日々の身辺雑記や考えたことなどを徒然なるままに書き連ねる「断腸亭日録」です。
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断腸亭日録~自転車日記
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2011.07.22 Fri
志賀直哉の「自転車」を読む4~ランブラーの仕様について~やっぱり固定ギアじゃなきゃ
志賀直哉は、高校生に上がった頃、中学生時代に乗っていたデイトンを自転車屋(神田錦町)に50円で売って、別の自転車屋(神田美土代町)で新しいランブラーを140円で購入した(いずれも米国製)。
実は、この購入にまつわる心温まるエピソードが、「自転車」という作品のいわば「華」なのだが、ここでは触れない。

この時、そもそも直哉が狙っていた自転車は、ランブラーではなく、新型のクリーヴランド(米国製)という自転車だったが、ランブラーのデザインを一目見て気が変わったのだという。

「横と斜のフレームは黒、縦は朱に塗った、見た眼に美しい車だった。・・・古くなったデイトンより遙かに軽く、乗り心地がよかった」(393頁)。

つまりは、今風に言えば、トップチューブとダウンチューブがブラックで、シートチューブはオレンジのカッコイイ自転車で、前のものより、はるかに乗り味が軽かったということであろう。

因みに、1880年代の世界の自転車業界は、英米がしのぎをけずっていた。
そして、1890年代に、最終的にこの競争に勝利を収めたのは米国で、日本に輸入される米国製自転車の台数も増加して、しかも、日本の自転車乗りに人気があるのも米国製だったようである。

自転車にめざとかった直哉は、このあたりの事情を次のように書いている。

「その頃、日本ではまだ自転車製造が出来ず、主に米国から輸入し、それに英国製のものが幾らかあった。英国製は親切に出来ていて、堅実ではあったが、野暮臭く、それよりも泥除け、歯止めなどない米国製のものが値も廉かったし、私達には喜ばれた」(384頁)。

その頃、つまりは、1890年代後半頃、「日本ではまだ自転車製造が出来ず」というのは、半分は正しいが、半分は間違っている。
「特製」の自転車としては、既に、明治初期から国産のものがあった(1881年の第2回「内国博覧会」には国産自転車が出品)が、大量生産品が出始めるのは、1890年ぐらい(宮田製銃所)で、しかもしばらくは、(「安全型自転車」には欠かせない)チェーンやスポークや(ボールベアリング仕様)ハブの部品類は、欧米からの輸入品であったようである。
また、その生産台数は僅少であったかもしれないが、既に1893(明治26)年には、タイヤ以外のすべての部品を国内で製造できるようになっていた(参照)のも事実である。

さて、その後のくだりの英米の自転車比較も面白い。
英国製=頑丈で品質はよいが格好悪い。
米国製=廉価で格好いい。
というような図式が当時はできあがっていたことが分かる。

米国製が格好いいのは、泥除けや「歯止め」がなかったこととも関係がありそうで、その「歯止め」とは、ブレーキのことに違いない。
泥除けのない自転車が格好いいという風潮は、現在のスポーツ自転車の流行にも通じることなので、これについては説明を要しないかもしれないが、ブレーキ(「歯止め」)の方はどうだろう。

そう言えば、切支丹坂を自転車で下るという「偉業」を成し遂げた直哉少年であったが、それについて書かれた一節では、志賀直哉はその時乗っていた自転車(たぶん、デイトン)には「ブレーキがない」ので、という書き方をしていて、「歯止め」という言葉を使っていない。

つまり、「歯止め」と「ブレーキ」という言葉をはっきり使い分けていることが分かる。

切支丹坂の件で直哉が「ブレーキがない」と書いているのは、戦後(昭和26年)の自転車では当たり前に付いていたキャリパーブレーキやドラムブレーキのことであろう。
つまり、戦後の時点では、「歯止め」と言っても、多くの読者はピンと来ないので「ブレーキ」という言葉を選択したものと思われる。

