日々の身辺雑記や考えたことなどを徒然なるままに書き連ねる「断腸亭日録」です。
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断腸亭日録~自転車日記
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2015.05.05 Tue
5月5日(火)日光登山~中禅寺(立木観音)を参る
「5月5日(火)日光登山~中禅寺(立木観音)を参る」

輪友に付き合って巡り始めた「坂東三十三観音」巡礼。
いよいよ難所の中禅寺(立木観音)を参ることにする。

これまでも、自転車で訪ねてきた以上、今回も自転車で行くのが当然なのだが、なにせ、日光から中禅寺湖まで登る「いろは坂」は、自転車(や徒歩者)にとっては地獄道。

坂なのは仕方ないのだが、交通量が多くて自転車で走ってもちっとも楽しくない。
言わば、環七がそのまま坂になったような酷道である。

ならば、いっそ徒歩で、「いろは坂」よりもましな「登山道」を登ろうではないかということになった。

参加者は、発起人のBさん(鎌ヶ谷)とやまびこさんご夫妻(四ツ木)と私の4人。

7時半過ぎ、北千住駅から東武線特急(けごん)に乗り込んで、一路、東武日光駅へ。

日光市営バス(足尾行)に乗って、「栃木平」でバスを降りる(途中、大渋滞)。

しばらくは、立派な舗装路のつづら折れ道を登る。
これが、「日足トンネル」が開通する以前の、国道122号の旧道であることを途中の標識で知る。

途中から、舗装路とおさらばして、「茶の木平」方面を目指し深山に分け入る。
登山道としては、あまり整備されておらず、クマザサ原の獣道を歩く。
かなりの急勾配の所もあって、普段、徒歩量の少ない私にとってはつらい道のりだった。

それでも、尾根道を辿る旅程は楽しかった。
雪渓をいただく連山の遠望。
間近に並ぶ男体山。
眼下に華厳滝の音を聞く。

「細尾峠」を越えて、「茶の木平」に至った所で、実は、われわれは道を誤ったようだ。
せっかく苦労をして辿り着いた先は、「明智平」だったのである。

ここまでで疲労困憊。
中禅寺(立木観音)までは、直線距離にして3キロほどだったが、地獄の近代トンネルを歩くのはあまりにも馬鹿馬鹿しいので、バス(大込み)に乗って中禅寺湖へ(何と、10分ぐらい)。

バス停から中禅寺(立木観音)まで歩いて、やっとお参りができた。
Bさんも、御朱印をもらって、読経をあげることができた。

一同疲れ果てて、バス(大込み)で、東武日光まで降りて、駅前の寿司屋で反省会。

特急はすべて満席にて、普通列車を乗り継いで帰還したのだった。

やはり、普段から歩いていないので、私にとってかなりシンドイ行程だった。
これからも、努めて歩くようにして、足腰を強くしなければならないと反省。

それにしても、山登りは楽しい。
次は、江戸期の碓氷峠越えをやろうという計画も上がっている。
楽しみである。

https://www.facebook.com/atsushi.nagae.9/posts/691959647580126


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2015.01.31 Sat
1月31日(土)葛飾郡歴史散歩~荷風にならいて
「1月31日(土)葛飾郡歴史散歩~荷風にならいて」。

今回は、自転車ではなく、徒歩での散策。

この企画は、2年ほど前に私が書いたブログが発端。

永井荷風が1947(昭和22)年に書いた「葛飾土産」という小文があって、その中の、とりわけ、「葛羅之井(かつらのい)」についての実地検分を報告した記事なのですが、書いているうちに、いくつもの疑問が湧き出てきた。
http://danchotei.blog75.fc2.com/blog-entry-775.html

当時、Bさん(鎌ヶ谷)が、それについて、詳しいコメントを何通も寄せてくれる(因みに、Bさんとの出会いはこのブログ記事がきっかけ)。

いずれ、再度、実地調査をしなければということを確認しつつ、そのままになっていたのですが、つい最近、同地に土地勘のある壽光庵さんという方が、様々な疑問に答えるべく、丹念に調査してくれた結果をコメントに書き込んでくれた。

それではこの際、Bさん、壽光庵さん、そして私の3人で、実地調査をしてみようということになった次第・・・。

永井荷風が、戦後「発見」した「葛羅之井」の石碑を手がかりに、謎の「葛飾明神社」と「萬善寺」の比定地を探索。
さらに、古道を辿りつつ、日蓮と縁が深い中山一帯を散策。
10キロほどの道のりを、輩(ともがら)5名とてくてく。

