日々の身辺雑記や考えたことなどを徒然なるままに書き連ねる「断腸亭日録」です。
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断腸亭日録~自転車日記
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2015.02.19 Thu
「まあるいいのち」(作詞作曲唄:イルカ)
♪みんなおなじ、生きているから。
♪ひとりにひとつずつ、大切ないのち。
「まあるいいのち」(作詞作曲唄:イルカ)

イスラエルにおける我が国の現首相(名前は失念)の、笑ってしまうほど幼稚で軽はずみな言動が「引き金」になって、日本人ジャーナリストが殺害された。

それを機に、やれ「テロとの戦い」だとか、やれ「自衛隊による邦人救出」だとか、実に勇ましくて噴飯物の議論が繰り広げられているようで、列島人の一人として、恥ずかしいやら、呆れるやらである。

一番不思議に思うのは、「命の重さ」に関する政府の見解である。

「テロに屈しない」という。
「断固としてテロと戦う」という。

まことに「結構毛だらけ猫灰だらけで」はあるが、根本的にテロを根絶するつもりがあるならば、同時に「空爆」とも戦わなければならないのは理の当然であることが、痴呆的にまで分かっていない。

「テロ」によって殺害された日本人ジャーナリストの命も、ヨルダン(=米軍)の空爆によって殺害された少女の命も、命の重さはまったく同じである。
非常に摩訶不思議なことながら、あまりにも当然なこの事実が置き去りにされている。

テロは空爆を誘発し、空爆はテロを誘発する。
どちらが「残存」しても、この悪の連鎖は終わらない。

果たして、まことしやかに語られるように、テロが悪で、空爆は善なのか。
テロの犠牲者も、空爆の犠牲者も、その命の重さは同じである以上、そこに「優劣」もうけている議論は、すべて間違っていると私は思う。

テロと空爆。
その両者と「同時に等しく」戦わない限り、この悪の連鎖は断ち切れないどころか、現政策を今のまま推し進めれば、必ずや、国内で爆弾テロが行われるであろう。

そんな状態にならないようにするためには、「ひとりにひとつずつ、大切ないのち」という真理を大切にするほかはないと思う。

https://www.facebook.com/atsushi.nagae.9/posts/658732824236142
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2014.12.29 Mon
柳田国男の銚子徒歩旅行~海鹿島異聞
「柳田国男の銚子徒歩旅行~海鹿島異聞」(前篇)

これまでも度々話題にしてきた『利根川図志』(赤松宗旦著・安政年間の1858年刊)だが、その岩波文庫版(1938年刊)を校訂し、解題を付したのは、柳田国男(民俗学者)である。

その柳田国男の筆なる巻頭の「解題」を読むと、『利根川図志』にたいして殊更に深い思い入れがあったことが分かる。
その理由は、著者の赤松宗旦の生地布川(ふかわ)は、国男自身が青少年時代を過ごした地であることに加え、宗旦の祖先も、国男と同じ播州(兵庫県南西部)の出だったからである。

IMG_0429_20120531112054_2014122913332912b.jpg
(『利根川図志』の著者赤松宗旦の旧居跡・茨城県北相馬郡利根町布川)

柳田国男は、その布川(下総国相馬郡布川村で、現在の茨城県北相馬郡利根町布川)と宗旦と自分とのつながりから書き起こしている。

『利根川図志』の著者赤松宗旦翁の一家と、この書の中心となっている下総の布川という町を、私は少年の日からよく知っている。この書が世に公にせられた安政五(1858)年から、ちょうど30年目の明治二〇(1887)年の初秋に、私は遠い播州の生まれ在所から出て来て、この地で医者をはじめた兄の家に3年ばかり世話になった。そうして大いなる好奇心をもって、最初に読んだ本がこの『利根川図志』であった。
(岩波文庫版3頁・新仮名新字体に直し、かっこ内に西暦を付した。以下の引用も同様)

柳田国男にとって、宗旦の『利根川図志』は、現代のわれわれとは違って、決して「古書」ではなく、私自身の同時代的な喩えで言えば、太宰治の『津軽』(1944年)を読むような感覚であったことが分かる。
それほど、柳田国男の世代にとって、幕末(あるいは、江戸時代)は近い時代だったというわけである。

IMG_0457_20141229135431e00.jpg
(少年時代に柳田国男が住んだ布川の家)

布川、そして後に、利根川対岸の布佐(千葉県南相馬郡布佐町・現我孫子市)に住んでいた少年の国男は、『利根川図志』をいわゆる旅行ガイドブックとして読んでいたようである。

