日々の身辺雑記や考えたことなどを徒然なるままに書き連ねる「断腸亭日録」です。
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断腸亭日録~自転車日記
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断腸亭髭爺です。
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2009.11.12 Thu
海行かば~死線を歩いた話2
あれは、中学3年の春のことだった。

当時の学校はなぜか運動会に熱心で、春には「小運動会」、秋には「大運動会」という年間二本立てで行われていたのだが、春の「小運動会」の日程は決まっていて、毎年4月29日(さる渡来系世襲豪族の誕生日にて祭日)だった。

何と無謀なことかと思うかもしれないが、われわれ悪ガキ6人組は、中学校1年のときから、この、まだ寒い4月29日の「小運動会」終了後、初海水浴をすることに決めていたのだ。

なぜかと言えば、われわれ悪ガキ6人組は、それぞれ野球部(二名)、バスケット部(二名)、バレー部、吹奏楽部(私)に属していて(しかも、3年次には、そのうちの4人が「部長」だったので)、部活が休みになる「小運動会」(昼下がりに終了)の日が海水浴決行の数少ないチャンスだったのと、どういうわけか、夏まで待てないという海辺で育った少年特有の「渇望」があったからだと思う(思えば、当時の中学校の部活は本当に厳しくて、盆と正月を合わせた年間10日ぐらいしか休みがなかった)。

その日は、生憎の、肌寒い曇天。
運動会の道具と海水パンツを持って、自転車で、学校に出かけた。
自転車通学は禁止されていたが、運動会終了後、そのまま海に出かけられるように、どうしても自転車が必要なので、学校の近くの野原に自転車を倒して隠す。

運動会も終わって、野原に集合した、イガグリ頭の悪ガキ6人組。
今にも雨が落ちてきそうな空を見上げながら、一人が言った。
「寒いな、風も強いし、どうする?」。
一堂は、同じように空を見上げながら黙っていたが、別の一人が、「行くべぇーよ、決めたんだから!」。
こういうときは、一番過激な意見が強いものだ。
何も言わずに自転車に飛び乗り、銚子大橋を渡って茨城県の波崎海岸へ(銚子半島の海辺は岩が多かったのと、学校からは波崎海岸が一番近かったから)。

人っ子一人いない波崎海岸。
折からの低気圧の到来とあって、水平線には鉛色の雲が重なり、強風に波頭が砕け散っていた。
6人は、さすがにしばし凍り付いた。
そして誰しもが、心の中で、誰かが「やめよう」と言いだしてくれないものかと思いながらも、自分がそれを言い出す役にはなりたくないというような行きつ戻りつする不安定な気持ちを押しやるように、殊更に、海辺ではしゃぎ回った末に、ズボンを脱ぎ捨てて、海に向かった。

銚子沖は北からの寒流と南からの暖流がぶつかるポイントで、春になると次第に暖流が強くなって海水が温かくなる頃、それに乗って南方から「初鰹」が到来するわけだが、この日は、寒流がはるかにまさっていたのか、海水はすこぶる冷たかった。

波の高さは、ゆうに5メートルを越え、渚から沖に出ていくにつれ、巨大な壁のように押しかかってくる。
われわれは「波乗り」をすべく、大声を上げながら、大笑いをしながら、大波に近づいていく。

ここでいう「波乗り」というのは、(ボードは使わずに)身体それ自体をサーフィンボードが波乗りをする同じ原理で「波の腹」に乗ることで、上手く乗れれば、100メートル近く身体を運んでくれて、その快感は筆舌に尽くしがたい。

さて、10分も海に入っていると、海水の冷たさが全身にしみわたり、膝から下の骨が何かに叩かれるような痛さを感じるようになり、身体は常に小刻みにぶるぶる震え、唇が、まるでスミレのような紫色になる。
しかしお互いに、その紫色の腫れあがった唇を見て笑い合うばかりで、次第に波乗りに夢中になった。

沖合に出て、身長よりも水深のあるあたりで泳ぎながら大波を待っていたとき、ひときわ巨大な波がやってきた。
一瞬、大きすぎる!と思いながらも、逃げようもなく、隣にいた友達とその波に飛び込んでいった。
鉛色の世界と泡立つ海中と轟音が身体に伝わり、波に乗るどころか、波に呑み込まれてしまった。

気がついてみると、私は、波打ち際にしゃがみ込んでいた。
時間にすれば、数十秒であったに違いない。
だが、おそろしく、長い時間に感じられた。

波に呑まれ、まるで、鉄棒でぐるぐる回転するように、横にではなく、縦に回転するように波渦に巻き込まれた。
私は必死にそこから抜け出そうともがけども、身体が波に縛られているように、どうにもならない。
とにかく、息が続かなくなっても、水を飲むことだけはしまいということに必死に気を払っていた記憶がある。
同時に、ああ、もうダメだ!
オレは死ぬんだとも思った・・・。
波の回転に巻き込まれたまま、海底に押しやられて、引く波に沖合に連れ込まれたら一巻の終わりだということを知っていたからだ(近所の米屋の兄ちゃんもこれで死んだ)。

波打ち際にしゃがみ込んで、しばらくどうなったのか分からず、茫然としていた。
しばらくして、渚を見回すと、友達がやはり、同じように座り込んでいた。
あー、助かったと思った。

寒さと恐怖から抜け出た疲労感で、私は魂を抜かれた人のような状態で、がくがくする足で自転車をこぎ、銚子大橋を渡って家に帰り着いた。

帰るなり、蒲団に入ると、冷えた身体に、蒲団が火照るように熱く感じられた。

走行距離:3キロ(ママチャリ)
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2009.11.10 Tue
因幡の白兎の転落~死線を歩いた話
かつて考古学少年だった私は、今でも、考古学「爺」であり続け、いつでも何らかの考古学関係の本を読み散らしている。