ああだこうだ言いながらの行きつ戻りつの散策は、とても楽しかった。

〆は、荷風御用達の「大黒家」で、荷風セット(カツ丼+お銚子)。
五臓六腑に染みわたる。

やはり、その土地を本格的に探るには、自転車はダメ。
人間は、時速10キロを越えると、路傍の詳細が「触知」できなくなるからだ。

最終にして最高の移動手段は、古今東西において、「徒歩」であることを痛感。

順路;

経路地図(Bさん作);
http://latlonglab.yahoo.co.jp/route/watch?id=ca5fea7cc809da534588c4647b940385

京成線西船橋駅(南側の1番出口)に10時半集合。
→「勝間田の池」跡(「勝間田公園」・「船橋街道の傍」)
→現「葛飾神社」
→「磯丸水産」にて、軽い昼食を取りながら作戦会議。
http://tabelog.com/chiba/A1202/A120201/12032925/
→「葛羅之井」
→「葛飾明神社」比定地・「萬善寺」比定地探索
→「常楽寺」
→「明王院」
→「若宮八幡宮」(現「若宮八幡神社」・「奥の院より1丁ばかり東」)
→「奥の院」
→「中山法華経寺」(茶屋「額堂」で休憩)
→「高石明神社」(現「高石神社」・「八幡より東の方、佐倉街道鬼越村深町の入口、道より左の岡)
→「葛飾八幡宮」
→「大黒屋」(反省会)
http://tabelog.com/chiba/A1202/A120202/12000794/

・Bさん(鎌ヶ谷)のこの日のブログもご参照。
http://blog.livedoor.jp/kyf01405/archives/43186881.html

・ギブさん(市川)のこの日のブログもご参照。
http://blog.livedoor.jp/gibson1798/archives/51795106.html

http://6119.teacup.com/danchoimage/bbs/1439

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2011.02.19 Sat
湯島散歩
「湯島」(文京区)という地名は不思議である。
不忍池のある低湿地の方角から見れば、武蔵野台地の突端である湯島は、確かに「シマ」ではあるにしても、「湯」の方が分からない。
実は、古代においては、台地の下から湯が湧きだしていたからだという説もないではないが、あまり信憑性のない語源解釈だと思われる。
ただ、「湯島」というのは、「ゆゆしき」シマという意味で、「急峻な崖」を表すという説もあるが、いずれにしても、不明である。

このところ、この湯島を散策することが多い。
今日も、気心の知れた仲間たちと湯島を散歩することにした。

湯島台の下は、先ほども書いたように、現在でも、不忍池を擁する湿地帯(下谷)で、上代までは、このあたりは、広大な葦原を有する汽水域だったようである。
ところが、巨大な湾を形成するように上野台地が回りこんでいるので、かつては、静かな入り江のような地形だったにちがいない。
私のよく知る地域で他の例をあげれば、隅田川の代わりに江戸川を近くにひかえ、台地が入りくんでいる松戸や市川(ともに千葉県)と似たような地形だったのではないか。
差詰め、上野山は、国府台(こうのだい・市川市)のような相貌であったろう。
因みに、現在の不忍通りは、いわゆる「ハケの道」が巨大進化したものとも言えよう。

われわれは、その台地の造り出す湾岸にあたる、不忍池端の上野水上音楽堂あたりで待ち合わせた。

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(弥生末期までは海の入り江だった不忍池)

不忍池は、今も昔も、野鳥の宝庫だったようだが、池端を散策していると、人慣れした野鳥たちが餌をもらえると思って寄ってくる。

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(不忍池の水鳥たち)

のんびりと不忍池を周遊する。
珍しい鳥が現れると、立ち止まっては、鳥類図鑑を開いて、あれは何という鳥なのだろうかと詮索したりもしながら。

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(写真の手前右の海鳥が、なんという鳥なのか、図鑑を見ながら検討中)

池端をさらに歩いていると、「駅伝の碑」なるものを発見。

IMG_0228_20110221070236.jpg
(「駅伝の碑・駅伝の歴史ここに始まる」)

碑の説明を読んでびっくり。
1917(大正6)年に開催された東海道駅伝大会の記念碑で、京都の三条大橋をスタートして、まる3日間かけて、この不忍池端のゴール地点まで走り継いだというのだ。
箱根駅伝が始まったのは、その3年後の1920年なので、見方によっては、この東海道駅伝大会が嚆矢となって、縮小学生版として箱根駅伝が開催されることになったのかもしれない。

われわれは、不忍池の中島にある弁天様でお参りをした後、(江戸時代にはなかった)池の中道を通って、天神下を抜けて湯島中坂を登って、湯島台に上がった。

湯島中坂を登り詰めたところに、「鳥つね」という鳥を食わせる老舗(大正元年創業)がある。
鳥を見た後だから鳥を食べるというわけでもないが、そこで昼飯を食べることにした。
私も、初めて入る店だが、夜は様々な鳥料理を出すが、昼は親子丼のみ。
名店なので、行列ができることが多いようだが、メニューを限定してあるのと、何せ丼物なので出来上がりが早いというせいか、あっという間に客がさばかれて、混んでいても、比較的早く入店して物にありつけると思う。

