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日々の身辺雑記や考えたことなどを徒然なるままに書き連ねる「断腸亭日録」です。
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断腸亭日録~自転車日記
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2006.01.09 Mon
鹿の文化史~もうひとつの食肉文化史
奈良公園と言えば、鹿である。
鹿と言えば、奈良公園である。
鹿の話をしたい。

奈良公園に行くと、最初は、近寄ってくる鹿たちを鬱陶しく感じるのだが、歩いているうちに慣れてきて、むしろ可愛く感じられてきて、周囲に鹿が見あたらないと、探している自分に気づいたりする。

奈良公園の鹿は、興福寺や春日大社が創建されたときから確かにいたのである。
ただ、奈良公園に鹿がいるのは、興福寺や東大寺のお陰ではなく、同じ奈良公園内の東の方に広がる春日大社の方に由来する。

春日大社の縁起によれば、鹿が神の使いとして神鹿(しんろく)とされるのは、神社の主祭神である武甕槌命(タケミカヅチ・雷神)が、元々の本拠である鹿島(常陸・茨城県)から春日大社のある三笠山にやって来た際に、白鹿の背に乗ってきたことになっており、今の鹿は、それが繁殖したものだと言うのだ。
ちなみに、春日大社の創建は古く、768年(ポッと出の、近代になってにわかに建造された、かの東京都千代田区の靖国神社などどは格が違う)。

それにしても、なんでまた、雷神のタケミカヅチは、東国の鹿島(常陸・茨城県)くんだりから鹿に乗ってやって来たのか。
興福寺や春日大社の創建者は、もちろん、藤原氏で、その藤原氏が、常陸(ひたち)国の出身だという説(『大鏡』)もあるが、真相は分からない。

では、茨城の鹿島と鹿との関係は?
鹿島アントラーズがあるじゃないかという声が聞こえてくる。
然(しか)り。
アントラーズの命名は、もちろん、antlers(牡鹿の角)に由来する。
ところが、古くは、「鹿」島ではなく、「香」島と表記されていて(『常陸風土記』など)、鹿の字が当てられるのは後世のことである。「かしま」という地名はあちこちにあるが、いずれも海辺が多いのだが、語源としては、「神島」(かん+しま)だという説が有力ではある。
また、タケミカヅチと鹿との関係も不明。

しかし、8世紀当時、春日大社の山野一帯に棲息する鹿が「神鹿」とされ、その狩猟が禁じられたのは確かで、この法令は、江戸時代が終わるまで変わることがなかったが、明治時代になると、突然、有害獣に指定され、今度は逆に、1000頭近くが射殺されたりしている。

春日と鹿との関係を示す記録も夥しい。
そのほんの数例でも、ここに記しておきたくなる。

・8世紀ごろの和歌
「春日野に粟蒔けりせば鹿(しし)待ちに継(つ)ぎて行かましを社し留(とど)むる」(佐伯赤麻呂)
『万葉集』
[現代語訳:春日野に、粟(あは)が蒔いてあったら(あなたに逢えるのでしたら)、鹿を待ち伏せるように、毎日のように逢いにゆくのですけど。神の社(やしろ)があるので逢えなくてうらめしいことです。]

・10世紀ごろの和歌
「奥山にもみじふみわけなく鹿の声きくときぞ秋はかなしき」(猿丸太夫)
『古今和歌集』巻四

・また、8世紀から11世紀まで、たびたび、伊予、備後、常陸、太宰府等から、「白鹿」が献納されている。

・1580年には、織田信長が、鹿殺し密告者に二百貫の賞金を与え、犯人を処刑している。
・1694年には、松尾芭蕉が奈良を訪れ、「びぃと啼く 尻声悲し 夜の鹿」と詠んでいる・・・。

まさしく、奈良公園と鹿との関係は、まことに古くて興味深い。

そもそも、春日山に雷神タケミカヅチが白鹿に乗ってやって来たというが、無論、種としての「白鹿」は存在しない。しかし、突然変異としての白い鹿は、珍しいが、たまに生まれるという。

話が逸れるが、『古事記』に出てくる、有名な「因幡の白兎」の白い兎も、実は、突然変異種としか考えられない。
というのは、列島に種としての白い兎が登場するのは、地中海原産の兎が明治期に輸入されるのを待たなければならないからだ。
同じことが、白虎、白馬、白狐、白蛇などにも言えて、神話伝説の世界では、アルビノ(先天性白皮)症(?)の突然変異種が珍重・神聖視された例は多い。

いずれにせよ、春日の杜では、白鹿が「神鹿」とされ、前稿(「奈良へ6」)で書いたように、各地で白鹿が捕獲されると、それが春日大社に献納されていたということになる。
因みに、最近でも、1994年、奈良公園で白鹿の「モモちゃん」が誕生し、話題になったこともある。

奈良公園に棲息する鹿は、ニホンジカJapanese Sika(学名Cervus nippon)で、種としては、列島に棲息する鹿と特に変わらない。
しかも、奈良公園に棲息する鹿は、昔も今も、野生の鹿である。
観光客から鹿煎餅をもらっているが、寺社や公園当局から「飼育」されているわけではない。
園内に「鹿苑(ろくえん)」という施設があって、子鹿の保護や、怪我病気の鹿の治療を行ってはいるが、飼育が目的ではない。
だから、鹿たちは、奈良公園にいたくなければ、春日山を越えて、奈良県内のみならず、近隣の京都府や三重県の山々に分け入ることも自由で、そこここから里に降りて、農産物を荒らすこともあるわけだ。
現在は、1200余頭が奈良公園界隈に棲息するというのだから、よっぽど住環境が好ましいに違いない。