最近の信頼すべき研究によって、縄文人と弥生人の平均寿命をかなり正確に割り出すことができるようになったそうである。
それによると、驚くべきことに、縄文人の平均寿命は14歳、弥生人のそれは25歳だというのだ(中橋孝博氏の説・『日本人の起源―古人骨からルーツを探る (講談社選書メチエ) 』)。

これを聞くと、今、生きている自分が、実に驚異的な標本に思えてくるどころか、老醜をさらしているとさえ思えてくる。
ただ、当時、こんなに平均寿命が低かった理由は、乳幼児および幼年時の死亡率が、現在に較べて格段に高かったことによるらしい。

私は、そのくだりを読みながら、自分にも思い当たる節があるなあと思った・・・。

これまで、酒を飲み過ぎたり、失恋をしたりして、死にそうな「思い」をしたことなら何度もあったが、本当に死にそうになったことが、実は、二度ある。

いずれも子どもの頃のことだが、今でも、ときたまその時の記憶が夢に出てきて魘(うな)される。

一度目は、たぶん、小学4年生の時のこと。

利根川で、釣りをしていたある秋の日のことである。

当時、利根川の堤防沿いには、廃船が何艘も係留放置されていた。
大抵は全長15メートルぐらいの木造の漁船で、幽霊船のような恐ろしげな船体が波に揺れていた。

しかし、そうした廃船は、釣り人には、絶好のポイントを提供してくれたのだ。
船体が陰を作るので、船底沿いに魚が集まるからだ。

ただ、普通は、堤防から2メートルぐらい離れたところに浮いているので、この船に飛び乗るには、係留綱を何人もで力一杯たぐり寄せておいて、近くに来たところでジャンプして飛び乗るわけだ。

その日も、学校が終わってから、すぐに川に急行し、釣りを始めた。
友達も数人いたと思うが、なぜかみんなは早めに切り上げて、私一人だけが残って、堤防から釣り糸をたれていた。
釣果虚しく、焦っていた私は、堤防沿いに次のポイントを求めてさまよっていた。
お馴染みの廃船が浮かんでいたので、そこから釣ってみようと思ったのだが、生憎、船は堤防から2メートル以上離れたところにあって、飛び移ることができそうにない。
綱を引いてみたが、体重20キロ代の小学生が満身の力を込めて引いてみたところで、蟻が雀の死骸を引くようなものである。

一度は諦めたものの、どうにか乗り移れないものか、廃船の前を行ったり来たりしていたのだが、ふと船と堤防の間をのぞき込むと、ロープで繋がれたドラム缶が数個、河面に浮いていたのである。
たぶん、船と堤防がぶつかった時の緩衝体として、ドラム缶が浮かべられていたのだと思う。

私は、閃いた!
因幡の白ウサギよろしく、そのドラム缶を渡って、舷側のフックに手をかければ、簡単にたどり着けるのではないか?

今から考えれば実に恐ろしいこの「閃き」を実行に移すべく、まず、先に釣り竿とバケツを船に投げ込み、堤防に手をかけてぶら下がり、ドラム缶に足を乗せた。
そして、そおっと手を離し、足を一個目のドラム缶に降ろして、すぐに二個目のドラム缶の飛び移ろうとしたその瞬間、ドラム缶はぐるりと回り、私はどぼんと川に落ちた。

前にも書いたが、利根川の川幅は約1キロ、堤防沿いの水深は満潮時で約2メートル。
しかも、堤防の高さは水面から垂直に1.5メートルほど。
泳ぎは得意だったが、堤防沿いにどんなに泳いでみたところで上陸するすべはない・・・。
普通に考えれば、絶望的である。

私は、必死にドラム缶にしがみついていた。
波に揺られてドラム缶が回らないように、できるだけ深く手をかけて浮かんでいた。
しばらくは、我が身にふりかかった災難の意味が理解できず、茫然としていたが、船と堤防に挟まれたその場所から上を見上げたとき、自分がいかに過酷な状況におかれているかが分かって、それこそ、身震いするそうな恐怖感が襲ってきた。

「助けてー!助けてー!・・・」。
この定番の呼びかけを大声で叫んだのは、後にも先にも、このときだけである。
しかし、私の声は、船と堤防の間に虚しくこだまするだけで、上にいる誰かに届くことはなかった。

その時、私が一番恐れたのは、溺死よりも、船と堤防の間に挟まれて圧死することだった。
堤防と船との距離は、時に遠のき、時に近づいて、ちゃぷちゃぷと、不気味な波音を響かせていた。
ドラム缶の角度を操りながら、船が堤防に寄ってきても、身体が挟まれないようにすることに懸命だった。
この作業が、不思議と恐怖感から救ってくれて、私は、ドラム缶にしがみつきながら、船との距離を保持していた。

ところが、晩秋の夕暮れ時の冷たい水が、急速に体力を奪っていった。

私は、だんだん眠くなってきて、ドラム缶に揺られながら、依然、ぷかぷかと浮いていた。
たぶん、私はほとんど眠り込む寸前だったと思う。
これまで、身体中、水の冷たさが痛いように感じていたのだが、ある瞬間を境に、とっても気持ちのよい恍惚感に変わったのだ。
その時の不思議な感覚は、今でもよく覚えている。
何だか、母親の胸に抱かれているような安心感とふわふわ宙に浮いているような気持ちの良さ・・・。

どのぐらいの時間、そうしていたであろうか。
「お~い!お~い!・・・」。
私は、それも、夢の中で聞いたようなような気がして、すぐには気が付かなかったかもしれないが、上を見上げると数人の人影が堤防からのぞき込んでいた。