IMG_0233.jpg
(親子丼。これ以外に、卓上に壺付が置かれていて、こちらは食べ放題。1500円)

親子丼だけで1500円とはちょっと高めであるが、鶏肉も卵も超一流で、火の通し方も絶妙である(超レアの卵のうまさを知っているのは日本人だけかもしれない)。

大満足の昼飯を済ませたわれわれは、いよいよ今日の主たる目的である湯島天神での梅見をする。
土曜日なので、神社内は大混雑で、タコ焼きやイカ焼きやビールも結構売れているようである。

拝殿の背後にある神楽殿では、花笠音頭やかっぽれといった出し物が間断なく賑やかな歌舞音曲を奏でて続けていた。

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(花笠音頭)

その後、われわれは、上野水上音楽堂前の水の枯れた池で車座になって酒盛りをした後、湯島の陋巷の中に紛れ込んだのであった。

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2011.02.12 Sat
雪の浅草~広重の「浅草金龍山」に挑む
雪である。
いつもなら嬉しがるところなのだが、今日は出勤なので悲しい。
悲しいのは、出勤だからというばかりではなく、雪だと自転車で通勤できないからだ。

一度、雪の降る中を自転車通勤してひどい目にあった。
タイヤがツルツル滑って転倒しそうになるし、手袋に雪が積もってシャーベットのようになって、手が凍傷にかかりそうになった・・・。

仕方なく、夜明け前にママチャリで最寄りの駅(金町駅)まで走って、そこからは鉄道で職場に向かうことにする。
祭日の早朝なので、列車も空いていて、お陰で、車内でゆっくり本(最近全巻揃えた『江戸名所図会』)を読むことができた。

列車を降りると、かなり激しく雪が降りしきっていたが、気温が高いせいか、ほとんど積もっていなかった。
それでも、職場に到着して裏庭を眺めると、一面の雪景色であった。

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(職場の裏庭)

夕前に、長くてつまらない試験監督業務をやっと終えて、鉄道で帰路に着く。

雪の浅草が見たくなったので、渋谷から銀座線に乗り込む。

浅草で下車して地上に上がると、この荒天にもかかわらず、たくさんの人が出ていた。
もっとも、その半分近くは外国人だったが・・・。

雷門のところまで歩いてきて、浅草寺の雪景色を描いた、広重の名画「浅草金龍山」を思い出した。
ちょうど、鞄に広重の画集を持っていたので、門の下の雪のかからない所で画集を開いて見直した。

浅草金龍山
(広重「浅草金龍山」)

手前の門が雷門。
遠景の建築物は、仁王門である。
よ~し、これと同じアングルで写真を撮ってやろう!
私は、人混みの中で、一生懸命、何枚も写真を撮影したが、なかなかうまくいかない。

そんななかでも、比較的よく撮れたのはこの写真。

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(断腸亭「浅草金龍山」)

大提灯と雷門の左の柱を入れようとすると、望遠が使えなくなってしまい、どうしても、仁王門が小さくなってしまう。
しかも、現在は、参道に店が建ち並んでしまっているので、広重の絵のように、広々とした中景を捉えるのは、もはや不可能である。
まあ、広重の絵は、遠近を修正しているので、所詮、同じように写真に収めることはできないのだが・・・。

小さすぎる仁王門に満足できなかった私は、そこまで行ってみたくなる。
仁王門の方へ近寄って行くと、人混みの中から不意に艶やかな芸者さんが現れた。
雪嵐の中に、ぱっと大輪の花が開いたようであった。
私は、とっさにシャッターを切る。

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(傘をさす芸者さんと仁王門)

私は、雪の降る中、遠ざかっていくその芸者さんの姿を見つめながら、いつまでも参道に立ちつくしていた・・・。

走行距離:2キロ(単速ママチャリ)

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2010.12.24 Fri
野鳥な一日~水元公園散歩~W・モリスと藤村の鶫
今日も素晴らしい冬晴れである。
部屋の掃除をしなければならいのだが、こんなに天気がよいと、室内でごそごそやっているのはもったいない。
水元公園の方からは、われわれを呼んでいるかのように、小鳥たちが盛んに囀(さえず)りを送ってくる。

呑ちゃんと自転車(6速ママチャリ)で水元公園に出かける。
いつものように、「かわせみの里」に向かうわけだが、途中、森の小径で、度々自転車を止めて、樹上の囀りを眼で追いかける。

今日は幸先良く、二羽の鶫(ツグミ)を確認(撮影)することができた。

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(鶫)