此本は余りにも大きいのでポケットに入れて行くことも出来なかったが、その代わりには人々に是をよく読ませて、その記憶を携えてあるいたものである。
(同書14頁)

そして、「解題」の最後の方で、銚子まで利根川づたいに徒歩旅行をしたという、次のような大変興味深い体験を書いている。

思い出すことの一つは、最近亡くなった末弟が十四歳の時、僅かな金をもって夏の盛りに、利根川の堤を二人で下って行った。腹がへってもうあるくのはいやだというのを、あしか島をみせてやるからとすかし励まして、夜路を到頭(とうとう)銚子の浜まで行ってしまった。実は、船賃をのけると一泊の金が無かったからである。
(同書14頁)

「最近亡くなった末弟」というのは、松岡映丘(まつおかえいきゅう・日本画家)のことで、国男がこの「解題」を書く四ヶ月ほど前の1938年3月2日に亡くなっている。
その弟(1881年生まれ)が、「十四歳」の時というのだから、この銚子徒歩旅行は1895(明治28)年前後のことだと推定できる(年齢の数え方によって前後1年ずれるかもしれない)。
国男にとって、死んだ弟の思い出をこの「解題」に、是非とも書き留めておきたかったのかもしれない。

末弟
(後列左が若き日の松岡輝夫(映丘)、後列右が柳田國男、前列右から、松岡鼎、松岡冬樹(鼎の長男)、鈴木博、1897年前後の撮影)

柳田国男の年譜を紐(ひも)解くと、1895年(明治28年)には、布川から布佐に越している

1887年(明治20年) - 兄・鼎(かなえ)が、医院を開いていた茨城県北相馬郡布川村(現・利根町)に移住。
1893年(明治26年) - 兄・鼎の転居に伴い千葉県南相馬郡布佐町(現・我孫子市)に移住。

なので、この銚子徒歩旅行は、布佐が出発点だったに違いない。

そして、最終的には、めでたく銚子の「あしか島」に到着するわけだが、その距離たるや大変なものである。
夏の暑い盛り、国男(たぶん、二十歳)と映丘(十四歳)が、銚子をめざして、ひたすら利根川堤を歩きとおす姿をちょっと想像してみよう。

試しに、布佐から銚子までの道程を経路地図に描いてみた。
仮に現在の国道356号の旧道(いわゆる「銚子道」)を歩いたとして、次のようなルートが考えられる。


(布佐~海鹿島(柳田国男))

距離は、約85キロにもなる。
もちろん、当時の人は、誰でも一日に40キロほどは歩く脚力はもっていたし、人力車引きにしては、何と一日に70キロを移動するというのはざらだったというから、当時としては、さして珍しいことではなかったかもしれないが、現代のわれわれにとっては、気の遠くなるような話である。

歩行速度の平均である時速4~5キロで歩いたとして、休憩なども含めて、たぶん、最低20時間以上はかかったであろう。
ということは、夜明け前に出発し、銚子に到着したのは、どんなに早くても、翌日の朝ということになる。

こんな無茶な旅をしたのも、ひとえに「船賃をのけると一泊の金が無かったから」である。

当時、銚子まで行くには、船に乗って利根川を下るのが普通であったのだが、国男たちは帰りの「船賃」しか持っていなかったので、徒歩旅行の途中一泊することもできず、仮眠を取りながら夜通し歩くという強行軍を敢行するしかなかったというわけである。

さて、銚子に着いてはみたものの、目的とした「あしか島」はどうであったか。

ところがその海鹿(あしか)島には、もう『利根川図志』のような海鹿は上がって居なかった。そうして評判の遠眼鏡(望遠鏡)は割れて居た。是がその獣の皮だという毛の禿げた敷物の上で、梅干と砂糖とだけの朝飯を食べて還って来た。
(同書14頁)

残念ながら、海鹿島には、あしかはいなかったのである。

(続く)

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2014.12.21 Sun
『鹿島紀行』で芭蕉が辿ったルートについて
『鹿島紀行』で芭蕉が辿ったルートについて

貞享四(1687)年の秋、松尾芭蕉は、門人曽良(そら)と宗波(そは)を伴って、鹿島の月を見るために、深川の芭蕉庵を旅立った。
それをまとめた小さな本が、『鹿島紀行』(寛政2(1690)年)として、今日に伝わっている。