とすれば、「歯止め」という言葉を使ったのは、当時(19世紀末)の自転車のブレーキという意味合いを出したかったからだと考えられる。
この時点で、自転車に採用されていたブレーキは、主として3種類しかない。

1.ミショー型自転車の頃から存在した初期型のスプーンブレーキ。
2.1887年頃発明されたキャリパーブレーキ(現在でも、ママチャリの前輪やロードバイクで使用)。
3.1898年頃発明されたコースターブレーキ

IMG_0121_20110722130100.jpg
(コースターブレーキ。「自転車文化センター」にて撮影)

ところで、直哉が、ランブラーを購入したのは、1898年かその翌年の1899年である。
3のような新型のブレーキが発明されたからと言って、すぐに大量生産品に導入されたわけではなさそうなこと、および、米国から日本に自転車を運搬する最速の手段はまだ蒸気船による船便しかなく数ヶ月を要したであろうことなどを考え合わせると、ここで言う「歯止め」というのは、1の旧型のスプーンブレーキないしは2のキャリパーブレーキ(ダックブレーキを含む)のことを意味している可能性が高いのではなかろうか。

かくして、新たに購入した直哉の140円のランブラーも、当時の自転車乗りの好みからして、中学時代の愛車デイトンと同様、ノーブレーキの固定ギアだったと推測できる。

さらに、直哉は、当時流行っていた自転車の「曲乗り」にも凝っていたことも、固定ギアの自転車を選択したであろう傍証にもなる(391頁)。

そして「自転車」の最後の段落で、志賀直哉は次のように結んでいる。

「私は自転車に対し、今も、郷愁のようなものを幾らか持っているのか、そこにあればちょっと乗ってみたりもするが、自転車そのものが昔と変わってしまったために乗りにくくもあり、さすがに今は乗って、それを面白いとは感じられなくなった」(399頁)。

「自転車そのものが昔と変わってしまったために乗りにくく」というのは、おそらく、明治末期以降の自転車のほとんどに導入されたフリーホイール仕様(freewheel)の自転車のことを言っているのであろう。

切支丹坂をスキッド制動法でスリリングなひよどり越えをしたり、曲乗りを楽しんでいた志賀直哉にしてみれば、「今」の自転車はそんなに面白いものではなかったのかもしれない。

してみれば、1900年頃に中村春吉が下関で購入したランブラーも、固定ギア仕様だった可能性が高まってくるが、これは状況証拠にすぎない。
春吉については、また、改めて。

参考文献:
「自転車」(ちくま日本文学21巻『志賀直哉』所収、筑摩書房)
佐野祐二『自転車の文化史』(中公文庫、1987年)

承前の記事

(この項、了)
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2011.07.07 Thu
志賀直哉の「自転車」を読む3~「切支丹坂」の怪
3.「切支丹坂」異聞

永井荷風の『日和下駄(ひよりげた)』(1915[大正4]年刊)は、言ってみれば、極上の「江戸東京散歩案内」といったところだろうか。
今では、軽便な文庫本として刊行されている(『永井荷風随筆集』上巻所収、岩波文庫)ので、サイクリングやウォーキングの友として懐中に忍ばせておけば、思いがけずも、荷風と時間とによって醸成された江戸東京の風景に近づくことができるというものである。

日和下駄挿絵
(荷風『日和下駄』の自筆原稿・挿絵)

さて、学習院の学生であった志賀直哉が、19世紀末に自転車で「ひよどり越え」をしたという「切支丹坂」であるが、小石川(現・文京区春日2-20-25)で生まれた荷風も、もちろん、『日和下駄』のかなで言及している。

