日々の身辺雑記や考えたことなどを徒然なるままに書き連ねる「断腸亭日録」です。
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断腸亭日録~自転車日記
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2009.10.31 Sat
新クロスバイク改造と自己流現場検証
朝から、より乗りやすい自転車にするために、新しいクロスバイクの改造に取り組む。

一応、グリースアップをしておこうと思ってBBをはずしてみたが、組み付けの際に既にきちんとグリースが施されていたので、骨折り損になる。

ハンドル周りをいじる。

夕べは、ハンドルを切りつめて、490ミリにした(標準では540~580ミリ)。
狭い所をすり抜けるには、本当はもっとハンドルが短い方がいいのだが、ロードバイク(平均400ミリ)と違って、これ以上短くすると、操舵性が落ちるだけではなく、スピードメーターやライトを取り付けるスペースがなくなってしまうので仕方がない。

ゴム製グリップをはずし、代わりに、ホームセンターで買ってきた円筒型のスポンジ(100円ぐらい)を入れて、エンドバーを取り付ける。

IMG_3246.jpg
(スポンジグリップとエンドバーを取り付けた状態)

フラットハンドルは、ドロップハンドルと違って、長距離を走ると、手にかかった力を抜く(逃がす)ことができないので疲れる。
だから、私としては、振動を緩和させるスポンジ(グリップ)とエンドバーは必需品なのである。

しかし、この状態だと、断絶感があって肌触りがよろしくないので、コルクタイプのバーテープを上からきつく巻き付けるのが私の好みである。

IMG_3247.jpg
(バーテープを巻いた状態)

これで、フラットハンドルの部分とエンドバーの部分が一体化したハンドルのようになって、大変に操作しやすくなるのだ(いずれは、ブルハーンハンドルにしようかと考えている)。

やっと「完成」したので、さっそく、近所の水元公園に試走に出かける。
う~ん、なかなか良い乗り味である。
フォーク(クロモリ)が、ストレートタイプなので、ロードバイクよりややハンドル部の衝撃が強いけど、サドルから後は、適度に柔らかくていい感じ。

サドルの上下前後を少しいじる。
ちょっとハンドルが高い感じなので、帰ったら、ステムを逆付けしてみよう(たぶん、84度のステム[100ミリ]が、現在は上向けに付いているので、下向けに付け直せば、コラムを移動させなくてもいいいだろうと推測)。
水元公園を周回しながら、リアの変速を微調整(既にワイヤーの初期伸びが始まっている様子)。

IMG_3248.jpg
(今日の状態・水元公園にて)

標準では、IRCの「レッドストーム・ストリート23C」というタイヤが付いていて、軽量且つしなやかでなかなか良いタイヤなのかもしれないが、66TPI(タイヤの繊維密度) ということでパンクがやや心配だったので、私のお気に入りで、120TPIのヴィットリア「ルビノプロ2」23Cのイエローに換えた。
イエローにしたのは、クルマからの視認性を考えてのことである(ホイールとシートステーにリフレクターを装着・遵法精神の堅持)。

午後から、いよいよ公道を走ってみることにした。
実は、事故後、ロードやママチャリで公道を走ると、事故の精神的な後遺症のためか、恐怖感が襲ってきてしまうという現象があった。

それを振り払って、心身を徐々に慣らすために、先ず、江戸川サイクリングロードを走ってみる(何だか懐かしい)。
その後、一般道に出て、「古東海道」ルートで、奥戸・青戸・立石を抜けて、事故現場近くの交番へ(国道6号線)。
事故の自転車を預かってくれたり、事故時及び事故後にいろいろとお世話になった交番にお礼の挨拶をしに行く。
ちょうど事故の日にお世話になった警察官がおられて、別れ際、「これからも、十分気をつけて走って下さい!」と敬礼をしてくれたので、こちらも思わず不慣れで不格好な敬礼をして、交番を後にする。

そして、いよいよ事故現場を「検証」すべく、現場に行ってみることに。
事故現場に近づくと、やはり、何とはなしの恐怖感が蘇ってくる。

心理療法では、無意識を意識化することで、障害が治癒するという理論があるので、私も、事故現場に立って、当日、自分がどのように事故に遭ったか、そして、どうすれば回避できたかをいろいろとイメージしてみる。

まず、橋(四ツ木橋)から東に下る歩道を少し登って、下を見下ろしてみる。

IMG_3250.jpg
(四ツ木橋を東に下る歩道)

右の車道は、国道6号線の側道。
歩道上には、自転車と歩行者は左側通行せよということを示す矢印が描いてある。

この歩道をさらに下っていくと、こんな感じに見える。

IMG_3255.jpg
(四ツ木橋を東に下る歩道)

歩道と車道を仕切る柵が、互いの交通を見えにくくしているばかりか、柵が左に曲がっていてついているので、最後まで、車道の存在を不明確にしている。

この歩道を、私は、これまで数百回となく下って来たわけだが、この車道は、てっきり、一通でクルマが進入してこないものだと思いこんでいた。

IMG_3251.jpg
(事故現場・四ツ木橋を東に下りきったところ)

そして、ほとんどドンピシャリのタイミングで、ここから進入してきたクルマの側面に、私は激突したわけだ。

歩道は5度ぐらいの下り坂で、自転車もかなりスピードが出ているので、そもそも危険なのだが、歩道の柵が、意味もなく左側に曲がって付いているいることが、視界を悪化させて、事故を誘発させる原因のように思える。

自転車に乗っている立場からすれば、とにかく、ここからクルマが進入してくることを想像しながら、減速することを心がけるしかない。

ただし、実は、この傾斜した歩道の出入り口には、「自転車は降りて通行して下さい」という注意書きがある。

IMG_3254.jpg
(四ツ木橋を東に下る歩道を下から見上げたところ)

この注意書きはもっともなのだが、実際にこれを馬鹿丁寧に守ることは、もう一つの危険を誘発する。
というのは、実際には、これを誰も守っていないので、高速で下ってくる自転車に後から追突される危険があるからだ。

私が現場に立って、写真を撮っている間にも、何十台もの自転車が、シャーというフリー音を唸らせて下って行った。

現実的には、自転車の減速しかないが、前述の意味もなく曲がり込んでいる柵を取り去るだけで、かなり事故の可能性は減少するものと思われる。

さっそく近々、私は、葛飾区にその旨の意見書を提出することにした。

事故現場の検証・追体験・反省をすることで、心につかえていたものを振り払うことができたような気がした。

これでやっと、明日からまた、事故には十分気をつけて、自転車で通勤することができそうである。

走行距離:33キロ(クロス+ママチャリ)
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2009.10.30 Fri
今日までそして明日から~通勤用自転車新規購入
事故で廃車になったフジクロスの後を継ぐことになる自転車が到着した。
嬉しい~~~。

この度、新しい自転車を買う際に、条件として考えたのは以下の諸点である。

・700C車であること
・フラットハンドルであること(主たる使用目的が通勤などの中短距離用で、細い路地なども走るため)
・クロモリのフレーム&フォークであること(やっぱりクロモリが好き)
・9速仕様で、かつ、フロントが複速(2速以上)であること
・駆動系がロード仕様(マウンテンではなくて)であること
・重量が12キロ以下であること
・10万円以内であること

通勤用なので、多少重くても頑丈な自転車が欲しい。
また、あまり高価だと、家計にひびくばかりか、気が引けて思い切って乗れないので、どんなに高くても10万以下の自転車が好ましい。
とにかく、毎日、下駄のように乗り回せるタフな自転車がいいなあ・・・。

かなり悩んだ末に、結局、フジクロスを買ったときに、最後まで迷ったもう一台の機種を購入することにした。

大阪の小さなメーカー「アートサイクルスタジオ」の「F500」。

(私が買ったのは、この写真とは違って、「チタン色」)

このメーカーが気に入っているのは、車体色をはじめとして、駆動系のコンポやホイールやスプロケの歯数やタイヤの太さなどを指定することができること(因みに、ロードバイクもこのメーカーのものを買った)。

今回、私は、以下のように指定して、注文をかけた。

・タイヤを23Cに換装(無料・標準は28C)
・スプロケを14-25Tに(無料・標準は12-25T)
・車体カラーを「チタン色」に(有料・標準はホワイト)
・コンポをソラ(BB・クランクセット・FD・RD・スプロケ・ブレーキレバー・シフター)に換装(有料・標準はシマノ2200シリーズ)
・ホイールをシマノR500に換装(有料)

そして、ついに届いたのだ。
死体が運べそうなぐらい大きな段ボールに入って。

さっそく段ボールから出して、ペダルとサドルを交換。
ボトルケージを装着。

そうだ、買ったばかりの状態で写真を撮っておこう。

IMG_3245.jpg
(サドルとペダルを交換した状態)

この後、タイヤを交換(ルビノプロの黄)。
ハンドルを左右25ミリずつ切断。
エンドバーを装着。
シートポストを50ミリ切断。
スピードメーター、ライト、サドルバッグなど装着。
変速調整(届いた状態でほぼ完璧)。

さて、明日はいよいよ初乗りだ。
今から楽しみである。

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2009.10.29 Thu
事故の顛末
3週間ほど前、自転車に乗っていて、事故を起こしてしまった。
クルマとの衝突事故である。