ただ、現在は、鹿の楽園のような奈良公園ではあるが、受難の歴史もあった。
先にも触れたように、奈良公園の鹿は、明治時代になって神格が解かれると、反転、有害獣に指定されて、多くの鹿が射殺され、35頭にまで激減した。その後は、再度、保護されるようになったが、太平洋戦争前後の食糧難時代は密漁が横行し、1945年には79頭にまで減少したという。

公園の鹿たちは、今、鹿煎餅で育っているように思うかもしれないが、実際はさにあらず。
芝や木の葉の方がむしろ主食である。

散策中、歩き疲れて、ふと、公園内の茶屋に入って蕨餅を食べたが、その店先にプラスティックのバケツが置いてあって、その中に入っている「餌」を一頭の鹿が、無心に食べていた。
何を食べているのかと中をのぞき込んで見ると、茶葉の出しガラだった。
それほどまでに、鹿は、この公園に馴染んでるのだ。

***

ところで、黒澤明の映画『まあだだよ』の老教授のモデルになった、作家、内田百(鈴木清純の『ツィゴイネルワイゼン』の原作者)は、すき焼きが好物で、馬肉と鹿肉を半々に入れた鍋を拵え、「馬鹿」鍋だと言って弟子たちに振る舞って面白がっていたという。
内田百でなくとも、古来、鹿は御馳走であったようである。

縄文時代以前から幕末までの長きに渡り、列島に棲息する四つ足獣の中で、食肉の双璧は、何と言っても、鹿と猪であった。
古語においては、シカの「シ」は「シシ(肉)」に由来し、肉そのものを意味したほどである。
だから、鹿が「かのしし」だとすれば、猪は「いのしし」と呼んだ。
同じく、カモシカは「あおじし」、ウシは「たじし」とも称されたという。
「鹿脅し(シシオドシ)」や「鹿踊り(シシオドリ)」のような言葉には、語源のシシ(肉)の響きが残っている。
また、先に引用した『万葉集』の「春日野に粟蒔けりせば鹿(しし)待ちに継ぎて行かましを社し留むる」(佐伯赤麻呂)でも、鹿を「しし」と読ませている。

とは言え、昭和生まれの私は、残念なことに、鹿肉は、生涯二度しか食べたことがない。
一度目は、数年前、京都府の綾部の知り合い宅で、骨付きあばら肉の薫製を。
二度目は、去年、東京は水戸街道沿いの地中海料理レストランMで、蝦夷鹿(「日本鹿」の亜種)のステーキを。
それが、鹿肉体験のすべてで、まことにおぼつかない限りであるが、味をうんぬんするほどの資格は無きに等しいが、大変に美味かった記憶がある。

ここで、いささか遠回りになるが、日本列島における食肉の歴史を振り返ることで、奈良公園に棲息する鹿の意味を違う観点から考えてみたい。

列島における食肉の原点たる鹿の歴史は、旧石器時代の霧の中に消えてしまうほど古く、遡って、その淵源を突き止めることができないほどであるが、何と言っても、鹿を最も「有効利用」したのは、縄文時代(約1万年前から紀元前300年くらい)である。
縄文人は、弓や落とし穴によって鹿を捕らえ、肉も内臓も骨髄もすっかり食べて、その皮も角も骨も、それこそ、残らず利用し尽くした。
鹿と双璧をなす猪も、まあ、同様であるが、縄文の遺跡からは、猪の像が出てくることから、何らかの意味で神格化されていたようであるが、鹿は、徹頭徹尾、衣食住のための「原料」だったようだ。

出土鹿
縄文時代前中期(約5,500年前~4,000年前)・青森県の三内丸山遺跡から出土した鹿の角

もちろん、縄文人は、鹿や猪の他に、狐、狸、熊などの多種多様な四つ足獣を食したが、ひとつだけ、例外がある。
それは、なんと、犬である。
一万年の長きに渡って、縄文人が、犬を食べたという証拠はほとんどない。
何でそんなことが分かるかというと、食べた獣の骨は、バラバラになって出てくるが、犬に関しては、一体にまとまった形で、丁寧に埋葬された状態で出土する。
あるいは縄文人は、狩猟の友である犬を大切に飼育していたのである。

縄文鹿
縄文人の冬の狩り・鹿の解体(想像模型・ 新潟県立歴史博物館)

ところが、渡来系の弥生人が列島にやってくると、事態は一変する。
弥生時代は、本格的に「栽培」が始まった時代ではあるが、同時に、縄文以来の狩猟採集の伝統もどこかで途切れずに継承されていて、農閑期には、鹿や猪も狩っていた(養豚も始まっていた)。
ところが、弥生時代の遺跡から出土する犬は、ほとんどバラバラで、解体して遺棄された骨格として出土するようになり、明らかに食べていたことが分かる。
その代わり、鹿は、食べていたにもかかわらず、鹿の(銅鐸)絵や埴輪が作られていることから、縄文とはうって変わって、ある種の「神格化」」の痕跡が推察できるのである。