「私の生れた小石川には崖が沢山あった。第一に思い出すのは茗荷谷の小径から仰ぎ見る左右の崖で、一方にはその名さへ気味の悪い切支丹坂が斜(ななめ)に開けそれと向い合っては名前を忘れてしまったが山道のような細い道が小日向台町(こびなただいまち)の裏へと攀登(よじのぼ)っている。今はこの左右の崖も大方は趣のない積み方をした当世風の石垣となり、竹薮も樹木も伐払(きりはら)われて、全く以前の薄暗い物凄さを失ってしまった」(『永井荷風随筆集』上巻、岩波文庫、85頁)。

かつて(明治期)の切支丹坂の雰囲気は、まさに「道幅が一間半ほどしかなく、しかも両側の屋敷の大木が鬱蒼と繁り、昼でも薄暗い坂」だったという志賀直哉の記述とも一致しているが、荷風が指摘しているように、大正期には既に「竹薮も樹木も伐払われて」「以前の薄暗い物凄さ」は失われてしまっていたというのだから、現在の切支丹坂も、まったくつまらない坂道になってしまっている可能性が高いものの、とにかく、地図を調べて、現場に行ってみることにした。

ちょうどその日は、中野の方南町で職務上の会合がある日だったので、その途中に寄ってみることにした(フジクロス)。
とても暑い日だった。

厩橋の交差点から春日通りを西進する。
春日通りというのは、隅田川から御徒町・本郷・後楽園・小石川あたりを抜けて、大塚池袋方面に至るなかなか便利な幹線道路ではあるが、台地を貫いて通っているので、何というか、無用に坂が多いような気がして、普段はあまり使わない。
改めて地図を見てみると、切通坂、真砂坂、富坂などが連なっている。
富坂などは、かなり迫力のある坂で、墨東から東京西部に楽に抜けるには、台東区あたりからは別の道を利用した方がよいと思う。

春日通りを「茗台中学校前」の交差点で左折する(地図)。

IMG_0029_20110707164413.jpg
(春日通りを左折したところの住居表示街区案内板)

南西にのびる道を辿って行くと、急激に道は狭くなって、突然、眼前にものすごい坂が現れた。
坂というよりは、ほとんど崖で、その存在を知らずに猛スピードで走り込めば、転落しないとも限らない。

IMG_0032_20110707165022.jpg
(突然眼前に現れた激坂)

これが切支丹坂かと思って、ふとあたりを見ると、坂を登り切った所に「庚申坂」という案内板が建っているではないか。

IMG_0031_20110707165216.jpg
(「庚申坂」の案内板)

案内板の説明を読んでみたが、書かれていることの意味が今ひとつよく分からなかった。
でもまあ、少なくとも、これは「切支丹坂」ではないから構わないという気持ちで、乗ったままではとても無理なので、自転車を引きながら恐る恐る坂を下る。

「庚申坂」を下りきると、トンネルが現れる。

IMG_0035_20110707170006.jpg
(「庚申坂」を降りきると前にはトンネルが現れた)

坂下から改めて坂を見上げる。
それにしても、すごい坂だなあ・・・。

IMG_0033_20110707170556.jpg
(「庚申坂」を坂下から見上げる)

持ってきた地図を開いて、「切支丹坂」の位置を確認する。
なるほど、このトンネルは、丸ノ内線の下をくぐっていて、このトンネルを抜けた先が「切支丹坂」であることが分かったので、自転車に跨って、トンネルを進んだ。

IMG_0034_20110707170936.jpg

トンネルを抜けるとすぐに急坂が現れた。
どこにも表示板のようなものは見当たらないが、地図によると、これが間違いなく「切支丹坂」である。

IMG_0036_20110707171125.jpg
(「切支丹坂」。坂下より)

多少急ではあるが、短いので、自転車でも比較的簡単に登ることができる(ママチャリでも、立ち漕ぎをすれば登坂可能)。
降りるのは、至極簡単だと言える。
しかも、直哉や荷風が書いていたような気味悪さは微塵もなくて、長閑な住宅に囲まれて、どこからともなく、香しいクチナシの花の香りが漂っていた。

IMG_0037_20110707171410.jpg
(「切支丹坂」。坂上から)