ご心配をかけるとまずいので、これまで日記には書かないでおいたが、まあ、怪我の方もすっかり治ったようなので(まだ、右大腿部に鈍痛あり)、自分への戒めのためにも、自転車に乗る他の多くの人たちの「他山の石」になるためにも、ここに報告しておくことにしよう。

3週間ほど前の昼下がり、それは起こった。
四ツ木橋(国道6号線)東詰の歩道を東方向に下っていた私は、車道から左折進入してきたクルマ(普通車)の側面にほぼノーブレーキで激突。
その衝撃で、私のカラダは4,5メートル前に吹っ飛んで、クルマを越えた反対側に頭部から落下した(ヘルメット、割れる)。

一瞬の出来事で、いったい何が起こったか、皆目見当がつかなかった。
相手の車に乗っていた人が降りてきて、「大丈夫ですか」と私に語りかけるも、身体のあちこちに激痛を感じて、うまく起きあがることができない・・・。

そのうち、どこからともなく、警察官数名がやって来て、慌ただしい現場検証が始まったが、沿道の壁に寄りかかってへたりこんでいた私は、その様子をよく確かめる間もなく、タンカにすくい取られて、救急車に乗せられ、近くの病院に搬送された(平和橋通り沿いの病院)。

救急車に乗せられる前に、ちらっと私の自転車(フジクロス)を見ると、前輪が大きく撓(たわ)んで、フォークも著しく後方に曲がっていた。

IMG_3217.jpg
(後日、撮影した事故車・ハンドルも約90度曲がっていた)

IMG_3218.jpg
(ホイール[シマノR-500]が折れ曲がっている・スポーク5本が欠損・もちろん、タイヤはパンクしていた)

病院では、問診の後、CTスキャンやレントゲン検査を受けて、擦過傷の治療をしてもらう。
打撲および擦過傷で、全治3週間という診断であったが、奇跡的に、首や骨への直接的なダメージはなかったようだ。

その後、事故の相手の方(誠意のある人だった)が病院の待合室で待っていてくれて、クルマで、葛飾警察署まで送ってくれた。
交通事故を司る窓口に出頭して、診断書などを提出の上、簡単な事情聴取。
このとき私の対応をしてくれた警察官が、私と生年月日が同じで、お互いびっくりするが、その奇遇を笑おうとすると全身に痛みが走る。
事故の責任比率としては、2:8で、相手方に非が多いというぐらいだろうということ。

その日は、暗然たる気持ちで、タクシーで帰宅。
自転車は、しばらくは、交番で預かってくれることに・・・。

その後の4,5日は、ほとんど、蒲団とソファの上で過ごす。
特に、右太腿が痛くて、起きあがるのもままならない。
仕事も、欠勤。

事故後、1週間ぐらいすると、杖を使えば何とか歩けるようになったが、階段の上り下りが大変につらい。

2週間目に入って、試しに出勤してみるも、恐ろしく辛くて、翌日からまた欠勤。
痛いところをかばいながら動いていたため、怪我とは関係のない筋肉まで痛くなる。

交番から電話で、早く自転車を取りに来てほしいという催促。
仕方がないので、しゃあさんにお願いして、クルマを出してもらって、自転車を回収。
愛車の、見るも無惨なその姿に激しく落胆し、自転車の本当の楽しさを教えてくれたこのフジクロスにまつわる様々な思い出が蘇ってくる。

買った当時からすれば、部品はほとんど交換してしまって、元の通りなのは、フレームとフォークぐらいなのだが、そういう、さまざまな改造の「実験台」になってくれたのも、この自転車である。

その後、保険会社の自転車係(?)の人がやって来て、フジクロスの検分をした。
損傷状態を詳しく見て、一つ一つの部品の型番をメモしながら、何十枚も写真を撮影していた。
その人も、自転車が好きな人で、最後には、楽しい自転車談議になった。

「フォークを交換すれば、まだ乗れるかもしれませんが、損傷が激しいので、フレームも再利用は難しいかもしれませんね」という見立てで、私の考えと一致していた。

結局、自転車は「全損」の扱いになった。

その知らせを受けた私は、自転車を廃棄すべく、玄関側のベランダでフジクロスの解体作業をした。
虚しく、哀しい作業だった。

IMG_3244.jpg
(解体[損壊]されたフジクロス)

そして同日、私は、通勤用の新しい自転車を注文した。
これについては、後日、日記に書くことにしよう。

今回もまた、ヘルメットに助けられた。
もし、ヘルメットを被っていなければ、1月以上の入院になったであろう。
以前にも書いたように、最近自転車をはじめた人のなかに、ヘルメットを被らずに公道を疾走する危険な御仁を多く見かけるが、言語道断である。
自分だけは事故に遭わないという、微塵も根拠のない理由や、ヘルメットは「格好悪い」とか、髪型が乱れるというような、アホな女子高生なみの「美的感覚」が理由でヘルメットを被らない輩は、嗤うべきアンポンタンであると断ぜざるをえない。

また、橋を下る歩道は、背の高いガードレール(もしくは、柵)があって、進入してくる車輌や人が見えにくいので、注意深く減速するべきだと言うこと。

以上、自分のドジから学んだことである。

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2009.10.26 Mon
食べたことある自慢
職場で、同僚たちに、先日、ドングリとザリガニを食べた話をした。

私より10ばかり若い40代の同僚たちは、一様にのけぞってびっくりしていた。
えっ、あれって、食べられるんですか?

しかし、60代の同僚(東京出身)曰く。

ザリガニは食べたことがないけど、ドングリは炙ってよく食べたよ。
あと、ナマズも、焼いて食べたもんだ。

すると、私とほぼ同年齢の50代の同僚(新潟出身)曰く。

「えっ、ザリガニ、初めて食べたんですか。ボクなんか子どもの頃、毎日のように食べてましたよ」。
「そうなんですか。どうやって食べたんですか」と私。
「ただ、普通に、醤油で煮て・・・。あれは、ウマイもんです」。

私は、びっくして、さらに質問。
「ザリガニって、やっぱり食べる前に真水に放って、泥を吐かせたりするんでしょ」。
「いやいやそんなことはしませんよ。やはり獲れたてがうまいんで、すぐに茹でるんです・・・」。
「はぁ~、そうなんですか。じゃあ、ドングリも食べましたか」。
「まさか、豚じゃあるまいし、ドングリなんか、食べるわけないでしょ・・・」。

先の60代の同僚は、この発言にむっとしたようで、多少、鼻息を荒げながら、じゃあ、イナゴを食べたことがあるかと言い出した。
これにたいして、新潟出の同僚は、してやったりとばかりに、毎日のように食べていたと返した。

その後、負けてたまるかというかのように、スッポン、スズメ、カエル、ドジョウ、蜂の子など、様々な生物の名前が列挙されて、「オレは食べたことがある」の自慢大会になった。

教室に戻って、その話を学生たちにすると、「先生、夕食前に、そんな話はやめて下さい」と言われて、息巻く私の気勢は完全に殺がれたのであった。

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2009.10.24 Sat
常識
ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の短編に、あまり知られていない「常識 Common Sense」という小品がある。
実に重い真実を証した傑作だと思う。

Lafcadio_hearn.jpg
(ラフカディオ・ハーン)

今日は、その作品を紹介したい。

こんな話である。

昔、京都の山寺に、教養もあり、徳も積み、仏教徒としてもきわめて信心深い和尚がいた。
近傍の村人からも、たいそう慕われていた。

そんな村人の中に、一人の猟師がいた。
ある日、その猟師が米を持って和尚の所にやって来た。

和尚曰く。

ここ数日、夜になると、普賢菩薩が象に乗ってやってこられるのじゃ。これも、長年に渡る修行と黙想の功徳だと思っている。お前も、今夜は寺に泊まり、普賢菩薩を拝むとよい。

猟師は、そんな尊いお姿を拝めるのなら、是非、拝見したいものだ応える。

だが、果たして、自分のような者に普賢菩薩の姿が見えるものかどうか、やや不審に思い、寺の小坊主に訊ねてみた。
すると、その小坊主も、和尚と一緒に、もう六回も象に乗って現れる荘厳なお姿を見たのだいう。

猟師は、小坊主にも見えるのなら、自分も見てもよいと思い、夜を待つことにする。

堂の廊下に和尚と小坊主が坐し、戸外に向かって、熱心に念仏を唱える。
その背後に、猟師も静かに座る。
夜の静寂の中に、普賢菩薩の到来を待つ。

夜の闇が深まった頃、それはついに現れた。
小さな白い光が現れ、近づくにつれ巨大な光の柱となった。
六本の牙のある雲のように白い巨像に乗った普賢菩薩が、眼前にそびえたったのである。
和尚は、その偉容に手を合わせ、一心不乱に念仏を唱える。

普賢菩薩
(普賢菩薩)

するとその時、どうしたことだろう、和尚の後ろにいた猟師が、弓を取って、すっくと立ち上がり、その普賢菩薩像にねらいを定め、ひょうと弓を引いた。
放たれた矢は、菩薩の胸に深々と突き刺さったのである。
その刹那、雷鳴のような轟が走り、光はすっと消え、深い闇と静寂が残るばかりだった。