さて、犬に関してであるが、列島の歴史の中では、弥生時代以降幕末まで、食べ続けられていたのだが、これは、何も珍しいことではなく、今でも、アジアでは、犬は広く食されており(韓国料理のポシンタンなど)、むしろ、犬を食べなくなったわれわれ明治以降の列島人のほうが、よっぽど特殊で例外的な存在なのである。

列島の肉食の歴史にひとつの事件が起こる。
七世紀に仏教が伝来すると、朝廷は正式に肉食の一部を禁じるのだ。

天武天皇四年(675年)と言えば、春日大社が創建されるおよそ100年ほど前のことであるが、『日本書紀』のその年に関する記述ににこうある(因みに、『日本書紀』の編纂の長は、天武天皇の五男の舍人(とねり)だったので、以下の記述は、ほぼ同時代の出来事に当たる)。

「今後、漁労や狩猟を営む者に、檻、穴、機槍(ふみはなち)などの仕掛けの類を設置することを禁ずる。また、4月1日から9月30日まで、簗(やな)を設置することを禁ずる。また、牛・馬・犬・猿・鶏の肉を食することを禁ずる。これ以外は、事例とはしない(自今以後、制諸漁獵者、莫造檻穽、及施機槍等之類。亦四月朔以降、九月卅日以前、莫置比彌沙伎理・梁、且莫食牛馬犬鷄之宍。以外不在禁例)」。

この文書だけから分かること。

まず、狩猟や漁労の仕掛け(檻、穴、機槍、簗)。
いずれも、縄文弥生時代以来、近世まで伝わっている鳥獣の伝統的捕獲法である。

さらに、牛・馬・犬・猿・鶏の食肉をわざわざ禁止しなければならなかったということは、逆に、これらの鳥獣を食する習慣があったということ。

また、さらに、肉食を禁じているわりには、この禁止リストの中に、食肉の二大巨頭たる、鹿と猪が入っていないことである。

しかも、肉食が禁止されているのは、四月から九月までであり、ほぼ、田植えから稲刈りまでの時期だけで、鳥獣の肥えて美味なる秋冬は、大いにこれを食してもよいということである。

これはまた、一説によると、『涅槃経』の「犬は夜吠えて番犬の役に立ち、鶏は暁を告げて人々を起こし、牛は田畑を耕すのに疲れ、馬は人を乗せて旅や戦いに働き、猿は人に類似しているので食べてはならない」という文書に影響されたらしい。

以上のことから、どういうことが推察可能か。

・稲作を「日本国」の基幹業とし、伝統的な狩猟採集業を押さえようとした。
・牛・馬・犬・猿・鶏は、益獣なので、肉食を禁じはしたが、鹿・猪は、農耕にとって害獣でもあるわけで、それらの駆逐と安定した食糧確保のため、禁食リストからはずした。

というところであろう。

ただ、天皇の詔(みことのり)とは言え、当時の列島で、「日本国」だった地域は、広く解釈しても、せいぜいが、北は多賀城(仙台北部)まで、南は北部九州までで、それ以外は「日本国」ではなかったばかりか、畿内以外の山海奥地では、なんと異国風で奇妙なお触れであるかと、呆れ果てるか、大笑いしたに違いない。

古墳鹿
古墳時代の鹿の埴輪(出雲出土)

戦乱や天災や悪政による破壊と、その後の再建を、馬鹿のひとつ覚えのように繰り返した奈良の寺社建築物。
同じように、人間という、最も愚かで残酷で貪欲な生物のために、その時々のとんだとばっちりを被った鹿たち。
そういう歴史の一切合切の結果として、現在の奈良があり、それがまた、とびきりに「美しい」。

さて、鹿の問題を片づけてしまいたい。

天武の詔勅にも禁制を免れた鹿は、無論、その後も食べ続けられたが、かと言って、禁止された牛・馬・犬・猿・鶏も、世間では、幕末まで食べ続けられた。
食べられた当該動物の遺物が「食べられた証拠になるような状態で」出土するので、これは厳然たる事実ではあるが、事実だからと言って、何ら、臆することはない。
第一、朝廷の親分である天皇自身が、パクパク食べている記録が残っているのだから、何ら、忸怩たるを要さない。
それどころか、日本列島の食文化が、アジアのそれと同一だということを再確認させてくれるので、啓発的でもある。
かといって、これら食用鳥獣は、決して、列島人の「主食」格ではなく、あくまでも、五穀蔬菜の付属食であったのは、言うまでもない。

にもかかわらず、天武の詔勅のおよそ100年後、春日の杜(奈良公園)の鹿「だけ」が神鹿として崇められ、狩猟の対象とするすることを禁じられたのは、何と言っても、仏教がその原因であると思う。

江戸鹿
(将軍鹿狩りの図・江戸時代)

***

鹿苑寺・金閣寺という。
何故か。

釈迦族の王子の仏陀(ゴーダマ・シッダールタ)が初めて説法をした場所が、サルナートSarnath(鹿野苑/ろくやおん)であり、その名に因んでいるからだ。
事実、サルナートでは、当時、鹿が多く棲息したというし、現在でも、奈良公園のように鹿がいる(ただし、檻内での飼育)。
8世紀の大和の支配者たちは、インドの仏教の聖地サルナート(ベナレスの北10㎞ほど)への、一種のエキゾチックな憧れから、鹿肉食という列島の大伝統に逆らうようにして、春日の杜を「鹿苑(鹿の園)」にしようとしたのではないだろうか。