最初の「庚申坂」には度肝を抜かれたが、「切支丹坂」の雰囲気は、あまりにも凡庸で、多少がっかりしながら、私はその場を後にした。

中野の方南町での用事を済ませ私は、帰宅すると、さっそくこのブログを書くべく、この記事で既に引用した荷風(『日和下駄』)の記述などから「切支丹坂」について、地図と照らし合わせながらいろいろと調べ始めた。
ところが、どうもしっくりと来ない点がある。

荷風の記述によると、小石川台側の坂が「切支丹坂」で、「それと向い合っては名前を忘れてしまったが山道のような細い道が小日向台町」にのびているとある。
このあたりの地形を略記すると、ほぼ南北に「茗荷谷」という深い谷が走っていて、現在はそこに丸ノ内線が走っているのだが、その東側が小石川台地、西側が小日向台地ということになる。

ということは、荷風に従えば、小石川台地側の坂が「切支丹坂」ということになるのだが、私の実地調査によれば、この小石川側の坂はどうしても「庚申坂」でなければならないのである。

さすがの荷風も何らかの勘違いをして、誤記したのか?
でも、荷風のような地元の人間が、そんな単純なミスを犯すだろうか?

さらに、ネット上をいろいろと調査した結果、やっと謎が解けた。

決め手になったのは、松本崇男という方の「切支丹坂考」という論文であった。

切支丹坂の所在についての力作論考で、そのあらましを跡づけることことさえ煩雑に過ぎるので、ここでは省略するが、結論から言えば、荷風が「切支丹坂」と呼んでいたのは、現在の「庚申坂」に相当する
また、明治時代の多くの文人たち(漱石など)も、現在の「庚申坂」のことを「切支丹坂」と呼んでいたということである。
ということは、志賀直哉が「切支丹坂」と呼んでいたのも、ほぼ間違いなく、現在の「庚申坂」のことだと断言してもよかろう

しかも、私がよく理解できなかった「庚申坂」の説明板の意図するところも、これで分かったことになる。
それにしても人騒がせな話しで、文京区教育委員会も、説明板の最後に、「ただし、明治時代には、多くの人々がこの坂を切支丹坂だと見なしていた」というぐらいの但し書きを加えてもよいところではないか。

つまり、現場の写真で、これまで私が「庚申坂」と書いてきた坂こそが、「実際には」、「切支丹坂」だったことになる。
現在は、階段がついてしまっているが、当時は未舗装路の坂だったにちがいない。
志賀直哉は、道幅は1間半ほどと書いていたが、ほぼ一致する。
最初から分かっていれば、志賀直哉の真似をして、あの坂を自転車で下ってみるんだったと考えなくもないが、あの坂を自転車で下った直哉少年に、改めて、敬意の念を覚えざるを得ない。

(続く)

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2011.07.05 Tue
志賀直哉の「自転車」を読む2~ノーヘル・ノーブレーキの直哉
2.自転車のひよどり越え

志賀直哉と言えば、学習院時代は、大変な勉強嫌いだった(常に最下位を争って2度落第している)一方で、テニス、水泳、ボート、ラグビー、棒高跳び(高校生の時、3メーター17センチを飛んだという)など何でもこなす万能スポーツマンぶりを発揮していたというが、自転車の方も、なかなかの乗り手だったことが分かる。

まず、毎日の通学は、もちろん自転車。麻布三河台(現・六本木4丁目付近)の自宅から学習院まで往復約18キロ。
自転車倶楽部(「双輪倶楽部」)の仲間と、稲毛海岸まで「遠乗り」(美しい言葉ですねえ。復活させましょう)をしたこともあるという(往復約80キロ)。
他にも、千葉や江ノ島にもよく行ったという(それぞれ、往復で約90キロと約110キロ)。
また、「横浜往復の遠乗りは数えきれないほどした。遠乗りとも思っていなかった」(387頁)という(横浜往復で、約70キロ)。