当然、和尚は烈火の如く怒った。
お前は何という罰当たりなことをするか。
畏れ多くも、普賢菩薩様に弓を引くとは・・・。

猟師はと言えば、落ち着きはらった様子でこんなふうに応えた。

和尚様、どうか、お気を鎮めて、私の話を聞いてください。
和尚様は、長年修行をお積みになり、お経の研究をなさってこられた方なので、そういう方に普賢菩薩のお姿が見えるのは当然です。
でも、この私は、無学な猟師で、生き物を殺めることを生業とする殺生な身の上。
そんな私に、そもそも、普賢菩薩のお姿が見えるはずはないのです。
なのに、私には、その姿がはっきりと見えた。
ということは、あの見えた物は、偽物にちがいない。何かの化け物であり、きっと禍をもたらすものにちがいないと思って、弓を引いたわけです。

日の出になり、和尚と猟師は、その普賢菩薩が現れたあたりに行ってみた。
血だまりができていて、そこから、点々と血痕が山の中に続いていた。
その血痕を追いかけていくと、猟師の矢に射抜かれた大きな狸の死骸が横たわっていた。

ラフカディオ・ハーンは、最後に、こう結んでいる。

「和尚は学問のある信心深い人だったが、狸にやすやすと騙された。ところが、猟師は無学で不信心な男だったが、しっかりとした常識をもっていた。この生来の才知だけで、危険な迷妄を見破るとともに、それをうち砕くことができたのである」。

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2009.10.23 Fri
植物としての人間
彼岸から一月ほどたつと、本当に日が短くなったものだと思う。
朝から自転車で出かけるにしても、うっかりすると、たちまち日が暮れ始めてしまう。

私は、寝るのがあまり好きではなくて、できれば、四六時中起きていたい方なのだが、晩秋から冬にかけては、寝ることが、少し楽しくなってくる。

特に、冬は、寝ることがとても意識される季節である。
ほかほかの蒲団(ふとん)で、ぐっすり寝られることのありがたさを身にしみて感じる。
因みに、蒲団は、俳句の世界では、冬の季語でもある。

古代の日本語では、寝るの「寝」は、そもそも、「根」と同系の言葉だったそうだ。

草木が、夜になると、地下の根から養分を吸収するように、人間は、眠りに落ち、心身は意識の地下に沈潜して、明日への活力を蓄える。

古代の日本語の使い方から分かるのだが、そもそも、人間は、草木とのアナロジーで捉えられていたようだ。
記紀では、下界(葦原中国・あしはらのなかつくに)の人間のことを「青人草」や「蒼生」(あおひとくさ)と表現していた。
そうなのだ、人間は、植物だったのである。

その証拠に、古代日本語では、「目」「鼻」「歯」「耳」は、それぞれ、「芽」「花」「葉」「実」という言葉と同系であった。

因みに、「からだ」の「から」というのは、「空」が語源で、その空っぽの身体に「たま(魂)」が宿った状態(カラタマ→カラダ)のことを「身(み)」と呼んでいた。

しかも、この「身」は、「実」と同系の言葉なのである。

まことに、古(いにしえ)の言の葉(ことのは)は、抜き身の状態で、宇宙と人間の関係を表しているものである。

さて、今夜も、明日の実り多い一日のために、寝るとしよう。

070617-118.jpg
(野辺に寝る人)

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2009.10.22 Thu
秋高馬肥~珍味三品
「天高く馬肥ゆる秋」とは、この時節にはよく言われる言い回しである。

しかしこの成語については、以前から不思議に思っていた。
「天高く」は、雲もなくてぱあ~っと晴れ渡った秋空という意味で解釈可能だが、「馬肥ゆる」がどうも分からない。
いや、「分からない」というほどではなくて、ピンと来ないという感じかなあ・・・。

第一、四季を通じて、われわれは、競馬場にでも行かないことには、周囲に馬を見ることがないので、こんなところで、急に「馬」に登場されても困ってしまうのかもしれない。

また、「肥ゆる」という言葉も、ちょっと近づきにくい表現である。

「肥ゆる」は文語で、口語では「肥える」。

5年ほど前のこと。
大阪の友だちと会うために、鶴橋駅(大阪で私が一番好きな街)で待ち合わせた。
その友人は、私を見るなり「断腸さん、こえたんとちゃいますか」と言った。
私はその意味が分からなかったので、えっ、と聞き返すと、「ちょっと太ったんじゃないんですか」と彼は言い直した。

なるほど。
「肥える」という言葉は、今でも大阪では、太るという意味で日常語として使っているわけだ。

しかし、依然、「馬」がよく分からない。
たとえば、天高く「稲実る」(あるいは、「穀実る」)秋ならば、バッチリなのだが、どうも、馬が引っかかる。

そこで、インターネットで、この成語を調べてみることにした。

すると、驚くべきことが判明したのである。

この成語は、(案の定)中国からきたもので、「馬肥ゆる」というのは、秋になると、大平原の夏草をはんで身体を「肥らせた」(強くした)馬に乗って、北方騎馬民族が村を襲いに来る季節なので、外敵に備えるべく兜の緒を締めよという意味なのだそうだ。

つまり、元来のポイントは、豊饒の秋を愛でているのではなく、危険な季節の到来としての秋を警告しているということだったのである。

たとえば、8世紀の大詩人・杜甫に、以下のようなフレーズがある。

高秋 馬肥健なり
矢を挟みて漢 月を射る
(「月(ゲツ)」とは、たぶん、西域騎馬民族のこと)

閑話休題。

それはそうとして、食欲の秋なので、先週末、いくつかの珍味を食べた。

1.水元公園で行われていたお祭りで、「ドングリ」を食べる。

ドングリは、縄文期の主食格なので、食べられることは知っていたが、フライパンで炙るだけで良いとは知らなかった(あく抜きが必要かと思っていた)。

IMG_3229.jpg
(こんな風に、フライパンでドングリを炙[い]る)

それを金槌で割って食べると、これがほんのり甘くて、香ばしくて美味しい。

IMG_3230.jpg

ドングリには、いろんな種類があるけど、マテバシイが一番美味しかった。

IMG_3231.jpg
(食用ドングリの種類)

来年は、ドングリを大量に拾って、食費を節約することにしよう。

2.手賀沼で、「アメリカザリガニ」を食べる。

しゃあさんがクルマを出してくれるというので、買い出しがてら、手賀沼にドライブに行く。
フィッシングセンター」で昼食をとることに。

入店するなり、「ザリガニ入荷しました」という札が貼ってある。
何と、ザリガニを食べさせるとは!

興味津々で、さっそく頼んでみる。

深紅の茹で海老が10匹ほど出てきた(500円)。

IMG_3235.jpg
(食卓に上ったアメリカザリガニ)

皮を剥くのが多少面倒だが、まあ、美味しい。
コクがなくて、さっぱりした感じ。
頭の所には、ちゃんと黄色いミソもある。
たぶん、油を使って、イタリアン風か中華風に炒めれば、もっと美味しいのではないかと思った。

来年は、水元公園で、ドングリとザリガニで、バーベキューだぁ~。

3.赤羽で、「鶏の足」を食べる。

赤羽に住んでいるSさんが、めでたく転職したというので、そのお祝いのため、酒席を開く。
赤羽の路地は、私のような者にとっては、憧れの地である。

IMG_3232.jpg
(美しい赤羽の路地)

われわれは、Sさんお薦めの中華「同心房」に入る。

小皿料理(各210円)が主体の中華料理店で、びっくりするほどメニュー数が多い。

その中に、「鶏の足」があったので、頼んでみることにする。
鶏の足は、鶏の首と並んで、ラーメンのスープをとる際によく使われるのだが、そのものを食べたことがないので楽しみである。

そして、出てきた。

IMG_3233.jpg
(鶏の足)

鶏の足は、まるで「求めよ、さらば、与えられん」と言うかの如く、皿の上でその三指を広げていた。
さっそくむしゃぶりついてみると、これはウマイ!
ゼラチンの美味しさで、豚足をさっぱりさせたような味である。

鶏の足は、原価はすごく安いので、今度は、ハナマサあたりでごっそり買ってこよう。

来年は、鶏足(ケイソク)とドングリとザリガニで、緊縮財政を。
みなさんも、一緒にいかがですか?