その想像が正しいかどうかは分からないが、8世紀の日本人には、異国風なこの領域が、ディズニーランドのような「神域」に感じられたのではないだろうか。

日本列島の町並みは、明治以来、急速に個性を失い、太平洋戦争後は、急速に、表層的で非現実的で疑似娯楽的な空間に統一されつつあるが、私には、その理念型が、ディズニーランドのような気がしてならない。
お母さんの握ったおにぎりを持ち込むことすら許さない、原住民の文化と隔絶された、米国流商業主義の殿堂ディズニーランド。
奈良時代の「鹿野苑」が、あたかも、明治時代には「鹿鳴館」(文明開化の殿堂)に変貌したかのようであり、ディズニーランドは、いわば、米国留学を果たした、鹿鳴館の曾孫あたりに当たるのではないか。

8世紀には、まだ、狩猟採集を基本とした非日本国「民」が、縄文以来の高度な狩猟採集生活を送っていたというのに、この、渡来人系の豪族の作り上げた都の中にある春日の杜という敷域だけは、鹿を狩ってはいけないという。
つまり、列島伝統の食文化の代表たる鹿を狩ることさえ許さない領域。

「奈良公園」は、いわば、大宝律令以来、古来日本列島に暮らしてきた人々にとっては荒唐無稽でしかない「中央(天皇)」文化が、半ば強制的に列島の隅々まで行き渡る、その発信モデル地区だったのではなかったか。

と、ここまで書いて、無理をしてでも、鹿は、全然悪くないことを思い出さなくてはならない。

***

鹿の園に迷い込んでしまい、なかなか抜けられない。
最近は、散歩している犬さえ、鹿に見えてくるし、夢の中にまで鹿が登場し、ビェ~と鳴きだす始末。
「鹿払い」をするためには、やはり、全部書いてしまうしかない。

てなわけで、今しばらく、お付き合い願いたい。

もしも、縄文人が、奈良公園にタイムワープしてきたら、狂喜乱舞するに違いない。
人間に対し何の警戒心もない鹿たちが、あんな狭い空間に1200頭もたむろしているのだから。
かと言って、縄文人は、得意の弓で全部の鹿をしとめてしまうことはしないだろう。
当面、必要な頭数だけを殺め、それを食べる。
ただそれだけのことであろう。
狩猟採集を基礎に生きなければならない人間たちが大抵そうであるように、縄文人は、無謀な乱獲はしないであろう。
乱獲をすれば、自然のバランスが崩れ、いずれ、自分たちが滅ぶことを知っているからである。

そういう縄文的な知恵が失われ始めたのは、たぶん、弥生時代からで、大和政権時代に加速し、明治期にさらに加速し、太平洋戦争後には、もう、どうしようもないぐらいに節操も消滅し恥も外聞もなくなり、ついに、その知恵が、もう、ほんのかけらぐらいしか残っていないのが、われわれの「預かっている」現代である。
現代の文明は、繁栄すればするほど、それだけ死に近づいているように思われる。

そんなテーマに、果敢に取り組んだ作品が、宮崎駿のアニメ『もののけ姫』(1997年)である。
簡単に図式化すると、縄文的な狩猟採集の原理と弥生的な稲作原理の闘争の物語。
すなわち、陸奥を本拠地とする縄文人の末裔であるもののけ姫サンと、エボシの率いる弥生人の末裔である製鉄集団との闘争の物語化である。

注目したいのは、この作品の中に出てくる自然を体現する大神は、「シシ神」と言う。
「鹿」として形象化されているシシ神は、森の生命の中心的な存在として、まさしく、列島における鹿の位置づけを正確に反映している。
無論、「シシ」とは、既に書いたように、「肉」を意味する「鹿」の語源であり、宮崎駿も、このことから、シシ神と命名したのに違いない。
因みに、この物語には、食肉の両巨頭として鹿と双璧をなす猪も、人間によってその存在の基盤を破壊され、「荒ぶる」もののけと化した恐ろしい姿で見事に描かれている。

破壊し続けられた自然は、荒ぶる怨霊と化し、森を切り開き文明という人間中心で身勝手な世界を築こうとするタタラ集団に復讐を遂げることで、この物語は、まるで「振り出し」に戻されたかのように、後に残された人間たちは自然の中に放り出されたような状態で幕を閉じる。

まるで、その重い課題を、われわれに託すように・・・。

さて、『もののけ姫』の、鹿として形象化されたシシ神の角を見ていただきたい(奈良へ11の写真参照)。
まるで、草木の爆発的な生長力(豊饒)を象徴するような立派な角である。

今回、われわれが奈良公園を訪れた際、ちょうど、園内の「鹿苑(ろくえん)」にて「鹿の角切り」の行事が行われていた。
毎年、10月上中旬に行われる慣わしで、ちょうどその季節に当たったのは幸運ではあったが、700円の拝観料を取るということを知って、急に胡散臭いものを感じて興ざめし、見るのをやめた。