文庫本でも、たった6頁の小品であるので、夕べ、枕元で読んだ。
芭蕉が鹿島まで辿ったルートが鮮やかに思い起こされた。

そのルートはほぼ、こんなものだったに違いない。



『鹿島紀行』を読み終えて眠りにつく。
するとさっそく、利根川サイクリングロードのような所を自転車で走っている夢を見た。
芭蕉の一行を私は自転車で追い抜く。
だが、しばらく走ると、また、芭蕉が前にいる。
何回追い抜いても、芭蕉は私の前に現れたのであった・・・。

芭蕉が辿ったルートは、『鹿島紀行』の中に大雑把に書き込まれている。

「ふねにのりて、行德(ぎやうとく)といふところにいたる」。

深川(東京都江東区)の庵から芭蕉たちは船に乗る。
小名木川から旧中川を経由して(当時は、もちろん、荒川は存在しない)、新川に入り、江戸川に出る。
江戸川をやや遡って、行徳(千葉県市川市)に上陸。

行徳に上陸した芭蕉は、徒歩(かち)で、八幡(千葉県市川市)に出る(県道6号線)。
八幡からは、千葉街道(現国道14号線)を東進して、現在の鬼越2丁目の所から左折して木下街道(県道59号線)を北東進。
「ひろき野」と芭蕉が表現している「かまがい(=鎌ヶ谷)の原」まで来ると、前方に筑波の山が見えてきたと書いている。

そして、日没の頃、利根川舟運の拠点たる布佐(ふさ・千葉県我孫子市)にようやく到着。

一行は、布佐で一泊する。
布佐では、網代(あじろ)という鮭漁の仕掛けを目撃したと書いている。
鮭漁をする漁師の家に泊めてもらうことになるが、「よるのやどなまぐさし」とある。

布佐まで芭蕉が辿ったルートは、当時としては、江戸から鹿島神宮参りをする者の定番である。
木下街道は、江戸期には、銚子の海産物を行徳に運ぶための道であったと同時に、別名「かしま道」と言われたほどである。

「月くまなくはれけるまゝに、夜舟(よぶね)さしくだしてかしまにいたる」。

夜が明ける前に船に乗って布佐を出発。
月が煌々と川面を照らす、気持ちの良い利根川下りである。

こうして、芭蕉を乗せた船は、利根川を下って、常陸利根川を経て、北浦に入ったに違いない。

やうやく鹿島(茨城県鹿嶋市)に到着した芭蕉だが、その日は、残念なことに、「ひるよりあめしきりにふりて、月見るべくもあらず」。
仕方なく、鹿島の根本寺に一泊する。

すると、明け方になって、雲間から仲秋の月がぽっかりと姿を現した。
しかしながら、晴れたり降ったりという天気だったらしい。
「月のひかり、雨の音、たゞあはれなるけしきのみむねにみちて、いふべきことの葉もなし」とその感動を綴っている。

月はやし梢は雨を持(もち)ながら(芭蕉)

ここで、『鹿島紀行』は終わっており、帰路のことについは触れていない。

さて、この芭蕉の鹿島までのルートを自転車で走ってみたいという酔狂が起き上がってこないでもないが、木下街道(県道59号線)が自転車にとって地獄道であることを思うとやはり躊躇してしまう。

また、ご馳走を食べるためなら鹿島まで走ってもよいが、ただ月を見るためというのは、ちょっとご勘弁願いたい。
そういう私だからこそ、永遠に芭蕉を「追い抜く」ことができないのも道理なのである。

参考;
松尾芭蕉『鹿島紀行』全文

 らく(洛)の貞室(ていしつ)、須磨のうらの月見にゆきて、「松陰(まつかげ)や月は三五(さんご)や中納言」といひけむ、狂夫(きやうふ)のむかしもなつかしきまゝに、このあきかしまの山の月見んと、おもひたつ事あり。ともなふ人ふたり、浪客(らうかく)の士ひとり、ひとりは水雲(すゐうん)の僧。僧はからすのごとくなる墨のころもに、三衣(さんえ)の袋をえりにうちかけ、出山(しゆつざん)の尊像をづしにあがめ入(いれ)テうしろに背負(せおひ)、柱杖(ちゆうぢやう)ひきならして、無門(むもん)の関(くわん)もさは(障)るものなく、あめつちに独歩していでぬ。いまひとりは僧にもあらず、俗にもあらず、鳥鼠(てうそ)の間(かん)に名をかうぶりの、とりなきしまにもわたりぬべく、門(かど)よりふねにのりて、行德(ぎやうとく)といふところにいたる。ふねをあがれば、馬にものらず、ほそはぎのちからをためさんと、かちよりぞゆく。
 