IMG_3239.jpg
(久々の手賀沼に、我涙す)

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2009.10.16 Fri
真昼の発砲
私の世代ぐらいだと、少年期は、まだ、アメリカ製西部劇の黄金時代で、テレビでかかるアメリカの西部劇ドラマ「ララミー牧場」「拳銃無宿」「ローハイド」などをこの上なく熱心に「鑑賞」していた。
少し遅れて、「0011ナポレオンソロ」や007シリーズが少年の憧れの的となる。
そして、「コンバット」のような戦争ドラマや映画・・・。
もちろん、ジョン・フォードの一連の傑作西部劇の重厚な威光も衰えることなく、田舎の映画館では、新作とカップリングで放映されていた。

それらの映画やドラマで大きな比重を占めている中心的なアイテムは、何と言っても、銃(ガン)であった。

西部劇なら、45口径のコルトピースメーカーウィンチェスターライフル(19世紀米国製/ジョン・ウェインの世界です)。
スパイ物なら、ワルサーP38(ドイツ製)。
第二次大戦なら、コルト・ガバメントとガーランド・ライフルとトンプソン・サブマシンガンとM1カービン(いずれも、ベトナム戦争途中までの米軍正式採用銃)。
また、ドイツ軍の戦車の名前は、今でも暗記しているぐらいだ。

さらに、体験したことのない太平洋戦争の「記憶」は、昭和30年代の男の子たちには、零戦や戦艦大和といったアイテムを中心に、映画(いわゆる零戦物)やおもちゃ(プラモデル)の形で受け継がれていた(何故か、三八式歩兵銃は人気がなかった)。

友人の兄貴(中学生)が、当時のモデルガンを使って、改造銃を拵え、試射に立ち会ったことがある。
私が小学生の頃の貴重な体験だった。

メーカー名は忘れたが、彼は、金塗りのコルト・ガバメントのモデルガンを持っていた。
それだけで、羨ましくて、毎日のように友人の家に訪ねて見せてもらった。
たまに触らせてもらったこともある。

前にも書いたが、当時のモデルガンは、金属製で、しかも、銃口が空いていたので、サイズの合う弾丸さえ作れば、リボルバー(弾倉回転式拳銃)なら、比較的簡単に改造銃が作れた。

・・・などど聞くと、びっくりする人もいるかと思うが、銃なんて物は、真空管ラジオに較べれば、その100年以上も前に成立したローテク装置なので、道具と材料さえあれば、誰でも簡単に作れるのだ。

ガバメント
(コルト・ガバメント実銃の分解写真)

ところが、リボルバーならともかく、発射する度に、発射のガス圧で自動排莢・次弾装填を繰り返すオートマチック拳銃は、モデルガンの場合、実銃(鋼鉄製)と違って鉛製なので、火薬の量を間違えると作動しなかったり、あるいは、破砕する危険があったので、少年たちにとっては、きわめて難物だったと思う。

当時、その友人の兄貴が45口径(?)の薬莢と弾頭をどう拵えたか、詳しくは分からなかったが、たぶん、モデルガン用の弾頭に、米軍から流出した使用済みの薬莢(これは今でも簡単に入手可能)に手を加えたのだと思う。

弾丸の薬莢部には、雷管(プライマー)という小さな起爆装置があるのだが、使用済み薬莢では、これがない。
そこで、雷管の部分を丁寧に打ち抜き、ピンセットなどを利用して、内側に口径に切り抜いた薄紙を入れて、火薬パウダーを詰め、弾頭で蓋をして、ペンチで丁寧に固定する。
それから、外側から、発火性の強いカンシャク玉の火薬などを雷管の外側の小さな穴にそっと入れて、銀紙の小片をセメダインで貼りつけ蓋をする(もちろん、これ以外に、銃本体の撃針も加工する必要があるはずだが、たぶん、これが一番難しいかもしれない)。

言葉では簡単だが、結構細かい作業である(爆発の危険はまずない)。

さて、そうして、その友達の兄貴は、3発の銃弾を作り、マガジン(弾倉)に装填した。
カシャッという冷たい音を立てて、スライドを引き、チェンバーに初弾を装填。

森の中、真上に銃口を向けて、引き金を引いた。
バッバッという大きな音がした。

しばらく、誰も動けなかった。

見ると、銃のスライド部(上部)がどこかに吹っ飛んでなくなっていて、その兄貴の額からは、血が出ていた。
そうだ、後退したスライドが後ろに飛んで、彼の額をかすったのだ。
怪我は大したことはなかったが、眼に当たっていたら大変なことになったであろう。
弾丸は、すべて発射されていた(一応、成功)。
だが、セミオートではなく、フルオートで3発連弾で発射され、鉛合金の部品は、そのパワーに絶えきれず、壊れてしまったというわけだ。

私たちは、心臓がどきどきし、足ががくがくして、しばらく歩けず、蝉の鳴くその森で、壊れた銃をずっと見つめていた。

走行距離:6キロ(ロード+ママチャリ)

思い出    Comment(6)   TrackBack(0)   Top↑

2009.10.15 Thu
キツネ、タヌキ、キツツキ・・・?
イギリスを旅すると、至る所にあるパブで、昼食を食べることが多くなる。
酒類はウマイが、食事類はマズイので、あまり気が向かないのだが、特に田舎に行くと、パブしかないし、また、比較的早くて安くて便利なので、パブでの食事が多くなるのだ。

大概のパブに、「ステーキ・アンド・キドニーパイ」という定番メニューがある。
値段も手頃なので、最初にパブに入ったとき、私はこれに飛びついた。

その名称からして私が想像していたのは、牛ステーキと「キドニーパイ」なるものが並んで出てくるのだろうということ。
「キドニーパイ」というのが如何なるものなのか知らなかったが、「キドニー」というのは腎臓(じんぞう)という意味なので、きっと腎臓を混ぜ込んだパイ(ここで、ちょっと「うなぎパイ」を連想)のようなものかなあと思って、出てくるのを待っていた。

いよいよ出てきた。
だけど、ステーキはなくて、皿に載っているのはパイだけ。
そうか、ステーキは別皿で出てくるんだな。
なるほど、パイのが先にできあがったので、先に出てきたというわけか。
蕎麦屋で、天丼定食を頼むと、先に蕎麦が出てきて、少したってから、天丼が出てくるのと同じだな、などと勝手に納得。

さっそくナイフとフォークで、「キドニーパイ」(結構大きい)を割って食べてみると、まるで洋風「モツ煮込み」のようなものが入っていて、結構美味しい。
こうして、ビール(私の好みはビター)を傾けながら、「キドニーパイ」を食べ始めたが、一向に肝心のステーキが出てこない。
おかしいなあ・・・。

昼時なので、ここロンドンはヴィクトリア駅(東京の上野駅のような所)近くのパブは、昼飯を食いに来たネクタイ姿のサラリーマンで、とても混み合っている(しかも、ほとんどの人がビールを飲んでいたのには驚いた)。
私の周りにも、「キドニーパイ」を食べている人がたくさんいたが、誰も、ステーキを食べている人はいない。
しかも、メニューには、「キドニーパイ」の単品はないので、そうか、私が今食べているこのパイのことを「ステーキ・アンド・キドニーパイ」というのだなと納得した。

そう言えば、牛肉の赤身(厚切り)もパイの中身に入っていて、これをもって、「ステーキ」と称しているわけだ。
その時は、何だかだまされたような気分になったものである・・・。

kidnypie.jpg
(英国の伝統料理・「ステーキ・アンド・キドニーパイ」。どんな料理にも大量の「チップス」[=フライドポテト]が添えられているのも英国風)

ことほど左様に、メニューの名称というのは難しい。

でも、イギリスのパブ以上にメニューの名称が難しいのは、日本の(立ち食い)蕎麦屋ではないかと思う。

たとえば、私は立ち食い蕎麦屋でよく「たぬき蕎麦」を食べる。
東京では、「たぬき蕎麦」と言えば、天かすののった蕎麦が出てくる。
当たり前である。
しかし、大阪で同じ注文をすれば、揚げののった蕎麦(東京で言う「きつね蕎麦」)が出てくるのである。

では、大阪で、「たぬきうどん」を注文したいとする。
しかし、大阪の蕎麦屋には、何と「たぬきうどん」というメニュー自体がないので、注文することができないのである。
大阪では、天かすはカウンターに置いてあって、無料でトッピングすることができるので、品書きに書くことができないというわけだ(関東では、「天かす」を入れただけで、ほぼ50円増しとなり、「タヌキ」になる。関西では、そもそも、「タヌキうどん」というメニューそれ自体が、前提として成り立たない。ただし、京都では「あんかけうどん」のこと)。

関東の場合、蕎麦屋における「タヌキ」は「天かす」という意味で、「キツネ」は「揚げ」という意味(蕎麦であれ、饂飩であれ、同じ)である。

私も、最初、関西の立ち食い蕎麦屋(饂飩屋)に入って、その違いにびっくりした。

ただ、この「キツネ」と「タヌキ」は、確かに、名古屋あたりを境に、大別はできそうだが、もっと複雑な「分布地図」があるようだ。

それを比較的簡明にまとめたページが以下。

http://we.freeml.com/chousa/kitutanu01.html

(『きつねとたぬき、地域によって違う?』)

ところで、上記頁ののタヌキ・キツネの調査結果で不思議なのは、関東以北と九州が同じ範疇に入っていること。
何故なんだろう・・・?

