると、丁度九時……。
昭和十一年四月
http://www.aozora.gr.jp/cards/001341/files/49652_39421.htmlより

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