鶫と言えば、私は、二つのことを連想する。

一つは、19世紀英国の大芸術家ウィリアム・モリスによる、素晴らしいテキスタイル・デザイン「苺泥棒(Strawberry Thief)」 (1883年頃製作)である。

Strawberrythief.jpg
(ウィリアム・モリス「苺泥棒(Strawberry Thief)」)

「苺泥棒(Strawberry Thief)」というタイトルがいかにもユーモラスで、かわいらしい暖かみを感じる。
モリスは、ケルムスコット村(オックスフォード県)の自宅庭にやって来ては、苺を「盗んで」いく鶫の姿から、それを図案化したのだという。

庭にやって来る鶫に対して、モリスがどういう接し方をしていたかを、ある評伝では、いみじくも、次のように伝えている。

「・・・モリスは、ケルムスコットの苺園で鶫がせっせとついばんでいるのを、困ったものだという顔をしながらも嬉しそうに眺めていたもので、『あいつらの首をへし折ってやりたい』と文句を言う庭師にたいして、庭の鳥たちにはいっさい触れてはならないと言い付けた。その触書が食堂に掛けられた。『確かに苺の数よりも鳥の数のほうが多かった』と(娘の)メイ・モリスは言っている。」(フィリップ・ヘンダースン『ウィリアム・モリス伝』晶文社刊、392頁)

もう一つは、島崎藤村の『夜明け前』(20世紀日本小説の最高峰だと私は思う)に出てくる鶫に関する記述。
幕末維新の転換期を途轍もないスケールで描破したこの作品には、度々、野鳥のことが出てくるが、モリスとは違って、食料としての野鳥であり、鶫であるのが興味深い。

やや長い引用になるが、19世紀後期の木曽路の暮らしが濃厚に漂っている(以下、『夜明け前』の「一部上巻」より)。

 「ちょうど鳥屋(とや)のさかりのころで、木曾名物の小鳥でも焼こうと言ってくれるのもそこの主人だ。鳥居峠の鶫は名高い。鶫ばかりでなく、裏山には駒鳥、山郭公の声がきかれる。仏法僧も来て鳴く。ここに住むものは、表の部屋に向こうの鳥の声をきき、裏の部屋にこちらの鳥の声をきく。そうしたことを語り聞かせるのもまたそこの主人だ。・・・
 囲炉裏ばたの方で焼く小鳥の香気は、やがて二人のいる座敷の方まで通って来た。夕飯には、下女が来て広い炬燵板の上を取り片づけ、そこを食卓の代わりとしてくれた。一本つけてくれた銚子、串差しにして皿の上に盛られた鶫、すべては客を扱い慣れた家の主人の心づかいからであった。その時、半蔵は次ぎの間に寛いでいる佐吉を呼んで、
『佐吉、お前もここへお膳を持って来ないか。旅だ。今夜は一杯やれ。』
 この半蔵の『一杯」が佐吉をほほえませた。佐吉は年若ながらに、半蔵よりも飲める口であったから。
『おれは囲炉裏ばたでいただかず。その方が勝手だで。』
 と言って佐吉は引きさがった。
『寿平次さん、わたしはこんな旅に出られたことすら、不思議のような気がする。実に一切から離れますね。」
『もうすこし君は楽な気持ちでもよくはありませんか。まあ、その盃でも乾すさ。』
 若いもの二人は旅の疲れを忘れる程度に盃を重ねた。主人が馳走振りの鶫も食った。焼きたての小鳥の骨をかむ音も互いの耳には楽しかった。」(『夜明け前』「第一部上巻」より)

秋になると、野鳥が美味しい季節であること。
中でも、鶫はご馳走だったこと。
囲炉裏で串焼きにして食べたこと。
しかも、私が好きなのは、「焼きたての小鳥の骨をかむ音も互いの耳には楽しかった」という実質ある最後の一文である。

モリスが鶫を図案化した時代も、藤村が『夜明け前』で設定した時代も、共に19世紀後期で、いわば、両者は、同時代に於ける、鶫の対照的な表現だと言えよう。
すなわち、「食料」としての野鳥と「観賞物」としての野鳥。
もちろん、日本において、野鳥が食料としてのみ扱われていたのでも、イギリスにおいて、野鳥が観賞物としてのみ扱われていたわけではない。
上記藤村の引用の最初の方に出てくるように、「主人」は、鳥料理を振る舞う前に、野鳥の囀りなぞを客に楽しませることを忘れないし、イギリスでは、鶫をはじめとする野鳥を昔からバリバリ食べていたはずである。

野鳥は、太古の昔から、人類の身近な食料であったと同時に、観賞に値する美しい存在であったということであろう。
そこが、野鳥の「人類的」な面白さではないだろうか・・・。