われわれ日本人は、これでもまだうどんや蕎麦の知識があるからいいかもしれないが、たとえば、欧米の人が立ち食い蕎麦屋に入ったら、大変に困るに違いない。

多少ひらがなが読めたとして、和英辞典を引くことができたとしても、「きつね蕎麦」が如何なる食べ物であるかを想像するのはきわめて難しいであろう。

彼は、「kitsune」を辞典で調べる。
foxと書いてある。
ほぼ間違いなく、彼は、狐の肉の入った蕎麦だと思うであろう。

梅若
(「梅わかうどん」・私が関西に行くと必ず注文する一品・梅干しとワカメがのっている)

【メモ】

蕎麦と饂飩の考古学。

蕎麦の原産地は、どうも不明のようだが、「大陸」のどこかであることは間違いないが、随分大昔、つまり、縄文以前に日本列島に存在したことは分かっている。

縄文遺跡からも、蕎麦が発見されているが、もちろん、麺として食されていたのではなく、団子にして食べていたようだ。
蕎麦を麺(蕎麦切り)にして食べるようになったのは、どうも、江戸時代の初め頃の17世紀だったようである。

小麦がいつ頃日本列島に伝来したかは、分からないが、最初はやはり団子として食していて、麺として食べ始めたのは、蕎麦よりもずっと前だった可能性が高いらしい。
つまり、麺としては、饂飩類がはるかに先。

蕎麦粉は、その性質上、「延ばす」ことができないので、小麦粉を混ぜることによって、麺に仕立てることが可能になった。
日本列島の蕎麦粉は、麺(そば切り)になるまでに、伝来数万年から数千年の時を必要としたわけである。

走行距離:3キロ(ママチャリ)

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2009.10.14 Wed
旅する「望郷」としての寅さん
【本当の旅人ではない寅さん】

寅さんは、 一年の大半を旅の空で暮らしている。

「これからは寒くなるからよぉ、南の方にでも行ってみるさ・・・」

たとえば、そう言って、京成金町線の柴又駅から、ぷいっと旅立って行く。

そして寅さんは、行った先々の、旅情たっぷりの町並みや風景を旅するだけでなく、時に無謀にも、そこに住む人と、深く関わろうとすることで「物語」が発生するわけだ。

寅さんこそ、筋金入りの旅人のように思う人も多いかもしれない。
私が寅さんシリーズに引かれる理由の一つも、確かに彼のする各地への「旅」が、何とも魅力的だからである。

ところが、よくよく考えてみると、寅さんは、「本当の旅人」ではないのではなかろうかと思えてくるのだ。
これは、寅さんも、同意してくれそうな気がする。

彼は、日本列島のどこを旅してしていようとも、片時も、葛飾柴又を忘れていない。
というより、葛飾柴又を「望郷」するために、旅をしているようなところがある。

旅先で彼が深く関わった人は、結局は、必ず柴又の寅屋にやって来る羽目になる。
寅さんは、行った先々の風土に己を投入できず、むしろ、旅先で知り合った相手を、彼の「柴又」の側に引っ張り込んで同化させてしまうのだ。

旅の空
どうせおいらは
ヤクザな旅人
柴又背負って
ヤドカリ生活

彼の大きなカバンに詰まっているのは、本当は、露店の商品ではなく、彼のこころの中にある「葛飾柴又」なのかもしれない。

柴又駅
(京成金町線「柴又駅」)

【寅さんの帰り方】

寅さんシリーズで、面白いことのひとつは、冒頭の夢のシーンと並んで、彼の「帰り方」がある。
こっぱずかしいのか、店(寅屋)の前を行ったり来たりして、ちょうどやって来た郵便配達人の陰に隠れて入ってきたり、何と、九州からタクシーで店の前まで乗り付けたり・・・。

ただ、なぜか、私が以前から気になっていたのは、寅さんが旅から東京に戻り、柴又に来るまでのルートの方である。

これには不思議に思っている人も多いかもしれないが、寅さんが江戸川の土手の方から帰って来ることがある。
もっと、首をひねったのは、矢切の渡しに乗って柴又入りする寅さん。

矢切の渡し
(矢切の渡し)

柴又駅へのアクセス事情をご存知ない方には、何を言っているのか分からないかもしれないので、簡単に説明しておこう。

まず、地方から戻ってきた寅さんの終着駅は、まあ、上野駅であろう。
その上野駅から京成金町線の柴又駅に行くルートは、普通に考えれば次の二つしかない。

A. 上野駅から京成線(本線)に乗り、高砂(たかさご)駅で京成金町線に乗り換え、一駅で柴又駅

B. 上野駅から常磐線普通(国鉄/JR)に乗り、北千住駅で各駅停車に乗り換え、さらに、金町(かなまち)駅で京成金町線に乗り換えて、一駅で柴又駅

どちらにしようか迷うところだが、最終的に京成金町線に乗るしかない以上、上記二つのルートしか考えられないわけだ。

だから、矢切の渡しに乗って柴又入りするというのは、普通に考えれば、あり得ない選択である。

矢切の渡しを使って帰るためには、上野駅から京成線に乗り、江戸川を渡り、わざわざ千葉県側の国府台(こうのだい)駅(市川市)で降り、そこからまあ、松戸市側の矢切の渡しまで、葱畑の中を40分ほど歩いて・・・ということになってしまうのだ。

ただしかし、矢切の渡しに乗って帰ってくる寅さんという映像は、主題歌が流れながらの映画冒頭のシーンとして、実に「絵になる」わけで、これをば、糾弾するつもりは毛頭ないのだが・・・。

【いずれのルートを選んだか】

ここで、敢えて考えてみたい。
寅さんは、果たして、上記のAとBのルートのいずれを選んだのであろうか?ということを。

「あら、いつもすまないねえ・・・」。

寅さんが地方から帰ってきて、土産を渡されたおばちゃんは、あまりありがたくなさそうに、そんな風に、型どおりの礼を言う。

15センチ×15センチぐらいの小箱のその土産、果たして中身がなんなのかはわからないが、いかにも、上野駅に着いてから、急に思い立って買い求めたという感じの品。

さながら、酔っぱらって午前様になった亭主が、せめてもの罪ほろぼしに、飲屋街の寿司か何かを持って帰り、「おい、これ、みやげだっ!」と言って、その視線を避けながら奥さんに渡すような、そんな土産物。

そうなのだ。
ここでも、寅さんは、「地方」を柴又に持ち帰ることに興味がないのである。

さて、それはともかく、上野に着いた寅さんだが、その後、どんなルートを取って柴又に帰るのか?

繰り返しになるが、再度、二つのルートを記しておこう。

A. 上野駅から京成線(本線)に乗り、高砂(たかさご)駅で京成金町線に乗り換え、一駅で柴又駅

B. 上野駅から常磐線普通(国鉄/JR)に乗り、北千住駅で各駅停車に乗り換え、さらに、金町(かなまち)駅で京成金町線に乗り換えて、一駅で柴又駅

「常人」ならば、大抵の人は、Aのルートを選択するはずである。
乗り換えが一回で済むし、時間的にもやや早いからである(京成上野駅から、運良く「金町行」に巡り会えば乗り換えなし)。

だが、寅さんは、断じて、Bのルートをたどったはずだと、私は確信する!

どうだろう、私はそうなのだが、長旅から戻り、終着駅に着いたときに、なぜか、そこから一気に家に帰る気がしないということはないだろうか?
旅の時間から日常の時間に「切り替える」必要があるような、何となく、一拍置きたい気分になるものだ。

それなら、上野で降りて一杯やっちまえばいいじゃないかと思うかもしれないが、それは違う。

やはり、そういうときは、「今、私は、家に帰っている途上です」という感覚がほしいものだ。

そんなとき、Bルート上にある、常磐線と京成線が接する「金町」は、絶好のポイントであると言わざるを得ない。

金町は、一見、中途半端な街に思えるかもしれないが、見方を変えれば、それは、国鉄駅前的な雰囲気と私鉄駅前的な雰囲気とがうまく合体している場所とも言えるのだ。
乗り換えるために、一端、街に出なければならないというのも、おあつらえむきである(この要素は大きい)。

たとえば、金町駅京成側の最初の小さな踏切を渡ると、水戸街道(6号線)まで、小さな路地が延びているが、そこは、葛飾でも屈指の優良居酒屋が並んでいる一帯である(別名、「モツ焼き街道」)。

蓋し、寅さんは、こんな路地の飲み屋に入り、旅の時間を清算し、京成線の踏切の音を聞きながら、たった一駅先の故郷柴又に戻る心の準備をしたに違いない。

それから、忘れてならないのは、電車賃。
旅から帰ってくる寅さんは、上野までの切符を買うはずだが、当然その切符は「東京電間」(古い言い方ですが)で、常磐線金町駅までカバーしている。
従って、上野駅から京成線に乗る場合よりも、2級酒一杯分ぐらい、柴又に行くには安いのだ(現在の価格だとルートBの方が、130円安い!)。

金町駅。
実は、現在私が住んでいる街であるが、見方によっては、実に懐かしさを感じさせる街である。

金町駅は、旅から戻ってくる寅さんにしてみれば、確かにほんの一駅先に故郷柴又を控える場所ではあるが、同時に常磐線の顔も持っていて、それは、常陸の国へと延びる、新たな旅情への出発点でもあるのだ。

モツ焼き街道
(京成金町駅近くの「モツ焼き街道」)

走行距離:2キロ(ママチャリ)

映画の日々    Comment(12)   TrackBack(0)   Top↑

2009.10.13 Tue
学生の頃、軽井沢で住み込みで働いていた時の話
もう30年も前の学生時代の話である。

信州のある駅(軽井沢)前の、レストラン兼土産物屋で、住み込みのアルバイトをやっていたことがある。
住み込みといっても、夏のハイシーズンの2ヶ月間だけの季節労働者である。

そこは二階建てで、下が土産物屋、上がレストランになっていた。

店の掃除から、店頭でのソフトクリーム売り、厨房内の簡単な料理作り、ウェイター、雑多な買い物、荷物運び、子守、店主の恋人との連絡係まで・・・。
とにかく、朝から晩まで、ありとあらゆることをやらされ、こき使われたものだ。

同じく住み込みで働いていたアルバイトは、大学生ばかりが約10人ほど。
しかも、全員が、20畳ほどの一つの和室に押し込められていたのだから、もう、欲求不満の巣窟みたいなところだった。

