日々の身辺雑記や考えたことなどを徒然なるままに書き連ねる「断腸亭日録」です。
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断腸亭日録~自転車日記
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2009.05.31 Sun
菖蒲祭り・新撰組・飯塚の渡し・明神の湯
週の後半、飲み会が続いたので、何となくお疲れ気味。

朝は、いつものように、水元公園を散歩。
6月5日(金)から2週間、「葛飾 菖蒲祭り」が開催されるので、露店の枠組みを組み立てたり、ステージ周りの準備も始まっている。
ここ水元公園の1万4千株の花菖蒲も、祭りに合わせて日に日に多くの花を咲かせつつある。

IMG_2206.jpg

呑ちゃんの起床を待って、自転車で「明神の湯・大谷田温泉」に出かける。

途中、中川に架かる「飯塚橋」を渡る。
この橋の上からの眺望が好きなので、必ず自転車を止めて、休憩する。

IMG_2212.jpg
(飯塚橋より中川上流を眺む)

この橋は、葛飾区と足立区を結ぶ重要な橋で、現在の飯塚橋は、1992年に完成した新しい物だが、その前の古い橋は、1950年に架けられた。
それまでは、飯塚の渡しが運航していて、人々の往来に大いに寄与していた。
当時は、この渡しを利用するしかなかったのだが、車で葛飾~足立を行き来するには、下流の亀有まで廻って「中川橋」を渡っていたのであろう。
その中川橋の架かっているところが、旧水戸街道である(現国道6号は、さらに下流の中川大橋を通っている)。

話は飛ぶが、1868年、綾瀬の金子家に逗留した新撰組は、もしかしたら、その後、旧水戸街道経由ではなく、この飯塚の渡しを渡って、流山に向かったのではないだろうか。
というのは、旧流山道は、中川の東岸沿いを走って、現在の西水元を通って大場川沿いに抜けるルートだったので、流山に行くのならば、当時としては最短ルートだったはずである。
いずれ、その検証をしてみたい・・・。

今日は、入浴後、足もみマッサージ(20分)もやってもらった。
本当は、身体もみをやりたかったのだが、先々週木曜に、墨田で信号待ちをしていたら、女子高生の自転車に激突され、腰をぶつけて、まだ痛みが残っていたので足裏マッサージにした。
気持ちよかった。

そうそう、今回もまた、贔屓にしている四ツ木の飲み屋の店主と浴場でばったり。
いくら懇意にしていると言っても、全裸で出くわすと、さすがに何だか変な感じがするものである。

IMG_2209.jpg
(明神の湯の御休処)

走行距離:13キロ(6速ママチャリ)
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小さな旅(自転車)    Comment(6)   TrackBack(0)   Top↑

2009.05.30 Sat
花菖蒲と金町南口の名店
午前中、花菖蒲の咲き具合を確認するために、呑ちゃんと霧雨の水元公園を散歩。
雨に煙る公園の風景もまた乙なものである。

IMG_2194.jpg
(水色の鉄橋は、園内に架かる最大の橋「水元大橋」)

IMG_2195.jpg
(園内にはたくさんの水路が通っていて、これがこの公園に「水郷」の風情を添えている)

花菖蒲は、まだまだまばらながら、先週に較べると、大分花をつけてきた。

IMG_2196.jpg
(花菖蒲畑と雨の日通勤用のルイガノクロス)

睡蓮の花も咲いていた。

IMG_2200.jpg
(この池には、毎年、ウシガエルが大発生する)

夜は、久々に呑ちゃんと金町駅前の「太助」で一杯。
再開発のため日々醜悪化しつつある金町駅南口だが、その難を逃れて、私の大好きなお店たち(「大力」「ゑびす」「そばっ子」「太助」など)はすべて、ビルの谷間で今なお健在である。

IMG_2205.jpg
(私にとって、立ち食い蕎麦屋の理想型「そばっ子」)

太助」の入口は、間口半間ほどしかなく、しかも自販機に埋もれているようなので、何だか入りにくいような気がする。

IMG_2204.jpg
(自販機を「掻き分ける」ように入店する「太助」)

扉を開けて眼に飛び込んでくるのは、カウンターだけで、あ~やっぱり小さな店だと思いきや、カウンターを抜けると、かなり広い空間が広がっていて、テーブルが並んでいる。

店内は、自然な時の経過こそが歴史を作り上げるものだということをひしひしと感じさせる「古さびた雑然性」が充満していて、私は全身から嬉しさがこみ上げてくる。
値段も安く、品数はきわめて豊富で、とりわけ、マスターの焼酎に関する蘊蓄はものすごい。

IMG_2202.jpg
(この古さびた値段表とその安さを見よ)

IMG_2203.jpg
(酎ハイ類の値段表・日本酒や焼酎の種類も多数ある)

われわれは、あんかけ焼きそば(300円)と酎ハイ(250円)を手始めに、心ゆくまで金町の夜を堪能したのであった。

IMG_2201.jpg
(あんかけ焼きそば・昔懐かしい赤いウインナが嬉しい)

走行距離:8キロ(ルイガノクロス+ママチャリ)

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2009.05.29 Fri
雨にぬれても
まったき雨の一日だった。

ルイガノクロスで出発。
口笛をふきながら、自転車を漕ぐ。
今日のテーマは、もちろん、雨。

雨にまつわる曲を順繰りに吹いてみる。

♪雨、雨、降れ、降れ、かあさんが・・・
♪長崎は、今日も、雨~だった・・・
♪セプテンバーレイン、レイン、9月の雨は冷たくて・・・(大田裕美)
♪Raindrops keep falling on my head ・・・(「雨にぬれても」)

う~ん、Raindrops keep falling on my head が一番ぴったりくる感じだなあ・・・。

雨の日に自転車に乗るときは、自然、口笛が出てくる。
通り過ぎる人が、そういう私を不審気に見返したりするが、そんなことはお構いなし。
自転車は、歩くより速度が速いので、一時(いっとき)の恥ですむ。
それに、カッパを被っていると、妙な音響効果があって、口笛の音色が自分の頭の周辺で心地よく鳴り響くので痛快なのである。
四方を縦筋の水のスクリーンで守られた私は、いわば私を防御してくれる球体の中で、自転車を漕いでいるかのようだ。

♪Raindrops keep falling on my head・・・。

実は、その先の歌詞は知らない。
というか、口笛なので、歌詞は必要ないのだ。

雨の中、自転車を漕ぎながら吹く口笛のメロディーとしては、卓越してよく合うような気がする。

そう言えば、このバート・バカラックの曲は、映画『明日に向かって撃て』(1969年)の中で、実に効果的な役割を果たしていた。

ポール・ニューマンが、自転車の前にキャサリン・ロスを乗せて、牧場を快走するシーン。
そのバックにこの曲が流れるのだが、音楽と映像があれほど見事に融合したシーンも珍しい。
先ずは、是非、次のシーンをご堪能されたい。



この映画が封切られたのは、1969年。
資本主義国では、世界的に盛り上がったスチューデント・パワーが最高潮に達して、そして、転がり落ちるように挫折に向かった時期に当たる。

この映画はまた、「最後の西部劇」とか、「西部劇を葬(ほおむ)った」作品などと評されるように、従来の、ジョン・フォード的な西部劇からすれば、きわめて異質な作品であった。

この映画には、倒すべきインディアンも、悪漢もいない。
銀行強盗を「生業」とする主人公たちの敵は、もはや、伝統的な保安官(州警察)でもない。
州を跨いで追いかけてくるFBI(連邦警察)であり、国境を越えて追いかけてくる帝国主義的な米国であるのだ。

西部劇の多くの作品は、せいぜいが「郡」や「街」レベルに限定された舞台背景の中で繰り広げられる。
だから、たとえば、OK牧場の決闘(米国の忠臣蔵のようなもの)に、騎兵隊(米軍)が介入すれば、ドラマが壊れてしまう。
ワイアット・アープは、政府に援軍を頼んだりしないどころか、そういう選択肢それ自体が、西部劇ではあり得ない設定なのである。

同じく『真昼の決闘』(1952年)で、孤軍奮闘する保安官(ゲーリー・クーパー)も、状況的にあそこまで追いつめられながらも、近隣の街や郡や連邦政府に助けを求めない。
これが、西部劇的な掟(おきて)であり、禁欲的な作劇設定だったのである。

真昼の決闘
(『真昼の決闘』・私のベスト3の映画です)

以前は、銀行強盗をしても、州の外に逃れれば大丈夫だった主人公の二人は、州を越えて追走してくる一団を発見してびっくりする。
確か、このシーンは、望遠レンズで、蜃気楼が立つような地平線に追っ手の一団を映し出していたように記憶する。
これこそ、19世紀末にその母体が出来上がった国家主義的な警察組織FBIだったのである。
二人は、その後、国境を越えて南米まで逃走するが、そこ南米は、米国が帝国主義国として、最初に触手をのばした地域でもあり、ついに、そこで彼らは追いつめられることになる。

この映画が製作された当時(1969~70年)の若者は、この映画を、自分たちヤンガージェネレイションの挫折と重ね合わせて観たのではないか・・・。

上記のシーンはまた、映画に登場する自転車のシーンとしても、屈指の名場面であると言えよう。
自転車に乗ることの爽快感を余すところなく「描破」し尽くしているということも、強く書き添えておきたい。

閑話休題。

駿河台で業務終了後、打ち上げ~~~ということで、扇橋(江東区)の焼肉屋「肉の田じま」に出向く。

でも、あまり詳しく書くと、何だか自慢しているようになってしまう(それほど美味しかった!)ので、ここでは、写真を一枚掲載するにとどめよう。

IMG_2185.jpg
(松阪牛ロース)

こうして私は、カッパを被り、口笛を吹きながら雨の錦糸町を通り抜けて帰路に着いた。

走行距離:41キロ(ルイガノクロス)

映画の日々    Comment(8)   TrackBack(0)   Top↑

2009.05.28 Thu
人力車考3~その前史(家畜に犂を引かせる)
人力車の前史として、移動手段の歴史について寸見してみたい。

人類史上、最も強力かつ普遍的な移動手段は、何と言っても、徒歩であろう。
これは、生物学的な制約によるものである以上、当然のことではあるが、実に長い間、人類は、徒歩によって地球上を歩きまわってきたし、今後も、歩きまわり続けるであろう。

では、徒歩の次に人類が発明した移動手段はなんであろうか。
たぶん、舟であろう。
特に流域を下流方向に移動する場合、山や谷を越えなくてもよい舟は最速の移動手段であったし、また、舟の持つ、想像を絶するような莫大な運搬力は、昔も今も、他の移動手段をはるかに凌駕する(タンカーなどの貨物船を思い出すまでもなく、矢切の渡しの船頭のオジサンは、たった一人で30人を運んでいるではないか)。
古墳から発掘される巨石は、時として、かなり遠方から運ばれたものであるが、これは間違いなく、舟によって運ばれたに違いない。

はてさて、舟の次に出てきた移動手段は何であろう。
たぶん、馬であろう。

と言っても、このあたりの事情はかなり複雑である。

人類が最初に家畜化した四つ足獣(つまり家禽類は除く)は、犬である可能性が高いが、これは、猟犬としてである(弥生文化のような農耕社会では後に食用になった・後世になって犬橇が登場するが、これについては今は不問とする)。
次は、羊、山羊、そして(猪)豚で、これらは、肉や乳や羊毛を得るための家畜である。

たぶん、その次あたりに、家畜動物として、牛、馬(驢馬を含む)が登場する。
野牛や野生の馬は、マンモス象や鹿類と並んで、太古の昔から、食肉を得るための狩りの対象であったが、人類の乱獲によって、その数が減少した(マンモスをはじめとする幾種類かの大型哺乳類などは絶滅・因みに縄文時代初期頃までは、ロシアでは最後のマンモス象が棲息していた)。

ラスコー
(ラスコーの壁画より)