助かった!という感じではなく、それも、夢の中の出来事のように感じた。
だが、実際、私は、上から差し出された竿をつかみ、数人の腕に引き上げられて助かったのである。

助けてくれたのは、顔の知らない中学生数人で、船に釣り竿とバケツだけが転がっているのを見て、変だと思って下を覗いたのだという。

その中学生たちは、盛んに何かをしゃべっていたが、私の耳は、真空状態のようで、何を言っているか、詳しくは分からなかったが、笑いながら、お互いに冗談を言い合っていて、会話の端々に「馬鹿・・・馬鹿・・・」という言葉だけが連発されていた。

帰り道のことはまったく覚えていないが、家に帰って、玄関を開けるなり、全身びしょぬれの私を見て、「どうしたのぉ?」と聞かれた。
「川に落ちた」と私。
「じゃあ、すぐに風呂に入りなさい!」とだけ言われた。

命の恩人たる中学生たちと、子細を追求をしなかった家の者に、私は感謝の念で一杯になった・・・。

たとえば、縄文の子どもたちも、海や川で私のように釣りをすることもあったに違いない。
私のような「馬鹿」なことはするはずはないが、不運にも、命を落とすこともあったはずである。
だが、そういう子どもたちの「運命」に、回りの子どもたちは何かを学び、親たちも、人間の死の「意味」を理解したと考えたいものではあるが、「運命」だとか「意味」というような賢しらな近代語を操って説明されることは、彼らには、心外かもしれない。

もう一つの「死線を歩いた話」は、また、後日に書くことにしよう。

走行距離35キロ(クロスバイク)

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2009.10.16 Fri
真昼の発砲
私の世代ぐらいだと、少年期は、まだ、アメリカ製西部劇の黄金時代で、テレビでかかるアメリカの西部劇ドラマ「ララミー牧場」「拳銃無宿」「ローハイド」などをこの上なく熱心に「鑑賞」していた。
少し遅れて、「0011ナポレオンソロ」や007シリーズが少年の憧れの的となる。
そして、「コンバット」のような戦争ドラマや映画・・・。
もちろん、ジョン・フォードの一連の傑作西部劇の重厚な威光も衰えることなく、田舎の映画館では、新作とカップリングで放映されていた。

それらの映画やドラマで大きな比重を占めている中心的なアイテムは、何と言っても、銃(ガン)であった。

西部劇なら、45口径のコルトピースメーカーウィンチェスターライフル(19世紀米国製/ジョン・ウェインの世界です)。
スパイ物なら、ワルサーP38(ドイツ製)。
第二次大戦なら、コルト・ガバメントとガーランド・ライフルとトンプソン・サブマシンガンとM1カービン(いずれも、ベトナム戦争途中までの米軍正式採用銃)。
また、ドイツ軍の戦車の名前は、今でも暗記しているぐらいだ。

さらに、体験したことのない太平洋戦争の「記憶」は、昭和30年代の男の子たちには、零戦や戦艦大和といったアイテムを中心に、映画(いわゆる零戦物)やおもちゃ(プラモデル)の形で受け継がれていた(何故か、三八式歩兵銃は人気がなかった)。

友人の兄貴(中学生)が、当時のモデルガンを使って、改造銃を拵え、試射に立ち会ったことがある。
私が小学生の頃の貴重な体験だった。

メーカー名は忘れたが、彼は、金塗りのコルト・ガバメントのモデルガンを持っていた。
それだけで、羨ましくて、毎日のように友人の家に訪ねて見せてもらった。
たまに触らせてもらったこともある。

前にも書いたが、当時のモデルガンは、金属製で、しかも、銃口が空いていたので、サイズの合う弾丸さえ作れば、リボルバー(弾倉回転式拳銃)なら、比較的簡単に改造銃が作れた。

・・・などど聞くと、びっくりする人もいるかと思うが、銃なんて物は、真空管ラジオに較べれば、その100年以上も前に成立したローテク装置なので、道具と材料さえあれば、誰でも簡単に作れるのだ。

ガバメント
(コルト・ガバメント実銃の分解写真)

ところが、リボルバーならともかく、発射する度に、発射のガス圧で自動排莢・次弾装填を繰り返すオートマチック拳銃は、モデルガンの場合、実銃(鋼鉄製)と違って鉛製なので、火薬の量を間違えると作動しなかったり、あるいは、破砕する危険があったので、少年たちにとっては、きわめて難物だったと思う。

当時、その友人の兄貴が45口径(?)の薬莢と弾頭をどう拵えたか、詳しくは分からなかったが、たぶん、モデルガン用の弾頭に、米軍から流出した使用済みの薬莢(これは今でも簡単に入手可能)に手を加えたのだと思う。

弾丸の薬莢部には、雷管(プライマー)という小さな起爆装置があるのだが、使用済み薬莢では、これがない。
そこで、雷管の部分を丁寧に打ち抜き、ピンセットなどを利用して、内側に口径に切り抜いた薄紙を入れて、火薬パウダーを詰め、弾頭で蓋をして、ペンチで丁寧に固定する。
それから、外側から、発火性の強いカンシャク玉の火薬などを雷管の外側の小さな穴にそっと入れて、銀紙の小片をセメダインで貼りつけ蓋をする(もちろん、これ以外に、銃本体の撃針も加工する必要があるはずだが、たぶん、これが一番難しいかもしれない)。

言葉では簡単だが、結構細かい作業である(爆発の危険はまずない)。

さて、そうして、その友達の兄貴は、3発の銃弾を作り、マガジン(弾倉)に装填した。
カシャッという冷たい音を立てて、スライドを引き、チェンバーに初弾を装填。

森の中、真上に銃口を向けて、引き金を引いた。
バッバッという大きな音がした。

しばらく、誰も動けなかった。

見ると、銃のスライド部(上部)がどこかに吹っ飛んでなくなっていて、その兄貴の額からは、血が出ていた。
そうだ、後退したスライドが後ろに飛んで、彼の額をかすったのだ。
怪我は大したことはなかったが、眼に当たっていたら大変なことになったであろう。
弾丸は、すべて発射されていた(一応、成功)。
だが、セミオートではなく、フルオートで3発連弾で発射され、鉛合金の部品は、そのパワーに絶えきれず、壊れてしまったというわけだ。