金があるときは、みんなして、ほど近い観光地の盛り場(旧軽井沢)に繰り出し、ただがむしゃらに「ナンパ」に挑んではみたが、無論、成功した試しなぞなかった。

金がないときは、夜になると、敷きっぱなしの布団の上に雀卓が置かれ、紫煙のこもる中、酒瓶が林立し、必然、飲むほどに酔うほどに、怒号が飛び交い、時には取っ組み合いの大喧嘩が始まることも珍しくなかった。

そうして眠くなると、一人また一人と、誰の布団ということもお構いなしに横になり、麻雀パイのジャラジャラという音を子守歌に夢路につく。

楽しくもあったが、辛くもあった日々だった。

ただ、こんな生活を送っていると、無性に、一人きりになることが恋しくなる。
神様、お願いします、一人きりにさせて下さい・・・という、何とも切ない心境になってくる。

一月もたった頃、早番で仕事を上がった私は、駅の反対側の森の中の道をひとりとぼとぼと歩いていた(早番は4時上がりで、遅番は8時上がりだったと記憶する)。
私が働いていた店のあるその駅は、一方の側はかなり昔から開発が進み、綺麗でお洒落な観光の街になっていたが、駅の反対側には小さなゴルフ場があるだけで、その先は、林や草地が連なっているだけの「未開」の地であった。
とにかく一人になりたいと切実に思っていた私は、思い切って、誰も行かない駅の反対側に行ってみることにしたのだ。

夏の夕日が木漏れ日を作る林の中の道を10分ほど歩くと、目の前に突然、木造二階建てのラーメン屋が現れた。
こんな所に店があるなんて!
ちょっと驚きもしたが、小さいながら、傍らにちゃんと駐車場もあるので、たぶん、ゴルフの客がここで腹を作って帰るのだろうか。

半信半疑な心持ちで、私はそのラーメン屋に入った。
店内は、実に普通のラーメン屋の造りで、8席ほどの朱色のカウンターに、テーブル4つ。
早い時間なので、まだ客は誰もおらず、年の頃40過ぎぐらいに見える、真っ白な割烹着を着た女性が何やら仕込みをしている最中だった。

「いらっしゃいませ!」。

そう言われてほっとしたような気分で、私は、その店員さんから一番距離を取れそうな入り口付近のテーブルに座った(なにしろ、一人になりたかったから)。

「何をお作りしましょう?」と笑顔で訊かれ、「ビールと餃子、下さい」と私。

餃子を食べ、ビールを飲み、餃子を食べ、ビールを飲んだ。

とても美味しい餃子で、今でもはっきり覚えているのだが、まだ学生だった私は、このとき初めて、ビールと餃子の相性のよさが分かったような気がした。

あんまり美味しいので、「すみません、餃子、もう一枚ください」。
女性店員は、笑いをこらえるような表情(私にはそう見えた)をして、「はい!」。

もう一枚の餃子もあっという間に平らげ、もっと食べたかったのだが、寮の夕食が待っているので、勘定をすませ、店を出た。

ああ、よかった!
やっと一人になれる場所が見つかった!
他の連中には、絶対に教えないようにしよう!

そんなことを思いながら、暮れなずむ林の中の道を駅の方へと歩いた。

その後、一日おきにやってくる早番の日は、必ずそのラーメン屋に行って、決まってビール1本(キリンの大瓶)と餃子2枚を注文し、一時間ほど一人の時間を過ごすというのが習慣になった。
一緒に早番で上がった連中は、急につきあいの悪くなった私を訝り、「おい、どこに行くんだ?」と訊いたものだが、「買い物さ」と応えるだけで、その店の存在を明かさなかった。
せっかく見つけた聖域を、あいつらに侵されてたまるものかという気持ちだった。

また、いつも笑顔で迎えてくれる女将さん(雇われ店員ではなく、その店を一人で切り盛りしていた)も、特にあれこれ話しかけてくることもなく、といって、無愛想でもなく、私にとっては、理想的な居心地の良さだった。

そんなある日、遅番で上がったのだが、まだ早い時間なので、寮の夕食もそこそこで切り上げて、もしや店が開いているかもしれないと思い、夜道を走るようにして行ってみたが、残念、暖簾は下げられ、準備中の札がかかっていた。

がっかりだったが、ふと上を見上げると、上の階の紫色の看板が目についた。
それまでは早い時間しか来たことがなかったので、全然気づかなかったのだが、二階は別の店で、スナックが入っていたのだ!

せっかく寂しい夜道を歩いて来たのだし、このまま寮に戻っても、品の悪い連中の喧噪が待っているだけだし、いっそのこと、この二階のスナックに入ってみようかとふと思った。
だが、学生にとって、馴染みのない田舎のスナックに一人で入ることは、かなりためらわれることだった。

しかし、やはり入ってみたいという気が次第に勝ってきて、私は、一応、「安全」な店かどうかを偵察するかのように、店のぐるりを見て回り、財布の中身を調べ、意を決して、階段を上がっていった。

階段を登り詰めると、そこには、よくありがちな、いささか派手な造りのスナックのドア。
ドアにはめ込んである小さなステンドグラス風の丸窓から、ちらちらと中の様子がうかがえるのだが、よくは見えない。
躊躇する気持ちを追いやるように、私はドアを押した。

一歩入ると、一拍おいて、「いらっしゃいませ」の静かな女性の声。

カウンターの中に黒いドレスを着た30半ばぐらいに見える女性が静かに微笑んでいた。

一人になりたくて来たはずの私だが、その女性の笑顔に引っ張られるようにして、気がついてみると、なんと、カウンターの真ん中の彼女の真ん前に座っていた。

「ビールになさいますか?」。

返事をしないうちに、冷蔵庫からビールが出され、ボトルとグラスと簡単なおつまみが置かれた。
ボトルを取ろうとすると、彼女が一瞬早く持ち上げ、酌をしてくれた。
店の女性から酌をされるのは初めてだったので、すごく緊張した・・・。

一杯呷ったところで、「だいぶ、涼しくなりましたね」と彼女。

私はただ、うなずくことしかできなかった。
彼女は、カウンターの中で、料理をしたり、氷をアイスピックで砕いたりしながら、私にぽつりぽつりと話しかけた。

最初は最低限の応答しかできなかった私だが、次第に、えらく多弁になっている自分に気づく。

駅前のレストランで働いていること、学生であること、早番の日は下のラーメン屋で餃子を食べること、その餃子が大変うまいこと・・・。
やっと、自分の話を聞いてくれる人と巡り会えたというかのように、いろんなことを話したように記憶している。

彼女は、その間、笑みを浮かべながら、静かに相づちの言葉を返したり、簡単な質問をするだけ。

「あっ、そうなの?すごいわね」。
「それは大変ね」・・・。

ただ、その笑顔が素晴らしかった。
私には、彼女の全身が輝いているように見えたものである。
多少気後れしながらも、本当に美しい人だと私は感じていた。

「じゃあ、下のラーメン屋が終わっちゃってたから、仕方なくいらしたのね?」。
「いやぁ~、そうでもないんですが・・・ここにも来たかったんです」。
「餃子、そんなに美味しいの?」。
「ええ、美味しいです!ビールとよく合うんです。餃子を食べてビールを飲みますでしょ。するとその後は、餃子を食べるだけで、ビールの味がして、ビールを飲むだけで、餃子の味がする感じなんです」。
「あら、面白いわね。でも、本当なの?こんな田舎のお店なのに。じゃあ、ラーメンはどうなの?」。
「いやぁ~、寮の食事が待ってるので、ラーメンまで食べたことはないんですが、今度、食べてみますよ」。

そんな他愛もない会話だった。

帰り道、私は心に決めた。

早番の日はラーメン屋に、遅番の日はスナックに来ようと。
自分の「名案」に嬉しくなって、寮までの夜道を走って帰った。

その翌日から、早番の日は下の階のラーメン屋、遅番の日は上の階のスナック通いが始まった。

ラーメン屋では、店の入り口近くの、一番厨房から遠いテーブルに着いて、本や新聞を読みながら、ただ黙々とビールを飲み、餃子2枚を食べる。
いつも、真っ白な割烹着をきて、白い手拭いを被ったラーメン屋のママさんは、笑顔で迎えてくれ、美味しい餃子を焼いてくれたが、相変わらず、話を交わすことはなかった。

上のスナックでは、カウンターに坐りこみ、ウイスキーの水割りなどを飲みながら、いつも黒い服を着た、エレガントで優しいママさんと雑談をする。

「学校では、何を勉強しているの?」。
「英文学です」。
「あらまあ、シェイクスピアなんか、読むのね」。
「ええ、まあ」。
「ロミオとジュリエットなら見たことあるわよ。敷居の高い恋は、燃えるのよねぇー。ところで、ガールフレンド、いるの?」。
「いやぁ、いませんよ・・・」。
「だめよ、一人で本ばかり読んでちゃ。実践もしなくちゃね」。
「はい、わかりました。頑張ります・・・」。

しかし、そんな楽しい日々も、いつかは終わりがくることは分かっていた。
9月一杯でアルバイトの期間は明け、東京に帰らなければならいからだ。

もちろん、スナックのママさんも、そのことは既に知っていたのだが、お互い、そのことに触れることは、何となく、避けていたような気がする。

東京に帰る三日前、いつものように、遅番で上がるとすぐにそのスナックに行った。

「いよいよあさっての朝、東京に帰ります」。
「あらそう、明日はどうするの?」。
「明日の夜は店で慰労会をやるんで、来られるかどうか・・・」。
「あらそうなの・・・じゃ、ちょっと待っててね」。

そう言うと、ママさんは、店からそそくさと出て行き、階段を降りていった。
何だろう?
何かプレゼントでもあるのかなあ?
そういうことなら、オレも、花の一つでも持ってくるんだったかなあ?