後に、人類の運輸作業に貢献することになる牛と馬も、自然状態における個体数の激減という現実に対処するために、家畜化の試みがなされた可能性が高く、もちろんその目的は、食肉を得るためであったろう。

さて、牛や馬を家畜化した目的は、食肉の確保だったろうが、いつの頃からか、これに犂(すき・plough)を引かせるようになった。

鋤オリエント
(古代オリエント・牛に犂を引かせている絵)

さて、その後、この犂の代わりに、荷車を引かせることになるわけだが、それはまた、後日ということにしたい。

走行距離:3キロ(ママチャリ)

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2009.05.27 Wed
腹ぺこブルース
3時起床。

バタバタと仕事の準備(調べもの)をする。
一応済ませて、あとは、職場の印刷機で印刷するのみ。

5時過ぎに、フジクロスに乗って出発。
道路も空いていて走りやすいし、朝の大気が清々しい。

墨堤通りの激安弁当屋で、「焼肉弁当」(250円)を買って、隅田川土手で食べる(本日はカメラを忘れたので写真は無し)。
腹が減っていたのでガツガツと食べる。
朝の隅田川の川面は、油を流したように静かにのっぺりとしていて、全体が膨れあがっているように見えるのはどうしてだろう。
食後、豆乳コーヒーを飲んで出発。

国6号裏道→蔵前橋通り→靖国通り→(須田町交差点から)名前の分からない通り→(学士会館前で)白山通り→内堀通り→紀伊国坂→千鳥ヶ淵。

う~ん、やっぱりこのルートはよい!
ほぼ、最短ルートだし、比較的走りやすい。
ただ、「(須田町交差点から)名前の分からない通り」は一通なので、帰りは走りにくいかもしれない。

千鳥ヶ淵交差点から、今日は、五味坂(日テレ前を通る道)を走ってみる。
新宿通りの裏道としては、最短ルートなのだが、「無用」な上り下りがあることと、信号機が多いので、なんとなくいらいらする。
難しいものだ。
さらに要研究。

その後は、いつものルート。
新宿通り・甲州街道(国20号)→旧玉川水道道路→杉並区永福の職場着。
もう腹が減ったぁ~。

職場に着いてから昼まで、目が回るような忙しさで、本当に目眩を覚える。
最近、血糖値が下がりがち。
栄養補給をちゃんとしていないからだ。
昼食もとる暇がなく(昼休みは会議)、やっと昼下がりに仕事から解放された。

帰りは、お堀の風景を楽しみながら、のんびりと走る。

一日中、腹ぺこ状態が続いたので、夜は、トンカツ屋でご飯大盛りの定食を食べる。
やっとのことで、空腹が満たされた気分であった。

IMG_2086.jpg
(新宿御苑沿いの旧甲州街道・先週撮影したもの)

走行距離:61キロ(フジクロス)

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2009.05.26 Tue
立石エレジー
出かける直前まで仕事。
やっと何とか形がついたので、フジクロスに飛び乗って出発(本当はチェーンの交換時期にきているのだが、面倒でなかなかできない。ごまかすために油を吹きかけておく)。

ゆっくり弁当を食べる暇がないので、100円ローソンのおにぎりとサンドイッチ(計210円)を、向島百花園隣の公園ベンチでぱくつく。

IMG_2083.jpg
(早めの昼食)

暗くなって、やっと業務終了。
何だかすごく疲れた・・・。

帰路、轟音と排気ガスの国道6号を走った後、立石の路地に入ると、いつもホッとする。
地獄のような喧噪から解放されて、柔らかい蒲団に潜り込んだような安心感。

今夜は、自転車を止めて、何となく立石の街を歩きたくなる。
京成線の線路沿いの鉄柵に自転車を止めて、踏切を渡ってみる。

IMG_2183.jpg
(賑やかだけど寂しい立石駅)

どこからともなく、「昭和枯れすすき」のメロディーが聞こえてくる。
最初は、曲名が思い出せなくて、鼻歌でたどっていって、サビのところまできて思い出した。

♪貧しさに負けた いえ世間に負けた
♪この街も追われた
♪いっそきれいに死のうか
♪力の限り 生きたから
♪未練などないわ
♪花さえも咲かぬ 二人は枯れすすき

そう言えば、東京に出てきてしばらくした頃、同名の映画(1975年製作)を、確か、新宿のリバイバル館で見たのを思い出した。
筋書きは忘れたが、「昭和枯れすすき」のメロディーにのせて、明大前駅(京王電鉄)のガード下や赤ちょうちん街の映像が展開するシーンがあって、妙に感動したのを覚えている(主演の高橋英樹か秋吉久美子が明大前の安アパートに住んでいるという設定だったように記憶する)。



翌朝、明大前駅に降り立った学生の私は、その映画のシーンを探すようにして、駅周辺を歩き回ってみたが、朝だったせいか、あるいは、街並みが変わってしまったためか、あるいは、別の場所で撮った映像を編集したためか、映画の雰囲気をぴたりと伝えるような場所を見つけることはできなかった。

それから20年ほどの月日が経ち、何かの用事があって、初めて夜の立石駅に降りたとき、妙な既視感を覚えて、あれ、ここ、どこかで見たことがあるが、はて、どこだっけ。
記憶をたぐり寄せて、映画『昭和枯れすすき』にたどりついたのである。

IMG_2178.jpg

もちろん、立石であの映画のシーンを撮影したというのではなく、あの時私が見て不思議な感動を覚えたのは、ちょうど立石のうような風景の中にあることが分かったということである。

だが、その「不思議な感動」を呼び起こした立石の風景とは何なのか、今の私にもうまく説明ができない。

IMG_2180.jpg

ただ、以前、アメリカ人の知り合いと立石で飲んだことがある。
彼は、日本に来て10年以上にもなる人だったのだが、モツ焼き屋のカウンターでぽつんと呟いた。
「日本の繁華街には、アメリカにはない peace of mind がある・・・」と。

なるほど、そうかもしれないと私も思った。
何というか、懐かしさを含む、心の安らぎのようなもの。
しかし、その基盤には、孤独と寂しさがどっしりと控えているような・・・。

そんなことを思いながら、私はいつまでも、夜の立石を歩きつづけた。

IMG_2181.jpg

走行距離:35キロ(フジクロス)

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2009.05.25 Mon
気の抜けた一日
午前中はやや雨が残っていたが、雲が流れ流れて、昼前ぐらいから気持ちの良い晴天になる。

仕事が溜まりすぎて、何から手を付ければいいか分からないほどで、どうしても、その日その日のやっつけ仕事になってしまう。
どうにかしなければ・・・。

フジクロスで出発。

いつもは四ツ木橋(西詰)から東向島付近までは国6号を走るのだが、今日は、「裏道」のいろは通りと大正通り(永井荷風の世界)を通って、白髭神社のあたりから墨堤通りに出る。
裏道とは言っても、人と車が結構混雑しているので、国6号の方がずっと走りやすいぐらいだが、何となく物思いをしたいときにはいいかもしれない。

また、面白いことに、あちこちの看板に、消滅したはずの「玉の井」の表示が残っている。
そのうち、きちんとまとめてみよう(荷風先生、無精にてすみません)。

250円弁当を買って、隅田川土手で食べる。
今日は、初挑戦の「海苔弁」である。

IMG_2175.jpg
(250円の海苔弁)

かの「ほっかほっか亭」のそれよりもはるかに大きくて豪快な弁当で、ちくわ揚げ、アジフライ、コロッケ、シュウマイという構成である。
特に、衣に青海苔を混入したちくわ揚げが気に入った。

弁当を食べたベンチで、書類を広げて、仕事の準備をするも、眠たくて仕方がない。
水道で顔を洗って出発。

蔵前橋通りを西進するも、最近はいつも本郷の病院へ行っていたので、つい、行き過ぎてしまう。
妻恋坂→昌平橋→淡路坂を経由して駿河台へ。

職場では、インフルエンザの話で持ちきり。
早く感染者が出ないと、方針が変わってしまい、全面休講にならないのではないかと心配する不届き者もいて、まったく困ったものだが、私も含めた全員が、その不届き者と同じ考えであるのは、言うまでもない。

夜、浅草を抜けるとき、ふと古代ローマの戦車のことを思い出す・・・。

IMG_2176.jpg
(本日の隅田川)

走行距離:35キロ(フジクロス)

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2009.05.24 Sun
母帰るのこと
いよいよお袋が退院する日が来た。
ところが、今日は生憎の雨。

夕べから家に泊まっていた岐阜のいっちゃんと三人で小雨の中、水元公園を散歩する。
雨に濡れた木々の緑が美しい。
花菖蒲はまだまだだな・・・。

カッパを着て、6速のママチャリで出発(帰りは荷物が発生しそうだったので)。
担当の医師や同室の患者さんたちに挨拶をして、会計を済ませて、外に出る。
久しぶりに外を歩いたお袋は、何だかふらふらするとは言っていたが、傘をさして、しっかりとした足取りで歩いていたので安心した。

御茶ノ水駅前の、お袋のお気に入りの「牛タン・ねぎし」で、呑ちゃん、いっちゃんと待ち合わせ。
岐阜のいっちゃんをお袋に紹介して、4人で楽しい食事をする。
お袋は、病気が治ったら、死んだ親父が高校時代を過ごした柳川(福岡県)と、やはり親父が生前行きたがっていた白川郷を訪ねてみたいと言う。
窓の外には、神田川・・・。

牛タン
(牛タン定食)

自転車を御茶ノ水駅に置いて、列車に乗って、お袋といっちゃんを東京駅までおくる。
いっちゃん、今度、お袋を白川郷に連れて行くのでよろしくね。

呑ちゃんと二人、東京駅を出て、千代田線の二重橋前駅まで地下道を歩く。
ウインドウに、奇妙なオブジェが展示されていた。

IMG_2171.jpg
(奇妙なオブジェ1・現代版ゴルゴンか?)

IMG_2173.jpg
(奇妙なオブジェ2・う~ん???)

私は、新御茶ノ水駅で降りて、自転車で帰路に着く。
途中、青戸あたりでにわかに晴れ渡り、暑くなってきたきたので、中川の河川敷でカッパを脱いだ。
涼風が、身体を吹き抜けた。

走行距離:34キロ(6速ママチャリ)

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2009.05.23 Sat
根津の思い出・葛飾デルタ同盟饗宴
洗濯、水元公園散歩、部屋の掃除。

フジのクロスバイクに乗って、本郷の病院へ。
土曜日なので、多少、道が空いている。

途中、中川筋を走っていると、職場の同僚にばったり出会う。
散歩中だという。
住所が葛飾区青戸だということは知っていたのだが、私が毎日通勤路として使っているこの川筋の道は、彼の散歩コースでもあったのだ。
そのうち一緒に散歩しましょうということで別れる。

お袋は、検査がすっかり済んで、さっぱりした気分なのか溌剌としていた。
心は、もう明日の退院のことに飛んでいて、明日の昼は牛タンを食べたいと言って、笑っている。
じゃあ、明日!と言い残して病院を後にする。

今日は、午後から、「葛飾デルタ同盟」のメンバー(びんなんさん)の祝引越ホームパーティがあるので、その足で、足立まで向かうことに。

東京大学を右に見ながら本郷通りを北上して、農学部の校舎の所で裏道に折れる。
元加賀藩邸だった東大の敷地は、今でも緑が多くて、通りに緑がこぼれ出さんばかりである。

根津神社の裏から、かつて、自家製マッコリの飲みすぎて4週間ばかり入院したことのある日医大病院の前に出る。

懐かしいなあ・・・。

病院を抜け出して、近くの焼鳥屋で飲んでいたら、ちょうど折悪く、仕事明けの看護婦さんたちが飲みに来てばれてしまい、大目玉を食らったっけ。
「どうして患者だとわかったのですか?」と聞いたら、「点滴スタンドを持ち込んで飲んでいれば、誰だって患者だと分かりますっ!」と言われて、なるほどと思った。
四六時中、点滴スタンドを押しながら生活していると、それが身体の一部のようになっていまい、他人からは見えないはずだと思いこんでしまうものなのである。

男子学生が毎日のように、大挙して、見舞いに来てくれたっけ。
教師思いの学生がたくさんいてオレは幸せだなあと感動していたら、実は、学生たちのお目当ては、看護婦さんだった。
Mさんという、気立ての良い看護婦さんがいて、私も「一目置いていた」のだが、学生たちも、Mさんに夢中で、仕舞いには、ファンクラブ化していた。
私が退院しても、病院に通ってくる学生がいて、病院から注意を受けて諦めたという後日談までついた。

懐かしい根津界隈を抜けて、谷中墓地の脇道を通り、西日暮里駅に出る。
京成線高架と並行して走る道をたどって、町屋を抜けて、尾竹橋で隅田川を渡り、西新井橋で荒川を渡る。
本木新道を北上して、先ずは、買い出しのために、西新井大師へ。

ここでしゃあさんと待ち合わせることになっているが、約束の時間より早く着いてしまったので、西新井大師境内を散策。

IMG_2159.jpg
(藤棚の前には美しい池)

ここは、藤棚が有名なのだが、時季はずれ。
面白い看板を発見したので、写真に撮る。

IMG_2160.jpg

IMG_2161.jpg
(この看板は特に傑作!)