それは、さておき、秋になると雄鹿の頭にそそり立つあの立派な角は、われわれはあたかも、何年もかけて成長するものと考えがちであるが、実は、さにあらず。

雄鹿の角は、全部「一年もの」なのである。
つまり、春になると小さな突起が現れ、まるで植物のように次第に大きくなり、秋になるとほぼ最大に達するが、冬になると、自然と角は頭からはずれて、ぽろりと落ちてしまうのだ(「落角」という)。
そして、春になると再び「袋角」が発達し、それが角として成長し始める・・・。

縄文の遺跡から、何故、あんなにたくさんの鹿の角とその加工品(釣り針・角鏃など)が出てくるのか不思議だったが、これで納得がいく。
縄文人は、鹿の肉だけが目当てだったのではなく、その角も重要な資源だったわけだから、まず間違いなく、鹿狩りは、毎年、角の育った秋以降に行われたはずである(その肉も、猪同様、秋以降が、脂がのって旨いはず)。
しかも、毎年、新たな鹿の角が入手可能だったので、あれだけ大量の鹿の角の遺物が発掘されるわけだ(そう言えば、『もののけ姫』の、森の中心にある沼の水底にも、シシ神の生え代わった角がたくさん沈んでいたように記憶する)。

しかし、冬になれば、多くの木の実と同様、どうせ自然に落下してしまう鹿の角を、奈良公園(興福寺・春日大社)では、何故にわざわざ角切りをするのか。
「鹿の角切り」の行事の歴史は、比較的新しく、江戸初期の1671年で、秋になると鹿は発情期に入るので鹿同士が角突き合いをしたりして傷を負ったり、、人間に怪我を負わせたりすることを防止するために始められたという。

ただ、稲作農耕が本格的に始まった弥生時代以降、鹿が神格化されている事実は、実は、鹿の角と関係があるような気がしてならない。
というのは、春に生え始め、秋に完熟する鹿の角の成長のサイクルは、春に田植えをして秋に稲刈りをするサイクルとまったく一致するからである。
そのサイクルの一致に気づいた弥生人は、鹿に自然のサイクルの象徴を見いだし、一種の神格化を施したのではなかったか。

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鹿の角の年間サイクル

とは言え、ここに大きな矛盾が生まれた。
鹿は、既に書いたように、肉食の最大資源だったにもかかわらす、農耕民にとっては、作物を荒らす害獣である。
神格化して保護の対象になれば、作物を荒らされるし、鹿の肉が食べられないことになる。

その矛盾を正直に表現しているのが、天武天皇四年(675年)の「肉食禁止令」ではなかったか。
肉食を禁止をしておきながら、禁止リストから、鹿を除外しているというのがそれである。
ただし、8世紀になると、現在の奈良公園の鹿だけは、禁猟とされたのは、驚きとしか言いようがない。

天武天皇四年(675年)の「肉食禁止令」の約100年後、春日の杜の鹿は禁猟の対象となった。
既に触れたように、ためにこの禁を犯した者は、江戸時代に至るも、死罪という厳罰が課せられた。

日本列島から遠く離れたイギリスでも、中世期(10~13世紀頃)、同じようなことがあった。
イギリスでも、鹿の肉獣としての重要性は日本列島と同様であったが、フランスのノルマンディに根城を築いたヴァイキングの末裔(ノルマン人)がにわかに力をつけて、イギリスに大挙攻め込み、国そのものを簒奪した(1066年「ノルマン人の征服」)が、そのノルマン朝の王が、シャーウッドの共有林などを王室専用猟場と指定し、平民による鹿の狩猟を禁じ、これを犯す者をことごとく死刑に処した(日本では、海外からの侵入によって、「国」そのものを奪われるという経験と言えば、元寇の際に危機的な状況にはなったが、低気圧や台風により難を逃れ、1945年以降の米国の占領以外はその例がないが、イギリスは、紀元前後の古代ローマ帝国による占領を初め、何回か被占領の経験することになるが、一番決定的だったのは、この10世紀の「ノルマン人の征服」である)。

これに果敢に挑戦したのが、有名な義民ロビン・フッドである。
弓の名手として知られるロビン・フッドは、王の定めた理不尽な禁猟法をわざと犯し、鹿を狩り、それを糧に森の中で仲間たちと暮らし、ときに街道筋で悪代官を襲って金品を奪い、民衆に分与したという。

しかし、イギリスの場合、問題だったのは、鹿の神格性ではなく、共有林とそこに住む鹿の「所有権」であり、これを王が「独占」したことが原因であったので、ロビン・フッドのような民衆のシンボル(実在の人物ではないようであるが)の闘争により、再度、共有化されれば問題は解決した。

イギリスの例を出したついでに、アメリカの例を一つだけ。
何と言っても、ローリングズ原作の『仔鹿物語』(1938年)であろう。
1947年度に、グレゴリー・ペック主演で映画化されたことでも有名である。
この物語は、大変に分かりやすい。
母鹿の死んでしまった子鹿を少年が飼い始めかわいがるが、子鹿が成長するに連れて、畑の耕作物を荒らすようになったので、少年は、悩んだあげくに、鹿を殺すという話である。
ペットと害獣の矛盾と、少年の社会化された大人になる物語である。

