日々の身辺雑記や考えたことなどを徒然なるままに書き連ねる「断腸亭日録」です。
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断腸亭日録~自転車日記
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2010.05.28 Fri
意外性の中川~八潮の「中川遊歩道」など
玄米が底をつきそうになっていたので買い出しに行くことに。

今はそうでもないが、若い頃は、実に不健康な生活(酒が主食で煙草が副菜)を送ってきたことが祟って、健康診断に引っかかるようになって以来、三回に一回ぐらい、玄米を食べることにしている。
私は、薬を飲まない主義なので、健康を維持するために摂取しているのは、この玄米と梅丹(メイタン)だけである。
幸い、玄米は大好きなので、これを食べることは苦にはならないばかりか、玄米飯は、肉料理と相性が良くないので、自然、魚や野菜もたくさん食べるようになって好循環が生まれるという「理屈」である。

買い出しに行く先は、いつもの「かしわで」(千葉県柏市)だが、今日は、八潮(埼玉県)を北上する経路で行ってみることにした(フジクロス)。

八潮は、私の住む葛飾区水元のすぐ隣で、大場川という小さな川を渡れば、そこはもう埼玉県八潮市である。
九州の人にとって、東京や大阪よりも韓国のが、意外にも近いのと似たような感覚だろうか。

大場川の「親玉」は、中川という川だが、この川は非常にくねくねと曲がって流れている。
そのことはまあ「許す」として、中川は、橋の数が少ないのに加えて、江戸川などと違って、サイクリングロードないしは川筋の遊歩道がきちんと通っていない(突然、未舗装路になるか消滅する)ので、自転車では走りにくいという現実が、私の中で、わずか2キロほどの八潮市が、17キロもある駿河台よりも「遠い」場所だと感じさせる理由なのかもしれない。

潮止橋を渡る(飯塚橋といつも大混雑のこの橋の間隔が長すぎる。途中にもう一本橋があると大変に助かるのだが)。
川沿いの一般道をしばらく北上すると、右側に「中川遊歩道」の入口が現れる。

IMG_5240.jpg
(分かりにくい「中川遊歩道」の入口・地図

現れると言っても、それを示す看板があるわけでもないし、未舗装路風に見えるので、大変に分かりにくい。
何だか不安な道だが、ここを入って行くと、ちゃんと看板が見つかって安心する。

IMG_5241.jpg
(忽然と現れたかの「中川遊歩道」)

この遊歩道は、一間弱しかなくて、細くて心許ない道ではあるが、中川筋らしく、くねくねしていて、走っていて結構楽しい。

できたばかりの新しい橋(橋名失念)の所で、10メートルぐらい未舗装路になるが、断固として進めば、また舗装路が現れる。

IMG_5239.jpg
(新橋の袂で、少しだけ未舗装路になる)

この道をば、道なりに走れば、こんな道や、

IMG_5242.jpg

こんな道を、疑似的なジャングルクルーズの気分で北上すれば・・・、

IMG_5243.jpg

こんな新築の土手が忽然と出現する。

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(遊歩道は、いったんは途絶するが、こんな土手道が現れる)

土手を駆け上がると、こんな立派なサイクリングロードが現れて、ちょっと感動する。
中川筋らしく、ある種の「意外性」があるのだ。

IMG_5245.jpg
(広々とした土手のサイクリングロード。前方に見える橋は、首都高6号線)

「途絶」と「意外性」。
これこそが、中川筋の特徴である。

ところが、しばらく走ると、「意外」なことに、道は突然、細くなる。

IMG_5247.jpg
(細くなる道)

と思いきや、再び、道が太くなって、ああ良かったと思って走っていると、突然、道は「途絶」する。

IMG_5249.jpg
(途絶する道)

ここで、傍らを北上する一般道を少し走ると、右側に、再び土手の遊歩道が現れるが、そこに至る道が見つからず、仕方なく、「野道を行けば・・・♪」、そのサイクリングロードも、またしても消滅する・・・。

道に意外性があるのは楽しいことだが、あまりに意外性が多すぎて、何だか疲れてくる。
ここまでの道筋については、先達による便利な経路図が見つかったので、ご参照のこと。

結局、この後は、方位磁石だけを頼りに、綾瀬放水路→八条用水路(未舗装路多し)→県道29号→流山橋を経て、やっとのことで目的地の「かしわで」に到着。

IMG_5250.jpg
(中川に流れる綾瀬放水路)

IMG_5252.jpg
(自転車で走るのに適していない八条用水路)

「かしわで」では、玄米、大根、ニンジンなどを買い出しして、江戸川沿いの道を辿って帰宅した。
中川という川は、なかなかに度し難い川である。

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走行距離:72キロ(フジクロス)
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2010.05.26 Wed
幻想の新川
所用があって、中央区の「新川」に行ってきた。
地下鉄「八丁堀」駅で降りて、高橋という橋を渡って「鍛冶橋」通りを東へと歩いた先に、私の目的地のビルがあるのだが、2時間も早く着いてしまったので、この界隈をとぼとぼと歩いてみることにした。

IMG_5225.jpg
(「高橋」から亀島川を見る。この川はこの先で右に曲がって、日本橋川と合流する)

このあたりを散策していて、何となく歯がゆい思いというか、ふわふわしたような気分になってしまうのは、この土地がそもそも埋め立て地であるばかりではなくて、その地名の心許なさが原因ではあるまいか。

現在のこのあたりの町名は、「新川」(1丁目と2丁目しかない)であるが、地形としては島である。
ここ新川から隅田川を南に渡った先が佃島だとすれば、むしろ、「新川島」とでもするのが相応しい。

IMG_5231.jpg
(周辺地図。新川は、隅田川と日本橋川と亀島川によって囲まれた島である)

亀島川という長さ約1キロにも満たないくの字形の川が印象的である。
あるいは、この亀島川の亀島こそが、この新川という島の古名ないしは通名だったのかもしれないと、歩きながら考えた。
そんな風に考えると、「新川」という島の形が、何となく、水辺にだらしなく身を沈める亀の形に見えてくる。

私は、「鍛冶橋」通りを歩いて隅田川に出てみることにした。

IMG_5228.jpg
(新川から、幻想的な佃島を眺める)

この「鍛冶橋」通りの名の由来となっている鍛冶橋にしても、戦後、米軍の空爆によって生じた残骸で外堀が埋められた際に消滅して今は存在しないのだが、実は、新川という川ももはや存在しないことを隅田川の川辺に建っていた石碑によって知る。

IMG_5234.jpg
(昭和20年代に埋め立てられてしまった新川跡の石碑)

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(新川跡の説明板)

家に帰ってから、この辺りの江戸時代の地図を開いてみた。
なるほど、新川に相当する運河がはっきり描かれていて、三つの木橋が架かっている。
それはともかくとして、江戸時代の町名も混乱していることが分かる。
この小さな区域に、10ほどの町名が付されていて、しかも、統一性がない。
川口町、長寿町、東湊町、銀町、富島町、四日市町、川端町、濱町、塩町、南新堀町などの、実に小さな区画の町名が互いに争うように犇めきあっていて、その真ん中に、松平越前守の屋敷がどかんと鎮座する。
こんな狭い区域にこれだけ多くの町名が乱在するのは、埋め立て地が、継ぎ足し、継ぎ足しされて新開地として誕生するたびに新たな町名がかなり行き当たりばったりにあてがわれた結果ではなかろうか。

新川河岸
(問屋や酒蔵が並び立つ江戸期の新川河岸)

私は、さらに隅田川を下って、中央大橋を渡って、佃島に「上陸」してみた。
新川の側から見ると、実に幻想的な佃島だが、来てみると案外つまらない。
お洒落なレストランや摩天楼が並び立つだけで、やはり、摩天楼は、遠くから見た方が良いようである。
それにしても、面白いもので、遠くから見ていると、そこに行ってみたくなるものだが、行ってみると案外つまらないというのはどうしたことであろうか。

ただし、この島から隅田川の風景は見るに値するかもしれない。

IMG_5232.jpg
(隅田川。水色の橋は永代橋。遠景には、墨田の新電波塔も見える)

生憎にも、雨が落ちてきたが、この風景を見ていたら、ご多分に漏れず、永代橋の方にも行ってみたくなった。

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(永代橋)

この橋は、美しいとされているが、私はあまり好きではない。
どこが美しいのだろうか。

ついでに、日本橋川の河口まで歩いてみる。

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(日本橋川が隅田川に流れ落ちる河口付近)

かつてこのあたりは、方々から日本橋河岸を目指して夥しい小舟が航行していた所であるが、現在は、何艘かの船が寂しく係留されているのみ。

IMG_5238.jpg
(日本橋川の一番下流に架かっている豊海橋)