参道をとぼとぼ歩いていると、背後で自転車のベルが鳴ったので、振り向くと、満面の笑顔のしゃあさんが赤い折りたたみ自転車に跨っている。
なんと舎人ライナーを3駅だけ「輪行」して来た(?)という。
いつもながら、何とも不思議な行動をする人である・・・。

さっそく二人で、私の(学校の)先輩が営むお肉屋さんに赴く。
先輩は、所用でお店にはおられなかったが、先輩の奥さんが懇切に対応して下さる。
しゃあさんと相談しながら、ローストビーフ1キロ、コロッケ10個、シュウマイ10個、大学芋などを購入(後輩のよしみで割引していただいた・感謝)。

買った物をリュックに詰めこんで、会場のびんなん邸(三階の戸建て)まで、しゃあさんと約2キロの「ツーリング」を楽しむ。
本木新道は、古い商店街の風情が残っていて、走っていて結構楽しかった。

われわれが到着すると、続々といつもの仲間たちが集まってきた。
はるばると岐阜から出てきたメンバーもいた。
料理とお酒は持ち寄り制で、テーブルの上には、どっさりとご馳走が並んだ。

IMG_2162.jpg
(ローストビーフとコロッケ・絶品)

こうして、宴会が始まった矢先に、窓の下で何やら不穏な人の動きが見えた。

IMG_2163.jpg
(窓から下を眺めると、こんな奇異な光景が!)

「あらっ、またオウム事件かしら・・・」。
「いや、インベーダーの襲来だ!」。

私は、飲んでいた薩摩焼酎のグラスを投げ出して(本当は、置いただけ)、やおらカメラを手に取ると、つっかけを履くのももどかしく、外に飛び出した。

白衣にマスクの人におそるおそる尋ねると、「インフルエンザ発熱外来訓練」だという。
なるほど、東京でも感染者が出たので、この病院でも訓練をしているわけである。
テレビの取材もきていて、かなり大がかりなのでびっくりした。

IMG_2165.jpg
(テレビ取材も)

事情が分かって安心したわれわれは、ウイルスに対抗すべく、五臓六腑のアルコール消毒に精を出した。
精を出しすぎて、仮死状態に至る者もあり。

IMG_2170.jpg
(いっちゃん、岐阜からご苦労様)

こうして楽しい夜は更けて、次回は、花菖蒲の花見大会をやりましょうということで、解散!

私は、荒川筋を走って、帰途に着いたのであった。

走行距離:48キロ(フジクロス)

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2009.05.22 Fri
一安心
病院へ。

いよいよこの日曜日には退院できることになって、お袋は声が弾んでいる。
久しぶりに家(銚子)に帰れることで頭が一杯のようだ。
ただ、来月中旬には、再入院して、いよいよ手術なのだが・・・。

帰りに、神田明神に寄ってお参り。
このところ、毎日お参りにきているので、天野屋のおばさんに、「連日、ご苦労様」と言われる。

IMG_2114.jpg
(神田明神)

また、人力車が見たくなって、雷門のあたりに出てみる。

人力車には、惚れ惚れとしてしまう。
デザイン的にも、機能的にも、旧いものと新しいものが見事に調和している。

IMG_2116.jpg

雷門通りには、人力車待合いの専用レーンもあって、

IMG_2126.jpg

歩道にはちゃんと料金表も出ている。

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ちょうど、フィリピン(?)からのお客さんと値段の交渉をしているところで、英語と日本語と(たぶん)タガログ語が飛び交って、まるで、タモリの多国籍麻雀のようで、吹き出しそうになった。

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(人力車のお兄さん、ちょっと優しすぎ!)

本日の発見:人力車の車夫にはイケメンが多い。

走行距離:35キロ(フジクロス)

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2009.05.21 Thu
東京名所図会~上野公園・西郷隆盛像・彰義隊の墓
朝っぱらから入浴。
その後、洗濯を済ませて、本郷の病院へ(フジクロス)。

いつものように、墨堤通りの激安弁当を買って、隅田川堤で食す。
さすがに、ここの弁当も飽きてきたぞ。
浅草の国際通り沿いにも激安弁当屋があるので、今度は、そっちを試してみるかな・・・。

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(桜橋近くのベンチでお弁当)

病室では、既に二つの検査を済ませたお袋が、ベッドに座って本を読んでいた。
今日は、不平不満の爆発で、自分は、大学病院の「実験台」にされているのはないか・・・、こんな日々を送っていたら、健康な人でも病気になってしまう・・・、早く普通の生活に戻りたい・・・、手術の前に一度退院したら、二度とこんな病院にくるものか・・・。
そうだ、そうだ、その通りだと私は聞くのみ。
一通りぶちまけると、今度は逆に、この病院の素晴らしさを列挙しはじめる・・・。

洗濯物を受け取って、駿河台の職場へ。
今日は、別に仕事があるわけではないので、同僚と世間話&来週の会議の打ち合わせをして、帰路に着く。

まだ日が高いので、久しぶりに上野にでも寄ってみることにする。
御茶ノ水橋を渡り、昌平坂を下って、中央通りを左折。
あっという間に上野広小路に出る。

上野公園内の桜並木道を走る。
平日なのに、人出が多い。
木漏れ日の下、修学旅行生たちが、ノートを片手に史跡の説明板を写していたりする。

今日はかなり暑い。
眺望が開ける山王台の西郷隆盛像前のベンチでお茶を飲みながら休憩。

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(高村光雲の西郷像)

この高台から、西郷が見つめている方向を眺めて見る。
広小路から中央通りが南に延びている。

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(西郷像の視線の先の風景)

試しに、自転車に取り付けてある方位磁石で、西郷がどっちの方角を眺めているか調べてみると、真南よりやや西方向といったところか(身体は真南だが、首はそれより西の方へ向いている)。
ということは、西郷の視線の先にあるのは、ほぼ、江戸城であり、富士山であり、鹿児島(薩摩)である。
つまり、西郷は、故郷の薩摩を遠く望んでいると同時に、戊辰の内戦時に西軍(新政府軍)の総司令官だった大村益次郎の像(靖国神社)と睨み合っているような位置関係になるわけだ。

今は睨み合っているが、もちろん上野戦争(1868年)の時は、大村と西郷は味方同士であった。

実は、面白いことに、この西郷像の背後に、彰義隊の墓がある。
上野戦争で、西郷が薩摩軍を率いて戦った敵方である。

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(西郷像の背後にある彰義隊の墓)

上野戦争時、現在西郷像がある場所が、彰義隊及び幕府軍(東軍)の砲台のあった場所だというのだから、尚更、面白い。

1868年夏の雨の日、西郷隆盛率いる薩摩軍精鋭は、ぬかるむ道に足を取られながら、西郷像が見つめる現在の中央通りを上野の山に向かって進軍していた。
しかし、山王台に据えられた東軍の砲台からの攻撃に、西郷軍は、なかなか正門(黒門)を突破できずに攻めあぐねることになる。
それに対抗するに、大村益次郎が、本郷台(現東京大学構内)に装備した新式の英国製大砲(アームストロング砲)を上野の敵陣に撃ち込むよう命じて、戦局を打開したというのは有名な話である(これにより、上野寛永寺の大伽藍はほぼ全焼)。

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(彰義隊の墓の説明板・上野戦争の概略あり)

結局、たった一日で東軍は総崩れになり、奥州街道筋に逃走することになる。
しかし、このときは新政府軍の重鎮であった西郷も、ほぼ10年後の西南の内戦(西南戦争)では、今度は逆に、(何と「陸軍大将」の位のまま)明治政府軍と戦うことになり、結局、彰義隊と同じ鬼籍(逆賊)に入ることになる。

こう見てみると、西郷隆盛像と彰義隊の墓が、南西に向かって「縦列」を組むような位置関係にあるのは、むしろ自然な配置なのかもしれない。

走行距離:37キロ(フジクロス)

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2009.05.20 Wed
『カサブランカ』異聞~歌い「のめす」力
今日は、忙しいというか、よく走った一日だった。
自宅→杉並区永福の職場→市川→自宅(79キロ)。

2時半に起床。

必要があって、映画『カサブランカ』(1942年)を見直す。
いやぁ~、もう何回も見た作品だが、実に良くできている。
無駄なものが一切なく、付け足すべきものも一切ない!
まさしく、熟練職人の仕事である。

とりわけ、リック(ハンフリー・ボガート)の店で、ドイツ将校とその他の客たちとの、歌の「闘い」のシーンは、映画史に残る傑作だと思う(モンタージュの手法が古典的だが、ここまで教科書通りだとかえって気持ちがよい)。


(歌の「闘い」・『カサブランカ』より)

カサブランカ(仏領モロッコ)のリックの店。
ドイツ将校の一団が店の真ん中に陣取って気炎をあげている。
酒に勢いづき、一同立ち上がって、「ラインの護り」(ドイツの軍歌)を歌い出す。
店の客たちはこれを不快に感じながらも、今や破竹の勢いでヨーロッパを席巻するドイツ第三帝国の将校たちに盾突くことはできない。

その様子を見ていたレジスタンス闘士のラズロ(チェコスロヴァキア人という設定)は、楽団の指揮者のもとに決然と歩み寄り、「ラ・マルセイエーズ」を演奏しろと要求。
バンドリーダーはリックの方を見る。
リックはかすかに頷き、許可を出す。

高らかに「ラ・マルセイエーズ」の前奏が始まる。
それを聞いた店の客たちが、次第に「ラ・マルセイエーズ」を歌い出す。
先ほどまで、ドイツ兵といちゃついていたイボンヌまでもが、眼に涙を浮かべながら、「ラ・マルセイエーズ」に加わる。
そして、「ラ・マルセイエーズ」が次第に「ラインの護り」を圧倒して、ドイツ将校たちはやむなく歌うのをやめる。

この事態に怒ったドイツの将校(ストラッサー少佐)は、リックの店を営業停止にするよう、警察署長のルノーに命じる・・・。

以上のようなシーンであるが、面白いのは、「ラインの護り」に「ラ・マルセイエーズ」が被さったときに、両曲のテンポもコード進行も重なって、ある種、素晴らしい「合唱」になってしまうところ。
実は、「ラ・マルセイエーズ」も元々は、フランス革命時に革命軍から出てきた軍歌にして、2拍子の行進曲なので、両曲が不思議なシンクロを醸し出すのも当然と言えば当然なのである。

深読みになるが、私には、なんだかんだ言ってみたところで、フランスもドイツもその正体は同じで、帝国主義的西欧の列強にすぎないということを描いているような気がしてならない(もちろん、作品の意図はそこにはないが)。