私たちは、心臓がどきどきし、足ががくがくして、しばらく歩けず、蝉の鳴くその森で、壊れた銃をずっと見つめていた。

走行距離:6キロ(ロード+ママチャリ)

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2009.10.13 Tue
学生の頃、軽井沢で住み込みで働いていた時の話
もう30年も前の学生時代の話である。

信州のある駅(軽井沢)前の、レストラン兼土産物屋で、住み込みのアルバイトをやっていたことがある。
住み込みといっても、夏のハイシーズンの2ヶ月間だけの季節労働者である。

そこは二階建てで、下が土産物屋、上がレストランになっていた。

店の掃除から、店頭でのソフトクリーム売り、厨房内の簡単な料理作り、ウェイター、雑多な買い物、荷物運び、子守、店主の恋人との連絡係まで・・・。
とにかく、朝から晩まで、ありとあらゆることをやらされ、こき使われたものだ。

同じく住み込みで働いていたアルバイトは、大学生ばかりが約10人ほど。
しかも、全員が、20畳ほどの一つの和室に押し込められていたのだから、もう、欲求不満の巣窟みたいなところだった。

金があるときは、みんなして、ほど近い観光地の盛り場(旧軽井沢)に繰り出し、ただがむしゃらに「ナンパ」に挑んではみたが、無論、成功した試しなぞなかった。

金がないときは、夜になると、敷きっぱなしの布団の上に雀卓が置かれ、紫煙のこもる中、酒瓶が林立し、必然、飲むほどに酔うほどに、怒号が飛び交い、時には取っ組み合いの大喧嘩が始まることも珍しくなかった。

そうして眠くなると、一人また一人と、誰の布団ということもお構いなしに横になり、麻雀パイのジャラジャラという音を子守歌に夢路につく。

楽しくもあったが、辛くもあった日々だった。

ただ、こんな生活を送っていると、無性に、一人きりになることが恋しくなる。
神様、お願いします、一人きりにさせて下さい・・・という、何とも切ない心境になってくる。

一月もたった頃、早番で仕事を上がった私は、駅の反対側の森の中の道をひとりとぼとぼと歩いていた(早番は4時上がりで、遅番は8時上がりだったと記憶する)。
私が働いていた店のあるその駅は、一方の側はかなり昔から開発が進み、綺麗でお洒落な観光の街になっていたが、駅の反対側には小さなゴルフ場があるだけで、その先は、林や草地が連なっているだけの「未開」の地であった。
とにかく一人になりたいと切実に思っていた私は、思い切って、誰も行かない駅の反対側に行ってみることにしたのだ。

夏の夕日が木漏れ日を作る林の中の道を10分ほど歩くと、目の前に突然、木造二階建てのラーメン屋が現れた。
こんな所に店があるなんて!
ちょっと驚きもしたが、小さいながら、傍らにちゃんと駐車場もあるので、たぶん、ゴルフの客がここで腹を作って帰るのだろうか。

半信半疑な心持ちで、私はそのラーメン屋に入った。
店内は、実に普通のラーメン屋の造りで、8席ほどの朱色のカウンターに、テーブル4つ。
早い時間なので、まだ客は誰もおらず、年の頃40過ぎぐらいに見える、真っ白な割烹着を着た女性が何やら仕込みをしている最中だった。

「いらっしゃいませ!」。

そう言われてほっとしたような気分で、私は、その店員さんから一番距離を取れそうな入り口付近のテーブルに座った(なにしろ、一人になりたかったから)。

「何をお作りしましょう?」と笑顔で訊かれ、「ビールと餃子、下さい」と私。

餃子を食べ、ビールを飲み、餃子を食べ、ビールを飲んだ。

とても美味しい餃子で、今でもはっきり覚えているのだが、まだ学生だった私は、このとき初めて、ビールと餃子の相性のよさが分かったような気がした。

あんまり美味しいので、「すみません、餃子、もう一枚ください」。
女性店員は、笑いをこらえるような表情(私にはそう見えた)をして、「はい!」。

もう一枚の餃子もあっという間に平らげ、もっと食べたかったのだが、寮の夕食が待っているので、勘定をすませ、店を出た。

ああ、よかった!
やっと一人になれる場所が見つかった!
他の連中には、絶対に教えないようにしよう!

そんなことを思いながら、暮れなずむ林の中の道を駅の方へと歩いた。

その後、一日おきにやってくる早番の日は、必ずそのラーメン屋に行って、決まってビール1本(キリンの大瓶)と餃子2枚を注文し、一時間ほど一人の時間を過ごすというのが習慣になった。
一緒に早番で上がった連中は、急につきあいの悪くなった私を訝り、「おい、どこに行くんだ?」と訊いたものだが、「買い物さ」と応えるだけで、その店の存在を明かさなかった。
せっかく見つけた聖域を、あいつらに侵されてたまるものかという気持ちだった。

また、いつも笑顔で迎えてくれる女将さん(雇われ店員ではなく、その店を一人で切り盛りしていた)も、特にあれこれ話しかけてくることもなく、といって、無愛想でもなく、私にとっては、理想的な居心地の良さだった。

そんなある日、遅番で上がったのだが、まだ早い時間なので、寮の夕食もそこそこで切り上げて、もしや店が開いているかもしれないと思い、夜道を走るようにして行ってみたが、残念、暖簾は下げられ、準備中の札がかかっていた。

がっかりだったが、ふと上を見上げると、上の階の紫色の看板が目についた。
それまでは早い時間しか来たことがなかったので、全然気づかなかったのだが、二階は別の店で、スナックが入っていたのだ!