雨あしが強くなってきたので、私は、鞄から帽子を出して被って、足早に来た道を戻る。

隅田川土手を歩いていると、艀にぶら下がるようについている、不思議な階段を発見する。

IMG_5229.jpg
(途中から水没する階段)

江戸期に埋め立てられて出現した「新川」は、その後、新川が開削されたものの、その新川は現在は埋め立てられて存在しない・・・。
この階段は、そうしたこの島の存在の有り様を象徴しているようにも思えた。

走行距離:2キロ(単速ママチャリ)

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2010.05.22 Sat
本佐倉城趾を訪ねる
横山さん企画の本佐倉城趾見学会に参加する。

今日も、フジクロスで出かけることにする。
最近はもっぱらフジクロスばかりに乗っている。
自分で一から組み直した自転車は、かわいくて仕方がないのに加えて、フロントギア一枚でどこまで通用するかを試してみたいと思っているからでもある。

そもそもは、39tと13-23t(8速)のスプロケで、駿河台に通勤するためのギア比にした。
家から駿河台までは、ほとんど城東の低湿地帯を走るだけで、坂らしい坂と言えば、最後に駿河台を登るぐらいなので、39t×23tで十分であることが分かった。

その後、銚子半島を走るに当たって、坂が厳しいかもしれないと思って、スプロケを13-26t(8速)に変更した。
銚子半島や下総台地のような洪積台地を登るなら、39t×26tで十分であることも分かった。
堆積でできた台地なら現在のギア比でも大丈夫だけど、夏に走る予定の、造山運動によってできた東北の長く険しい坂となるとやはりこれでは無理だろうなあ。
39tの内側に30tを予備的に取り付けておいて、長い坂が現れたら、自転車を止めて、素手でチェーンを移動(変速)させて登るのもありかもしれない(再度フロントメカを着けて重くしたくないので)。
いやいや、そんな頓狂なことはせずに、やっぱり素直にロードバイクで行くべきだよな。
ただせめて、フロント130ミリの36tのギアがあれば(シマノでは存在せず)、36t一枚でかなり有効性のあるギア比を実現できるんだけど・・・。

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(なおさら愛着が増しつつあるフジクロス・水元公園)

さて、松戸から五香十字路経由で八千代道の駅近くの新川沿いへ走るルートは、横山さん東葛人さんという二人の「道の達人」に導かれて、気持ちの良い道を先導していただいたわけだが、最後の桑納川沿いの道以外は、どのあたりを走っているのかほとんど分からなかった(464号→船橋県民の森。あとは???)。

新川から印旛沼サイクリングロードに入ったあたりから、愚兵衛さんとの待ち合わせ時間に間に合いそうにないと分かって、風車の公園(佐倉ふるさと広場)まで、ずう~っと全力疾走でこぎまくったので、くたくたになってしまう。
公園から本佐倉城趾までは、愚兵衛さんに先導してもらって、倒れ込むように現場に到着(最後はバリバリの未舗装路)。
現地で、kaccinさんとしゃあさんとも合流。

本佐倉城趾に来るのは、これが初めて。
遺跡を目の前にして、その大きさにまずびっくりした。

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(城郭東側の「東山馬場」)

この城は、15世紀後半に築城され17世紀初頭に廃城となったというが、詳しい説明は、以下のページをご参照のこと。
http://www.asahi-net.or.jp/~ju8t-hnm/Shiro/Kantou/Chiba/Motosakura/

われわれは、ボランティアのガイドさんにしたがって、たっぷり90分間、城趾一帯を歩きながら解説をしていただいた。

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(城趾を歩き回る)

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(「虎口」[大手門]付近。前に広がる水田は、当時は印旛沼の水域であった)

本佐倉城
(本佐倉城趾全貌図)

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(本佐倉城趾復元予想図)

こうして、圧倒的な新緑の中で、戦国期の城跡を堪能したわれわれは、愚兵衛さん(赤いクロモリバイクがすごく良かった)のご案内で、佐倉市街地のトンカツ屋(「おかやま食堂」・95点)でお腹を満たす(飢えていたので、写真を撮り忘れる)。

ボリュームたっぷりのトンカツのお陰で飢餓状態を脱したわれわれは、さらに歴史的興味を満たすため、「国立歴史民俗博物館」に赴いた。

みんなでああだこうだと言いながら博物館を見学するのは、宴会と同じぐらい楽しいことである。

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(箸墓古墳)

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(弥生人と縄文人。正面のヘルメットの人は現代人のようである)

かくして、われわれの歴史的興味は満たされ「過ぎ」となって、再び、へとへとになる。

佐倉城趾公園で解散。

私は、京成佐倉駅→高砂駅輪行で帰宅した。

まことに楽しい一日であった。

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走行距離:72キロ(フジクロス)

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2010.05.21 Fri
イザベラ・バード(『日本未踏地紀行』)の足跡を走る3~草加から粕壁まで
ヤマト政権下で造営された関東以北の官道は、まるで古代ローマのアッピア街道のように、全体として、不自然なほどまっすぐである。
それは、軍事拠点ともなり得るような、河川や沼地に囲まれた高台に国分寺や国府をあらかじめ築いておいて、そういう拠点と拠点を結ぶ最短ルート(バイパス)を、まるで定規で直線を引くように、そこに断固としてまっすぐな道を建設するという発想だったからではないか。
もちろん、鎌倉期以降の関東とは違って、当時の関東以北は人口もまばらで、既存の大きな集落も少なかったので、集落と集落をつなぐものとしての街道という発想ではなくて、役人や軍隊を急派できるようなバイパス的な道筋をとることになったのかもしれない。

奈良期以降に築かれたこれらの道筋に、後から大きな集落が発生するようになる。
その集落と集落を結ぶルートが、時の経過とともに、半ば自然に、半ば人為的に建設されていったのだが、江戸期になって、これらの道が総合的に見直されて、新たに全国的な道路網として整備しなおされることになった。
こうして、伊勢参りや参勤交代のための官道(街道)ができあがることになる。

明治になっても、基本的には、江戸期の道路網をそのまま踏襲することになったが、明治18(1885)年、明治政府は、44の国道を指定して、その道幅も12.7メートル(7間)と規定した。
だから、これらの旧国道の道幅は、現在でも12.7メートルのはずである。

昭和になって、クルマの交通量が増えると、もっと大きな新国道が建設され始める。
従来は町の中心部を抜けていた旧国道は、県道に降格させられた。
これらの新国道は、いわば、旧国道のバイパスとして建設されたわけである。
戦後になると、さらに、新国道のバイパスとして、高速道路までもが建設されることになる。

新国道や高速道路は、地図で見るとその異様な性格がよく分かる。
周囲の道と何の脈絡もなく、まるで巨大なバリカンで刈り上げたような道のつきかたをしているからである。
たとえば、私のよく利用する国道6号線(現水戸街道)がそうで、墨田区あたりを貫通するこの国道は、まるで荒川放水路のように、従来の街や生活道路を分断ないしは「蹂躙」するような道のつき方をしているのが分かるであろう(地図参照)。
こういう道のあり方それ自体が、人間よりクルマを重要視する思想(名付けて「バイパスの思想」)の明示的な表現となっているのである。

さて今日は、イザベラ・バードが辿った道の中の、草加から粕壁(現・春日部)までの旧街道を走ってみることにした。

水元公園→大場川→中川→垳川→綾瀬川→草加宿。
それぞれの川沿いの道ないしは川と平行してついている道を北西進すると、あっという間に草加に到着してしまう。
私の住む水元(葛飾区)から鉄道で草加に行くのはえらく大変だけど、自転車なら実に簡単である。
走行距離も、たった15キロ弱で、職場の駿河台よりも近い(しかも、低湿地帯を抜けるだけなので坂は皆無)。

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(大場川)

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(大場川が中川に流れ込む新大場川水門・地図

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(垳川と葛西用水の合流地点・地図

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(綾瀬川)

草加宿では、松尾芭蕉がわれわれを迎えてくれる。

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(旧街道筋の芭蕉像・「もし生きて帰らばと、定めなき頼みの末をかけ、その日やうやう早加(草加)といふ宿にたどり着きにけり。痩骨の肩にかゝれる物先くるしむ」(『奥のほそみち』)。)

草加から粕壁までの旧奥州街道を辿る道筋は、現在の道路名で表現するとほぼこうなる。
県道49→県道52→県道325→国道4号→県道2号。
草加から粕壁までは、約25キロであるが、旧街道と現在の国道4号が重なっているのは、わずか5キロほどしかない。
この例からしても、現在の国道4号が、旧街道のバイパスとして建設されたことが分かる(現在では、その国道4号のバイパスも建設され、さらに、東北自動車道というバイパスの「大親分」まで存在する)。
旧街道の詳しい道筋については、以下の素晴らしいページをご参照のこと。
http://www.jinriki.info/kaidolist/nikkokaido.html