 甲斐のくによりある人の得させたる、檜もてつくれる笠を、をのをのいたゞきよそひて、やはたといふ里をすぐれば、かまがいの原といふ所、ひろき野あり。秦甸(しんでん)の一千里とかや、めもはるかにみわたさるゝ。つくば山(やま)むかふに高く、二峯ならびたてり。かのもろこしに双劔(さうけん)のみねありときこえしは、廬山の一隅也。
  ゆきは不レ申先(まづ)むらさきのつくばかな
  
と詠(ながめ)しは、我(わが)門人嵐雪が句也。すべてこの山は、やまとたけの尊の言葉をつたえ<へ>て、連歌する人のはじめにも名付(なづけ)たり。和歌なくばあるべからず、句なくばすぐべからず。まことに愛すべき山のすがたなりけらし。

 萩は錦を地にしけらんやうにて、ためなかが長櫃(ながびつ)に折入(をりいれ)て、みやこのつとにもたせけるも、風流にくからず。きちかう・をみなへし・かるかや・尾花みだれあひて、さをしかのつまこひわたる、いとあはれ也。野の駒、ところえがほにむれありく、またあはれなり。
 
 日既に暮(くれ)かゝるほどに、利根川のほとり、ふさといふ所につく。此(この)川にて鮭の網代(あじろ)といふものをたくみて、武江(ぶかう)の市(いち)にひさぐもの有(あり)。よひのほど、其(その)漁家(ぎよか)に入(いり)てやすらふ。よるのやどなまぐさし。月くまなくはれけるまゝに、夜舟(よぶね)さしくだしてかしまにいたる。
 
 ひるよりあめしきりにふりて、月見るべくもあらず。ふもとに根本寺(こんぽんじ)のさきの和尚、今は世をのがれて、此(この)所におはしけるといふを聞(きゝ)て、尋入(たづねいり)てふしぬ。すこぶる人をして深省(しんせい)を發せしむと吟じけむ、しばらく清淨の心をうるににたり。あかつきのそらいさゝかはれけるを、和尚起し驚シ侍れば、人々起出(おきいで)ぬ。月のひかり、雨の音、たゞあはれなるけしきのみむねにみちて、いふべきことの葉もなし。はるばると月みにきたるかひなきこそほゐ<い>なきわざなれ。かの何がしの女すら、郭公(ほとゝぎす)の歌得(え)よまでかへりわづらひしも、我(わが)ためにはよき荷擔(かたん)の人ならむかし。

                     和 尚
  お<を>りおりにかはらぬ空の月かげも
    ちゞのながめは雲のまにまに

  月はやし梢は雨を持(もち)ながら     桃 靑(=芭蕉)
  寺に寐てまこと顔なる月見哉       同
  雨に寝て竹起(おき)かへるつきみかな  ソ ラ
  月さびし堂の軒端(のきば)の雨しづく  宗 波
   神 前
  此(この)松の実ばへ<え>せし代や神の秋  桃 靑 
  むぐはゞや石のおましの苔の露  宗 は
  膝折ルやかしこまり鳴(なく)鹿の聲   ソ ラ
   田 家
  かりかけし田づらのつる(鶴)や里の秋  桃 靑
  夜田かり(刈)に我やとはれん里の月   宗 波
  賤(しづ)の子やいねすりかけて月をみる  桃 靑
  いもの葉や月待(まつ)里の燒(やけ)ばたけ タウセイ
   野
  もゝひきや一花摺(ひとはなずり)の萩ごろも ソ ラ
  はなの秋草に喰(くひ)あく野馬哉  同
  萩原や一(ひと)よはやどせ山のいぬ  桃 靑
   歸路自準(じじゆん)に宿(しゆく)ス
   塒(ねぐら)せよわらほす宿の友すゞめ   主 人
   あきをこめたるくねの指杉(さしすぎ)    客
  月見んと汐引(しほひき)のぼる船とめて  ソ ラ

   貞享丁卯(ていばう)仲秋末五日



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2013.09.08 Sun
「東京オリンピック」に想う
「東京オリンピック」に想う

朝起きたら、次々回五輪が東京に決したとのニュースに衝撃を受けた。
この馬鹿騒ぎが一段着くまでは、テレビを見る気にもなれない。

これを機に、またしても、不必要な箱モノをしこたま建設するんだろうな。
インフラの整備も、オリンピック向けのものなので、終わった後は、ゴミになる。
ゼネコンや関連企業は、ぼろ儲けできるので笑いが止まらないだろうが、小さな商店街などは、道路拡張やその他の犠牲になって消滅していくだろう。