せっかく寂しい夜道を歩いて来たのだし、このまま寮に戻っても、品の悪い連中の喧噪が待っているだけだし、いっそのこと、この二階のスナックに入ってみようかとふと思った。
だが、学生にとって、馴染みのない田舎のスナックに一人で入ることは、かなりためらわれることだった。

しかし、やはり入ってみたいという気が次第に勝ってきて、私は、一応、「安全」な店かどうかを偵察するかのように、店のぐるりを見て回り、財布の中身を調べ、意を決して、階段を上がっていった。

階段を登り詰めると、そこには、よくありがちな、いささか派手な造りのスナックのドア。
ドアにはめ込んである小さなステンドグラス風の丸窓から、ちらちらと中の様子がうかがえるのだが、よくは見えない。
躊躇する気持ちを追いやるように、私はドアを押した。

一歩入ると、一拍おいて、「いらっしゃいませ」の静かな女性の声。

カウンターの中に黒いドレスを着た30半ばぐらいに見える女性が静かに微笑んでいた。

一人になりたくて来たはずの私だが、その女性の笑顔に引っ張られるようにして、気がついてみると、なんと、カウンターの真ん中の彼女の真ん前に座っていた。

「ビールになさいますか?」。

返事をしないうちに、冷蔵庫からビールが出され、ボトルとグラスと簡単なおつまみが置かれた。
ボトルを取ろうとすると、彼女が一瞬早く持ち上げ、酌をしてくれた。
店の女性から酌をされるのは初めてだったので、すごく緊張した・・・。

一杯呷ったところで、「だいぶ、涼しくなりましたね」と彼女。

私はただ、うなずくことしかできなかった。
彼女は、カウンターの中で、料理をしたり、氷をアイスピックで砕いたりしながら、私にぽつりぽつりと話しかけた。

最初は最低限の応答しかできなかった私だが、次第に、えらく多弁になっている自分に気づく。

駅前のレストランで働いていること、学生であること、早番の日は下のラーメン屋で餃子を食べること、その餃子が大変うまいこと・・・。
やっと、自分の話を聞いてくれる人と巡り会えたというかのように、いろんなことを話したように記憶している。

彼女は、その間、笑みを浮かべながら、静かに相づちの言葉を返したり、簡単な質問をするだけ。

「あっ、そうなの?すごいわね」。
「それは大変ね」・・・。

ただ、その笑顔が素晴らしかった。
私には、彼女の全身が輝いているように見えたものである。
多少気後れしながらも、本当に美しい人だと私は感じていた。

「じゃあ、下のラーメン屋が終わっちゃってたから、仕方なくいらしたのね?」。
「いやぁ~、そうでもないんですが・・・ここにも来たかったんです」。
「餃子、そんなに美味しいの?」。
「ええ、美味しいです!ビールとよく合うんです。餃子を食べてビールを飲みますでしょ。するとその後は、餃子を食べるだけで、ビールの味がして、ビールを飲むだけで、餃子の味がする感じなんです」。
「あら、面白いわね。でも、本当なの?こんな田舎のお店なのに。じゃあ、ラーメンはどうなの?」。
「いやぁ~、寮の食事が待ってるので、ラーメンまで食べたことはないんですが、今度、食べてみますよ」。

そんな他愛もない会話だった。

帰り道、私は心に決めた。

早番の日はラーメン屋に、遅番の日はスナックに来ようと。
自分の「名案」に嬉しくなって、寮までの夜道を走って帰った。

その翌日から、早番の日は下の階のラーメン屋、遅番の日は上の階のスナック通いが始まった。

ラーメン屋では、店の入り口近くの、一番厨房から遠いテーブルに着いて、本や新聞を読みながら、ただ黙々とビールを飲み、餃子2枚を食べる。
いつも、真っ白な割烹着をきて、白い手拭いを被ったラーメン屋のママさんは、笑顔で迎えてくれ、美味しい餃子を焼いてくれたが、相変わらず、話を交わすことはなかった。

上のスナックでは、カウンターに坐りこみ、ウイスキーの水割りなどを飲みながら、いつも黒い服を着た、エレガントで優しいママさんと雑談をする。

「学校では、何を勉強しているの?」。
「英文学です」。
「あらまあ、シェイクスピアなんか、読むのね」。
「ええ、まあ」。
「ロミオとジュリエットなら見たことあるわよ。敷居の高い恋は、燃えるのよねぇー。ところで、ガールフレンド、いるの?」。
「いやぁ、いませんよ・・・」。
「だめよ、一人で本ばかり読んでちゃ。実践もしなくちゃね」。
「はい、わかりました。頑張ります・・・」。

しかし、そんな楽しい日々も、いつかは終わりがくることは分かっていた。
9月一杯でアルバイトの期間は明け、東京に帰らなければならいからだ。

もちろん、スナックのママさんも、そのことは既に知っていたのだが、お互い、そのことに触れることは、何となく、避けていたような気がする。

東京に帰る三日前、いつものように、遅番で上がるとすぐにそのスナックに行った。

「いよいよあさっての朝、東京に帰ります」。
「あらそう、明日はどうするの?」。
「明日の夜は店で慰労会をやるんで、来られるかどうか・・・」。
「あらそうなの・・・じゃ、ちょっと待っててね」。

そう言うと、ママさんは、店からそそくさと出て行き、階段を降りていった。
何だろう?
何かプレゼントでもあるのかなあ?
そういうことなら、オレも、花の一つでも持ってくるんだったかなあ?