イザベラ・バードは、東京から粕壁までの旅程を次のように書き記している。

「公使館を月曜日の11時に発ち、粕壁には5時着きました。23マイル[約37キロ]の旅をクルマ[人力車]の車夫は楽に走り通しましたが、煙草や食事でしょっちゅう休憩しました。・・・車夫はわらじをはいており、途中で二度はきかえなければなりませんでした」(講談社版上巻117頁)。

イザベラがこの街道を辿った約200年前の五月、芭蕉も千住を出発して、一泊目は同じく粕壁宿で宿泊している。
ともに、昼食は草加あたりでとったのだろうか。
また、車夫のわらじは、ほんの10数キロで履きつぶしてしまったことも、この記述から分かる。
当時、現在のようなスポーツシューズがあったら、車夫たちは、どんなにかありがたかったことであろう。

現在の旧街道を自転車で走るのは、決して楽しい作業ではない。
大幹線道の座は、国道4号に譲っているものの、今でも首都圏の主要道路であるのに違いないので、クルマの交通量は多いし、130年前の名残はほとんど皆無なので、走っていてもちっとも面白くない。

IMG_5167.jpg
(越谷あたりの旧道・たぶん、ここの道幅は、7間の12.7メートルのはずだが、交通量が多くて何人[なんぴと]も計ることはできない)

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(「瓦曽根ロータリー」の所で道は二股に分かれるが、旧街道は左の細い方。地図

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(旧街道・越谷付近。古い家屋が残っている)

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(旧街道・越谷付近。こちらはもしかしたら、明治期の建築物かもしれない)

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(旧街道・越谷付近)

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(春日部の手前で、旧街道は国道4号と合流する)

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(「一宮」の交差点の所で、旧街道は、左折(県道2)する・地図

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(県道2号の「新町橋」交差点。かなり古い蔵だが、周辺を工事中。次に来るときにはこの蔵も消滅しているかもしれない。ここを右折すると、旧街道は、粕壁宿を離れて古河方面へ向かうことになる・地図

粕壁に至るまでのイザベラの記述で、場所を特定できる箇所はきわめて少ないが、「江戸平野」の描写はちょっと面白い。

「この江戸平野はおもに大水田地帯から成り、いまは田植えで忙しい時期なのです。・・・江戸平野には、幹線道路沿いにほぼ切れ目なくつづく村落のほかに、木立に囲まれたいわば島状の集落があります。また、オアシスとも言うべき感じのよい緑地が何百とあり、小麦が刈り取りの時期を迎えていたり、玉ねぎ、黍、大豆などがよく育っています。・・・田を耕すのに馬や牛が使われる場合があるのをのぞいて、耕作はすべて手作業で、雑草は一本も見当たりません・・・」(講談社版上巻119・122頁)

イザベラが、千住を過ぎて江戸府外に出た辺りから、町並みが希薄になって、村落と水田と麦畑が多く見られるようになる。今と違って、当時は麦を刈り取ってから田植えをしていたので、イザベラが「江戸平野」を北上した六月初旬は、場所によっては黄金色の麦穂が風に波打ち、また場所によっては、田に水を入れて、これから田植えが始まろうとしているところだったにちがいない。
水を引いた水田のなかに散在する村落を、まるで「島」のようだと表現しているのが、実にピクチャレスク(絵画的)で、私なぞは感動してしまう。
雑草が一本も見当たらないという点も、イザベラが各所で指摘しているところである。
幕末維新の動乱期の直後とはいえ、農民の暮らしと労働は、不動の循環の中で展開していたこともよく分かる。

「粕壁は大きくはあるもののみすぼらしい町で、目抜き通りは東京のいちばん貧しい地域の通りのようでした・・・プライバシーのなさ、悪臭、蚤と蚊による拷問・・・」(講談社版上巻124頁・129頁)。

こうして泊まった粕壁での最初の夜は、イザベラを打ちのめしたようであった。

帰路は、道に迷いつつも、大落古利根川筋を下って、江戸川サイクリングロードで帰宅した(これについては、別項にて後日書くつもり)。

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(大落古利根川の説明板)

走行距離:92キロ(フジクロス+6速ママチャリ)

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2010.05.19 Wed
書き損ねた日々
今年の5月は、あまりにも天気がよすぎて、休みの日は、朝から晩まで野外を走り回っては、ビールを飲んで夕飯を食べてバタンキューの日々が続いたものだから、困ったことに、日記を書く暇がない。
人生の時間が残り少なくなりつつある身としては、通り過ぎて行く日々を記録しておかなければと焦りつつあるものの、残り時間が少ないからこそ、記録なぞしている暇はないという考え方もあって、板挟みになってしまうことも・・・。

今日は、久々に午後から雨らしい雨が降り始めて、帰路は濡れ鼠になってしまったが、お陰で、何だか平静心が蘇ってきたような感じである。

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(早朝の内堀)

本日の走行距離:60キロ(ACクロスバイク)

さて、書き損ねた日々をここに簡単に振り返っておこう。

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5月8日(土)

武蔵野の路・舎人コース」なる散策ルートがあることを知って、さっそく走ってみる(フジクロス)。

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(「武蔵野の路・舎人コース」の案内板)

水元公園を出発して、大場川→垳川→綾瀬川→毛長川という低湿地帯を曲流する複数の川ないしは用水路を結ぶルートで、その名の通り、舎人公園付近まで連れて行ってくれる。

これにより、葛飾区から八潮市(埼玉県)を抜けて、足立区を横断することができるので、そこからさらに新芝川に出て荒川(鹿浜)に抜けたり、あるいは、逆に芝川を遡行(北西進)すれば、都心を抜けずに、つまりは、国道17号線(中仙道)を使わずとも、大宮方面に行けるかもしれない(これについては未調査)。

舎人公園の「朝日の広場」に行ってみる。

IMG_5038.jpg
(舎人公園の「朝日の広場」)

この「朝日の広場」は、足立区内で一番標高の高い場所だが、それでも、何と17メートルしかない。
それなのに、ここからは、池袋の高層ビルや東京タワーや、ひいては、墨田に建設中の新電波塔まで見渡すことができる。
東京の北東部がいかに低湿地帯であるかよく分かる。

ここ足立区舎人は、友人のしゃあさん(日本道楽党所属)の地盤なので、電話をしてみると、すぐに赤い電動クロスバイクに乗って飛んできてくれた。
二人で、草加宿に行ってみることに。

IMG_5053.jpg
(奥州道中草加宿の松並木。イザベラ・バードもここを人力車で北進したはずである)

帰りは、綾瀬川を下っていくと、垳川にぶつかって、中川を潮止橋で渡るとすぐそこには水元公園。
なるほど、昔、たとえば水戸街道を上ってきた旅人が最短ルートでそのまま奥州街道や中仙道に取り付くには、松戸の渡し(江戸川)を渡ってから千住まで行く必要もなく、舟運も利用しやすいこのルートをとったかもしれないなと思った(ただ、関所を通る必要があるとすれば難しいかもしれないのだが)。

いずれにせよ、道路や鉄路からではなくて、水路から地理や地勢を考えると、別の世界が見えてくるようであった。

午後は、呑ちゃんと水元公園を散策。
ばったりと、やまびこさんたちと遭遇する。

IMG_5060.jpg
(水元公園メタセコイアの森にて)

走行距離:82キロ(フジクロス+6速ママチャリ)
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5月9日(日)

学生たちを誘って、江戸城趾および浅草界隈を探索することにした。

集合時間場所は、パレスサイクリングの拠点に10時半。
「はえぇ~(早い)」とか「やべえ~」とか言っていた学生がいた。

しかも、できれば、自宅から自分の自転車で来るように命じた。
ここでも、「うっそ~」とか「やべえ~」とか言っていた学生がいた。

集まった学生は約20人。
結局、自転車で来たのは一人だけ。
その学生、2万円ぐらいのクロスバイクに乗ってさっそうと現れたので、自転車で来たのは君だけだよ、偉いぞ!とほめて、どこから来たのか聞けば、千代田区一番町だという。
ということは、たったの2キロぐらいじゃないか・・・。

とにもかくにも、他の学生たちにはレンタサイクル(無料)を借りてくるように言う。

IMG_5067.jpg
(無料レンタサイクルの手続きをする学生たち)

このレンタサイクルで、浅草まで回ってしまおうという魂胆だったが、係のオジサンに聞けば、内堀通りの決められた範囲から出てはいけないというので、一応、自転車に乗って、大手門などを見学した後は、徒歩で散策するぞと言うと、ここでもまた、「うっそ~」とか「やべえ~」とか言っていた学生がいた。