ドイツ第三帝国は、今や、パリも陥落させ、ヴィシーの傀儡政権まで作らせ、さらに仏領モロッコまで侵そうとしている。
それに対する「連合軍」的な視点からの「抵抗」を描いたシーンではあるが、しかしながら、モロッコを支配(植民)しているフランスのことはまったく問題にされていない。

この作品の到達点そのものが、この作品の限界でもある。
イングリッド・バーグマンは、後年、この作品に出演した自らを恥じていたそうだが、私には分かるような気がする。

今日は、自転車を漕ぎながら、一日中、頭の中で「ラ・マルセイエーズ」が鳴っていた。

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(隅田川堤のフジのクロスバイク・チェーンが伸びてきたんで換えなきゃ)

走行距離:79キロ(フジクロス)

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2009.05.19 Tue
ルーティーンの狭間で
ほとんどルーティーン化してしまったが、行きがけに、今日もまた、墨堤通りの激安弁当を買って、隅田川土手で早めの昼食(そもそもが「通勤」というルーティーン行為上の出来事なのでご勘弁)。

今日の弁当は、「あんかけ唐揚げ弁当」(250円)。

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(「あんかけ唐揚げ弁当」)

ニンジンとタマネギに加えて、グリーンピース数粒が上乗せされて、これでさらに「健康志向」の度合いが高まった(しかも、唐揚げの傍らには、マヨネーズまでが・・・。しかも、キュウリのキュウちゃんがやや厚切りになって増量)。
いやはや、進化する弁当屋の行き先や、もはやとどめを知らない・・・。

そう言えば、私のお気に入りの隅田川土手のベンチだが、今日は、大発見があった。
いつも私が座っているベンチはこういうもの。

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(いつも弁当を食べるベンチ・左の高架は首都高)

以前から、ちょっと変わった形だなあとは思っていたのだが、ベンチの下に、次のようなプレート(説明板)を発見したのだ。

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(ベンチの下の説明板)

つまり、毎年隅田川で開催される早慶レガッタの百周年記念として公園に贈呈されたベンチで、変わった形をしていたのは、その艇を象っていたからだったのだ(ただね、近年では、端艇競技では明大が一人勝ちなんですけど・・・)。
なるほどそうだったのかと、多少とも、ルーティーンを非ルーティーン化できたような気分になり、一人ほくそ笑む。

仕事帰りに病院へ。
今日は、つらい検査が2本もあって、さすがのお袋も元気がない。
つらいだろうが、頑張ってくれよ。
夏になれば、楽になるから・・・。

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(病院に置いてあった車椅子・そうか、これも人力車の親戚だな)

走行距離:34キロ(フジクロス)

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2009.05.18 Mon
激安弁当・天野屋の柴崎納豆・金町「ラグー」
午前中、病院へ。

途中、いつものように、墨堤通りの激安弁当を買う。
チキンカツ弁当(250円)にも、ドジョウインゲン一本が付くようになって、嬉しいかぎりである。

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(250円のチキンカツ弁当)

今日も、隅田川土手の桜橋の前のベンチで食べる。

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(隅田川・ちょうど船が通り過ぎていった)

病室に行ってみると、検査中にて、お袋は不在。
ベッドの上に、洗濯物と飲み物だけ置いて、そのまま職場へ。

業務終了後、再び病院へ。

途中、神田明神前の天野屋に寄って、妹に持たせる土産として、柴崎納豆などを買い込む。

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(神田明神前)

柴崎納豆は、江戸時代から有名な納豆だったらしく、ちょっと高いけど、これがホントにウマイのだ。
そもそも列島北部の特産品である納豆を、青森の人に土産に持たせるというのもどうかと思ったが、是非、食べてもらいたいのでこれにすることにした。

夕方、担当の医師と面談。
やはり、来月には手術になりそうだ。
お袋も、いやいやながらも納得。

夜、呑ちゃんと金町で待ち合わせて、夕食。
つい最近開店したばかりのお店「ラグー・創作料理・洋食」に入ってみることに。

イカの肝和え、自家製ピクルス、自家製パンと注文して、ビールとワインで食べ始めたのだが、これがどれも美味しい。
かなりの大ヒットかもしれないと思って、続けて、「ビーフシチュー」(1000円)と「ポークカツレツ」(850円)を頼んでみる。
おお~、これもウマイ!
何というか、どの料理も、バランスのとれた上品さが備わっている。
しかも、安い。

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(ビーフシチュー)

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(ホークカツレツ)

金町界隈は、モツ焼き屋や定食屋には優良店が多いが、洋食系が弱かった。
しかし、この店は、間違いなく、金町で3本の指に入る名店であると見た。

デキャンタの赤ワインも香り高く、器類も素晴らしかった。
ランチもやっているとのこと、今度は、昼にも行ってみよう。

走行距離:35キロ(フジクロス)

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2009.05.17 Sun
行けなかった三社祭
お袋の見舞いのために、青森から妹が出てくるというので、御茶ノ水駅で落ち合うために出かける。

雨が降りしきっていたので、カッパを着て、ルイガノのクロスバイク(泥よけ付)で出発。
途中、向島あたりで雨が小降りになったので、カッパを脱ぐ。
この季節になると、カッパは蒸れて暑いなあ。

隅田川土手を走っていると、どこからか祭囃子が聞こえてくる。
何だろう?
吾妻橋は、雨模様にもかかわらず、普段にも増して人で一杯。
そうか、今日は、浅草の三社祭なんだ!

江戸通り(国6号)は部分的に交通規制が敷かれて、御輿の行列が練り歩いている。
できれば、ゆっくりと見ていきたいが、時間がないので、笛や太鼓の音を振り切って走り去る。

御茶ノ水駅改札。
時間になっても妹は来ないので、どうしたかと思っていると電話が鳴って、間違って聖橋口の方に出ちゃったとのこと。
仕方がないので、そこまで迎えに行く。

病院では、今や遅しとお袋がお待ちかね。
「外出許可書」も取ってあったのだが、風邪を引くといけないと言うので、結局、院内のレストランで食事をする。
死んだ親父の思い出話などをしながら、私はハンバーグランチを食べるが、量が極端に少なくて、あっという間に食べ終わってしまう。

妹と病院を後にして、御茶ノ水に出る。
どこかで美味しいコーヒーが飲みたいと言うので、「喫茶・古瀬戸」に向かうべく、明大通りを下っていくと、「このあたりに、明大の古い校舎があったはずだけど、どこだっけ?」と妹。
なるほど、妹は、学生として東京にいた頃の御茶ノ水の風景が、「凍結」されたままらしい。

「ああ、あの立看だらけの校舎(明治大学記念館)は、10年以上前に壊されて、今は、その跡地に、この23階のビルが建っているのさ」と説明。
妹は、不思議そうな顔をして、あたりを眺め回していた。

喫茶店で、青森での定額給付金(正しくは、定額「還付」金と言うべきであろう)にまつわる騒動や、松尾芭蕉の話をして、駅で別れる。

帰りに、また、浅草を通って帰ったのだが、そうだ、妹を三社祭に誘えばよかったと思った。

走行距離:35キロ(ルイガノクロス)

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2009.05.16 Sat
タコ焼き大会
爽やかな気候。

今日は、タコ焼き大会やでぇ~!という声がどこからともなく聞こえてくる。

午前中から、胃の腑が底打ちをしたような空腹感を覚えたので、我が家恒例の「タコ焼き大会」を挙行するに決せり!

「大会」といっても、呑ちゃんと2人きりであるが、愛すべき大阪人のマネをして、何でも「大会」という言葉を冠すると、途端に威勢がいい感じが出るのが気に入っているわけである。

同様に、家では、すき焼き大会、焼きそば大会、刺身大会、スパゲッティ大会、お茶漬け大会、即席ラーメン大会、レトルトカレー大会などの「2人だけ」の各種大会が、連日のように繰り広げられることになり、毎日がお祭り気分のようですこぶる楽しい。

不思議なもので、、「大会」と称するだけで、空(から)元気かもしれないが、盛大な感じがして、活力が湧き出してくるような気がするものである。

皆さんも、いろいろ工夫して、卵ご飯大会や、100円ショップおにぎり大会などをおやりになることをお勧めしたい・・・。

タコ焼きの作り方(?)については、以前に書いたことがあるので、そちらをご参照

さて、焼き上がったタコ焼きを口に放り込む。
ここからが大変で、口中が火傷しないように、ホフホフと口と顎を盛んに動かすことになる。

アツ~い!、でも、ウマ~い!。
ウマ~い!、でも、アツ~い!。

というような現象が、めくるめくように、短い時間に10回ぐらい繰り返されるような感じ。

呑ちゃんが、その様子をカメラに収めてくれた。

爺たこ焼き
(アツ~い!、でも、ウマ~い!)

そして、昼間なので、ノンアルコールビアを流し込む。

満腹になると、眠くなるのは道理であるが、私見では、いわゆる粉物(お好み焼き・タコ焼き・もんじゃ焼き)を食べた後は、特にそうで、さっそく昼寝に突入。

その後、呑ちゃんたちとお袋の見舞いに病院へ行ったり、四ツ木の「とりあへず」に行ったりしたが、それについては、今回は割愛する。

走行距離:3キロ(ママチャリ)

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2009.05.15 Fri
人力車考2~リアカー・駕籠・大八車
本日は、お袋の入院している病院の創立記念日ということで、一日中、一切の診療がない。
「外出許可」が出たというので、お袋と散歩がてら、昼食をとる(中華料理&喫茶店)。

お袋と別れてから、杉並区永福の職場に向かうべく、外堀通り→靖国通り→旧玉川水道道路(都道431号角筈和泉町線)を走る。

最後の旧玉川水道道路(都道431号角筈和泉町線)は、事実上、環七とぶつかって終わる感じで、そのまま直進して環七を渡ることはできない(直進禁止)ので、環七を左折して、国20号(甲州街道)との交差点を渡って迂回しなければならない。
実はこの旧玉川水道道路については、たくさん書きたいことがあるのだが、それはまた後日ということに。

今は、「環七」を引っ張り出したかっただけなのである(すみません)。
大学に通うために、東京に来た最初の頃、私は国鉄「高円寺駅」や西武線「野方駅」あたりの中野区内を転々としていた(引越癖は当時からあったようです)。

今を遡ること30年ほど前の事。
環七の大和陸橋近くにかなり条件のよいアパートを見つけたので、引っ越しすることにした。
敷金・礼金は無しだったので、問題は、引っ越し代。
引っ越し屋を頼めば、翌月からの「経済」が破綻するのは目に見えていたので、ここが思案のしどころとなった。

そこで思いついたのが、高円寺駅から伸びる商店街にある畳屋さんのリアカー。
幸い、引っ越し先は、距離にしてほんの2キロほどだったので、畳屋さんにリアカーを借りて荷物を運べば、多分、三往復ぐらいで済むと思ったわけだ。

さっそく私は、畳屋さんのオジサンに、リアカーを貸してくれるかどうか交渉した。
そのやりとりの詳細は覚えていないが、不思議なほどすんなりと貸してくれたと記憶する。

今考えると、どこの馬の骨か分からないような学生風情に、大事な商売道具をよく貸してくれたものである(若いが故の想像力の欠如の強み。その畳屋さんに心から感謝)。
しかし、どんなお礼をしたのかも、さっぱり思い出せない。
500円ぐらいの借り賃を払ったのかもしれないし、「いや、学生さんだからいいよ、いいよ」という言葉に甘えてしまったのかもしれない・・・。

リアカーで荷物を運ぶルートを事前に検分するに、多少の坂もあるし、しっかりと荷を留めるロープがないので、引き手以外に、後に1人と、予備要員にさらにもう1人が必要と思われたので、学校の友人たちに手伝いを頼んだ。
「サントリーホワイト」(当時の学生には高級酒だった)一本と、魚肉ソーセージ入りモヤシ炒め(もちろん、私の手製)を好きなだけ食わせるという条件だったように思う。
2人いれば十分だったのだが、私の出した「好条件」を聞いて、何と6人ほどが名乗り出て手伝ってくれることになってしまった(その分、モヤシ代などが嵩んだ)。