そんなことを考えていると、階段を登るハイヒールの足音がして、店のドアが開いた。

何と、入ってきたのは、真っ白い割烹着を着たママさん、と言っても、黒いドレスの上に割烹着を羽織ったスナックのママさんだった。
ママさんは、笑いをこらえるようにして、カウンターに入ってきて、まだ焼いていない餃子がたくさん敷きつめられている皿を、私の前に置いて、「今日も、ビールと餃子2枚ですか、お客さんっ!」と言った。

「なぁんだ、そうだったんですか!」

そうなのだ、ラーメン屋の女将さんとスナックのママさんは、何と同一人物だったのだ。

二人の風情、いや、ラーメン屋の彼女とスナックの彼女は、私にとって、あまりにも違ったように見えたので、不覚にも、まったく気がつかなかったのだ。

「やっぱり分からなかったのね。もう、可笑しいったらありゃしない」。
そう言って、ママさんはけらけら笑った。
私は、顔から火が出そうなほど恥ずかしくて、しばし呆気にとられていたが、途中から、一緒になって笑った。
可笑しくて、可笑しくて、腹がよじれるほど、二人して笑った。

ひとしきり笑った後で、「餃子、焼いたげるね」。
ママさんは、そう言って、皿を持ってガスコンロの方へ行った。

黒いドレスの上から真っ白な割烹着を着て餃子を焼くママさんの後ろ姿を見ているうちに、どういうわけか、涙があふれてきた。
気がつかれないように、おしぼりで拭った。

「はい、おまちどおさま。文学者様」と言いながら、餃子を出してくれた。
「・・・でも、ママも人が悪いよ。何で、言ってくれなかったの?」。
「だって、私から言うことじゃないでしょ、本当は。もっとちゃんと文学のお勉強をしなくちゃね・・・」。

もちろん、その餃子はうまかった。
当然ながら、下のラーメン屋の餃子と同じ味だった。

なのに、このオレは・・・。
彼女に申し訳ない思いがこみ上げてきて、必死でこらえながら、餃子を頬張った。

店を出るとき、彼女は、階段の下まで見送ってくれた。

「今度は、ラーメンも食べてね。それから、手紙ちょうだいね」と彼女。

林の中の道を、私は何回も振り返りながら、歩いた。
いつまでも、彼女は、階段の下で、手を振ってくれていた。
そして、次第に遠のくにつれ、黒服のその姿は、周りの闇に飲み込まれてしまった。

走行距離:6キロ(6速ママチャリ)

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2009.10.12 Mon
祖父のことなど
銚子に進駐した米占領軍の司令部が、ヤマサ醤油の社屋に置かれたということは、昨日の「日記」にも書いたが、戦時中、東京から疎開してきた母方の祖父は、戦禍をかいくぐり、戦後も銚子にそのまま住み着き、ヤマサ醤油に勤めていた。

この母方の祖父は、香川県の農家の次男坊として生まれたので、当時のしきたりとして、長男以外は土地がもらえず、結婚して東京に上京。
現在の中野で、大工、自転車屋、ラーメン屋など様々な商売をした後、空襲が激しくなってきてので、一家揃って銚子に疎開したものの、昨日も書いたように、疎開先の銚子でも激しい空爆にあったわけである。

母方の祖母も、香川の同じ地域の出身で、高等学校を出た後、祖父と結婚し、当然、同じ道程を歩んで銚子にやってきた。
祖母については、今は詳しく書かないが、庭の防空壕を直撃した焼夷弾を素手で撤去し、一家の蒲団を救ったという勇壮なエピソードのある端倪すべからざる明治女であった。

さて、占領軍が接収したヤマサ醤油に勤めていた祖父は、生来好奇心の強い性格ゆえか、米兵たちとかなり親しく付き合ったようである。
会社から戻るときは、米軍の缶詰や珍しい品々を持って帰ってきたそうだ。

私が幼い頃の祖父は、大変に厳しい人で、ご飯の時は正座、お茶碗のお米を一粒でも残すと叱られた。
でも、それ以外の時は、同年代の兄貴のように私と接してくれて、祖父と一緒に小屋を拵えたり、おもちゃの船や鳥籠を一緒に拵えたことは、つい最近まで忘れていたが、大切な思い出である。

祖父は、晩年、にわかに「柔らかい」人間になって、お酒を飲むと、高校生の私を隣に座らせ、昔の話をしてくれたものだ。

「あのな、あいつら(米兵)の便所は、小便用と大便用が別なんだよ。よく別々にできると思ったもんだ・・・」。

「村から日露戦争に出征する兵隊たちを見送った時、まだ子どもだったんだが、『お~い、露助をやっつけてこいよ~っ』て大声で叫んでなぁ・・・」。

他愛のない、しかも、繰り返しの話が多かったが、そこから、芋蔓式に、戦前戦中の話が出てきて、今となっては、もっとよく聞いておけばよかったと悔やまれる。

私が、高校を終えて上京をする数日前、祖父に呼ばれたので行ってみると、そこには、一冊の豪勢な辞典が置いてあった。
見てみると、1924年にイギリスで刊行された『技術用語辞典』というもので、占領時代に米軍の将校からもらった記念の品だという。
その辞典の何たるかは、私には判断がつかなかったが、御礼を言っていただいた。

その後、思い立って、その辞典を何回か開いてみた。
ところどころ、赤鉛筆で下線や書き込みがあった。
それは、英語なぞ、ほとんど読めなかったであろう祖父の、何とかその辞典を活用しようと悪戦苦闘した痕跡であった。

私はそこに、明治男のど根性を見たような気がして、姿勢のよかった祖父に習って、思わず身をただしたものである。

走行距離:6キロ(ママチャリ)

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2009.10.10 Sat
葬り去られた過去
葬り去られた過去

小学校5年の頃、何かの本で、縄文時代や弥生時代の存在を知ってから、その虜になった(因みに、それまではベーゴマの鬼だった)。
私の育った田舎は、利根川が太平洋に流れ込む河口にあったので、川と海の幸に恵まれていたせいか、縄文遺跡、つまり貝塚があちこちにあった(縄文晩期のもの)。
そのほとんどは、畑になってしまっていたが、土に大量の貝殻や土器の破片が混ざっているので、そのあたりに貝塚があったことはすぐに分かるのだ。