パレスサイクリングの規定コースを一周。

IMG_5071.jpg
(パレスサイクリングを楽しむ学生たち)

ちょうど、神田祭の御輿の行列が将門の首塚を目指して行進していた。

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(神田祭の提灯)

その後、自転車を返して、江戸城趾を一周。
浅草に出て、浅草寺や六区を散策後、激安250円弁当(学生たち、大いに喜ぶ)と缶ビールを買って、隅田公園で遅めの昼食をして解散。

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(代官町通りからの眺め)

IMG_5090.jpg
(浅草)

5月とは思えない暑い一日であった。

走行距離:51キロ(フジクロス+6速ママチャリ)
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5月14日~15日(金土)

葛飾デルタ同盟の仲間と一泊で銚子へ(鉄道利用)。

総武本線~銚子電鉄を乗り継いで、犬吠へ。
地魚を食べさせる店に行ってみたけど、潰れていてやってなかったので、仕方なく、「島武水産」で昼食。

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(「島武水産」の定食。刺身・ホウボウの揚げ物・金目鯛の煮付などのセット)

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(「地球が丸く見える展望台」にて)

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(愛宕山の「風のアトリエ」の庭)

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(愛宕山の「風のアトリエ」の店内)

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(「渡海神社」の極相林)

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(長崎海岸)

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(銚子の南東の突端・長崎鼻

屏風ヶ浦
(何回来ても感心する屏風ヶ浦の風景)

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(外川港)

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(茹であげた後に天日干し中の白魚)

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(外川駅)

自転車もいいけど、歩いてみると、また違った銚子が見えたような気がした。

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2010.05.16 Sun
イザベラ・バード(『日本未踏地紀行』)の足跡を走る2~房川の渡し・古河・谷中湖
(以下、5月6日と16日の二回、古河・谷中湖周辺に行った日記の「合成」である)

1978(明治11)年の6月10日、イザベラ・バードは千鳥ヶ淵の英国公使館を出発して、奥州・北海道の旅に出た。
道筋に関する具体的な記述はないものの、奥州日光街道を北上したのは間違いない。
千住・草加を経て、最初の宿は粕壁(現・春日部)であった。

そして、二日目は、早朝に粕壁を出発して、栗橋・古河で利根川を渡って、奥州街道から離れて、藤岡を抜けて栃木宿に至ったものと思われる。

粕壁を出発した6月11日のことをイザベラは、以下のように記述している。

「いいお天気の日で、気温は日陰で華氏86度(摂氏30度)でしたが、暑さはひどくありませんでした。正午に利根川に着き、わたしは車夫の刺青の入った肩に負われて浅瀬に入り、・・・平底船で川を渡りました。・・・東京まで蒸気船の定期便がある村で川をもうひとつ船で渡ったあと、あたりはもっと目に快くなりました」(講談社版『日本紀行』上巻131頁)。

話が多少脇に逸れるが、イザベラがやって来た当時の日本の男性は、夏場は、車夫のみならず、ほとんどの労働者が笠とふんどしのみで街中や山野を闊歩している(日本人は、元来、裸でいるのが好きなのである)。
しかも、イザベラが肩に背負ってもらって利根川を渡った車夫のように、当時の成人男性のほとんどが刺青をしていたという。

たとえば、当時の車夫について、次のようにも書いている。

「上半身に着ているものはいつもうしろにはためき、龍や魚を精巧に刺青した背中や胸がむきだしになります。刺青は最近禁止されました[明治5年に禁止されている]が、好まれる装飾であったばかりでなく、傷んでなくなってしまう衣服の代用品でもあったのです」(第9信・同書上巻117頁)。

刺青の風習は、現在はほとんど廃れてしまったが、『魏志倭人伝』の頃(3世紀)の倭人の多くが刺青をしていたことが報告されている。
また、縄文時代の土偶の表面意匠から、列島人のルーツたる縄文人も、ほぼ間違いなく刺青をしていたことが分かっている。
刺青は、中世以降も、西日本よりも東日本のが流行していたようだが、もしかしたら、より縄文的な文化が残存している地域には、かなり後までその風習が根強く残ったということかもしれない。
ついでだが、公衆浴場で刺青を入れた人を排除するのは、違法ではなかろうか・・・。

さて、イザベラに戻ろう。
イザベラが渡ったのは利根川のどのあたりであったのだろうか。
記述からも分かるように、当然、橋は架かっていなかったことは分かるが、どうして2回も川を渡ったのであろうか。

そんなことを考えていたら、いてもたってもいられなくなって、昼前に自転車(フジクロス)で現場あたりに行ってみることにした。

江戸川サイクリングロード右岸を北上して、利根川右岸を遡行する。

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(利根川と江戸川の分流地点にある関宿城

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(明治末期に現在の市川橋[国道14号・江戸川]に架かっていた橋梁)

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(水田では、田植え作業が行われていた)

夏のように日差しが強くて喉が渇く。
途中、土手筋に東屋を発見したのでしばし休憩。

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(利根川右岸・埼玉県幸手市あたりか?)

さて、前方にやっと「利根川橋」が見えてきた。
これが、現在の奥州日光街道(国道4号線)である。

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(利根川橋・国道4号線)

旧街道を旅した人々も、この利根川橋のあたりで川を渡ったようである。
事前調査をまったくせずに出かけたので帰ってきてから知ったのだが、ちょうど「房川(ぼうせん)の渡し」があって、そこを渡るのが通例だったという。

そして、2回目(16日)にここを訪れたときに、やっと「房川(ぼうせん)の渡し」の箇所を突きとめることができた(分かりにくい場所だった)。

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(「房川の渡し」跡)

当時の渡しは、ほぼ、現在の利根川橋(国道4号線)の下を斜めに横切るような形でついていたようである。

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(「房川の渡し」の航路。説明板の地図。栗橋の関所も隣接していた)

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(将軍一行が日光参りをするときには、ここに壮大な舟橋が架けられた)

このあたりの利根川は、水量の割には河川幅が広く、流れの中央部には砂州も発生していた。
往古の流れもたぶんこんなふうで、下流域のように堤防内にきっちり収まって流れているのではなく、浅く広やかに流れていたにちがいない(「平底船で渡った」とあることからもそれが分かる)。

イザベラも、ほぼ間違いなく、この渡しを渡ったと思われるが、上記引用のように「車夫の刺青の入った肩に負われて浅瀬に入り、・・・平底船で川を渡ったのは、水嵩の少ない岸辺までは船をつけることができなかったので、船が停泊するところまでは、車夫に背負われたと思われる。

但し、関所も幕営の渡しも、明治2年には廃止されたので、イザベラがここを渡った頃には、関所の施設は既になかったものの、渡しの設備はそのまま利用されていたのだろう。

渡った先は、中田宿である。
ここからイザベラは、人力車ないしは徒歩で、利根川左岸沿いの奥州日光街道を北上し、古河宿で奥州日光街道を北西に外れて、古来有名な古河の渡しを使って渡良瀬川を渡ったようである。

真久良我(まくらが)の 許我(こが)の渡りの 韓楫(からかぢ)の 音高しもな 寝なへ児ゆゑに万葉集・巻14-3555

「古河の渡し」があったのは、現在の三国橋の1キロほど北のあたりだったというが、その場所を突きとめる時間がなかったので、素通りして谷中湖方面に向かう。

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(渡良瀬川河畔の「古河城本丸址」)

イザベラが、1878年6月11日の午後、古河の渡しを渡って渡良瀬川の右岸(西岸)に出た後に辿った道は、現在は誰も歩くことができない。
谷中湖の湖底に水没してしまったからである。
谷中湖を中心とするいわゆる「渡瀬遊水池」は、明治政府の表向きの口実は洪水対策であったものの、実際には、上流の足尾鉱山の鉱毒を沈殿希釈して下流に流すためのもので、いわば、毒水湖をその起源とする。
この足尾鉱毒事件および、それにまつわる田中正造(たぶん、日本近代史上最高の政治家)の奮闘については、いつかその関連地を訪ねてから日記に書きたい気がしているので、今回はこれ以上触れないことにする。

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(鉱毒の「濾過池・沈殿池と堆積場」として作られた谷中湖の周辺地図。バードは、この湖の右下[サドルの上]のあたりから斜めに左下の方向に移動したものと思われる)

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(渡瀬遊水池の湿地帯)

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(南風に吹かれ、渺々たる谷中湖)

鉱毒を溜めるための遊水池建設で水没した旧谷中村(田中正造は死するまでこの水没せんとする谷中村に住み続ける)のあたりを訪れてみる。

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(旧谷中村の村役場跡近く)

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(「遺跡谷中村」の説明板)

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(谷中湖ではないが、渡良瀬川の土手に建つ田中正造の顕彰碑)