ホワイト
(懐かしいサントリーホワイト)

引越は、思ったよりも大変だった。
積み方が下手だったので、途中で荷物がずり落ちてしまったり、荷物を積み込みすぎて、引き手の身体が浮き上がってしまったり・・・。

それでも、過剰なる労働力のお陰もあって、引越は無事に済んで、サントリーホワイトと魚肉ソーセージ入りモヤシ炒めの楽しい宴会が明け方まで続いたと記憶する。

これが、私の唯一のリアカー体験であるが、どうしてリアカーのことを思い出したかと言えば、発展史的には、これがいわば、人力車の兄弟に当たるからである。

リヤカー子ども
(リアカーを引く子ども・昭和30年代)

明治3年に人力車が発明されて、東京の街を走り出すや、ほぼ1年間で、それまで交通網を牛耳っていた駕籠(かご)が姿を消して、人力車にその場を譲った。
駕籠かきたちは職を失い、その多くが車夫に転向したにちがいない。
それほどまでに、人力車の登場は画期的だったのだ。

広重「三島 朝霧」
(駕籠・広重「三島 朝霧」)

つまり、人力車は、用途的には、駕籠から発展したものだが、技術的には、大八車から発展したもので、この同じ大八車から少し遅れて出てきたのがリアカーであるという相関関係になる。

大八車
(大八車・明治時代)

リアカーは、その後、人間だけではなく、自転車やバイクがこれを牽引することになり、それが屋台のような移動店舗に発展したことは周知のことである。

走行距離:62キロ(フジクロス)

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2009.05.14 Thu
人力車考1~移動手段の革命
今日も、お袋を見舞うために、本郷の病院へ。

浅草は、毎回通るのだが、久々に雷門のあたりに寄ってみる。
人力車が見たくなったからだ。

いつの頃からか(十数年前ぐらいだろうか)、浅草をはじめとする観光地で、人力車が姿を現した。
浅草寺界隈や墨田公園内を、外人さんや若いカップル(若いんだから自分の足で歩け!)が、人力車に乗って楽しそうに名所巡りをしている姿も、年々多く見かけるようになった。

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(雷門前を疾走する人力車)

ただ、人力車の利用は、まだ、いわゆる「観光地」に限定されているようで、丸の内のオフィス街や、山の手であれ、下町であれ、住宅地では一台も見たこともないことを考えると、確かに、普及のほどはすこぶる極少である。

実は、最近、柳田国男に関する本を読んでいたら、彼の調査の旅(明治時代)には、人力車が大活躍していることを知って、にわかに興味をもちはじめた。

人力車が登場したのは、明治初期。
それから、昭和の初めころまでは、日本人の枢要な移動手段であったことを知って、今更ながらに驚いた。

人力車は、西欧から輸入されたものだと思っている人が多いかもしれないが、実はさにあらず。
日本で発明されたものなのである(ただし、誰が発明したかは不明)。
それかあらぬか、英語で人力車のことをrickshaw(リクショー)というが、その語源となっているのは、日本語の「力車」である。
現在、アジア諸国で走っている人力車も、そもそも日本から伝播したものである。

不思議なことに、明治になるまで、日本では馬車というものがなかった(牛車はあったが)。
明治以降、西欧から伝わった馬車が登場して、幹線道路を走り出すようになるが(なにせ馬車は巨大なので東京の路地は走れない)、高価だし、庶民が日常的に利用することはできなかった。

そこで爆発的に普及したのが、人力車。
狭い道でもすいすいと走れる機動力(現在の観光用とは違って、ほとんどが一人乗りで、幅は半間くらいだった)。
しかも、運賃が安いとくれば、皆が利用する。

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(明治時代の銀座・乗り合い馬車が道の中央を走り、人力車が左車線を走っている)

旅をする柳田国男は、鉄道(汽車)でポイントまで移動して、そこからは人力車でかなりの奥地まで入ることができた。
後の山道は徒歩というのが定番だったようである。

人力車というと、浅草のような観光地をちょろちょろと走っているような光景を思い浮かべるが、往年の人力車はそんな甘っちょろいものではない。

人力車は、江戸時代までの「籠(かご)」にほぼ取って代わるような乗り物で、いわゆる五街道やその脇街道だけではなく、人煙もまばらな田舎道まで人力車は走っていた。

通えないのは、道幅が半間もない山道だけで、列島の毛細血管とも言うべき「羊腸の小径」や帝都の路地まで、人力車が走って回っていたのである。

人力車
(街道を行く明治中期の人力車)

ある記録によれば、明治初期に、東京府の人力車の台数は2万5千輌で、これは府民40人に1輌に相当する。
また、全国平均でも、300人に1輌の割合で、現在のタクシーの普及率のほぼ倍に匹敵するという。
加えて、驚くべき数字がある。
明治初期の東京の全男性の、20人に1人は「車夫」だったというのだ。

こんなに普及していた人力車がなぜ凋落したかと言えば、もちろん、昭和初期からの自動車の普及である。

ここまで書いて、人力車については、到底一日では書ききれないことが分かった。
これはシリーズ化して書き継いでいきたい。

少なくとも、ETC利用者だけ高速料金が割引されるという、天下り組織への利益誘導だけをめざし、二酸化炭素の排出を増大させるだけの現政府の愚の骨頂のような政策(税金泥棒+環境破壊)に、根本的な反省を促す契機になるような気がするからだ。

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(雷門前に待機する車夫たち。真っ黒に日焼けした彼ら/彼女らに、私は惚れ惚れとする)

走行距離:36キロ(フジクロス)

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2009.05.13 Wed
東京名所図会~聖橋より望む神田川百景
仕事の準備のため、3時半起床。

だらだらと仕事をして、風呂に入って6時過ぎに出発。
生憎、外は小雨に煙っている。
夜通し降っていたようで、かなり路面が濡れているので、泥よけ付のルイガノクロスで行くことに。
カッパを着るほどではないと見て、レーパン&ジャージーでよしとする。

いつものように、100円ローソンでおにぎりとサンドイッチを買って、今日は、向島百花園隣りの小公園で朝食。

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(ベンチが濡れていたので、立ったまま喰う)

浅草あたりで雨が止んで、朝日に路面が光っている。
喉が渇いたので、平川門近くの堀端で休憩。
内堀通りが「日本の道百選」に入っているなんて初めて知った。

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(「日本の道百選」の碑)

堀端の風景は、何回見ても飽きない。
連休前より、いっそう緑が濃厚になったのが分かる。
雨上がりので、これがまた、いつもより美しい。

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(江戸城内堀)

今日は、新宿通り(国20号)の裏道を走って四谷の手前に出たけれど、通学児童や抜け道狙いのタクシーが結構多くて、結局、あまり快適とは言えない。
最初から新宿通り(国20号)をぶっ飛ばした方が、気持ちが良いかもしれない。
今後とも、要研究。

仕事が済んで、午後から本郷の病院に入院しているお袋を見舞いに行く。
その前にちょっと時間があったので、聖橋から神田川の風景を眺める。
江戸の昔から、神田川沿いのこのあたりは「茗渓」として知られ、今でも面白い風景で、本格的なカメラをぶら下げてあちこちを撮影している人も見かけた。
興に乗って、私も、安物デジカメで何枚か撮影してみる。

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(聖橋より、御茶ノ水橋方向を眺む)

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(聖橋より、昌平橋方向を眺む・前景の斜めに架かっている鉄橋が丸ノ内線、遠景の斜めに架かっている鉄橋が総武線、遠景の小さな橋が昌平橋)

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(聖橋より。ちょうど丸ノ内線の車両が地下に潜り込むところ。向こう岸にへばり付くように建っている雑居ビル群は、実に風情がある。私が学生として上京した頃には、洗濯物が干してある部屋もあって不思議な郷愁を感じたものである・・・)

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(聖橋より。ニコライ堂。往古、高さを競った「白雲なびく駿河台」は、ビル群に邪魔されて今は見えない)

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(聖橋より、湯島聖堂を眺む)

明治時代にほぼ同じ方向から撮影した写真が見つかったので、ここに貼っておこう(無論、聖橋はまだ存在しなかった)。

湯島昌平黌
(湯島昌平黌)

病室のお袋は、社交的な性格を存分に発揮して、同室の入院患者と世間話をしていた。
先日持って行ったドナルド・キーンの『明治天皇』初巻を読み終わってしまったので、二巻以降が欲しいと言っていたので全巻届ける。
しんどい検査の日々にもかかわらず、声は明るく、元気な様子で、ちょっと安心。
点滴針で青く腫れた両腕が痛々しい。

明日また来るよ、と言って別れるが、お袋は、六人部屋のその病室が自分の家であるように、廊下まで見送ってくれた。

病室で合流した呑ちゃんと夕暮れの昌平坂を下る。
気持ちのよい西風が背中を押すようで、気がついてみると、昌平橋まで出てしまった。
昌平橋からの神田川夕景がこれまた美しい。

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(昌平橋からの神田川夕景。上流方向を眺む)

上の写真左手の煉瓦造りのガード下に、ちょっと面白そうなスペイン風居酒屋があったので、そこに入ってみる。

入店するや、いきなり、ハモン・セラーノ(骨付き生ハム)のお出迎えである。

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(ハモンセラーノ)

天井からも、立派なハモンセラーノがぶら下がっていた。

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(ハモンセラーノ)

表面がてらてらと脂で光って、こうして店に置いてある間も熟成を続けているようである。

こうしてわれわれは、スペイン料理(ハモンセラーノやパエーリア)に舌鼓を打った後、昌平坂の対岸にある淡路坂を登った。
神田川上流から吹く風が、サングリアで火照った頬には爽快であった。

走行距離:68キロ(ルイガノクロス)

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2009.05.11 Mon
書きこぼされた日々
この黄金週間中は、非常に多彩な活動をしたので、「日記」に書く暇がなかった。

それらのことを箇条書き風にここに書き留めておこう。

*4月29日(水)

・午前中、水元公園で開催された「次世代自転車を考える会」の試乗会に部分参加。
詳しいレポートは、たすけさんが、以下のサイトにまとめておられます。
http://sazaepc-tasuke.seesaa.net/article/118475938.html

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・午後、職場の同好会「江戸を歩く会」で、綾瀬から四ツ木まで歩く。

今回は、葛飾区なので、私が幹事。
いつものように、歴史散策・銭湯・居酒屋のコースを案出。

新撰組が流山に向かう前にかなり長期間逗留した屯所跡
→綾瀬川沿いに歩いて、東京拘置所
→小菅ジャンクション(下から見るとすごく見物です)
→旧水戸街道唯一の橋である「水戸橋」(すごく小さな橋)
→永井荷風が好きだった荒川河川敷(土手)散策
→江戸時代より名所であった堀切菖蒲園
→四ツ木の銭湯(寿湯
→打ち上げ「とりあへず」
→京成押上線「四ツ木駅」解散

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(水戸橋・ここが旧水戸街道)

*5月5日(火)

・自転車で三郷のホームセンターに行く途中、道端にポピーの群生地があって、それに見とれていたら前方の木に気づかずに急ブレーキ。
ハンドルが、左肋骨の下にめり込むようになり、激痛。
まだ痛む。

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(そのポピーの群生)

*5月6日(水)

あまり天気がよくないのと、ぶつけた腹部が痛いので、料理の一日とする。

・昼からステーキ。
エシャロットのみじん切りをどっさりかけたら美味かった!