閑話休題。

行きつ戻りつしながら、様々な野鳥を観察しながら、やっとのことで「かわせみの里」に到着(観察した野鳥については、呑ちゃんのこの日のブログをご参照)。

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(「かわせみの里」の表札)

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(「かわせみの里」)

カワセミを待っているうちに、大分空腹になってきたので、近所の「ぎゅうやの台所」(葛飾区水元)の弁当を買ってきて、外のベンチで昼食をとる。

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(「ぎゅうやの台所」の弁当を美味しそうに食べる呑ちゃん)

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(「ぎゅうやの台所」の弁当。焼きしゃぶ弁当とまかない弁当。とちらも、630円)

その後も、野鳥を求めて、園内を散策。
今日は、たくさんの野鳥を目撃できて大満足であった。

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(私の6速ママチャリと呑ちゃんの単速ママチャリ。水元公園にて)

走行距離:14キロ(6速ママチャリ)

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2010.05.26 Wed
幻想の新川
所用があって、中央区の「新川」に行ってきた。
地下鉄「八丁堀」駅で降りて、高橋という橋を渡って「鍛冶橋」通りを東へと歩いた先に、私の目的地のビルがあるのだが、2時間も早く着いてしまったので、この界隈をとぼとぼと歩いてみることにした。

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(「高橋」から亀島川を見る。この川はこの先で右に曲がって、日本橋川と合流する)

このあたりを散策していて、何となく歯がゆい思いというか、ふわふわしたような気分になってしまうのは、この土地がそもそも埋め立て地であるばかりではなくて、その地名の心許なさが原因ではあるまいか。

現在のこのあたりの町名は、「新川」(1丁目と2丁目しかない)であるが、地形としては島である。
ここ新川から隅田川を南に渡った先が佃島だとすれば、むしろ、「新川島」とでもするのが相応しい。

IMG_5231.jpg
(周辺地図。新川は、隅田川と日本橋川と亀島川によって囲まれた島である)

亀島川という長さ約1キロにも満たないくの字形の川が印象的である。
あるいは、この亀島川の亀島こそが、この新川という島の古名ないしは通名だったのかもしれないと、歩きながら考えた。
そんな風に考えると、「新川」という島の形が、何となく、水辺にだらしなく身を沈める亀の形に見えてくる。

私は、「鍛冶橋」通りを歩いて隅田川に出てみることにした。

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(新川から、幻想的な佃島を眺める)

この「鍛冶橋」通りの名の由来となっている鍛冶橋にしても、戦後、米軍の空爆によって生じた残骸で外堀が埋められた際に消滅して今は存在しないのだが、実は、新川という川ももはや存在しないことを隅田川の川辺に建っていた石碑によって知る。

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(昭和20年代に埋め立てられてしまった新川跡の石碑)

IMG_5233.jpg
(新川跡の説明板)

家に帰ってから、この辺りの江戸時代の地図を開いてみた。
なるほど、新川に相当する運河がはっきり描かれていて、三つの木橋が架かっている。
それはともかくとして、江戸時代の町名も混乱していることが分かる。
この小さな区域に、10ほどの町名が付されていて、しかも、統一性がない。
川口町、長寿町、東湊町、銀町、富島町、四日市町、川端町、濱町、塩町、南新堀町などの、実に小さな区画の町名が互いに争うように犇めきあっていて、その真ん中に、松平越前守の屋敷がどかんと鎮座する。
こんな狭い区域にこれだけ多くの町名が乱在するのは、埋め立て地が、継ぎ足し、継ぎ足しされて新開地として誕生するたびに新たな町名がかなり行き当たりばったりにあてがわれた結果ではなかろうか。

新川河岸
(問屋や酒蔵が並び立つ江戸期の新川河岸)

私は、さらに隅田川を下って、中央大橋を渡って、佃島に「上陸」してみた。
新川の側から見ると、実に幻想的な佃島だが、来てみると案外つまらない。
お洒落なレストランや摩天楼が並び立つだけで、やはり、摩天楼は、遠くから見た方が良いようである。
それにしても、面白いもので、遠くから見ていると、そこに行ってみたくなるものだが、行ってみると案外つまらないというのはどうしたことであろうか。

ただし、この島から隅田川の風景は見るに値するかもしれない。

IMG_5232.jpg
(隅田川。水色の橋は永代橋。遠景には、墨田の新電波塔も見える)

生憎にも、雨が落ちてきたが、この風景を見ていたら、ご多分に漏れず、永代橋の方にも行ってみたくなった。

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(永代橋)

この橋は、美しいとされているが、私はあまり好きではない。
どこが美しいのだろうか。

ついでに、日本橋川の河口まで歩いてみる。

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(日本橋川が隅田川に流れ落ちる河口付近)