ただし、イザベラが谷中村を通ったわけではなく、上記の如く、湖のもっと南西の辺りを辿って、おそらく、東武線柳生駅あたりで、現在の県道9号線(佐野古河線)に出て、栃木宿への道を急いだものと推測できる。

古河・谷中湖周辺のイザベラ・バードの辿った道としては、中田宿から古河宿の旧街道の探索と、古河の渡しの位置特定ができなかった。
近く、もう一度、古河を訪れて、ゆっくりと探訪したいと思っているが、古河市内を回るだけでたっぷり半日は要するので、次回は往復とも鉄道輪行で行くつもりである。

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(渡良瀬川土手)

・5月6日
走行距離:84キロ(フジクロス・帰途は新古河駅から五反野駅まで輪行。単独)
・5月16日
走行距離:60キロ(フジクロス・往きは三郷駅から車載輪行→関宿城。帰途は関宿城から車載輪行。with kaccinさん&しゃあさん)

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2010.05.04 Tue
銚子半島探訪サイクリング
今日は、麗らかな五月晴れ。
待ちに待った「銚子半島探訪サイクリング」の日。

しかも、私としては、生まれて初めて、「車載輪行」で銚子に向かった。
しゃあさんのクルマ(ハイエース)の後部に4台の自転車の前後輪を外して、仕切りとして段ボールで養生して出発(たすけさん樽さんも同乗)。
約4時間かけて、銚子に到着。

銚子で、kaccinさんまっちさんと合流して、すぐに昼食(「魚料理かみち」)。

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(私は、刺身定食を頼む)

その後の流れは、写真を中心に書き留めておこう。

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(妙福寺の藤まつり)

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(絵葉書のような飯沼観音の五重塔)

IMGP1192漁港
(銚子漁港・まっちさん撮影)

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(「ウオッセ」で牡蠣を買って・・・)

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(その場でみんなでかぶりつき~)

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(その後、銚子半島を海沿いに右回り)

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(たすけさん、転落しないように・・・)

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(君ヶ浜)

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(犬吠埼灯台・「燃える男の赤いトラクター♪」)

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(犬吠埼怒濤めぐり1)

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(犬吠埼怒濤めぐり2)

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(犬吠埼怒濤めぐり3)

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(犬若海岸から屏風ヶ浦遠望)

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(屏風ヶ浦・まっちさん撮影)

IMGP1211屏風ヶ浦
(屏風ヶ浦・まっちさん撮影)

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(屏風ヶ浦・たすけさん、転落しないように・・・)

IMGP1217台地
(銚子台地)

そして、夕方に銚子駅に戻って、またしても、「魚料理かみち」で夕食&打ち上げ。

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(刺身の盛り合わせ)

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(金目鯛の煮付け)

皆さん、お疲れ様でした。
また、夏頃、第2弾をやりますね。

車載輪行は、使い方によってはいいなあ。
今回のように、半島や湖などを一周して元の場所に戻ってくるようなコースなら特に良い。
ただし、運転手の方が大変なので、自転車の走行距離はあまり長くできないかも・・・。

走行距離:37キロ(フジクロス)

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2010.05.02 Sun
イザベラ・バード(『日本未踏地紀行』)の足跡を走る1~栃木宿から日光まで
最近、私は、イザベラ・バードという英国人女性にぞっこんである。
19世紀後期に世界のあちこちを旅してまわった紀行作家である。

その彼女が、九州の内戦(西南戦争)が終結したばかりの1878(明治11)年4月に日本にもやって来た。

明治11年と言えば、そのわずか10年前には、まだ戊辰の内戦中であった。
江戸を占領した西軍(新政府軍)は、東軍(幕府派軍)を追討。
東北地方や北海道で血で血を洗うような権力奪取のための激戦が繰り広げられていたわけだ。

その10年後に彼女が日本に上陸したわけだが、彼女が上陸した翌月には、新政府のマキャベリ的指導者たる大久保利通が、馬車で通勤中に暗殺されている(1878年5月)。

やっとのことで権力を握った新政府の地固が築かれつつあった頃とはいえ、奥州や「蝦夷地」では、なお江戸時代さながらの人々の生活が維持されていたにちがいない。
道路事情もしかり、食糧事情もしかり・・・。

そんな日本の「奥地(unbeaten tracks)」を、たった一人の通訳士(イトウ)を連れて、人力車と馬で約4ヶ月をかけて旅した記録が、『日本未踏地紀行』(平凡社版の邦題『日本奥地紀行』。講談社版の邦題は『日本紀行』。原題はUnbeaten Tracks in Japan)である。


(平凡社版『日本奥地紀行』)


(講談社版『日本紀行』上下巻)

イザベラ・バードのこの本の存在は以前から知っていたものの、興味を持ったのは、去年の夏に自転車で東北を旅した時だった。
新庄に着いた翌日、私は、金山という羽州街道(現・国道13号線)沿いの小さな町(山形県最上郡)を訪れた。
この町は、全国に先駆けて「町政」の完全情報公開に踏み切った自治体としても有名であるが、鯉が泳ぐ水路とよく保存された美しい街並みに、私は痛く感動した。

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(金山町の水路・去年の8月撮影)

そんな金山町を散策していると、広場の一角に、銀色の記念プレートを発見した。

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(金山町のイザベラ・バードの碑・去年の8月撮影)

私と同じように、新庄から金山まできたイザベラの記述が英和の対訳で刻まれている。
私は、これを読んで、ちょっとびっくりした。
今から130年以上前に、英国人女性が「旅」をするために、こんな山奥の集落に一人でやって来ていたなんて・・・。

東京に戻ってすぐに『日本紀行』(講談社)とその原書(Unbeaten Tracks in Japan)を注文したものの、本が届くまでに他のことに興味が移ってしまって(飽きやすい私)、つい最近まで読まずじまいだったのを、やっと読み始めて、その面白さの虜になってしまった(熱しやすい私)。

このイザベラ版「奥の細道」とも言うべき紀行で、彼女の辿ったルートはいささか意外である。
栗橋あたりまでは奥州街道、その後、いわゆる例幣使街道を北上して日光。
日光から会津を抜けて新潟に出た後、再び東進して、羽州街道を北上して、山形・秋田・青森を経由して北海道に渡っている。
奥州街道をそのまま北上するのが一般的のようにも思えるし、また、旅の利便性も高かったはずなのにどうしてだろう。
その理由は、今はよく分からないが、彼女の辿った羽州街道の一部を私も自転車で走ったという単なる偶然から、妙な親近感を覚えたのも事実である。

そんなとき、「チーム東葛」(自転車愛好家集団)の仲間が、連休中の5月2日に、自転車で日光まで走るという企画を立ててくれているのを知って、私も参加することにした。

イザベラは、日光が大変気に入って、9泊ほど滞在している(6月13~24日)だけではなく、その内少なくとも7晩泊まった宿(金谷邸)が、ほぼ当時のまま残っていることを知ったからだ。

とはいえ、「チーム東葛」の日光サイクリングは、確かに日光まで行くものの、その途中のルートは、奥州日光街道を辿るもので、イザベラのルートとは違っていたので、まことに勝手ながら、途中の道筋は、単独で走らせてもらうという部分参加になってしまった。
また、できれば、イザベラも小さな馬に乗って登ったいろは坂を越えて、奥日光まで行ってみたいとも思っていた。

早朝、ロードバイクに乗って家を出る。
東武浅草駅から東武線に乗り込む。
始発なので、最後尾車輌のおあつらえ向きの場所に自転車を置くことができる(同じ車輌にクロスバイクの若い二人連れが乗っていた。別の車輌には、小径車の若者)。
列車内にて、おにぎりとサンドイッチを食べてしばし仮眠。
イザベラ・バードの栃木から日光までの記述を読み直す。
栃木駅で下車。

栃木駅。
堂々とした近代的な駅舎。
広々とした駅前広場。
その駅前広場には、栃木市出身の山本有三の石碑が建っていた。

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(山本有三の記念碑)

「たったひとりしかない自分を、たった一度しかない一生を、ほんとうに生かさなかったら、人間、生まれてきたかいがないじゃないか」。
う~ん、旅の始めの言葉としては、実にずっしりと響いてくる言葉で、「そうだそうだ、その通りだ!」と心の中で何回も頷く。

さて、イザベラが栃木宿に到着したのは、1878年6月11日の午後6時頃だったと思われる(講談社版上巻133頁)。
前日の宿は、粕壁(春日部)なので、一日で約40キロ以上も移動したことになる。
40キロと言えば、江戸期の一般的な旅人が一日に歩ける限界の距離(ちょうどフルマラソンの距離)で、日の出と同時に出発すれば、途中、昼飯やお茶の休憩などを入れても、およそ10時間近くで次の投宿地に明るいうちに到着できるわけだ(街灯がないので、夜の旅は論外)。
しかし、イザベラは「歩いた」のではなく、この先、日光までは、人力車を利用している。