オリンピックのためという口実で、様々な理不尽がゴリ押しされることになるだろう。
オリンピックのためなら何でもしてもよいという論理がまかり通るようになるであろう。
オリンピックに莫大な税金が投入されるので、被災地の復興や福祉の充実は、その分、確実に後回しにされるであろう。
予算の肥大化は、さらなる増税を招くであろう。

オリンピック招致活動で、嘘八百な「原発事故安全宣言」をしてしまったものだから、政府と財界と電力会社は、ここぞとばかりに、どさくさに紛れて、これまで以上に、原発再稼働と欠陥原発の海外への売り込みに腐心するであろう。

まだ残されている伝統的な東京の風情は、オリンピックのために、今度こそ「絶滅」して、清潔で明るくて白々しいディズニーランド風な街並みに改変されていくであろう。
東京各地で一斉に建設工事や道路工事が始まって、実にいらいらする悪環境を呈するであろう。
道路は渋滞して、自転車通勤も不便になるであろう。
そのことにクレームを言っても、「オリンピックのためだから」ということで不問に付されるであろう。

しかしながら、まだ生ぬるいところもある。
都知事や首相が言うように、福島第一原発が「安全」なのならば、福島第一原発周辺の海産物や野菜類の「安全」を、より積極的に世界にアピールするべく、オリンピック村で選手たちに提供する食材は、「すべて被災地産に限る」ようにすれば、非常に効果的なのではあるまいか。
また、IOCの重鎮たちが宿泊する宿舎は、「安全」で風光明媚な福島第一原発周辺にすれば、世界に対して、原発の安全性もアピールできて、もっと容易かつあざとく金儲けができる下地も整うのではなかろうか・・・。

https://www.facebook.com/photo.php?fbid=424570844319009&set=a.209915155784580.43371.100002982915997&type=1&permPage=1

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2009.10.24 Sat
常識
ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の短編に、あまり知られていない「常識 Common Sense」という小品がある。
実に重い真実を証した傑作だと思う。

Lafcadio_hearn.jpg
(ラフカディオ・ハーン)

今日は、その作品を紹介したい。

こんな話である。

昔、京都の山寺に、教養もあり、徳も積み、仏教徒としてもきわめて信心深い和尚がいた。
近傍の村人からも、たいそう慕われていた。

そんな村人の中に、一人の猟師がいた。
ある日、その猟師が米を持って和尚の所にやって来た。

和尚曰く。

ここ数日、夜になると、普賢菩薩が象に乗ってやってこられるのじゃ。これも、長年に渡る修行と黙想の功徳だと思っている。お前も、今夜は寺に泊まり、普賢菩薩を拝むとよい。

猟師は、そんな尊いお姿を拝めるのなら、是非、拝見したいものだ応える。

だが、果たして、自分のような者に普賢菩薩の姿が見えるものかどうか、やや不審に思い、寺の小坊主に訊ねてみた。
すると、その小坊主も、和尚と一緒に、もう六回も象に乗って現れる荘厳なお姿を見たのだいう。

猟師は、小坊主にも見えるのなら、自分も見てもよいと思い、夜を待つことにする。

堂の廊下に和尚と小坊主が坐し、戸外に向かって、熱心に念仏を唱える。
その背後に、猟師も静かに座る。
夜の静寂の中に、普賢菩薩の到来を待つ。

夜の闇が深まった頃、それはついに現れた。
小さな白い光が現れ、近づくにつれ巨大な光の柱となった。
六本の牙のある雲のように白い巨像に乗った普賢菩薩が、眼前にそびえたったのである。
和尚は、その偉容に手を合わせ、一心不乱に念仏を唱える。

普賢菩薩
(普賢菩薩)

するとその時、どうしたことだろう、和尚の後ろにいた猟師が、弓を取って、すっくと立ち上がり、その普賢菩薩像にねらいを定め、ひょうと弓を引いた。
放たれた矢は、菩薩の胸に深々と突き刺さったのである。
その刹那、雷鳴のような轟が走り、光はすっと消え、深い闇と静寂が残るばかりだった。