かつてこのあたりは、方々から日本橋河岸を目指して夥しい小舟が航行していた所であるが、現在は、何艘かの船が寂しく係留されているのみ。

IMG_5238.jpg
(日本橋川の一番下流に架かっている豊海橋)

雨あしが強くなってきたので、私は、鞄から帽子を出して被って、足早に来た道を戻る。

隅田川土手を歩いていると、艀にぶら下がるようについている、不思議な階段を発見する。

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(途中から水没する階段)

江戸期に埋め立てられて出現した「新川」は、その後、新川が開削されたものの、その新川は現在は埋め立てられて存在しない・・・。
この階段は、そうしたこの島の存在の有り様を象徴しているようにも思えた。

走行距離:2キロ(単速ママチャリ)

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2009.12.05 Sat
「お茶の水」異聞
お袋が術後の検診のため、東京にやって来ることに。
今回は、家に一泊してもらうことになってもいるので、本郷の病院へ迎えに行く。

千代田常磐線で、新御茶ノ水駅へ。
長いエスカレーターを登って、新御茶ノ水ビルのフロアに出ると、巨大な彫刻が目を引いた。

お~、これはもしかして、ブールデルの「弓を引くヘラクレス」ではないか。

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(ブールデル作「弓を引くヘラクレス」・新御茶ノ水ビルの地階フロア)

もちろん、本物である。
ブロンズは、型さえ残っていれば、いくつでも本物が作れるのが良い。
江戸時代の多くの浮世絵が版画であるため、たくさんの本物が存在するのと同じである。
ヘラクレスの身体と弓がしなり、いや、その下の岩までもが一体になって、力動を充填させているようである。

このヘラクレス、気がつけば、ほぼ北東に向かって弓を引いている。
深読みかもしれないが、今でも、徳川幕府にとっての鬼門を意識しているのであろうか・・・。

御茶ノ水橋南詰の交差点の信号を渡って、交番の前に出る。

交番の裏手に、こんな石碑を発見。

IMG_3424.jpg
(「お茶の水」の石碑)

御茶ノ水駅を利用しはじめて、早、30年余、この石碑の存在に気がついたのは、今回が初めてだとは、まことに不覚であった。
傍らには、竹樋から水が滴り落ちているではないか。

IMG_3425.jpg
(これぞ、「お茶ノ水}?)

なるほど、寅さんの台詞の「チョロチョロ流れるお茶の水」(注)というのは、この「お茶の水」から来ているんだな。
見てみると、イメージがぴったりだなあ・・・。

さらに、傍らに1957(昭和32)年に建てられた石碑があった。
ここに「お茶の水」の来歴のあらましが記されているので、以下、全文を写しとってみよう。

聖堂の西比井名水にてお茶の水にもめしあげられたり
神田川掘割の時ふちになりて水際に形残る
享保十四年 江戸川拡張の後川幅を広げられし時 川の中になりて 今その形もなし
(再校 江戸砂子 より)

 慶長の昔、この邊り神田山の麓に高林寺という禅寺があった。ある時 寺の庭より良い水がわき出るので 将軍秀忠公に差し上げたところ お茶に用いられて 大変良い水だとお褒(ほ)めの言葉を戴いた。それから毎日この水を差し上げる様になり この寺を お茶の水高林寺 と呼ばれ、この辺(あた)りをお茶の水と云うようになった。
 其の後、茗渓又小赤壁と稱して文人墨客が風流を楽しむ景勝の地となった。時代の変遷と共に失われ行くその風景を惜しみ心ある人たちがこの碑を建てた。
 お茶の水保勝会 坂内熊治
  高林寺    田中良彰
 昭和三十二年九月九日


なるほど、「お茶の水」という湧水が湧き出ていたのは、江戸の初期だけのことで、以後、どこにも存在しなくなってしまったんだ(現在流れているのは、単なる水道水)。当時は、このあたりには、高林寺というかなり大きな寺があって、湧き水が出ていたのは、その境内だったということ。
さらに、いろいろ調べてみると、実は、この高林寺という寺があったのは、現在チョロチョロ流れている「お茶の水」のある神田川の南岸(千代田区側)ではなく、北岸(文京区側)であったということが分かった。

だが、その詳しい場所については、よく分からない。
私の手元にある、江戸後期の地図には、高林寺は既に跡形もない。
ヒントになるのは、江戸初期の様子を伝える「江戸図屏風」の次の画像である。

高林寺
(神田川左岸[北岸]の川辺にある「お茶の水」と「高林寺」・上が西)