人力車については、既に以前の日記に書いた
ことがあるが、明治4年に日本で発明された。

イザベラも、日本に来て初めて見る人力車には驚いたらしく、各所で詳しく記録している(たとえば、同書上巻44~46頁)。
彼女によると、都市部(この場合、東京近辺のこと)で展開している人力車の数は、何と2万3千台。
その人力車は、平地を走る場合、時速6.4キロ(早歩きぐらいの速度)で、一日に最長80キロを走ったという(上巻44頁)。

イザベラが徒歩で旅することができなかった理由は明白で、北海道までの長旅であったため、荷物(複数の柳行李)の重さが50キロもあったからである(上巻114頁)。
ただし、当時の人力車は、現在の浅草あたりで走っているものとはやや違っていた。
一番の違いは車輪で、現在の人力車の車輪は、自転車の車輪のように、金属製のスポークとリムに、空気タイヤを装着したものであるが、このタイプの人力車が登場するのは、明治末期から大正時代以降のこと。
明治初期の車輪は、木造で外側にに金属で縁取りしたようなもので、乗り心地が良いとはとても言えなかったはずである。

そんな人力車ではあるが、多分、当時の旅人にとっては、それでも、船旅に継ぐ快適かつ迅速な移動手段だったはずである(西部劇に出てくるような駅馬車は、都市部以外はほとんど存在しなかった)。

しかしながら、人力車を利用するためには、そこに人力車がなくてはならないし、人力車が走る道がなければならなかった。
日光までは人力車を利用できたものの、その先はほとんど馬(と川船)を利用せざるを得なかったのは、人力車とそれが走れるような道が存在しなかったからである。

昨日、箱根道を走った時にも確信したが、昔の峠は、マウンテンバイクでも走れない。
そして、現在のマウンテンバイクが走れない道は、人力車も走れないであろうということ。

逆に言えば、江戸期以来、将軍一行や朝廷の例幣使のみならず、庶民までもが日光参りをする習慣があったため、江戸から日光までの道路と交通手段はかなりよく整備されていたことの証しでもあろう。

さて、栃木である。
イザベラは、当時の栃木宿について、こう書いている。

「ここの特産品はさまざまな種類のロープで、このあたり一帯には大量の大麻が育っています。瓦屋根が多くあり、一見これまで通ってきた町より家屋が込んでいて、立派な町かと思います」(上巻133頁)。

これに続くくだりで、イザベラは、日本の宿の居心地の悪さについて、多くの不満を漏らしている。

障子だけで仕切られた部屋は、まったくプライバシーを守ってくれない。
しかも、勝手に障子を開けて、覗き込む者がいる。
夜中、芸者を上げてどんちゃん騒ぎをしているものだから、うるさくて眠れない等々・・・。

当時は盛んに作られていた大麻だが、もちろん現在では、どこを探しても見当たらない。
太平洋戦争後に、栽培が禁止されてしまったからである。
瓦屋根の立派な家屋が多かったのは、元城下町にして宿場町であっただけではなく、当時の栃木は、県庁所在地だったためであろう。
因みに、この6年後の1884(明治17)年、三島県令(薩摩閥)によって、宇都宮に県庁が移されて現在に至っている。

私も、さっそくに自転車を組み立てて、栃木の街中を走ってみることにした。

川筋の道へ出てみようとしばらく北西に走ると、すぐに例幣使街道が現れた。

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(例幣使街道の道標・栃木)

朝廷からの例幣使たちは、中仙道(東山道)から、ここ栃木宿を経由して、日光に北上した。
江戸期の朝廷は、貧乏大名のようなものだった上に、さらに幕府から「例幣使」という、いわば参勤交代のような義務(出費)を課されていたので、250年の間にすっかり根性がひねくれてしまい、大分ヘソを曲げていたようで、面当てに宿場宿場で、問屋関係者から金品をせびるなどの狼藉行為を働いてまわったというので、民衆からは相当嫌われていたようである。

例幣使街道とほぼ平行して北上する巴波(うずま)川に沿って走ってみる。
「蔵の街」栃木の名に恥じない素晴らしい遊歩道を遡る。

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(蔵の街・栃木)

イザベラが、栃木には瓦屋根が多いと記述したのは、もしかしたら、こうした蔵の並び立つ街並みだったのかもしれない。

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(巴波川を泳ぐ鯉のぼりたち)

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(川沿いの家並み)

イザベラが栃木宿で泊まった宿名などは不明であるが、おそらく現在の万町か倭町のあたりらしい(釜澤克彦『イザベラ・バードを歩く』彩流社を参照)ので、その辺りに行ってみる。

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(かつての宿場の中心地だったと思われる万町の交差点の交番・交番も蔵造りである)

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(倭町付近)

栃木には、資料館などの施設もたくさんあったようだが、なにしろまだ朝が早いので、どこも開いていないので、例幣使街道を北上することにする。

ここからのルートは、ほぼ昔の旧道に相当する県道3号→国道293号→国道121号を北上することになる。

県道3号線は、まあ走りやすい道であるが、交通量がもっと多かったら厳しかったかもしない。

イザベラも通ったであろう合戦場・金崎・鹿沼の街を通り抜けて、私は、一路日光を目指した。

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(例幣使街道沿いの古民家)

北関東自動車道をくぐったあたりから、遠く日光の山並みが見えてくる。
また、このあたりでは、いつも私が走っている千葉の北総地域などとはちがって、5月の連休になっても、まだ田圃に水が入れられてない。
入れられてないどころか、どこもここも、青々とした麦畑が薫風に波打っている。
このあたりでは、6月に麦を収穫した後に田圃にして水を引いて田植えをするという昔ながらの「順番」が生きている。
こうして生産された小麦が、佐野ラーメンになり、宇都宮餃子になるわけである。

ここ栃木県では、イザベラが旅したころから小麦の生産が盛んだったことが分かる。
彼女は、6月初旬に古河あたりで利根川を渡って、現在は谷中湖の水底になってしまった道を辿って北上するのだが、その変化についても鋭く観察している。

利根川ないしは渡良瀬川を渡ると、「田んぼは少なくなり、木立、家屋、納屋は大きくなって、遠くには高い山々がかすみのなかにぼんやりとそびえています。こちらでは小麦はパンではなく麺をつくるのですが、その小麦は多くがすでに[東京方面に]運搬されています」(同書上巻131頁)。
イザベラは、また、道筋の村で小麦の刈り取りや脱穀の模様を詳しく観察している(同書上巻131ー2頁)・・・。

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(途中の橋から見えた男体山)

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(小倉橋・国道293号)

小倉橋からの思川の眺めが素晴らしい。
この橋からも、冠雪の男体山を眺めることができる。

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(小倉橋から遠く男体山を望む)

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(行方も知らぬ恋の道かな・・・というかの如く奔放に流れる思川)

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(街道筋に並んだ江戸時代の墓碑)

国道293号(例幣使街道)は、楡木宿の「追分」で、奥州街道から分岐した「日光西街道」(国道352号)と合流していよいよ交通量が増してくる。

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(国道293号はだんだんクルマが込んできて、走りにくくなってくる。楡木宿付近)

そして、楡木の先の樅山(もみやま)あたりで、最初の杉並木の「残滓」と出会うことになる。
「残滓」というのは、イザベラがこの街道を辿ったころには、このあたりからずっと杉並木が存在していたのであるが、その後、枯死したり伐採されたりして、今は当時の半分ぐらいしか残っていないというわけである。

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(樅山あたりからちらほらと杉並木が現れ始める)

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(杉並木の「残滓」)

御成橋で黒川を渡ると、もうこのあたりから、日光へ続く長い登り坂が始まる。
御成橋から日光までの国道121号は、距離にして約25キロで、ずうっと登り坂であるが、宇都宮から入って日光街道(国道119号)を辿っても同じことで、こちらは30キロ以上の登り坂が間断なく続く。
つまりは、日光に参るには、どこから入っても、「登る」ことは避けられない。

このあたりのイザベラの記述を拾ってみよう。

「道がやや上り坂になり、車夫は疲れて速く走れなくなっていましたが、わたしたちは30マイル[約48キロ]([栃木宿から今市までのことか])を9時間で踏破しました。車夫がわたしに対しても、また車夫同士でも親切で礼儀正しいおかげで、つねに気持ちよく過ごせました。笠とふんどししかつけていない男たちが丁重に挨拶し合うのを見るのはたいへん愉快なものです。ことばをかわし合うときはきまって笠を脱ぎ、また必ず三度深くお辞儀をするのです」(同書上巻134頁)。