当然、和尚は烈火の如く怒った。
お前は何という罰当たりなことをするか。
畏れ多くも、普賢菩薩様に弓を引くとは・・・。

猟師はと言えば、落ち着きはらった様子でこんなふうに応えた。

和尚様、どうか、お気を鎮めて、私の話を聞いてください。
和尚様は、長年修行をお積みになり、お経の研究をなさってこられた方なので、そういう方に普賢菩薩のお姿が見えるのは当然です。
でも、この私は、無学な猟師で、生き物を殺めることを生業とする殺生な身の上。
そんな私に、そもそも、普賢菩薩のお姿が見えるはずはないのです。
なのに、私には、その姿がはっきりと見えた。
ということは、あの見えた物は、偽物にちがいない。何かの化け物であり、きっと禍をもたらすものにちがいないと思って、弓を引いたわけです。

日の出になり、和尚と猟師は、その普賢菩薩が現れたあたりに行ってみた。
血だまりができていて、そこから、点々と血痕が山の中に続いていた。
その血痕を追いかけていくと、猟師の矢に射抜かれた大きな狸の死骸が横たわっていた。

ラフカディオ・ハーンは、最後に、こう結んでいる。

「和尚は学問のある信心深い人だったが、狸にやすやすと騙された。ところが、猟師は無学で不信心な男だったが、しっかりとした常識をもっていた。この生来の才知だけで、危険な迷妄を見破るとともに、それをうち砕くことができたのである」。

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2009.10.23 Fri
植物としての人間
彼岸から一月ほどたつと、本当に日が短くなったものだと思う。
朝から自転車で出かけるにしても、うっかりすると、たちまち日が暮れ始めてしまう。

私は、寝るのがあまり好きではなくて、できれば、四六時中起きていたい方なのだが、晩秋から冬にかけては、寝ることが、少し楽しくなってくる。

特に、冬は、寝ることがとても意識される季節である。
ほかほかの蒲団(ふとん)で、ぐっすり寝られることのありがたさを身にしみて感じる。
因みに、蒲団は、俳句の世界では、冬の季語でもある。

古代の日本語では、寝るの「寝」は、そもそも、「根」と同系の言葉だったそうだ。

草木が、夜になると、地下の根から養分を吸収するように、人間は、眠りに落ち、心身は意識の地下に沈潜して、明日への活力を蓄える。

古代の日本語の使い方から分かるのだが、そもそも、人間は、草木とのアナロジーで捉えられていたようだ。
記紀では、下界(葦原中国・あしはらのなかつくに)の人間のことを「青人草」や「蒼生」(あおひとくさ)と表現していた。
そうなのだ、人間は、植物だったのである。

その証拠に、古代日本語では、「目」「鼻」「歯」「耳」は、それぞれ、「芽」「花」「葉」「実」という言葉と同系であった。

因みに、「からだ」の「から」というのは、「空」が語源で、その空っぽの身体に「たま(魂)」が宿った状態(カラタマ→カラダ)のことを「身(み)」と呼んでいた。

しかも、この「身」は、「実」と同系の言葉なのである。

まことに、古(いにしえ)の言の葉(ことのは)は、抜き身の状態で、宇宙と人間の関係を表しているものである。

さて、今夜も、明日の実り多い一日のために、寝るとしよう。

070617-118.jpg
(野辺に寝る人)

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2009.10.11 Sun
小さな町の大きな出来事・銚子大空襲~ノーマン・メイラーのこと
「2マイルばかりの銚子半島は、日本全体の縮図だった。太平洋にむかって、数百フィートの高さに切り立った、大絶壁があった。まるでエメラルドみたいに完全で、きちんとつくられた豆絵の林、灰色の木と石塊でつくったちっちゃな漁師町、稲田、悲しげな低い小さい丘、魚の臓腑や人糞が鼻をつく、銚子の狭苦しい息もつまりそうな町、ものすごい人だかりの漁港の波止場。なにひとつ無駄にするものはない。土地という土地は、一千年の長きにわたって、まるで爪の手入れみたいによく手入れされていた」。

いきなりの長い引用にて失礼。

これは、アメリカの作家ノーマン・メイラーが書いた長編小説『裸者と死者』(1948年)の一節である。
メイラーは、21歳で米陸軍に入隊、ルソン島のジャングルの中で日本軍と戦い、終戦後、銚子に進駐(銚子の米占領軍司令部は、現在のヤマサ醤油社屋を接収)した(その後、小名浜へ)。

『裸者と死者』は、その体験を生かして書かれた叙事詩的戦争小説巨編である。
学生時代に読んで感動し、その後、全集も買って、随分一生懸命、メイラーの難解な文章と格闘したものである(当時は新潮文庫で3巻本で出ていたが、長らく絶版のまま)。