***

年末に、フレンチ料理の店(葛飾区)に行った。
以前にも、この店で、蝦夷鹿のステーキなるものを食べたのだが、今回、再び注文してみた。
厳密に言えば、蝦夷鹿のステーキを注文したのは私ではなく、連れの女性だったのだが、一口もらって食べた感じは、前回と同じで、やはり、「美味しい」と言えるものだった。
適度な歯ごたえがあって、噛むほどに滋味が滲み出てくるような感じとでも言おうか・・・。

だがしかし、その「美味しい」という感覚の内実が自分には曖昧で、この場合の「美味しい」には、「牛肉のようである」という意味合い、ないしは、「鹿にしては」美味しいという意味合いが含まれていないか、私は、自問自答せざるを得なかった。

現在の日本列島に暮らす多くの者は、豚・鶏・牛の肉の「素(す)」の味を知っている。
だからこそ、串焼き屋に行って、それぞれの肉の味を楽しむことができる。
魚類にしてみたところで同様で、われわれは、それぞれの魚介の「素(す)」の味を知っているからこそ、寿司屋のカウンターに座って、あれこれのネタを順繰りに楽しみことができる。

そう言えば、いつだったか、テレビを見ていたら、十代の名前の知らないアイドルが、戻り鰹(晩秋以降、寒流を下ってくる鰹)の刺身を食べて、こんなことをホザいた時には、ブラウン管越しに、殴ってやりたくなった。

「えーっ、これって鰹ですかぁ!超オイシイぃ・・・。まるで鮪みたいぃぃぃ!」。

美味しい魚の代表が鮪であるという、世間で罷り通っている「偏見」に対して、今さら、ごちゃごちゃ言う気ははないが、何かを褒めるときに、それとは「別のものに似ている」から「良い」という感覚に、無性に、腹が立った。

少なくとも、この砂利(ジャリ)タレ女は、寿司屋に行く資格はないぞ!

キャビアに似ているという理由で鱈子がうまいと言い、牛肉に似ているからという理由で馬肉がうまいと言い、ヨーロッパに風土が似ているから北海道が良いと言い、西欧人に似ているから美人だと言い、どこかのアイドルに似ているからカッコイイと言う・・・。

自分たちの国は、西欧の国々に似ているから、中国や朝鮮よりも偉い!・・・
どこかで聞いたことがある言い草ではある。

しかしこれは、何と醜悪で恥知らずな嗜好であろうか。
(アパルトヘイト時代の南アフリカ共和国で、有色人種としては日本人だけが「名誉白人」とされていることを自慢げに語っていたのは誰だ!)

では、他ならぬこの自分も、鹿肉は、「鹿の肉の味がするのでうまい」と自信をもって、言えるだろうか。
いや、悔しいが、言えない。
肉の「素(す)」の味を知らないからだ。

フレンチ料理店の話に戻ろう。

このレストランのシェフの仕事は、私のような素人から見てもすごい。
山海の食材を大胆にフランス料理として仕立てていく巧みさと冒険心には、いつも驚くばかりである。

われわれが、大方食べ終わって、「あ~、生きててよかった!」と満足感に酔っていると、厨房からシェフが出てきて、われわれのテーブルまで挨拶にやって来た。

「どうでしたか?」。
シェフは、われわれに、感想を聞きにきたのだ。
「はい、大変美味しかったです」というこちらの応答が言い終わらぬうちに、「蝦夷鹿はいかがでした?」と訊いてきた。
やはり、このシェフにしてからが、鹿肉の塩梅が、一番、気になるらしい。
「前にもいただきましたけど、今回も、とても、美味しくて・・・、臭みもなかったし・・・」と応えながら、我ながら、何気なく口をついて出た「臭み」という言葉の中にある軽薄な調子に気づき、口ごもった。

「臭み」とは何か。煎じ詰めれば、その素材独特の香りのことのはずである。たとえば、薩摩芋の匂いのしない芋焼酎なら、飲まない方がましである。

シェフは、後を継いで言った。
「臭みのない鹿肉を手に入れるのが大変でして。今回使った鹿肉は、なかでも、一番臭みの少ないものです。でも、北海道の地元の人に言わせれば、臭みの強い肉の方が美味しいと言うんですが、試しに食べてみたら、何というか、肉全体が、レバーのような味なんで、難しいものです」。

なるほど、そうか。
この場合の「臭み」というのは、鹿肉の匂いというよりもむしろ、「血」生臭さのことだったのだ。

ここでちょっと寄り道をしたい。

われわれの魚の調理法、というか、処理法についてである。
たとえば、釣りをする人はよく知っていることだが、「野じめ」ということをやる。
鯛のような大きな魚ならば、釣り上げるなり、首と尾にナイフを入れ、血抜きをする。
鰺や鰯のような青物は、首をポキッと折ってしまえば、頸動脈から瀉血できる。
これをせずに、自然死させると、肉に血が周り、多少、生臭くなるからだ。

ただし、魚介類には相当にうるさい日本人は、その魚の血の味も、必ずしも嫌いなわけではない。
たとえば、鰹(青物)の刺身の味は、ある種、血の風味であるし、鮭の「めふん」(血腸)はなども、この類かもしれない。