この絵図に上下に流れているのが神田川。
緑に囲まれている大きな寺が高林寺。
その境内から東に下がった川辺に、大切に柵で囲われているのが「お茶の水」である。

上流に木橋が見えるが、たぶん、水道橋のあたりであろう。
実は、この図のちょっと下(東)には、筋違橋(現在の万世橋と昌平橋の間にあった)が見えることから、現在の順天堂病院から水道橋に至る、神田川の崖っぷちになってしまったあたりに、それはあったのではないかと思われる(詳しくは、「江戸図屏風」を拡大してご覧いただきたい・左端)。

また、この絵図を見るに、現在の神田川より、かなり浅いもので、橋もかなり小さいし、馬で流れを渡っている人がいたりする。

神田川は、江戸城外堀として、開幕時より開削が始まっていたが、この絵図の頃は、現在よりも細くて浅いもので、その後、さらに大規模な工事が行われることによって、「お茶の水」の水脈は枯れて、その後の明暦の大火後、高林寺も現在の文京区白山(文京区向丘2丁目)に移設されたのだという。

それにしても、当時の神田山(そもそも一続きになっていた本郷台と駿河台の旧呼称)を深く開削して、その土砂を現在の東京駅付近まで運んで広大な湿地帯を埋め立てるという大工事は、江戸初期に於ける八ッ場ダム工事のように大がかりなものであったろう。
ただ、あれもこれも、江戸城の外堀を作るという城塞防衛上の要請であり、江戸庶民の福祉のためではなかったことだけは確かなことのようである。

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(神田川・上流をのぞむ・正面のビルが、順天堂病院)

(注)以下、寅さんの啖呵売(たんかばい)の全文。
「四角四面は豆腐屋の娘、色は白いが水くさい、四谷赤坂麹町、チョロチョロ流れるお茶の水、粋なねえちゃん立小便、田へしたもんだよカエルの小便、見上げたもんだよ屋根屋のふんどし、結構毛だらけ猫はいだらけ」。

走行距離:2キロ(ママチャリ)

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2009.11.22 Sun
カムジャタンとビッグバンド
トロンボーン奏者の友人(Gさん)が出演するコンサートがあるので、新大久保(新宿区)に出かけることになった(実は、Gさんとは、何を隠そう、金町の「大力酒蔵」で知り合って以来、おつき合いいただいている)。

新大久保と言えば、私の大好きなコリアンタウンがある街。
新大久保に行くと、私は舞い上がりすぎてしまう傾向があるので、最近は、行くのを控えてきたが、コンサートの前に、是非とも、街を散策して、美味しい朝鮮料理を食べたいと思うのが人情というものである。

以前なら、こういう時も、迷わず自転車で出かけたものだが、事故以来、人間として成長したと言うべきか、軟弱になったと言うべきか、ちゃんと、鉄道で行くことにする。

西日暮里で、山手線内回りに乗り換えて、新大久保駅で降りる。

新大久保駅の改札は、以前と同じように、待ち合わせの人々でごった返している。

IMG_3371.jpg
(いつも待ち合わせの人が多い新大久保駅)

しかも、聞こえてくる会話の80%は、外国語(朝鮮語・中国語・タガログ語?)である。
この街の、こういうところに、私は無性に「痺れ」てしまうのである。

改札を抜けて、いつ来ても、うらぶれた感じの線路沿いの道を北上して、通称「職安通り」に出る。
周知の如く、この通り沿いに、職業安定所新宿歌舞伎町庁舎があることから、この通りの名が付けられたわけだ。

ただ、現在は、職業安定所のことを、全国的に「ハローワーク」と呼ぶようになった。

ハローワーク。
まるで、人を馬鹿にしているとしか思えない、珍妙な名称である。
これを考えた役人(もしくは政治家)は、何かを隠蔽する意図があったか、あるいは、頭の中がお花畑のような奴かのいずれかであろう。

しかし、幸いなことに、今でも「職安」通りが「ハローワーク」通りとならないのは、実に正しいことで、地名や名称の変更は断じてすべきではないということを示す、これは、強力な一例である。

あまつさえ、この職安通りは、江戸時代以前から存在する由緒ある古街道(街道名は不明)で、明治初期に帝国陸軍測量部が作成した地図にも太々と記録されている(当時の南大久保村付近)。
もちろん、当時は、職安はなかったが・・・。

さて、その職安通りを呑ちゃんと一緒に歩く。
「呑ちゃん、はぐれるんじゃないよ」。

通り沿いには、スンデ(血のソーセージ・私の大好物)やトッポギなど、韓国の街ではお馴染みの食品を売っている店が軒を連ねている。

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(韓国の街並みを彷彿とさせる)

歩いているうちに、ここはソウルではないかというような錯覚を覚える。
私の中の「錯乱」が徐々に大きくなってゆく。

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(済州島の石像トルハルバンが飾ってある店)