メイラーの銚子に関する上の描写は、お見事と言うほかない。
東京オリンピック(1964年)ぐらいまでの銚子の雰囲気を、完璧なまでに活写していると言ってよい。

「大絶壁」というのは、もちろん、屏風ヶ浦のことで、わたしの田舎の家からは、徒歩20分ぐらい。

「豆絵の林、灰色の木と石塊でつくったちっちゃな漁師町、稲田、悲しげな低い小さい丘、魚の臓腑や人糞が鼻をつく、銚子の狭苦しい息もつまりそうな町」という描写も、犬若から外川あたりまでの海岸線に沿って点在した漁村の風景を、驚くほど精確に描ききっている。

ところが、その銚子の町だが、メイラーたちが進駐する前の戦争中は、町の規模には不相応な、米軍の激しい空爆にさらされたのである。

1945年3月10日、一夜にして10万人以上の死者をもたらした、いわゆる東京大空襲を皮切りに、銚子市民の災難も始まった。

当時、燈火管制が敷かれていたので、洋上の航空母艦や島々から飛び立った米軍爆撃機は、正確に東京への方角を辿る一番簡単な方法は、夜間でも上空から光って見える利根川沿いに遡上することであった。
利根川を遡り、江戸川をたぐれば、すぐに荒川や隅田川も発見できる。
これらの川の流域には、当時も今も、「庶民」の大住宅街が広がっている。
その全域に、木造住宅を破壊するために特殊開発された焼夷弾を雨霰のように投下して、東京の下町を未曾有の火炎地獄と化さしめるという、無差別攻撃を加えることになる。

そうして、帝都の爆撃がすむと、また、利根川沿いに帰投するのだが、燃料の節約などのために、利根川流域の最後の町である銚子に、余った爆弾を全部落として行くわけだ。
これにより、銚子の市街地は壊滅する。

しかも、のどかな昼下がりに、突然、グラマン戦闘機が飛来し、飯沼観音でお参りしている人をゲーム感覚で銃撃し、多くの民間人も殺された。
米兵士も、長年の従軍生活でむしゃくしゃしていたのであろう。
お遊び的な攻撃も頻繁に繰り返されたという。

幼かりし日を思いて、わが胸は痛む。 
少年たち、学友たち、ともに興ぜし遊戯、
しきりに瞼にうかぶ。 
かつて銚子に祖父母とすごせし日よ。 
われは思う、われは生まれ、そして死す。 
われは生まれ、生き、そしてまた死なんとす。 
今宵 われは思う。 
われは至高の存在、天皇を信ぜず、 
わが偽らぬ心の告白。 
われはまさに死なんとす。われは生まれ、われは死す。 
われは自問す―なぜか? 
われは生まれ、われは死なんとす。 
なぜか? なぜか? そはなにを意味するや?

これは、『裸者と死者』に登場する日本軍将校の遺言詩である。
彼も、ひょっとしたらメイラーも、1945年に銚子に加えられたゲルニカ的無差別爆撃を知らなかったかもしれない。

IMG_2978.jpg
(現在の外川港)

走行距離:0キロ

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2009.07.16 Thu
水をめぐる話
もう15年ぐらい前になるだろうか。
初めてパリに行ったとき、水のペットボトルを持ち歩いている人々を初めて見た。
街路や地下鉄の車輌内で、ペットボトルの蓋を開けて、ちょっと水飲んではすぐに蓋をしている光景を見て、私は、実に不思議なことをする人たちだなあと思ったものである。

不思議に思った理由は三つ。

1.水は、どこにでもあるものなのに、わざわざ金を出して買っていること。
2.水は、人間が日常的に持ち歩く携行物としては、書籍と並んで重い部類に属するものだというのに、それをわざわざ持ち歩いているということ。
3.砂漠でもあるまいし、そんなにしょっちゅう水を飲まなければならないほど、喉が渇くはずがないのに、頻繁に、しかも、なぜか小分けにして飲んでいること。

1については、すぐに納得がいった。
ヨーロッパでは水道の水が飲めない(というより、飲むに相応しくない)ものであるし、原則、どの店に入っても、水は有料なので、水を買うのが当たり前であるため。
2についても、上記1の理由からすれば、重くても、自分で水を持ち運ぶのが一番便利でもあるし、結局は安上がりであるので、分かるような気がする。
3については、今でも半分ぐらいは、腑に落ちないままではあるが、気がついてみれば、自分も同じようなことをしているではないか・・・。

ただ、1と2については、少なくとも日本の市街地では、公園の水道の水はそのまま飲むことができるので、よくよく考えれば、ペットボトルを持ち歩く必要はほとんどないはずなのだが・・・。