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(昼からステーキ)

・夕飯は、昼間買ってきた、かなり大ぶりの鯛一尾で鯛三昧としよう。

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(鯛・600円ぐらいだった)

鯛は、鱗をとるのが大変。あたり一面に鱗が飛び散る。
また、骨が硬いので、魚を「おろす」というより、「解体」するという雰囲気になる。

三品拵える。

鯛刺。

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(鯛刺・かなり大量)

鯛・兜焼き。

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(兜焼き・左右に包丁を入れるのが難しい)

鯛しゃぶ。

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(鯛しゃぶ・アラのスープで、刺身をしゃぶしゃぶ)

番外編・鯛の白子焼き。

解剖、じゃなかった、解体していると、臓物のなかに白子風な物体あり。
試しに焼いて食べてみると、やはり、白子の味がした。
得をした気分。

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(鯛の白子焼き)

今年も、大変有意義な黄金週間だった。

身辺雑記    Comment(6)   TrackBack(0)   Top↑

2009.05.04 Mon
道路名異論!・東京名所図会~高輪・清正公縁日・目黒のトンカツ
国道20号線(甲州街道相当)のことを、半蔵門(ないしは日本橋)~新宿区間だけ「新宿通り」という別名を持つことは既に書いた。
なるほど、江戸四宿のひとつである「(内藤)新宿」を尊重して、日本橋から新宿のことを特に「新宿」通りと名付けたのか、と一応は納得する。

では、同じように、国道17号線(中山道相当)も、日本橋と板橋(江戸四宿のひとつ)の間は、「板橋」通りという名称であるに違いないと思いきや、そんな通りは存在しない。

実際は、何とも複雑なことに、国道17号線は、(外側から順に)板橋~文京区白山付近では「白山通り」となり、神田明神あたりで「本郷通り」となり、万世橋あたりから「中央通り」になる。

しかも、一時「本郷通り」だった通りは、そのまま素直に南に直進すると、「日比谷通り」になり、日比谷通りをそのまま走っていると、いつの間にやら国道15号線になる。

えっ?、じゃあ、「中央通り」はどうなっちゃったのよと思いきや、実はこれが国15号線の「嫡子」となって、いつの間にやら「祖父」からの傍系(日比谷通り)と混血して(なんだと、近親相姦じゃないか、これでは!)、ちゃっかり国道15号線となりおおせてしまう。

ところが、この国道15号線も、旧東海道をほぼなぞっているいるので、国道15号線こそがが実は東海道相当だと思って走っていると、横浜の手前あたりで15号は突然消滅して、それ以西は、国道1号線が(その地位を「簒奪」して)大阪までずっとのびている。
(こうして見ると、まるで、壮絶な権力闘争を続けてきた天皇家の歴史のようだ)。

出世魚じゃあるまいし、いい加減にしてくれという気分になってくる。

同じく国道4号線(日光奥州街道相当)は、都心に入ると「昭和」通りになり、国道6号線(水戸街道相当)も、都心に入ると「江戸」通りに変貌する。
なるほど、「昭和」「江戸」とあるんだから、「明治」通りというのは?と思いきや、これまたカメレオンのように変化する複数の道路の総称(環状線)でしかないという。
ここまでくると、次に「大正」通りは?と質問する気にもなれない。

お手上げである。
ことほどさように、都内の道路の名称の付け方には、何の原則もないのである。

私は、官公省庁名のくだらない組織名変更と同様、道路の名称もチャラチャラいじらないでほしいと思う。
たとえば、国道6号線は、もし名前を付けたいのだったら、全線これ、「水戸」街道でよい!
そうすれば、よけいな看板を作る膨大な費用(税金)も節約できるし、第一、分かりやすい。

因みに、「JR」という恐ろしくえげつない名称も、元の「国鉄」に戻してほしいものである。
JRというのは、Japan Railwayの略で、「日本国鉄道」という意味なのだから、略して「国鉄」でいいじゃないか。
まあ、しかし、今さら元に戻せばもっと費用がかかるので、百歩譲って、これには目をつぶろう・・・。

さて、前置きが長くなった。

今日は、桜田通り沿いの高輪・白金界隈を大変楽しく散策した。
桜田通りというのは、実は、国道1号線のことで、桜田門を起点にしているので、そういう名称なのである。

(えっ、そりゃあ、おかしいじゃないか?じゃあ、半蔵門を起点にしている「新宿通り」はどうして「半蔵門通り」と言わないんだよ?それに1号線ってのは東海道のことなはずで、だけどさっきは、15号がそうだったような・・・などという質問はしないように。
上で述べたように、名称の付け方は「デタラメ」であるというのが、むしろ「原則」なのだから)。

この日は、午後に高輪台駅に集合ということだったので、例によって、私だけ自転車(フジクロス)で出かける。

黄金週間中とあって、道ががらがら。
いつもは迂回して裏道に入るようなところでも、それがかえってもどかしいほど幹線道路が空いている。
国6号から内堀通りに入り、件の「桜田通り(国1号)」の起点たる桜田門に、まず、到着。

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(左手の小さな門が桜田門)

約150年ほど前の雪の朝、自邸から城に向かって籠で「通勤」中の井伊直弼が、水戸藩士および薩摩藩士数名によって暗殺されたのは、この門の前にのびる現在の桜田通りの路上である(桜田門外の変)。

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(桜田門の正面から始まる桜田通り)

また、俗に「桜田門」と言えば、現在は警察権力の中枢たる警視庁の「本丸」所在地のことで、周辺は警察官の密度がたぶん日本一高く、石を投げれば警察官に当たるほどである(しかし、本当に石を投げると逮捕されるので注意)。

実は先月、桜田門内のどこかで私はカメラを紛失したのだが、その旨桜田門の交番に届けた30分後には、私の携帯電話が鳴り、カメラが発見されたので回収されたしとの連絡が入った。
すごい!
さすが、警察のメッカだけのことはある。
若い頃にはさんざんいじめられた警察だが、このときばかりは、心から感謝した(対応もきわめて親切)。

さて、高輪に向かうべく、私は桜田通りを走り始めるが、すぐに赤煉瓦の美しい建物に眼を惹かれて自転車を止めて写真撮影。

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(法務省赤煉瓦棟)

さらに進むと、「横浜 32キロ」の標識の向こうに、日本の「悪の巣窟」たる霞ヶ関のビル群が見えてくる。
なるほど、桜田通りというのは権力中枢の道なんだなあということが実感される。
いっそのこと、正直に「権力通り」という名にすればよい。

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(悪の巣窟・霞ヶ関)

さて、桜田通りは、いったんは下り坂になり、その後急な上り坂になる。
慶應義塾のところで大きく右に折れ曲がって、三田を経て、高輪台、白金台と続く。

三田の古名は「御田」というだけあって土地が低いが、その後は、「台」を冠する地名が二つ続くことからも分かるように、二つの長い坂を登ることになる。

私は、五反田駅の近くに自転車を止めて、待ち合わせ場所の高輪台まで戻るべく歩いた。
五反田も「田」を冠する地名なので、低い谷になっていて、そこから高輪「台」までは当然上り坂であるが、この道は歩いていて何故か気持ちがよい。
何故気持ちがよいのか、自分でもよくわからないが(交通量が少なかったからかもしれない)。

高輪台駅出口で、呑ちゃんたちと落ち合って、さて散策の始まりだ。

先ず、大通りと平行して走る通りを歩いてみる。
なんとも懐かしい建物が見えた。
昔、私の田舎にあった映画館を思い出したりする(ビー玉を取るため、割られたラムネの瓶が散乱していたっけ)。

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(高輪消防署・東京オリンピック宣伝の幕がなければもっと良かったのだが)

立派に古風を保った寺もあった(このあたり旧街道沿いだったためか寺社が多い)。

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しかも、このお寺の狛犬がユーモラスで個性的だった。

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私に似ていると呑ちゃんは言う。
う~ん、そう言われてみれば、そうかもしれないような気がしてくる。

こうやって、ああだこうだと言いながら散策をするのはすごく楽しい。

坂を登るにつれ、縁日の雰囲気が漂ってくる。
商店街の食堂でも、店先で焼き物だの揚げ物だの売っている。

桜田通りを東西に横切るようにして、かなり大規模かつ本格的な、清正公(覚林寺)の縁日が繰り広げられていた。

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(清正公の縁日)

清正公というのは、加藤清正のことで、以前この地に肥後藩の屋敷があったことから、清正を祀る寺が建立されたらしいが、まあ、そんなことはどうでもよい。
この縁日では、バライエティに富んだ露店の数々はもちろん、昔ながらの「金魚すくい」や「型抜き」などの露店も出ている。
実に懐かしい縁日である。

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(楽しい縁日)

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(昔懐かしい金魚すくい)

一番面白かったのは、「アナゴ釣り」である。

切れやすい釣り糸の付いた細くて短い竿で、アナゴを釣り上げる(引っかけ釣り)遊戯である。

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(アナゴ釣り)

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(アナゴ釣りのオジサン・いい感じです)

この縁日は、毎年この時期に行われるという。
また来年も来てみたいと思う。

縁日を存分に楽しんだわれわれは、目黒通りを下って、夕食をを取るべく、目黒駅に出る。
今日は、以前から食べたかったトンカツ屋の「とんき」に行こうというのだ。

ところで、目黒と言えば、昔からサンマで有名だが、別に目黒でサンマが獲れるはずはなく、落語の中で殿様が食べたサンマは、ほぼ間違いなく、銚子のサンマであるわけで、われわれは何も、目黒のサンマに操を立てる筋合いはない。

ただ、殿様(将軍)にサンマを出したと言われる「茶屋」を、広重が素晴らしい絵に残している。

爺が茶屋
(名所江戸百景「目黒爺々が茶屋」)

この「爺々が茶屋」が、どこにあったのかということは、ほぼ特定できるようだ。
詳しくは、以下のページを参照にされたい。
http://kkubota.cool.ne.jp/chayazaka.htm
今回はその場所を訪ねることができなかったが、不肖・断腸亭髭爺としては、我が事のように気になる一件なので、次回は是非とも訪れてみたい。

さて、目黒のトンカツである。

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(とんき・ケレンミのない店構え)

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(広々として、しかも職人の厳しさが飛び交う厨房)

そして、ロースカツ定食。

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(とんきのロースカツ定食)

いやぁ~、これぞまさしく芸術品だ!
これまで食べた中で、最高のトンカツだった。

こうしてわれわれは、縁日の賑わいとトンカツの旨さを反芻しながら帰路についたのである。

(了)

走行距離:54キロ(フジクロス)

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2009.05.03 Sun
甲州路の旅3~井戸尻遺跡・かっぽうぎ甲府店
三日目。

鶯のさえずりで目覚めて、山荘のデッキでコーヒーとパンとオレンジの朝食。
森の中では、さながら、鶯の喉自慢大会で、絶えず、鶯の声が響き渡っている。

山荘の西側は森林が迫っているが、東側は牧草地になっていて風景が開けているので、朝の陽光がたっぷり当たって実に気持ちがよい。

ベランダ
(デッキで朝食・目の前には牧草地が広がっている)

午前中は、私の希望により、このあたりの縄文遺跡を訪ねることになった。
ただし、昼食後解散という予定なので時間がな少なくて、ちょっと急いで回ることになる(今日も、車に同乗)。

八ヶ岳南麓地域は、縄文遺跡が非常に多い。
このあたりは、伏流水が湧き出す湧水が豊富で、鹿や猪をはじめとする獲物も多かったに違いない。
冬季は寒冷ではあったものの、縄文中期(ほぼ5000年前)は、現在よりもやや温暖であった事が知られている。

われわれが訪ねたのは、井戸尻遺跡(長野県)である。

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(井戸尻遺跡)

その場所に立った瞬間、私は僭越ながら、縄文人たちの気持ちが分かったような気がした。
実に素晴らしい立地条件であるからだ。
私が縄文人でも、こんな場所に居住したいものだ。

無論、当時は、もっと森林が迫っていただろうが、ちょっと開けた所からは、現在と同様、南アルプスが臨めたに違いない。
彼らは、南の方角に位置するこの連峰を神々の山だと認識していたはずである。

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(復元された竪穴式住居)