当時の車夫の超人的なパワーを物語る記録である。
100キロ以上の荷(人間+車重)を引いて、9時間(食事や休憩時間込み)で、あの坂道を走破するとはまことに驚くべきことである。
また、イザベラは、車夫や馬子たちの礼儀正しさ(乃至は親切なこと)については、旅行記の随所で触れていて、車夫たちがお別れの際に山から花を摘んできてくれたという微笑ましいエピソードや、イギリスの馬丁とは違って、法外なチップを要求するようなことが一切なかったことなどを記している。

杉並木の威容についても、ずいぶん紙面を割いているイザベラであるが、少しだけでもここに引用したくなる。

「二本の街道が日光に通じています。わたしは一般的な宇都宮経由の道[現・国道119号]を避けたので、奥州街道という幹線道路に沿ってほぼ55マイル[約88.5キロ]続く、立派なほうの並木道は見られませんでした。わたしのとった例幣使街道に沿った並木道は30マイル[約48キロ]続き、この2本の並木道はしょっちゅう村で途切れながら、日光から8マイルの今市の村で合流し、日光の町の入口ではじめて終点となります。・・・並木としてもおそらく最高のものです。例幣使街道の並木道は良好な馬車道で、高さ8フィート[約2.4メートル]の傾斜した盛土がついており、草や羊歯が生えています。この盛土の上にあるのが杉で、それに草の生えた2本の歩道があり、歩道と耕作地のあいだに若木と下生えの目隠しがあります。杉の大半が地面から4フィートの高さで二股に分かれています。幹の多くは周囲が27フィート[約8.2メートル]あり、50から70フィート[約15~18メートル]の高さに達するまで細くなることも枝分かれすることもありません。非常に高くそびえて見えるのは、赤みがかった色の樹皮が約2インチ[約5センチ]の幅で縦に細長く割れているせいでもあります。・・・このみごとな並木は葉陰も大きくて木漏れ日が躍り、まれに高い山々が垣間見られるので、非常に荘厳な感じがします。これをたどって行けば、ここと同じように壮麗ななにか出会えるはずだと直感でわかるのです」(同書上巻137頁)。

この約130年前にイザベラによって書かれた日光の杉並木の記述は、現在は並木の大半が失われてしまって、その長さこそ短くなってしまったものの、現在でも完全に当てはまる描写である。
また、イザベラの記述の特長として、物のサイズが克明に記されているのも、このくだりからも分かるのだが、しかしながら、何というか、技師的な数量描写ではなくて、まるで風景を「触知」して測っているような文体で、けっして「うるさく」感じないのが不思議である。
このような文体は、もしかしたら、19世紀の小説を読んで鍛えたものではなくて、たとえば、ハドソンの『ラプラタの博物学者』(岩波文庫)のような、活写する文体に近いような気がする。
ともあれ、「これをたどって行けば、ここと同じように壮麗ななにか出会えるはずだと直感でわかる」という一文は、この杉並木が壮大な「参道」を成していることを見事に描破すると同時に、まるで、俳句の発想に近いある種の「洞察」をさえ感じとることができる。

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(御成橋。この橋を渡ると、国道293号から国道121号線に入り、日光への「入口」感を覚える)

御成橋を渡って、国道121号線に入ると、残っている杉並木がだんだんと多くなってくる。

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(だんだん多くなってくる杉並木)

以下、しばらく、杉並木の変化を写真を手がかりに追いかけてみよう。

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(杉並木は、西側の方がよく残っている。しかし、後から植えられた楡や桜の樹も多い。この写真の場所では、東側の杉はもはや存在せずに、「盛土」だけが残存している。なお、西側の歩道は、細いながら舗装されていて、自転車で走ることができる)

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(杉並木ではなく、桜並木になってしまっている場所)

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(そしてだんだんと杉並木が増えてくる)

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(まだ、舗装された歩道が続くが、杉の葉がたくさん落ちている)

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(杉並木についての石碑と説明板)

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(そして本格的な杉並木が始まる)

本格的な杉並木が始まるとすぐに、舗装された歩道は消滅して、未舗装になってしまい、マウンテンバイクでも走りにくいような道になるので、本道の杉並木を走らざるをえなくなる。
しかし、幹線道路なので、交通量が多いばかりか、両側に盛土があるので逃げ場がなくて、歩道のない橋を渡るのと同じくらい走りにくい。
しかも、今市の手前からは坂が急になって、34×25tを使わないと登れないような坂も稀にある。

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(路肩が狭いので、どうしても、クルマに煽られながら走ることになり疲れる)

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(たぶん、イザベラがこの道を通ったときからここにあるであろう杉の巨木)

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(路肩に休憩スペースがないので、盛り土に上がって一休み)

やっとのことで今市で国道119号(日光街道)と合流。
しかし、ここから日光までは大渋滞で、路肩のどぶ板走行を強いられる区間も。
それでも、今市から日光までの杉並木道は、未舗装ないしは石畳ではあるが、遊歩道として整備されている区間もあるので、国道がクルマで渋滞すると、杉並木に逃げ込んでのんびり走ったりする。

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(未舗装の杉並木道。こちらはクルマは通行禁止なのでのんびりと走れるが、スピードは出せない)

杉並木が終われば日光に到着することを知っていたので、走りにくいこの杉並木が早く終わってくれないかと願いながら走っていると、何というか、唐突に杉並木は終了して、あたりがぱっと明るくなったと思いきや、日光に到着していた。

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(昼前に日光に到着)

宇都宮経由で日光に向かっている「本隊」の動向が気になったが、どの辺りまで来ているか分からないので、取りあえず、国道119号線をさらに登って、「神橋(しんきょう)」まできて一休み。
日光から東照宮までの道も大渋滞で、しかも、暴走族同士の小競り合いまで発生して、日光の静寂を楽しむどころではなかった。

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(神橋)

明治神橋
(参考までに、明治時代に撮影された神橋)

騒然たる東照宮の前を後にして、さらに5キロほど坂を登って、やっと「いろは坂」の登り口の「馬返し」に到着した(この「馬返し」までの上りがきつかった!)。

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(東照宮の先の日光街道の坂)

クルマが渋滞して路肩が狭い上に、その路肩は、バイクの集団が轟音を轟かせて登って行く。
これを見て、体力的にも時間的にも、今回は、「いろは坂」登坂を断念する。
「いろは坂」は、一通なので、途中で引っ返すことができないのも、断念した理由である。
いずれ、オフシーズンのウィークデイなどに挑んでみよう。
(「馬返し」の写真なし。間違って動画モードで撮影してしまったため、ぐちゃぐちゃの映像になってしまった)。

私は、坂を下って、イザベラ・バードが泊まった宿を捜すことにしたが、腹が減っていることを思い出して、地元の人が行くような大衆食堂で生姜焼き定食を食べる。
その店の女将さんに「金谷ホテル創業の地」はどのあたりにあるのかを尋ねると、国道119号線沿いであるという。
ということは、既に、先ほど坂を登ったときにその前を通り過ぎてしまっていたのだが、聞けば、木々に被われていて見えにくいという。

ブレーキを引きながら、ゆっくりと下って行くと、それらしき場所が見つかったので自転車を止めて歩道に上がった。

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(「金谷ホテル創業の地」。「この屋敷は寛永年間(1641頃)に当時の武家の住まいとして建てられたものです。明治の初期, ヘボン式ローマ字の制定で有名な J.ヘボン博士をお泊めしたのを端緒として, 金谷家はこの住まいを外国人の宿泊に提供することとし, KANAYA COTTAGE INN と名づけて明治6年(1873)から25年(1891)までここに多数の外国人をお泊めしました。これが金谷ホテルの創業であります」と書かれている)

1878年の6月中旬、イザベラ・バードは、日光に9泊ほどしている。
6月21日の妹宛の手紙の書き出し(そもそも『日本未踏地紀行』そのものが妹への手紙から成っている)では、「これで日光に来て九日になるのですから、『けっこう!』ということばを使う資格はできたでしょう」という冗談が出てくるほど、日光には馴染んでいたようである(同書上巻145頁)。

イザベラの日光滞在を一層快適なものにしたのは、現在も「金谷ホテル創業の地」として残っている金谷善一郎の私邸に宿泊できたことも大きい。

「この家のことはどう書けばいいのかわかりません。まさに日本の牧歌的生活がここにはあります。家の内外ともに目を喜ばせないものはなにひとつありません・・・」(同書上巻141頁)。

イザベラは、この家の様子をかなり詳しく記している(同書上巻141-4頁)が、長くなるので、ここでは引用することは止める。

ただ、旅の各地で彼女自身が残したスケッチの中に、金谷邸のものがあるので、ここに載せておこう。

金谷邸
(イザベラの描いた金谷邸のスケッチ)