直哉住居跡
(学習院時代の直哉が住んでいた住居跡地。麻布三河台(現・六本木4丁目付近))

さらに、志賀直哉少年は、学習院のフランス語教師がオーディナリー車(ダルマ型自転車)で九段坂を降ったという話しに触発されて、「東京中の急な坂を自転車で登ったり降りたりする事に興味を持った」(385頁)。
三分坂(赤坂)、霊南坂(虎ノ門)、江戸見坂(虎ノ門)など。
中でも、出色なのは、小石川の切支丹坂(きりしたんざか)の下りに挑戦した際の記述である。

「恐ろしかったのは小石川の切支丹坂で、昔、切支丹屋敷が近くにあって、この名があるといふ事は後に知ったが、急ではあるが、それほど長くなく、登るのはとにかく、降りるのはそんなにむずかしくないはずなのが、道幅が一間半ほどしかなく、しかも両側の屋敷の大木が鬱蒼と繁り、昼でも薄暗い坂で、それに一番困るのは降り切つた所が二間もない丁字路で、車に少し勢がつくと前の人家に飛び込む心配のある事だつた。私はある日、坂の上の牧野といふ家にテニスをしに行つた帰途、一人でその坂を降りてみた。ブレーキがないから、上体を前に、足を真直ぐ後に延ばし、ペダルが全然動かぬやうにして置いて、上から下まで、ズルズル滑り降りたのである。ひよどり越を自転車でするやうなもので、中心をよほどうまくとつていないと車を倒してしまう。坂の登り口と降り口には立札があつて、車の通行を禁じてあつた。しかし私は遂に成功し、自転車で切支丹坂を降りたのは恐らく自分だけだらうという満足を感じた」(385-6頁)。

自転車乗りというのは、いつの時代でも、同じようなことを考えるもので、たとえば現在でも、「大江戸じてんしゃ三昧」というグループが、東京の坂を片端から登るという面白い企画を立てたりしている。

さてここで注目したいのは、直哉の下り方である。
まず、彼の自転車にはブレーキがなかったと書いてある。
ということは、固定ギアの自転車であることが分かる(現在の、ある種の幼児用自転車やピストレーサーと同方式)。
なので、ペダルが廻らないようにしっかりと足で固定する。
しかし、それだけでは、後輪ががロックしてしまって前に進むことができない。
そこで、前方に重心を移すことによって後輪にかかる体重をできるだけ解放することで、前輪だけを回転させて、後輪は絶えずスリップさせるような状態で「ズルズル滑り降りた」というわけである。
1世紀以上も後になって、今さら直哉少年を叱責するつもりはないが、彼はノーヘル・ノーブレーキで東京の街を走り回っていたことになる。

ピスト
(現代のピストバイク)

ただ、この走行法(ないしは制動法)は、固定ギアの自転車に乗っている人なら、必ず習得しなければならない技法(スキッド)なので、普段から路上で使っていた方法を坂降りに応用したにすぎないとも言える。

さて、ここまで書いて、どうしても、切支丹坂を見たくなったので、通勤の途中に寄ってみることにした。
それについては、次回、書くことにしたい。

IMG_0292.jpg
(直哉が通っていた学習院の仏語教師が乗っていたオーディナリー型自転車。江戸東京博物館にて撮影)

(続く)

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2011.07.04 Mon
志賀直哉の「自転車」を読む1~海老茶色のデイトン
志賀直哉と言えば「小説の神様」として知られているが、実は、青少年期の直哉が、かなりの自転車フリークだったことは、あまり知られていないかもしれない。

自転車関係の書籍を読んでいると、漱石の「自転車日記」、萩原朔太郎の「自転車日記」と並んで、志賀直哉の「自転車」という回顧録風短編小説が取り上げられることがあるので、自転車に関心がある人はどこかで見かけたことがあるかもしれない。