近くには、今でも水車が回っている。
昔も水が豊富な土地だったことが偲ばれる。

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(水車)

遺跡には、考古館も併設されている。
ここに展示されている縄文の遺物の量はすごい。
県立レベルの多さではないか。

大まかな印象としては、土器類は、東北地方のそれとつながっているような気がした(火炎式風な意匠)。
たとえば、貝塚を伴う下総あたりの縄文土器とは明らかに違う雰囲気を持っている。

大和政権の支配がこの地に及んだのは、他の地域より随分遅かったはずである。
その後、ここに暮らしていた人々の文化はどこに消え、どこに受け継がれたのであろうか・・・。

昼食後、解散。

私以外のメンバーは、鉄道で帰るべく駅へ。

私は、自転車の点検をして、井戸水をペットボトルに詰めて出発。

二日ぶりに自転車に乗ることができるので、何だか、すごく嬉しい。

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(お世話になりました。でも、しばらくは未舗装路なので、乗れません)

午後2時頃出発。

ここから甲府盆地までは、高低差約800メートルぐらいの下りなので、非常に楽である。
往きは、主として国道20号線を走ってきたが、帰りは、県道17号(茅野北杜韮崎)線を走る(基本下りだが、部分的に登りあり)。
途中で県道6号線→県道52号線で、甲府市内に入る。
(カードが一杯で、この間の写真無し)

4時半頃、甲府駅の近くまで来たところで空腹を覚える。
日没まであと90分。
じゃあ、ゆっくり夕飯でも食ってから甲府駅から輪行で帰るか。

駅前をたらたら走っていると、「かっぽうぎ 甲府店」の看板。
お~、私がいつも飲んでいる「かっぽうぎ 駿河台店」の姉妹店ではないか。
突然懐かしくなって、店の前に自転車を止めて、吸い込まれるように入店。

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(かっぽうぎ 甲府店)

メニューもほとんど同じなので、そらで注文できるぐらいである。
生ビールとラッキョと冷や奴を注文。
その後、腹にたまる物数品と芋焼酎のロック3杯を頼む。

薄暗くなってきたので、ほろ酔い気分で駅に向かい、自転車をバラしてカバーをかぶせて、高尾行きの普通列車に乗る。
しばし、爆睡。
その後、高尾駅で、中央特快東京行きに乗り換えた。

終点の東京駅まで行ってしまうと、駅構内が広くて自転車を運ぶのが大変なので、二駅手前の御茶ノ水駅で下車。
聖橋口で改札を出て、自転車を組み立てる。

何だか腹が減ってきたので、今度は、「かっぽうぎ 駿河台店」に行ってみようかなとも思った。
一日に、系列店2店舗を梯子という「記録」も作れるし。
しかし、考えてみれば、今日は休日で、駿河台店は休みであることを思い出して、おとなしく帰る。

東京の夜道は何と明るいことか。
夜風が気持ちよかった。

走行距離:65キロ

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2009.05.02 Sat
甲州路の旅2~舌と眼が喜んだ一日・鹿肉と山菜の味
二日目。

山荘で目覚める。

清々しい大気の中、ベランダで朝食。

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今日は、同僚が八ヶ岳周辺を車で案内してくれるという。
親切心から出た言葉だが、同僚から、自転車と併走してもよいがどうするか、と聞かれるが、私は即座に辞退。
八ヶ岳周辺を廻る、と簡単に言っても、またしても、高低差400メートルぐらいのところを行ったり来たりするわけで、私が自転車で随行した日には、他のメンバーに多大な迷惑がかかる。

今日は、自転車はお休み。
おとなしく、車に乗り込んで、案内してもらう。

天候にも恵まれ、至る所で、南には南アルプスの峰々、北には八ヶ岳が、その雄大な姿を見せている。

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(南アルプス)

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(八ヶ岳連峰)

われわれは、八ヶ岳高原ライン沿いの各所を廻った。
車は、漕がなくても進むので、本当に楽だなあl・・・。

吐竜の滝

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(吐竜の滝)

八ヶ岳牧場

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(八ヶ岳牧場・ソフトクリームを食べた)

三分一湧水

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(三分一湧水)

どこに行っても、素晴らしい風景ばかりであったのだが、しかしながら、この日、圧巻だったのは、何と言っても、昼食だった。

昼食は、標高1400メートルにある「仙人小屋」(八ヶ岳高原ライン沿い)という食堂で取った。

主として、鹿肉と山菜を食べさせる食堂なのだが、もちろん、鹿も山菜も「仙人」と称される店のマスターが直々に山で狩猟採集した物である。

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(仙人小屋)

店内は、山小屋風。

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(山小屋風な店内)

メニューを見れば、この店がいかにユニークな存在かが分かろうというものだ。

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(そのメニュー)

鹿や山菜の他にも、熊、岩魚、山女魚などを素材にした料理の数々を取りそろえている。

とりわけ、山菜の種類は豊富で、カウンターの正面の棚には、山菜が所狭しと並べられている。

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(見よ、この山菜の種類の多さを)

実は、この店、大変気に入って、翌日も訪れたのだが、われわれが注文した物を以下、写真でご紹介しよう。

先ず一押しは、何と言っても、「鹿レアロースト定食」。

鹿
(鹿レアロースト定食)

鹿のフィレ肉をかなりレアに炙ったもので、何というか、度肝を抜かれるような美味さで、舌の上を鹿が走り回る感じである。
よくありがちなのだが、鹿の場合、屠殺してすぐに血抜きがなされていない肉が出回っているので、鹿の肉は臭いと思いこんでいる人が多いけど、実は、4つ足獣の中では、たぶん、子羊と並んで最も美味なる「肉(しし)」なのではないかと思う。
この店の鹿肉の処理は、非の打ち所が無く、まさしく完璧であった。

ところで、鹿(肉)については、4年前の秋に奈良を旅行した折に、鹿について異常とも言える関心を覚えて、連日掲示板に書き散らした文章を、この際、一本にまとめたエントリーを作成したので、興味のある方は、そちらをご参照のこと(「鹿の文化史~もうひとつの食肉文化」)。

二番目にお勧めしたいのは、「山菜定食」。
実に見目麗しい食膳で、8種類の山菜が寿司下駄の上に美しく盛られている。

山菜定食
(山菜定食)

しかも、この店の定食には必ず付いてくるキノコの味噌汁は、これでもかというほど茸類が入っている。
普通なら5椀分ぐらいのキノコの量に、誰しもが驚くに違いない。
山の春の息吹が、そのまま五臓六腑にしみわたるようである。

次なるは、季節物かもしれないが、「鹿肉とイクラの行者ニンニク丼」である。
これには、まったくびっくりさせられた。
まず、鹿肉とイクラという取り合わせは、普通は、「きわもの」だと思うのが当然である。
(ところが何と、私のしたことが、写真を取り忘れた)。

しかし、鹿刺はいわゆる「ヅケ」になっていて、しかも、イクラも鮭のそれではなく山女魚のイクラで、両者を見事に結びつけているのが、表面にたっぷりふられた行者ニンニクのみじん切り。

この一品は、それぞれの素材の味を知り尽くした人でないと考えつかない傑作である。
完全に脱帽!

もう一品、ご紹介しよう。
それは、「山菜の天ざる」。

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(山菜の天ざる)

まず、この山菜天ぷらの種類の多さとその分量にご注目。
山菜の揚げ方も、完璧で、異なった山菜の香りと食感を楽しむことができる。
ただ、難を言えば、蕎麦と汁が弱いかなぁ・・・。

実は、この日の夕食も、山奥の、とあるレストラン(宮沢賢治の「注文の多い料理店」を彷彿とさせるような店)で食すことになったのだが、こちらは公開不可にて、雰囲気を伝える写真を一枚だけ載せるにとどめたい。

山レストラン
(秘密のレストラン)

二日目了。

走行距離:0キロ

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2009.05.01 Fri
甲州路の旅1~笹子峠・甲府盆地・小淵沢
甲州街道は、通勤の際によく走る。
半蔵門付近から西に伸びている新宿通りも、実は、甲州街道(国道20号線)であることは既に書いた。

去年の春、八王子の同僚の家まで甲州街道を走ったこともある。
しかし、八王子より西の甲州街道は、私にとって未知の世界(自転車ではね)。

今回の甲州路の旅は、名目としては、職場の同僚の「合宿」だが、その実体は、参加者が少なかったこともあって、単なる親睦旅行。
メンバーの一人である同僚(女性)の山荘が小淵沢にあることがきっかけになって、あっという間に実現の運びになったのだが、その山荘というのは、彼女の「別荘」ではなく、実は「自宅」なのである。
かなりの飛ばしやである彼女は、高速を爆走して、杉並区永福の職場まで90分で到着してしまうというのだから驚きである(自転車なら、12時間はかかるだろうか)。

今回の「合宿」の話が出たそのときから、私は自転車で行くことに決めていた。
過去の同種の合宿でも、たとえば伊豆の網代まで、私だけ自転車で参加したことなどがあった。
最初の頃は、お願いだからそんな馬鹿なマネはやめておけ、と言われたものだが、もう誰も驚かなくなって、あいつは「自転車でしか来ない」というのが十分認識されたようで、最近は、実に行動しやすくなった(「諦められた」という説もあり)。

さて、前置きが長くなった。

私の家から集合場所のその山荘までの地図上の道のりは、約230キロ。
何時間かかるか考えてみた。
平地でも12時間以上はかかるだろうが、高尾より西はかなりの坂道なので、頑張っても、16時間。
いや、もしかしたら、20時間ぐらいかかると見た方がよい。
5月1日の夕に集合ということなので、全行程自転車だとすれば、私の実力では、一日ではとても無理。
途中、笹子峠の手前で一泊するか、どこかまで輪行するかのいずれかしかない。

一泊すると時間と費用が嵩むので、輪行で行くことにする。

自宅→東京駅(自走・16キロ)
東京駅→大月駅(普通列車による輪行)
大月駅→目的地(自走・約100キロ)

5時前にロードに乗って出発。

今回は、いつもの装備(空気入れやパンク修理セットなど)に加えて、チェーン切りやチェーン2コマも携帯した。
登りが多いと、チェーンへの負担がかかって、何かのはずみで、新品のチェーンでも切れることがあると聞いたからだ(路上の小枝などが変速機に絡まって切れた例もあり)。
加えて、激坂を下る際に心配なタイヤのバーストに備えて、クリアファイルを定型に切ったものも携帯。

この度の装備は、フロントバッグとサドルバックとデイパックに詰めこんだ。
こんな感じの旅装。

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(同僚の山荘前で帰路出発前に撮影したもの)

東京駅までは、ほぼいつもの通勤路を辿ったが、早朝で車ががらがらなので、結局、途中から国道6号を終点までずっと走ってしまった。

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(四ツ木橋[国道6号]からの朝日・矢立の祈願)

東京駅八重洲口で自転車をバラして入札(東京~大月駅・1450円)。
輪行は、Kaccinさん直伝の、「百円ショップ自転車カバー利用簡便輪行法」である。
八重洲改札口から、中央線の1・2番線ホームまでの距離が結構長くて運ぶのに多少苦労する。
しかし、平日ではあるものの早朝だし、始発列車なので、最後尾車両に自転車を持ち込んで、ゆうゆうと陣取ることができた。

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(車両に積み込んだ様子・自転車だと分かるように、意図的に少し露出しておきました)

車内で、大月から走る行程を地図で確認しながら、東向島の100円ローソンで買ったおにぎりやサンドイッチを頬張る(例の激安250円弁当屋はさすがにまだ開店していないので)。

中央線特快は高尾駅が終点。
ここから中央本線大月行きに乗り換える。
乗換時間はたった1分だったが、向かいのホームだったので、何とか間に合う。

9時前には、大月駅に到着。
駅に降り立つや、眩しい新緑が目に飛び込んで来て、わくわくする。

駅前のタクシー乗り場の近くで自転車を組み立てる(と言っても、前輪をはめるだけだが)。
飲食物は、東向島で買ったものがまだ残っていたので買い足しはせず、かわりに、駅前の立ち食い蕎麦屋でたぬき蕎麦を食べる。