小さな縄文遺跡は、ずっと以前に開墾されたときに潰されてしまっていたのだが、中には、ちゃんと「・・遺跡蹟」という札が立てられているものもあって、同じ関心をもつ友人と自転車にスコップを積んで、「発掘」に出かけたものである。

遺跡の場に立ち、なだらかな丘陵を見下ろすと、利根川が悠然と東に流れている。
縄文の人たちは、こんな場所に住み、舟で川づたいに海に出て、魚や貝を捕獲していたんだなあと想像するだけで、身震いするほど、興奮したものである。
今考えれば恐ろしいことなのだが、私たちは、勝手に遺跡を掘り返して、土器の破片を家に持ち帰っていたのだ(普通、これを盗掘という)。
一番見つけたかったのは鏃(ヤジリ)だったのだが、出てくるのは土器の破片ばかり。
今でも、段ボールに何杯分かの土器が、田舎の家に眠っているはずである。

ところで、同じクラスに、何と自分の家の敷地内に縄文遺跡があるという、何とも羨ましい友人がいた。
彼は、遺跡よりも、ベーゴマに夢中だったのだが、やはり、スコップを持って、彼の家に何度か「発掘」に行った。
彼の家の人は、庭を掘り返す少年をかなり怪訝そうな眼で見ていたが、こちらは、何か大発見をしてやろうというという気構えで、熱心に掘り続けたものである。
見つかったのは、多少の土器だけだったが、少年の私の好奇心を十分に満足させるものだった。

私は、自宅の敷地に遺跡のある友人の家が死ぬほど羨ましくて、将来、家を建てるのなら、絶対に遺跡のあるところに建てようなどと、誠に少年らしい空想を抱いたり、親に、遺跡のあるところに引っ越してほしいとお願いし、即座に一蹴されたりしていた。

そんな夏のある日、家の裏庭を試しに掘ってみることにした。
ただし、ここから遺跡が出ることは、まずあり得ないということも同時に知っていたのだが・・・。
というのも、家を建てる前に、余所から持ってきた土を盛っていたのを見ていたからだ。
でも、もしかしたらという望みを抱いて、掘ってみたが、やはり、虚しい行為だった。

その時、少年の私の頭に、突然、こんなことが閃いた。
自分の子どもや孫がいつかこの家で暮らすことになったとき、家の庭から土器が出たら、きっと喜ぶに違いない。
そしたら、今の自分のようにがっかりすることもないであろう・・・。

私は、自分の部屋に走っていって、土器のどっさり入った箱を庭に持ってきた。
土器の破片を吟味して、掘った穴の中に丁寧に並べて、埋め戻すという作業を始めたのである。

もう、お分かりかと思うが、何年か前、考古学会を震撼させた、遺物の偽造行為をしていたのである。

あの事件が明るみ出たとき、私は、30年以上前、自分も遺跡をでっち上げようとしていたことを思いだし、酒を飲みながら、苦笑した。

今度、田舎に帰ったときにでも掘り返して、回収しておかなくてはな・・・。
ただ、当時埋めた場所を詳細に記録したメモは、その後、ベーゴマの箱と一緒に、やはり、庭のどこかに埋めてしまっていた。
もちろん、そのベーゴマの箱を埋めた場所を書いた紙も、どこかに埋めてしまったような気がする。
こうして、歴史の偽造行為は、いまだ、地下に葬られたままなのである。

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2009.10.09 Fri
禁じられざる遊び
禁じられざる遊び

少年の頃の夏の朝、私は、よく近所の子どもたちと自転車で連れだって、利根川河口付近の海辺に出かけていった。
目的は、「棒火薬」というものを拾うためである。

銚子は太平洋に突き出た半島なので、3方を海と川に囲まれているわけだが、その目的地は、家からかなり距離があって、自転車を一生懸命こいでも40分はかかっただろうか。

さて、その棒火薬というのは、敗戦後、米占領軍が、銚子沖に投棄した旧日本軍の砲弾や爆薬が、海底で容器が朽ちて、海流の影響で、特定の砂浜に打ち上げらるようになった固形火薬片のことである。

棒状の、まるで管玉(くだたま)みたいな形をしていたので、こう呼んでいたのだが、薄い板状のものもあった。
大きさも、管玉と同じぐらいか、やや大きいぐらい。
火薬なので、火をつければ勢いよく燃えるわけで、「シュッシュッパ」と呼ぶ者もいた。
砲爆弾の原料火薬である。

この種の火薬は、軽いので、その砂浜に行けば、だいたいは打ち上げられてたが、大嵐の後などは、何と、金属製の弾丸そのものや、薬莢も流れ着いた。
朝になると、それを拾う子どもたちがたくさん集まってきたものだ。
「危険」だなどと、誰も思っていなかったし、親たちも、何も心配していなかったのだから、今の世の中と随分違うものだ。

ちょっと横道にそれるが、米軍の占領時代、銚子沖に投棄された旧日本軍の砲弾弾薬の量は、「イペリット等のガス弾450トン、爆弾・砲弾類 71,550トン、合計72,000トン」というのだから、たぶん、関東地方の弾薬類は、船や列車で全部銚子に集められ、海洋投棄されたのだろう。
因みに、何年か前に、井戸水汚染がきっかけで、旧日本軍の毒ガス弾が地中廃棄されたらしいことが明らかになった茨城県神栖町は、銚子から利根川を渡ると眼と鼻の先である。

さて、その棒火薬を使って、どんなふうに遊んだのか。
たぶん、今の親が聞けば、気を失うほど危険な遊びに興じていたのだ。

まず、拾ってきた火薬を新聞紙の上に並べて、よく乾かす。
棒火薬を小さく折ったり砕いたりして、、マニュキアのキャップにぎっしりと詰める。
土や板で発射台を拵えて、着火。
ピューという空気を切り裂く音を立てて、その「ロケット」は勢いよく飛んでいく・・・。
これは、相当なパワーで、板塀などは貫通してしまったのだから、身体に当たれば大変な怪我をすることは間違いないのだが、これまた、誰も危険だなどとは思っていなかった。