そして私も、イザベラの絵と同じアングルで写真を撮影してみた。

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(旧金谷邸)

細部は、やや違っているが、130年前に彼女が泊まった金谷邸のままであると言えよう。

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(旧金谷邸)

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(旧金谷邸の側から前を通る日光街道を見る)

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(旧金谷邸前庭の池)

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(旧金谷邸の表札・「金谷侍屋敷 SAMURAI HOUSE」とある)

イザベラが、この屋敷について「家の内外ともに目を喜ばせないものはなにひとつない」(141頁)と書いているように、実に簡素な落ち着きと静かな美しさをもった建物である。

さて、宇都宮方面から日光に向かっている「本隊」の動向が気になるところだったが、いずれにせよ、17時に宇都宮駅で合流することになっているので、そろそろ日光を後にして、宇都宮に向かうべく国道119号(日光街道)を降り始めることにする。
日光から宇都宮までは、約30キロあるが、ほぼずうっと杉並木ないしは杉のあとに他の樹を植えた並木道になっており、しかも降り坂である。
クルマの交通量は多いものの、かなりのスピードで宇都宮の町にたどり着く。

街中の橋の上で、たすけさんたちの「宇都宮別働隊」と合流。
さらにその後、流山から約180キロを走破したえいじさんたちの「本隊」とも合流。
橋の上で、みんなで計画の成就を祝う。

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(本隊も合流)

こうして、われわれは、駅前の餃子専門店で打ち上げをして、輪行で帰途に着く。

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(宇都宮餃子)

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(宇都宮線車輌内の輪行袋)

イザベラ・バードの道程を辿る旅はまだまだ続くが、日光編はこれにて了とする。

(走行距離:124キロ)

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2010.05.01 Sat
箱根路を越える
葛飾デルタ同盟の仲間のやまびこさんご夫妻が、徒歩で東海道(旧道)の踏破に挑戦中で、前回には小田原まで到達したということで、この連休中には、箱根越えをされるという。

伊豆に行くために、何回も小田原までは走ったことがあるけど、箱根八里は恐ろしくて、まだ足を踏み入れたことがなかった。
というか、できれば「避けたい」とすら思っていたのだが、やまびこさんたちが歩いて登るなら、私もその「余勢」をかりて、一緒に自転車で行ってみることにした。
この種のことは、何か外的な要因(きっかけ)がないと腰が上がらない私なのである。

東京駅まで自走して、東海道本線の熱海行き(普通列車)に乗り込む(私の場合、東京駅八重洲南口を利用することが多い)。
朝6時代の列車だというのに、さすが連休中、ほぼ満席である。

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(閑散とした休日の都心)

小田原駅に着いて、自転車(ロードバイク)を組み立てると、やまびこさんからメールで、多少到着が遅れるというので、一人で出発する。

国道1号線のだらだら坂を登っていくと、箱根新道(自転車は通行不可)の入口付近に出た。
結果としては、ここを直進すれば良かったのだが、ちょうど通りかかった清楚な感じの女子学生に、旧街道にはどうやって入ったらよいか尋ねると、大変に敬老精神に厚い人だとみえて、熱心に教えてくれた。

ところがこの教わった道は、地元の人しか知らない抜け道らしく、幅半間ほどの板敷きの吊り橋を渡るようなすごいルートだが、走っていて面白いので、帰りも結局この道を利用した。

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(旧街道に至る吊り橋・ちょっと釘が出ているところがあるので要注意)

教えられる通りに(実は、途中、散歩中のオバサンにも道を訊いた)道を辿ると、旧街道にぶつかった。
さっそく坂を登り始めるが、5分も走らないうちに疲れてしまって、コンビニでおにぎりなどを食べる。

さて、いよいよと箱根湯元のあたりの坂を登り始めるが、聞きしに優る急坂で、しばらくはずうっと34×25tで喘ぎながら走る。

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(いざ、出発!)

ところで、自転車で走る場合、箱根越えのルートは二つあると言えよう。
一つは、箱根駅伝のルート(国道1号線)で、こちらは距離は長いけど、坂はなだらかである。
もう一つは、今回私が辿った旧街道で、距離は短いが、坂は険しい。
箱根駅伝のルートも、いずれ走ってみたいが、クルマが多そうで嫌だったので、今回は歴史的な遺物も多くて楽しそうな旧街道にした。

畑宿付近までは、結構元気に登っていたのだが、だんだん辛くなってきて、頻繁に休憩をとらないことには走ることができなくなってきた。

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(途中の坂)

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(途中の滝)

空気も清涼になって、景色もだんだんとよくなってくるが、登るのに精一杯で、それを楽しむ余裕がほとんどない。

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(時々姿を見せる渓流)

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(途中の坂)

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(特にカーブのインの斜度が「殺人」的である)

極め付きは、「七曲がり」というくねくね坂である。
ここに至っては、もうほとんど漕いで登ることができない。
ちょっと漕いでは、自転車を降りて押しては休憩。
また、ちょっと漕いでは、自転車を降りて押しては休憩という繰り返し・・・。
自転車に「乗って」いるというよりは、自転車を「運んで」いるようなもので、歩いているのと大して変わらない。
心肺力は残っていても、足の筋力が言うことをきかずに、乳酸の溜まった筋肉が虚しく震えるだけである。

去年の今頃、甲州街道の「笹子峠」を越えた時よりもはるかにもしんどいような気がした。
こちらの方が峠のスケールが大きいだけではなく、傾斜がきつい。
加えて、クルマの交通量が、箱根の方が圧倒的に多いので、ジグザグ走法がでないのもつらいことである。
しかも、登っていて楽しいのも、笹子峠の方で、森閑とした自然との一体感を感じることができたのだが・・・。

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(ここからが特にしんどい「七曲がり」の坂)

その傾斜の激しさに、力尽きてブレーキを引いて止まっても、車体が後に下がりそうで、ふらふらしながら自転車を降りる始末。
しかし、そういう私の脇を着々と自転車を漕いで登っていく一団がいる。
すごいなあ・・・。
私には、到底無理としか思えない。

そういう厳しい坂道だっただが、旧街道を忍ばせる故地が現れたときには、一息つける思いがしたものである。

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(江戸時代の旧街道1)

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(江戸時代の旧街道2)

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(江戸時代の旧街道3)

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(江戸時代の旧街道4)

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(江戸時代の旧街道5・畑宿の一里塚跡)

それにしても、昔の人はすごいもんだ。
われわれからすれば、気の遠くなるようなガッツがないと、こんな道を踏破することはできない。
産業革命の結晶とも言える自転車をもってして、しかもなお、アスファルトの舗装道を行く私なぞは、差詰め、旅の「真似事」をしているに過ぎない。

とは言え、「七曲がり」の終盤には、小田原方面を見下ろす絶景も待っている。

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(絶景)

そういうわけで、七転八倒しながらも、どうにか峠を登り切って、江戸期以来の「甘酒茶屋」で休憩した後は、一気に走って、転げ落ちるようにして、蒼く澄み切った芦ノ湖に到着した。

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(「甘酒茶屋」)

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(芦ノ湖。やや雲がかかっていたとは言え、富士山の真っ白な威容を拝むことができた)

腹ぺこで飢え死にしそうだった私は、何でもいいから食いたいという一心で、大衆食堂に入ってカツ丼をむさぼり食った。
ここで、やまびこさんからメールが来て、見てみると、まだ小田原の三枚橋(旧街道入口)だという(あちこちで買い食いして、なかなか歩が進まないらしい)。
この調子だと、芦ノ湖に到着するのは夕方になるんじゃないかなあ・・・。

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(神様のように見えたカツ丼)

まあ、私としては、やっと腹も満たされたので、箱根の関所を訪ねることにする。
芦ノ湖を囲む環状道路を走るのだが、クルマが数珠繋ぎに渋滞していてなかなか進めなかった。

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(箱根の関所跡)

復元の様がなかなか堂に入ってて、感心する。

昼下がり。
明日は、早朝から日光方面に出かけることになっているので、そろそろ引き返すことにする。

ここまで書いてきて、すごく眠たくなってきたので、以下、簡略に書く。

ブレーキを引く手が痛くなるほどの下り坂(舗装状態良好ならず)。
畑宿で、やっとやまびこさん夫妻と会う。
旅先で、こうして知人と会うと嬉しい。
蕎麦屋で、イザベラ・バードのことなどを話ながら、休憩。

畑宿
(やまびこご夫妻と・畑宿にて)

小田原までの長い坂を下った。

再び、東京駅まで輪行して、帰宅することができた。

家に帰って一息ついて、ビールを呷ったときには、午前中の箱根の坂のことがまるで昨日のことのように思えた。

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走行距離:85キロ(ロードバイク)

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