また、血の味とはやや違うが、魚の腸(はらわた)の味も、われわれは好む。
秋刀魚や鮎の腑(キモ)は美味だし、鱈や河豚の白子(精巣)、アンコウやカワハギのキモ(肝臓)は御馳走である。
また、鰹のキモの塩辛(酒盗)や、最近スーパーなどでもよく見かける韓国由来のチャンジャ(鱈の腸の塩辛)も、立派な魚の内臓料理である。
さらに、鱈子、筋子、数の子(ニシンの卵)なども、腹わたの一部だと言えなくもない。

このように、われわれ日本人は、魚に関しては、臓物まで含めて、一匹丸ごとを食べ尽くす文化環境にいるわけだ。

この、日本における魚の嗜好に言えることすべてが、牧畜文化圏においては、畜獣について言えると思ってよい。
多彩で豊富な畜獣料理の(骨髄料理、血のソーセージ類、脳味噌料理、チーズ類など)も、われわれの魚料理に勝るとも劣らない。
そして、われわれが魚に施すような「血抜き」の工程を含む「屠畜解体」の技法も、無論、そこにはある。
ただし、血抜きをするのは、必ずしも、血の臭みを嫌うからではなく、血は血で別に取っておき、血のソーセージ(韓国にもありますね)や飲料(ベドウィン族など)として利用するためで、要は、血抜きをすることで各部位の風味をより直接的に味わうのが目的ではないか。

自分なりに、いろいろと調べてみた結果、次のことが言えそうである。

魚にしろ、四つ足獣にしろ、また、原始部族にせよ、高度資本主義社会にせよ、人間が食用を目的に脊椎動物(背骨のある生物)を解体処理する場合の基本は、「絶命と同時に血抜きをし、内臓と枝肉とを分ける」ということである。

ところで、どこで読んだかどうしても思い出せないが、すき焼きの歴史を読んでいたときに、明治期のすき焼き(牛鍋)草創期には、牛肉の「臭み」が強く、最初は、鍋の中央にてんこ盛りにした味噌で臭みを誤魔化しながら食さなければならなかったほどで、この「開化」的な食材を敬遠する人が多かったらしい。
ところが、牛豚の解体(血抜き・内臓抜き)および流通機構が確立され始めると、その「臭み」がなくなり、(関東大震災後には)すき焼き(味付けは「どじょう鍋」から発展)が爆発的に普及したという。食肉としての流通プロセスが確立され、血生臭さがなくなったというわけだ。

鹿肉にも同じことが言えそうであるが、それでは、どうして鹿肉は血生臭いのであろうか。

この背景にあるものは、実は、案外単純な事実だった。

いつだか、テレビで、豚をペットとして飼っている人の話が出ていた。
薄ピンク色のかわいらしい子豚に犬用の首輪を付けて、しっぽにはリボンまで付けて、公園を散歩させていた。
不忍池の鴨を見ても涎の出る私は、思わず、「美味そうだなぁ~」と呟いていた。

もし私が豚をペットとして飼うとする。
まるまると成長するに及んで、やはり、美味そうなので食べてしまおうと思ったとする。
で、その豚ちゃんの命を奪って解体して、豚カツにして食べてしまった。
ダメです、これはいけません。
違法なんです。

ところで、もし私が子鹿をペットとして飼っていて、同じことしたら(豚カツならぬ「鹿カツ」にしたりして)どうか?
これは違法ではありません。
どんどん、食べて下さい。

どうしてなのか。

実は、一般には、あまり知られていない法律に、「屠畜場法」というものがある(私も今回初めて知った)。
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S28/S28HO114.html

その第一条(この法律の目的)には、「と畜場の経営及び食用に供するために行う獣畜の処理の適正の確保のために公衆衛生の見地から必要な規制その他の措置を講じ、もつて国民の健康の保護を図ることを目的」とするとある。

いかにも条文らしい、ややこしい言い回しだが、つまり、安全な食用獣畜を供給するための法律である。

で、その第十三条に、法的な条件を整えた「屠畜場(食肉処理場)」以外の場所で屠殺解体してはならない(「何人も、と畜場以外の場所において、食用に供する目的で獣畜をとさつしてはならない」)とあるので、勝手に豚君を「ばらした」私は、法に触れることになる。

では、鹿の場合はなぜ許されるのか。

この法律で述べている「獣畜」とは、「牛、馬、豚、めん羊及び山羊」(第三条)に限られるからである。
つまり、鹿は、このリストに入っていないので、勝手に屠殺解体しても、一向に構わないわけだ。
因みに、鶏もこのリストに入っていないからこそ、昔から、自宅の庭で「しめて」、鶏鍋にしていたのである(但し、鶏の食肉加工工場はあちこちにある)。

また、ここで注目してよいのは、既に書いたように、天武天皇四年(675年)の詔(食肉禁止令)と同様、この「屠畜場法」でも、列島における食肉の二大巨頭たる、鹿と猪が入っていないことである。
法律というのは、何と恣意的なものであろうかという気がしてくる。

では、その「屠畜場(食肉処理場)」ではどのように、屠殺解体が行われているのであろうか。

以下、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の屠畜場の項目から引用させていただきたい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A8%E7%95%9C%E5%A0%B4