これも昔の話しで恐縮だが、30年ほど前のこと、晩夏の北海道を24泊25日のキャンプ旅行をしたことがある。
最終日の函館でユースホステルに一泊した以外は、全泊キャンプで、朝夕食は自炊の旅であった。

その際に、一番困ったのが、何と水であった。
もちろん、当時は水を「売って」いる所なぞないので、水は「もらう」ものであった。
もらうといっても、大抵は、公園やキャンプ場の水道から汲むか、ガソリンスタンドや民家にお願いして水を分けてもらうということである。

私の記憶では、一日最低3リットルほどの水が必要だった。
テントや寝袋や飯盒や米などの食料などのずっしりと重い携行物以外に、なかでも一番重い水を持ち歩くのは本当に厄介だった。

人が比較的たくさん住んでいる地域では、水の確保は簡単で、公園や学校の水道かガソリンスタンドでもらうのだが、人煙がまばらな地域に行くと、いつも、水の確保に悩まされた。
私が北海道を旅行したのは、もう季節はずれの9月で、山の中の大抵のキャンプ場は、8月一杯で閉鎖していて、水道の栓が取り去られ、使えないようになっていた。

やっとキャンプ場まで辿り着いて、さて飯を炊こうとすると、水が足りない。
仕方がないので、ポリタンクをぶら下げて、先ほど苦労して登ってきた峠を降りて、麓のガソリンスタンドまで水をもらいに行ったこともある。
そんな経験をすると、水がないと不安になって、とにかく水道を見つけると、ポリタンクに満タンにするという習性が芽生えるようになる。
ところが、これが重いのなんのって・・・。

自炊野営旅行では、とにかく水をたくさん使う。
飲み水のほか、米を洗ったり、味噌汁やラーメンを拵えたり、食器類を洗ったり、洗濯をしたり、歯を磨いたり、何をするにも水が必要である。
水を節約するために、米のとぎ汁はとっておいて、食器洗いや歯磨きや洗濯に使ったこともある。

ただ、水の確保で一番悩ましかったは、いつの時点でポリタンクを満タンにするのがよいかという点である。
もちろん、ポリタンは常に水で満たされたいるのがよいに決まっているのだが、何しろ重い。
水を一番使うのは、夕から朝にかけてであるので、野営地に着く直前に満タンにするのが望ましい。
ところが、昼過ぎになると、この先ちゃんと水を確保できる場所があるかどうか不安なので、水道を見つけると一応、満タンにしておくが、夕近くになって、野営することになった場所の近くに、ちゃんと公園の水道などがあった場合は、昼過ぎから重い思いをして水を持ち歩いていたことが悔やまれてならない、ということになる。

さて、やっと最近の話しになる。

真夏の自転車走行には、大量の水分が必要になる。
私の場合、約90分で、500ミリペット1本ぐらいである。
通勤の日は、往復で約2本、仕事中に1本で、計3本ほど。
遠乗りの場合は、大体8時間ぐらいは走るので、6本(3リッター)ぐらいは必要になる。

昔と違って、今は、自販機でもコンビニでも簡単に水分を補給することができるけど、問題なのは、それにかかる費用である。
私は、月平均約1200キロ走るが、平均速度20キロとすれば、60時間走っていることになるので、月平均40本のペットボトルが必要ということになる。
500ミリペットボトルの定価は150円なので、すべて定価で購入したとすれば、6000円にもなる。
もちろん、真夏は、自転車に乗っていなくても、水分を必要とするので、すべてを購入したとすれば、なんだかんだで、1万円ぐらいの出費になりかねない。

話しが逸れることになるかもしれないが、ペット入り水やお茶の価格はちょっと高すぎると思う。
ガソリンだって、リッター100円ぐらいだというのに、水やお茶がリッター300円もするのはどう考えても解せない話しである。

そこで、私は、夏になると、よく100円ショップで売っている900ミリのペットボトル1本と500ミリのペット1本に自家製のお茶を詰めて出かける慣わしである。
しかも、冷たい水が飲みたいときはコンビニなどで補給するが、節約のため、なるべく公園などの水道で補充することにしている。

いや、それにしても、普段はパーツを交換して10グラム軽量化したといっては喜んでいるというのに、1.5キロほどの水分を持ち歩かなければならないというのは、不条理な話しではある。

IMG_0890.jpg
(この写真では、1リッターのペットと220ミリのワンカップ焼酎の容器を利用・九十九里サイクリングロードにて)

旅をする人類にとって、水分の補給は、永遠の課題なのかもしれない。

走行距離:35キロ(フジクロス)

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