冷たい東風を避けるようにして、われわれは、路地に逃げ込む。
お目当ての店「松屋」に行くためだ。

松屋といっても、あの、牛丼の松屋とは何の関係もない。
かなり以前から、ここ大久保にある朝鮮料理店である。

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(大久保の老舗朝鮮料理店「松屋」・早く入りたくて、写真が多少ぶれています)

とりわけ、「カムジャタン」が有名で、以前は、毎週のように通っていたものだ。
「カムジャタン」の「カムジャ」というのはジャガ芋のこと、「タン」は湯(タン)の意。
直訳すると、ジャガ芋汁ということになるが、この料理名と実際の料理は大違いで、ジャガ芋は確かに入っているが、鍋の中を探さなければ見つからないほどで、主役は、何と言っても、豚の背骨で、鍋の中に豚の背骨が山なすように盛り上がるように入っているのだ。

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(待ってました、「カムジャタン」!)

もちろろん、カムジャタンを食べるなら、マッコリである。
この店では、マッコリは、アルマイトのやかんに入って出てくる。
これは、韓国の屋台での伝統を守っているわけだ。

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(やかんに入って出てくるマッコリ・やかんが一箇所凹んでいるのがまた乙である)

カムジャタンが煮えるまでやや時間がかかるので、われわれは、チヂミを追加注文する。
で、出てきたチヂミの大きさに、二人して縮み上がった。

IMG_3362.jpg
(巨大なチヂミ)

チヂミの上に付けタレの皿が乗って出てきた。
こういうことは、日本人はやらないものだ・。

私は、これまでにたぶん、15回ぐらい韓国に行ったことがあるが、韓国人というのは、一方では、儒教の伝統を守りつつも、他方では、途方もない合理主義者である。
チヂミの上に付け汁の皿を乗せてしまえば、スペースの節約になると言うような、合理主義を見たようであった。
当地では、クルマの内装や、道路の作り方、店のレイアウトなど、日本人には考えもつかない合理主義的なアイディアを数多く目にしたものである・・・。

さて、やかんのマッコリを傾けては、チヂミを頬張って、サービスのカクテギをごりごり囓っていると、カムジャタンが煮え上がったようである。

さっそく、その豚の背骨にシャブリつく。
ウマイ!!!!。
それしか、言葉に出ない。
もちろん、ライオンじゃあるまいし、骨そのものを食べるのではなくて、背骨の周りや髄にこびりついた肉をむしり取って食べるのである。
背骨の中空に詰まった髄の美味しさと言ったら、筆舌に尽くしがたい。

だから、食べた後には、骨そのものが残る。

IMG_3364.jpg
(骨のカラ)

蟹を食べている時のように、とにかく懸命に骨にしゃぶりつくわけで、何だか、我が憧れの縄文人に近づけたようで、私にとっては、二重に嬉しい。

錯乱状態の一歩手前に達しつつあった私も、すんでのところで、幸いにも満腹となり、平常心に戻ることができた。

われわれは、店からほど近いコンサート会場(労音会館)に向かった。

それは、複数のビッグバンドの祭典的なコンサートで、その内のいくつかに、友人のGさんは出演する。

ビッグバンドというのは、まあ、吹奏楽器のバンドのことで、いわゆるブラスバンドとはちょっと編成が異なるものの、似たようなものである。

私も、中高と吹奏楽部に所属して、トロンボーンを吹いていた経験があるので、関心のある分野である。

演奏が始まるや、私は、ゾクゾクとするような感動を覚えた。
とりわけ、輝くような金管楽器の迫力のある音色に、ときに、血が沸騰するようであった。

IMG_3366.jpg
(ビッグバンドの演奏が始まる・Gさんはバストロンボーンを担当)

実は、私は、高校生までは、トロンボーン吹きになりたかった。
大学生の頃は、役者になりたくて、劇団に通っていたこともある。
その後は、専攻が違っていたにもかかわらず、考古学者になりたくなった。
結局、そのいずれにもなれずに、現在に至っている・・・。

ビッグバンドの演奏を聴きながら、そんなことを考えていた。

そして、フィナーレ。
これまでのボーカルもステージに上がって、盛大で煌びやかな演奏も、最高潮に達したのであった。

IMG_3367.jpg
(フィナーレ)

終演後、Gさんが客席のわれわれの所まで来てくれた。
これまでステージで演奏していた人は、何だか神々しくて、私は恥ずかしいような気分になった。

帰りは、大久保通りを駅まで歩いた。
大久保通りも、職安通りに優るとも劣らないコリアンストリートになっていることに驚く。

カムジャタンの野性的な興奮と、ビッグバンドの輝くような音色への興奮を、どのように冷ませばよいのか分からずに、私は、列車に乗りこんだ。

走行距離:2キロ(ママチャリ)

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