そんなことを考えていると、階段を登るハイヒールの足音がして、店のドアが開いた。

何と、入ってきたのは、真っ白い割烹着を着たママさん、と言っても、黒いドレスの上に割烹着を羽織ったスナックのママさんだった。
ママさんは、笑いをこらえるようにして、カウンターに入ってきて、まだ焼いていない餃子がたくさん敷きつめられている皿を、私の前に置いて、「今日も、ビールと餃子2枚ですか、お客さんっ!」と言った。

「なぁんだ、そうだったんですか!」

そうなのだ、ラーメン屋の女将さんとスナックのママさんは、何と同一人物だったのだ。

二人の風情、いや、ラーメン屋の彼女とスナックの彼女は、私にとって、あまりにも違ったように見えたので、不覚にも、まったく気がつかなかったのだ。

「やっぱり分からなかったのね。もう、可笑しいったらありゃしない」。
そう言って、ママさんはけらけら笑った。
私は、顔から火が出そうなほど恥ずかしくて、しばし呆気にとられていたが、途中から、一緒になって笑った。
可笑しくて、可笑しくて、腹がよじれるほど、二人して笑った。

ひとしきり笑った後で、「餃子、焼いたげるね」。
ママさんは、そう言って、皿を持ってガスコンロの方へ行った。

黒いドレスの上から真っ白な割烹着を着て餃子を焼くママさんの後ろ姿を見ているうちに、どういうわけか、涙があふれてきた。
気がつかれないように、おしぼりで拭った。

「はい、おまちどおさま。文学者様」と言いながら、餃子を出してくれた。
「・・・でも、ママも人が悪いよ。何で、言ってくれなかったの?」。
「だって、私から言うことじゃないでしょ、本当は。もっとちゃんと文学のお勉強をしなくちゃね・・・」。

もちろん、その餃子はうまかった。
当然ながら、下のラーメン屋の餃子と同じ味だった。

なのに、このオレは・・・。
彼女に申し訳ない思いがこみ上げてきて、必死でこらえながら、餃子を頬張った。

店を出るとき、彼女は、階段の下まで見送ってくれた。

「今度は、ラーメンも食べてね。それから、手紙ちょうだいね」と彼女。

林の中の道を、私は何回も振り返りながら、歩いた。
いつまでも、彼女は、階段の下で、手を振ってくれていた。
そして、次第に遠のくにつれ、黒服のその姿は、周りの闇に飲み込まれてしまった。

走行距離:6キロ(6速ママチャリ)

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2009.10.12 Mon
祖父のことなど
銚子に進駐した米占領軍の司令部が、ヤマサ醤油の社屋に置かれたということは、昨日の「日記」にも書いたが、戦時中、東京から疎開してきた母方の祖父は、戦禍をかいくぐり、戦後も銚子にそのまま住み着き、ヤマサ醤油に勤めていた。

この母方の祖父は、香川県の農家の次男坊として生まれたので、当時のしきたりとして、長男以外は土地がもらえず、結婚して東京に上京。
現在の中野で、大工、自転車屋、ラーメン屋など様々な商売をした後、空襲が激しくなってきてので、一家揃って銚子に疎開したものの、昨日も書いたように、疎開先の銚子でも激しい空爆にあったわけである。

母方の祖母も、香川の同じ地域の出身で、高等学校を出た後、祖父と結婚し、当然、同じ道程を歩んで銚子にやってきた。
祖母については、今は詳しく書かないが、庭の防空壕を直撃した焼夷弾を素手で撤去し、一家の蒲団を救ったという勇壮なエピソードのある端倪すべからざる明治女であった。

さて、占領軍が接収したヤマサ醤油に勤めていた祖父は、生来好奇心の強い性格ゆえか、米兵たちとかなり親しく付き合ったようである。
会社から戻るときは、米軍の缶詰や珍しい品々を持って帰ってきたそうだ。

私が幼い頃の祖父は、大変に厳しい人で、ご飯の時は正座、お茶碗のお米を一粒でも残すと叱られた。
でも、それ以外の時は、同年代の兄貴のように私と接してくれて、祖父と一緒に小屋を拵えたり、おもちゃの船や鳥籠を一緒に拵えたことは、つい最近まで忘れていたが、大切な思い出である。

祖父は、晩年、にわかに「柔らかい」人間になって、お酒を飲むと、高校生の私を隣に座らせ、昔の話をしてくれたものだ。

「あのな、あいつら(米兵)の便所は、小便用と大便用が別なんだよ。よく別々にできると思ったもんだ・・・」。

「村から日露戦争に出征する兵隊たちを見送った時、まだ子どもだったんだが、『お~い、露助をやっつけてこいよ~っ』て大声で叫んでなぁ・・・」。

他愛のない、しかも、繰り返しの話が多かったが、そこから、芋蔓式に、戦前戦中の話が出てきて、今となっては、もっとよく聞いておけばよかったと悔やまれる。

私が、高校を終えて上京をする数日前、祖父に呼ばれたので行ってみると、そこには、一冊の豪勢な辞典が置いてあった。
見てみると、1924年にイギリスで刊行された『技術用語辞典』というもので、占領時代に米軍の将校からもらった記念の品だという。
その辞典の何たるかは、私には判断がつかなかったが、御礼を言っていただいた。

その後、思い立って、その辞典を何回か開いてみた。
ところどころ、赤鉛筆で下線や書き込みがあった。
それは、英語なぞ、ほとんど読めなかったであろう祖父の、何とかその辞典を活用しようと悪戦苦闘した痕跡であった。

私はそこに、明治男のど根性を見たような気がして、姿勢のよかった祖父に習って、思わず身をただしたものである。

走行距離:6キロ(ママチャリ)

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2009.10.11 Sun
小さな町の大きな出来事・銚子大空襲~ノーマン・メイラーのこと
「2マイルばかりの銚子半島は、日本全体の縮図だった。太平洋にむかって、数百フィートの高さに切り立った、大絶壁があった。まるでエメラルドみたいに完全で、きちんとつくられた豆絵の林、灰色の木と石塊でつくったちっちゃな漁師町、稲田、悲しげな低い小さい丘、魚の臓腑や人糞が鼻をつく、銚子の狭苦しい息もつまりそうな町、ものすごい人だかりの漁港の波止場。なにひとつ無駄にするものはない。土地という土地は、一千年の長きにわたって、まるで爪の手入れみたいによく手入れされていた」。

いきなりの長い引用にて失礼。

これは、アメリカの作家ノーマン・メイラーが書いた長編小説『裸者と死者』(1948年)の一節である。
メイラーは、21歳で米陸軍に入隊、ルソン島のジャングルの中で日本軍と戦い、終戦後、銚子に進駐(銚子の米占領軍司令部は、現在のヤマサ醤油社屋を接収)した(その後、小名浜へ)。

『裸者と死者』は、その体験を生かして書かれた叙事詩的戦争小説巨編である。
学生時代に読んで感動し、その後、全集も買って、随分一生懸命、メイラーの難解な文章と格闘したものである(当時は新潮文庫で3巻本で出ていたが、長らく絶版のまま)。

メイラーの銚子に関する上の描写は、お見事と言うほかない。
東京オリンピック(1964年)ぐらいまでの銚子の雰囲気を、完璧なまでに活写していると言ってよい。

「大絶壁」というのは、もちろん、屏風ヶ浦のことで、わたしの田舎の家からは、徒歩20分ぐらい。

「豆絵の林、灰色の木と石塊でつくったちっちゃな漁師町、稲田、悲しげな低い小さい丘、魚の臓腑や人糞が鼻をつく、銚子の狭苦しい息もつまりそうな町」という描写も、犬若から外川あたりまでの海岸線に沿って点在した漁村の風景を、驚くほど精確に描ききっている。

ところが、その銚子の町だが、メイラーたちが進駐する前の戦争中は、町の規模には不相応な、米軍の激しい空爆にさらされたのである。

1945年3月10日、一夜にして10万人以上の死者をもたらした、いわゆる東京大空襲を皮切りに、銚子市民の災難も始まった。

当時、燈火管制が敷かれていたので、洋上の航空母艦や島々から飛び立った米軍爆撃機は、正確に東京への方角を辿る一番簡単な方法は、夜間でも上空から光って見える利根川沿いに遡上することであった。
利根川を遡り、江戸川をたぐれば、すぐに荒川や隅田川も発見できる。
これらの川の流域には、当時も今も、「庶民」の大住宅街が広がっている。
その全域に、木造住宅を破壊するために特殊開発された焼夷弾を雨霰のように投下して、東京の下町を未曾有の火炎地獄と化さしめるという、無差別攻撃を加えることになる。

そうして、帝都の爆撃がすむと、また、利根川沿いに帰投するのだが、燃料の節約などのために、利根川流域の最後の町である銚子に、余った爆弾を全部落として行くわけだ。
これにより、銚子の市街地は壊滅する。

しかも、のどかな昼下がりに、突然、グラマン戦闘機が飛来し、飯沼観音でお参りしている人をゲーム感覚で銃撃し、多くの民間人も殺された。
米兵士も、長年の従軍生活でむしゃくしゃしていたのであろう。
お遊び的な攻撃も頻繁に繰り返されたという。

幼かりし日を思いて、わが胸は痛む。 
少年たち、学友たち、ともに興ぜし遊戯、
しきりに瞼にうかぶ。 
かつて銚子に祖父母とすごせし日よ。 
われは思う、われは生まれ、そして死す。 
われは生まれ、生き、そしてまた死なんとす。 
今宵 われは思う。 
われは至高の存在、天皇を信ぜず、 
わが偽らぬ心の告白。 
われはまさに死なんとす。われは生まれ、われは死す。 
われは自問す―なぜか? 
われは生まれ、われは死なんとす。 
なぜか? なぜか? そはなにを意味するや?