> ・・・搬入されシャワーで汚れを洗い流してから食肉衛生検査所の
> 獣医師の免許を持つ「と畜検査員(ほとんどは都道府県や政令指定
> 都市の職員)」による病気等外観の検査(生体検査)を受ける。屠
> 殺は、前頭部への打撃あるいは電撃によって昏倒させたあと頸動脈
> を切開し、両後肢の飛節に通した鉄棒で吊り上げ、失血死させると
> いう方法で行われる。屠体はそのまま施設の天井に取り付けたレー
> ルに沿って各作業配置を順に廻り、解体されていく。途中で適宜と
> 畜検査員により病変組織のサンプリングと検査が実施される。解体
> 順序はごくおおざっぱに言って、頭部切断・剥皮・内臓の摘出・背
> 割り・枝肉検査などと続き、半頭分の肉の塊(半丸枝肉)となる。
> たいていは解体ラインの階下に白モツなどの内臓を分別・洗浄・パ
> ッキングするための作業場があり、ラインで切り離された臓器をシ
> ュートに投入することにより下の作業場に送られる仕組みになって
> いる。 ・・・

要約すると・・・、

・洗浄と生体検査
・屠殺と頸動脈切開による失血
・内臓を抜き、魚流に言えば、二枚におろす

という工程になる。

というわけで、鹿に関しては、屠畜場(食肉処理場)で解体する義務がないかわりに、捕獲した人たちが自分流に解体していることになる。このため、絶命してから長時間放置されたり、血抜きがなされなかったり、不十分だったりで肉質にばらつきがあって、「臭み」が残ることもあるのではないか。

ところで、本稿では繰り返し、鹿肉は「血生臭い」と書いてきたが、実は、四つ足獣の中で一番「癖」がないのが、鹿肉だというのが、むしろ、大方の評価なのである。

たとえば、社団法人エゾシカ協会会員の発言によると、「日本人がふだん食べ慣れている豚肉や牛肉に比べると、とてもあっさりしてクセがない、という印象かも知れません。野生動物ですから、筋肉に余分な脂肪は一切ありません」(http://www.yezodeer.com/qbox /qbox03.html)。

また、フランスを中心に、古来、ジビエ(gibier)料理という部門の「野禽獣」料理が盛んである。
鉄砲で捕らえた山ウズラ(ペルドロー)、山シギ(ベカス)、雷鳥(グルーズ)、野ウサギ(リエーヴル)、鹿(シュヴルイユ)などの野生の禽獣を食べさせるジャンルの料理で、たとえば、日本の高級フランス料理店で出される兎や鹿は、フランスで、この方法によって捕獲処理された素材である場合が多いという。
その中でも、一番さっぱりしていて癖のない肉の定番と言えば、やはり、鹿肉なのである。

野獣としての鹿の解体は、大抵、猟場のハンターに依存せざるを得ない。
鉄砲による狩りなので、捕獲(射殺)と同時に絶命するからだ。
ところが従来、山野で射殺された鹿は、ほとんどの場合、その場で適切な処理がなされないまま流通にのってしまうため、どうしても、臭みが残り、鹿肉本来の味が分かりにくくなりがちである。

つまりは、鹿も、牛豚羊と同様の解体処理をおこなえば、美味しい鹿肉が食べられるはずである(猪についても、同様であろう)。

ネットで調べてみたら、案の定、うまい鹿肉を供給するために、北海道では、エゾシカ協会という組織が設立され、現場のハンターに、次のような「クリーンキル」という捕獲処理法を指導推奨している。
http://www.yezodeer.com/index.html

> 動物福祉の立場から、できる限り苦痛の少ない方法でシカを射殺し、
> おいしい肉が回収できるように収穫しなければなりません。これを
> クリーンキルといいます。
> できる限り短時間に殺処分するためには、急所、すなわち中枢神経
> 系(脳か脊髄)か循環器系(心臓や動脈)にダメージを与えること
> がいいのですが、同時に放血が速やかに行なわれ、ただし、消化器
> 官などに傷をつけて消化管内容物で肉が汚染されることのないよう
> にしなければなりません。
> その点でベストショットは頸椎を破壊すると同時に動脈を切断し体
> 外に短時間で放血する頸部着弾ですが、これはかなり難しいショッ
> トになります。そこで、胸部にあたるように撃ち、心肺機能を破壊
> すると同時に胸腔内へ大部分の出血がおこるように撃つことが薦め
> られています。
> こうして撃てばシカは短時間に絶命し、放血も十分行なわれ、かつ
> 横隔膜以下の内臓(胃・腸管・肝臓など)を傷つけることなく、お
> いしい肉が収穫できます。

この「クリーンキル」という処理法は、猟場において、まさしく屠畜場と同様の「血抜き」効果を施すことを目的にしていると言ってもよい。また、それを普及指導するための講習会なども開催されている。
http://www.vill.nishiokoppe.hokkaido.jp/Villager/Ryouku/INDEX.HTM

このような努力がなされているので、美味しい鹿肉が、われわれの食卓に上る日は近いのではないか。
いや、既に可能なのである。

たとえば、北海道上川郡の上田精肉店では、「クリーンキル」によって捕獲された鹿肉を通信販売している。
http://www.ezodeer.com/
その商品リストをご覧いただきたい。
http://www.ezodeer.com/mart/index.html

はてさて、これでしばらく鹿について考える必要はなくなったかもしれない。
あとは、通販で取り寄せてじっくりと料理して食べるだけであると思いたいものである。(了)
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