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(大月駅のたぬき蕎麦・65点)

中央本線と寄り添うように通る国道20号線(現甲州街道)は、駅からすぐだ。
いきなり登り道になるが、それは覚悟の上である。

ここからの旅程は、距離にして約100キロだが、おおざっぱな高低差はこうである。

大月駅(標高358メートル)→笹子峠(標高1096メートル)→甲府城(標高260メートル)→目的地の山荘(標高1100メートル)。

つまりは、これから、高低差約700メートル登って、約800メートル下った後、また、約800メートル登るという行程。
煎じ詰めれば、約800メートルの峠を二つ登るに等しいわけで、自転車でこんなに坂を登るのは私にとっては初体験。
さすがに走破できるかどうかは、事前からかなり心配だったが、まあ、季節のよい好天の日和なので、走るだけ走って、いざとなれば、あとは輪行に逃げ込めばよいという考えもどこかにあった。

国20号線を登りはじめる。
平日だからなのかどうなのか、分からないが、幸いなことに交通量は少ない。

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(国道20号線笹子の手前あたり)

道路の左右には、緑なす崖やうっとりするような牧歌的な集落が展開し、走っていて、まるでどこかの桃源郷に迷い込んだようなような雰囲気である。

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(国道20号線沿い・棚田には、水がはってあった)

進むにつれ、次第に勾配がきつくなってきて、笹子峠の登り口が近いことが感じ取れるようである。

そしてついに現れた、笹子峠の入口。
たいして来てもいないのに、この分岐点に到着した時は、とうとう来たか!
よしっ!、何としても登ってやるぞ。
絶対に峠越えを果たしてやる!などと、気分が非常に高揚する。

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(左旧道の笹子峠入口と右国道20号線笹子トンネルの分岐点)

さっそく分岐道の左に入る。
最初は集落も見え隠れするが、10分も登ると、人家は消えて、深い山の中の一本道をただひたすら登り続けることになる。

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(笹子峠の坂・こんな感じの上り坂が続く)

両側には清々しい新緑の林が続き、路上に柔らかな木漏れ日を映している。
小さな渓流が道と出会ったかと思うとまた離れていく。
あたりは、森閑として静寂に包まれている。
不思議なほど車の交通はなく、聞こえるのは、水の流れる音と鶯の鳴き声のみ。
険しい坂道に、息が苦しい。
その苦しい吐息と鶯の鳴き声が、ときにシンクロするかのようである。

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(ほとばしるように落ちてゆく渓流)

もう麓の登り口付近からギアはずっとフロント34T×リア25Tに入れっぱなしだが、途中、比較的大きな沢に架かる古橋のところでややなだらかになり、久々にリア23Tに入れるが、またすぐに25Tに戻さざるを得なかった。

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(欄干が朽ちかけている古橋の上で)

登っても登っても新に坂が現れる。
標識などが何もないので、どのぐらい登ってきたかよく分からない。
道が曲がる度に、そこで坂が終わってくれるかもしれないと希望を抱くものの、曲がってみれば新たな坂の出現に希望が打ち砕かれる。
坂が、圧倒的な緑の中から、まるで群雲のように次々に湧きだしてくるようである。
神様、お願いです、もう悪いことはしませんからこれ以上の坂は勘弁して下さい!

中腹を過ぎたあたりから「矢立の杉」の標識が出始める。
しかし、当の矢立の杉の場所は一向に現れないという感じだった。
とにかくつらい。
5分こいでは1分休むというようなペース。
時速にすれば、8~10キロぐらいか。
とにかく自転車を降りて押すことなく、全行程を「こいでのぼる」こと決めたのだ。

森がやや明るくなりだしたような気がしてきたかなと思ったあたりに「矢立の杉」への入山口があった。
ここまで来れば、頂上は近いはずである。

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(矢立の杉・入口)

せっかくだから、看板の前に自転車を止めて、山道を歩いてみることに。

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(矢立の杉へ至る山道)

実は、笹子峠の現在の舗装路は「県道」になっているが、麓の笹子トンネルが開通するまでは、こちらが甲州街道本道で国道指定だった。
しかし、それより前の時代は、現在の県道と付かず離れずついている登山道(遊歩道)の方が甲州街道だったはずである。

急に時代は飛ぶが、戊辰の内戦時、新撰組率いる「甲陽鎮撫隊」が甲府城へ向かうべく越えたころの笹子峠の道は、ほとんど、現在の登山道とそうかわりのない道だったろう。
ここまでの道中で酒盛りをやりすぎたこともあったろうが、百戦錬磨の近藤勇や土方歳三も、この峠には難渋したことであろう。

矢立の杉は、いわば、縄文杉のような大木で、その昔、このあたりを通りかかった武士が、戦勝を祈願して、この杉に矢を打ち込んだというもの。
周りの杉に較べて格段に大きな樹で天に向かってそそり立っている。

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(矢立の杉・中心部は空洞になっている)

矢立の杉を後にして、少し我慢して登っていくと、突然のように頂上の旧笹子トンネルが現れた。
詰めていた息が急に抜けたようで、嬉しいというよりホッとした気分だった。
ただ、この昔のトンネルは古風で趣がある。

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(分水嶺を通る旧笹子トンネル)

トンネルを通った。
トンネル内に電灯が一切ないので、夜に通るのは恐いだろうな。

甲府側に抜けると、眺望が開けて明るい感じになる。

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(甲府側の道は風景が開ける・久々にフロントギアをアウターに入れた)

柳田国男の「峠の表裏」理論からすれば、「表」から「裏」に転換したということであろうか。
大月側の道は、絶えず、渓流が寄り添い、険しい道が続いていたが、甲府側の道は風景が開けて、勾配もなだらかである。

下りに向かう前に、私は、一応、ブレーキや車輪の固定を点検して、ウィンドブレーカーを着て、長い下り道を走り始める。

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(ひたすら降る)

登りとはうってかわって、今度は全然ペダルを漕ぐ必要はない。
ヘアピンカーブもあるので、時速40キロを超えないようにブレーキを絞りながら、ただひたすら降りてゆく。
うっかりすると、すごい速度が出てしまう。
舗装状態は、概して良好だが、高速で窪みを踏めば、車体ごと吹っ飛んでしまうことなきにしもあらずなので、とにかく、40キロ以上の速度にならないようにブレーキレバーを握り続ける。

こうして、笹子峠を降りきって、国道20号と合流したが、さらに降りは続く。
ここからは、甲府盆地を降ることになるのだ。

今度は道はまっすぐなので、こいでもいないのに、時速35キロ以上になってしまう。
面白がって私は、アウタートップにギアを入れてペダルを踏んでみたら、時速60キロにもなってしまい、何だか恐いぐらいである。
これでは、オービスに引っかかりかねないと危惧しながらも、甲府盆地の底辺に「滑空」し続けた。

甲府盆地の一番低い所は多分、盆地の南部の、釜無川と笛吹川が合流して富士川になるあたりだろうが、私が今目指している甲府城は標高260メートルぐらい。
先にも書いたように高低差800メートルをいっきに降るわけだから、ほんとに長い下り坂で、仕舞いにはブレーキレバーを握る手が痛くなってくる。

しかも、あまりにスピードが出ているので、途中寄りたかった「甲州勝沼の戦い」の古戦場もすっ飛ばしてしまった。

韋駄天のごとく里に降り立った私は、途中で国20号から離れて、甲府市街地に入った。
甲州と言えば、武田関係の名所が多いのだが、今回は時間がないので、戊辰の際に、板垣退助率いる西軍(新政府軍)が陣取った甲府城だけは見ておきたかった。

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(甲府市街地の橋から・既に前方に南アルプスが見える)

甲府城は、甲府駅や山梨県庁にもほど近い市の中心地にあった。

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(甲府城の壕)

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(甲府城本丸のあった石垣付近)

1868年の春、東からは新撰組率いる「甲陽鎮撫隊」が、西からは板垣の新政府軍が、それぞれこの甲府城に向かって進軍していたが、この「競走」に勝ったのは西軍で、この城を押さえた。

結局、その後、勝沼で両軍が激突するが、新政府軍の圧勝にて、甲陽鎮撫隊は八王子まで退却した。
せっかく越えたばかりの笹子峠を戦果なく戻るのは二重に辛かったろうなあ・・・。

ちょうど昼時だったので、甲府市内の定食屋で昼食。
甲府と言えば「ほうとう」だが、さすがに暑くて食べる気がしないので、生姜焼き定食を食べる。
じつは、この店(県52号沿い)で、隣りで昼間から「一人宴会」をしていたオジサンが面白い人だったのだが、今回は割愛する。

市街地を抜けて、国道20号に入る。
高速道路のように立派で、走りやすい歩道が付いていたので、そっちを走る。

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(国道20号線・このあたりからまた徐々に登りになる)

甲府市から西の国道20号線は、自転車道というか、歩道というか、かなり広くて走りやすい道が付いていて、登りにもかかわらず、結構気持ちよく走れる。

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(快走できる側道)

しばらく走って行くと左側の釜無川沿いにサイクリングロードらしきものを発見。
何だよ、だったら看板か何かを出しておいてくれよ。
さっそくそっちを走ることにする。

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(釜無川サイクリングロード・韮崎付近・西向き)

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(釜無川サイクリングロード・韮崎付近・東向き・東に富士が見えるなんて、江戸暮らしの私には不思議)

釜無川サイクリングロードは、しかしながら、西に進めば進むほど、路面が悪化してくるが、釜無川が近くに迫るあたりは景色もよくて、走っていて本当に気持ちがよい。
自転車の旅をしている幸せを感じることができる。

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(釜無川)

しかし、このサイクリングロードも、穴山付近で突然消滅。
仕方がないので、また、国道20号線を走り出す。
ところが、このあたりからは、ちゃんとした側道もなくなって、道幅は狭くなるし、午後になって交通量も増えてきた。
しかも、それよりなにより、登りの勾配が激しくなってくる。
遠景は素晴らしいいのだが、こういう道は、ただひたすら我慢して走るしかない。

とは言っても所々に、国道20号線と並行して旧道が走っているので、旧道を発見するとそちらに潜り込んだ。

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(旧街道の分岐)

旧街道だからといって坂が緩和されるわけではないが、大型トラックなどは走っていないので、道の真ん中を堂々と走っても大丈夫。
また、そこかしこに古い街並みが残っていて、走っていて楽しい。

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(旧甲州街道)

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(旧甲州街道)

旧街道というのは、大体そうなのだが、何というか、人間の歩行のリズムを体現化したようなもので、走っていて実に気持ちがよいものである。
そこが、最初から自動車に合わせて作られた道とは、決定的に違うように思う。

さて、そろそろ釜無川と甲州街道に別れを告げて、小淵沢方面に300メートルほど登らなければならない。
分かってはいたのだが、嫌なことは後まわしにする性格なもんで。

甲州街道の北の崖に挑む。
これまた心臓破りの坂道で、既に100キロ走った足には笑いたくなるほど応える。
まったくやってくれるぜベイビー!
但し、登るほどに眺望は抜群。

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(南アルプス眺望)

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(激坂からの眺望)

途中、お猿さんが、見送ってくれた(実は、かなり威嚇された)。

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(猿の出迎え)

いやぁ~、それからが大変だった!
口から心臓が飛び出しそうになること数十回。
風景など楽しむ余裕もなく、ただただ、ハンドルと前輪だけを見ながら坂を登り続けた。

私が登ったのは、

こんな坂や、

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こんな坂だったが、

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こんな風景や、

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こんな風景に出会えたので、まあ、よしとしよう。

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こうして、私は同僚の山荘に到着して、なだれ込むように、酒池肉林の世界に没入したわけである。

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結論:重力は偉大なり

走行距離:116キロ

(一日目完)

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