これは、『裸者と死者』に登場する日本軍将校の遺言詩である。
彼も、ひょっとしたらメイラーも、1945年に銚子に加えられたゲルニカ的無差別爆撃を知らなかったかもしれない。

IMG_2978.jpg
(現在の外川港)

走行距離:0キロ

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2009.10.10 Sat
葬り去られた過去
葬り去られた過去

小学校5年の頃、何かの本で、縄文時代や弥生時代の存在を知ってから、その虜になった(因みに、それまではベーゴマの鬼だった)。
私の育った田舎は、利根川が太平洋に流れ込む河口にあったので、川と海の幸に恵まれていたせいか、縄文遺跡、つまり貝塚があちこちにあった(縄文晩期のもの)。
そのほとんどは、畑になってしまっていたが、土に大量の貝殻や土器の破片が混ざっているので、そのあたりに貝塚があったことはすぐに分かるのだ。

小さな縄文遺跡は、ずっと以前に開墾されたときに潰されてしまっていたのだが、中には、ちゃんと「・・遺跡蹟」という札が立てられているものもあって、同じ関心をもつ友人と自転車にスコップを積んで、「発掘」に出かけたものである。

遺跡の場に立ち、なだらかな丘陵を見下ろすと、利根川が悠然と東に流れている。
縄文の人たちは、こんな場所に住み、舟で川づたいに海に出て、魚や貝を捕獲していたんだなあと想像するだけで、身震いするほど、興奮したものである。
今考えれば恐ろしいことなのだが、私たちは、勝手に遺跡を掘り返して、土器の破片を家に持ち帰っていたのだ(普通、これを盗掘という)。
一番見つけたかったのは鏃(ヤジリ)だったのだが、出てくるのは土器の破片ばかり。
今でも、段ボールに何杯分かの土器が、田舎の家に眠っているはずである。

ところで、同じクラスに、何と自分の家の敷地内に縄文遺跡があるという、何とも羨ましい友人がいた。
彼は、遺跡よりも、ベーゴマに夢中だったのだが、やはり、スコップを持って、彼の家に何度か「発掘」に行った。
彼の家の人は、庭を掘り返す少年をかなり怪訝そうな眼で見ていたが、こちらは、何か大発見をしてやろうというという気構えで、熱心に掘り続けたものである。
見つかったのは、多少の土器だけだったが、少年の私の好奇心を十分に満足させるものだった。

私は、自宅の敷地に遺跡のある友人の家が死ぬほど羨ましくて、将来、家を建てるのなら、絶対に遺跡のあるところに建てようなどと、誠に少年らしい空想を抱いたり、親に、遺跡のあるところに引っ越してほしいとお願いし、即座に一蹴されたりしていた。

そんな夏のある日、家の裏庭を試しに掘ってみることにした。
ただし、ここから遺跡が出ることは、まずあり得ないということも同時に知っていたのだが・・・。
というのも、家を建てる前に、余所から持ってきた土を盛っていたのを見ていたからだ。
でも、もしかしたらという望みを抱いて、掘ってみたが、やはり、虚しい行為だった。

その時、少年の私の頭に、突然、こんなことが閃いた。
自分の子どもや孫がいつかこの家で暮らすことになったとき、家の庭から土器が出たら、きっと喜ぶに違いない。
そしたら、今の自分のようにがっかりすることもないであろう・・・。

私は、自分の部屋に走っていって、土器のどっさり入った箱を庭に持ってきた。
土器の破片を吟味して、掘った穴の中に丁寧に並べて、埋め戻すという作業を始めたのである。

もう、お分かりかと思うが、何年か前、考古学会を震撼させた、遺物の偽造行為をしていたのである。

あの事件が明るみ出たとき、私は、30年以上前、自分も遺跡をでっち上げようとしていたことを思いだし、酒を飲みながら、苦笑した。

今度、田舎に帰ったときにでも掘り返して、回収しておかなくてはな・・・。
ただ、当時埋めた場所を詳細に記録したメモは、その後、ベーゴマの箱と一緒に、やはり、庭のどこかに埋めてしまっていた。
もちろん、そのベーゴマの箱を埋めた場所を書いた紙も、どこかに埋めてしまったような気がする。
こうして、歴史の偽造行為は、いまだ、地下に葬られたままなのである。

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2009.10.09 Fri
禁じられざる遊び
禁じられざる遊び

少年の頃の夏の朝、私は、よく近所の子どもたちと自転車で連れだって、利根川河口付近の海辺に出かけていった。
目的は、「棒火薬」というものを拾うためである。

銚子は太平洋に突き出た半島なので、3方を海と川に囲まれているわけだが、その目的地は、家からかなり距離があって、自転車を一生懸命こいでも40分はかかっただろうか。

さて、その棒火薬というのは、敗戦後、米占領軍が、銚子沖に投棄した旧日本軍の砲弾や爆薬が、海底で容器が朽ちて、海流の影響で、特定の砂浜に打ち上げらるようになった固形火薬片のことである。

棒状の、まるで管玉(くだたま)みたいな形をしていたので、こう呼んでいたのだが、薄い板状のものもあった。
大きさも、管玉と同じぐらいか、やや大きいぐらい。
火薬なので、火をつければ勢いよく燃えるわけで、「シュッシュッパ」と呼ぶ者もいた。
砲爆弾の原料火薬である。

この種の火薬は、軽いので、その砂浜に行けば、だいたいは打ち上げられてたが、大嵐の後などは、何と、金属製の弾丸そのものや、薬莢も流れ着いた。
朝になると、それを拾う子どもたちがたくさん集まってきたものだ。
「危険」だなどと、誰も思っていなかったし、親たちも、何も心配していなかったのだから、今の世の中と随分違うものだ。

ちょっと横道にそれるが、米軍の占領時代、銚子沖に投棄された旧日本軍の砲弾弾薬の量は、「イペリット等のガス弾450トン、爆弾・砲弾類 71,550トン、合計72,000トン」というのだから、たぶん、関東地方の弾薬類は、船や列車で全部銚子に集められ、海洋投棄されたのだろう。
因みに、何年か前に、井戸水汚染がきっかけで、旧日本軍の毒ガス弾が地中廃棄されたらしいことが明らかになった茨城県神栖町は、銚子から利根川を渡ると眼と鼻の先である。

さて、その棒火薬を使って、どんなふうに遊んだのか。
たぶん、今の親が聞けば、気を失うほど危険な遊びに興じていたのだ。

まず、拾ってきた火薬を新聞紙の上に並べて、よく乾かす。
棒火薬を小さく折ったり砕いたりして、、マニュキアのキャップにぎっしりと詰める。
土や板で発射台を拵えて、着火。
ピューという空気を切り裂く音を立てて、その「ロケット」は勢いよく飛んでいく・・・。
これは、相当なパワーで、板塀などは貫通してしまったのだから、身体に当たれば大変な怪我をすることは間違いないのだが、これまた、誰も危険だなどとは思っていなかった。

だが、これとて、下級生向けの幼稚な遊びで、中学生や高校生は、竹筒を使って「手榴弾」を拵え、地中爆破実験をしたり、もっと高度な遊びとしては、実弾を拵え、モデルガンに装填して、何と、森の中で試射していたのだ。
今のモデルガン(金属製)は銃口が埋まってしまっているが、当時のモデルガンは、鉛製で、銃口も開けられていたので、入手した薬莢を改造して銃弾を作れば、(自動拳銃は難しかったが)リボルバーなら、比較的簡単に改造銃を拵えることができたし、戦争経験のあるオジさんたちも、一緒に面白がって、智恵をかしてくれたものである。
こうして、少年たちによる、集団的な「銃刀法違反」の夏の午後は過ぎていった。

繰り返しになるが、そんな遊びを、誰も危険だなどとは思っていなかったのである。
幸せな時代に、少年時代を過ごせたことを、つくづく感謝したい気持ちである。

ただ、いま、こうして少年時代の危険な遊びのことを書いていて思い出すのは、今のイラク。
米軍が雨霰のように投下した、たとえばクラスター爆弾の不発弾などは、もし僕がイラクの少年だったら、確実に、その種の遊びの格好の材料になったであろう。
子ども、特に少年は、こういう危険なおもちゃが、いつの時代も大好きなものだからだ。

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