だが、これとて、下級生向けの幼稚な遊びで、中学生や高校生は、竹筒を使って「手榴弾」を拵え、地中爆破実験をしたり、もっと高度な遊びとしては、実弾を拵え、モデルガンに装填して、何と、森の中で試射していたのだ。
今のモデルガン(金属製)は銃口が埋まってしまっているが、当時のモデルガンは、鉛製で、銃口も開けられていたので、入手した薬莢を改造して銃弾を作れば、(自動拳銃は難しかったが)リボルバーなら、比較的簡単に改造銃を拵えることができたし、戦争経験のあるオジさんたちも、一緒に面白がって、智恵をかしてくれたものである。
こうして、少年たちによる、集団的な「銃刀法違反」の夏の午後は過ぎていった。

繰り返しになるが、そんな遊びを、誰も危険だなどとは思っていなかったのである。
幸せな時代に、少年時代を過ごせたことを、つくづく感謝したい気持ちである。

ただ、いま、こうして少年時代の危険な遊びのことを書いていて思い出すのは、今のイラク。
米軍が雨霰のように投下した、たとえばクラスター爆弾の不発弾などは、もし僕がイラクの少年だったら、確実に、その種の遊びの格好の材料になったであろう。
子ども、特に少年は、こういう危険なおもちゃが、いつの時代も大好きなものだからだ。

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2009.09.14 Mon
屏風ヶ浦の思い出
今日も、夜明けを待って、馬鹿の一つ覚えの如く、屏風ヶ浦まで走る。

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(朝焼けの屏風ヶ浦)

まだ、県道286号線(愛宕山公園線・旧有料道路)が敷設される以前、屏風ヶ浦上の台地一帯のことを、土地の言葉で「赤ハゲ」と呼んでいた。
多分、剥き出しになった関東ローム層の地表が、潮風で酸化して赤銅色に見えたからではないかと想像する。

地表が剥き出しになっていない所は、細竹類や松などの鬱蒼たる海浜植物が繁っていて、その中を、獣道のような迷路が錯通していた。
小学生であったわれわれにとって、赤ハゲは冒険心を激しくかき立てられる場所て、友人たちとあちこちを探索したものである。

一時、自衛隊の射撃訓練場があったためか、たくさん薬莢が落ちているという噂(たぶん、嘘)が流れて、それを探しによく出かけたものである。
しかし、代わりに見つけた物は、昔このあたりに住んでいた人たちが使っていたと思われる、粘土のおはじきや陶器のかけらだったりした。

凄まじい波の浸食によって現在も後退し続けている屏風ヶ浦は、江戸時代以前には、今よりも4キロから7キロも、海側に陸地が延びていたのである。
かつては、そこにはいくつかの集落もあったので、私が子どもの頃には、まだ、その村はずれに当たるあたりには、家屋が遺跡化して地表に顕れていたのだと思う。

こんなことがあった。
その日、小学生であった私たちは、いつものように、見つかるはずのない自衛隊の薬莢探しに「赤ハゲ」に出かけた。
すると、崖の地層の中から、赤銅色の円筒状(太さ10ミリ、長さ50ミリぐらい)の物体を何本も発見して、かなり興奮した。
薬莢のような金属質ではなくて、固い土のようなものだったので、想像力が「豊か」過ぎるわれわれは、こう考えた。
これは、戦争中、グラマン戦闘機が機銃掃射した弾丸が、地面に着弾して、その後、腐食したものに違いない!
われわれは、それを大切に家に持ち帰って、さっそく翌日に、学校に持って行った。
「理科」に詳しそうな先生に、得意げにそれを見せた。
われわれの推理が正しいことを認めてもらうためである。
プラモデルの空き箱に入れて、大事そうに先生に見せると、先生は、ニコニコしながら、「これは、なんかの植物の根っこだっぺぇ。わっりゃあ(お前たち)、赤ハゲは危ねえがら、行ぐんじゃねえぞ」と言われたのであった・・・。

話は脱線するが、当時のわれわれ銚子の少年たちは、一人残らず、銚子商業高校野球部のファンで、しかも、軍事オタクだった。
少年軍事オタクの憧れの的は、第二次大戦中の戦車(ドイツ軍のキングタイガー[ケーニッヒティーゲル]が一番人気)・戦闘機(何と言っても、零戦)・戦艦(何と言っても、大和)・大小火器[サンダース軍曹が使用していたトンプソンサブマシンガンなど]など。
特に零戦は、われわれの憧れ以上の、それこそ雲の上の存在で、プラモデルで何機作ったか分からない。

たとえば、こんなことがあった。
図画工作の時間に魚市場に写生に出かける。
ところが、われわれが描いた絵はどうかというと、魚市場で働くオジサンたちの上空には、必ず、零戦とグラマンとの空中戦の模様が描いてあった。
犬吠埼を写生に行っても、利根川を写生に行っても、上空には、必ず、零戦が飛んでいるのである。
先生も困り果てたらしく、写生に行く前に、こう釘を刺した。
「零戦を描いた人は、零点にします!」と・・・。

屏風ヶ浦の思い出は尽きないが、あの一帯ががらっと変わったのは、何と言っても、現・県道286号線(愛宕山公園線・旧有料道路)の工事が始まってからである。
愛すべき赤ハゲは、単なる「有料道路」になりはてて、もはや、想像力を刺激する場所では、ほとんどなくなった。
今思えば、東京オリンピックの波紋が、銚子まで押し寄せたということかもしれない。

IMG_3011.jpg
(刑部岬方面を臨む)

走行距離:たぶん7キロぐらい(24インチママチャリ)

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