志賀直哉の「自転車」(1951年)という作品は、私が思うに、その研ぎ澄まされた文体も相まって、日本の文人が書いた自転車に関する文章としては、今後もかなり先まで、最高峰でありつづけるであろう。
自転車に「耽溺」し、それを自分の身体の一部となるまで乗りこなした人間にしか書けない筆致の躍動が伝わってくる。
しかも、19世紀末から20世紀初頭における日本の自転車事情などにも触れているこの文章は、自転車文化史的観点から見た資料的価値もかなり高いのではないかと思う。

ただ、この作品は、まだ(著者の死後50年を経ていないため)版権フリーになっていないので、ネット上では読むことができない。
『志賀直哉全集』(岩波書店)の第四巻に収められているが、手軽に入手できるのは、「ちくま日本文学シリーズ」の『志賀直哉』(筑摩文庫・880円)である。

さて、この「自転車」という文章が書かれたのは、戦後の1951(昭和26)年だが、書かれている内容は、その半世紀ほど前の、直哉13歳から18~9歳ぐらいの5~6年間のことである。
年代で言えば、1895(明治28)年から1901(明治34)年ぐらいに相当し、中村春吉が、自転車世界旅行を思い立ち、山陽道~東海道を走ったり、その後、世界中を走り回っていた頃と重なる期間なので、自転車フリークの直哉は、中村春吉の偉業をどこかで聞き知っていた可能性は高い。
因みに志賀直哉は1883(明治16)年生まれなので、1871(明治4)年生まれの中村春吉とはほぼ同時代人と言ってもよいが、12歳ほど年下ということになる。

直哉の次の文章は、彼の自転車への入れ込みようのみならず、当時の東京の交通事情が鮮やかに描き出されている。

「私は十三の時から五六年の間、ほとんど自転車気違い(ママ)といってもいいほどによく自転車を乗廻していた。学校の往復は素より、友だちを訪ねるにも、買い物に行くにも、いつも自転車に乗って行かない事はなかった。当時は自動車の発明以前であったし、電車も東京にはまだない時代だった。乗物としては、芝の汐止から上野浅草へ行く鉄道馬車と、九段下から両国まで行く円太郎馬車(明治期の乗合馬車のこと・引用者注)位のもので、一番使われていたのはやはり人力車だった。箱馬車幌馬車は官吏か金持の乗物で、普通の人には乗れなかった」(384頁)。

当時の直哉は、通学はもちろん、どこに行くにも、自転車を使っていたというのは、まるで現在の私と同じなので、非常に親近感を覚える。
また、中高生の自転車通学というのは、現在では、列島中のありふれた光景になっているが、既に110年以上も前から行われていたことが分かる。
さらに、東京の街を走っていたのは人力車と鉄道馬車と乗合馬車と自転車という「自然エネルギー」を利用した乗り物だけで、化石燃料を使う乗り物はまだ登場していなかったようだ。

1.海老茶色のデイトン

直哉が乗っていた自転車は、中学校時代は、主として米国製のデイトン(Dayton)という「海老茶がかった赤い」自転車。
高校生になって、中村春吉と同じ米国製ランブレーに乗り換えたが、まず、デイトンについて見てみよう。

デイトンは、デイヴィスミシン製造会社が生産していた自転車の商標名。
色は違うが、中学生の直哉が乗っていたデイトンは、たぶん、このブログに載っている、実に美しい自転車に近いものであったろう。

因みに、海老茶色のデイトンと言えば、当時の流行の最先端(ハイカラ)であったようだ。

たとえば、1903(明治36)年に新聞に連載された小杉天外の大人気小説『魔風恋風』にもデイトンは登場する。

「鈴(ベル)の音高く、見(あら)はれたのはすらりとした肩の滑り、デートン色の自転車に海老茶の袴、髪は結流しにして白いリボン清く、着物は矢絣(やがすり)の風通(ふうつう)、袖長ければ風に靡いて、色美しく品高き十八九の令嬢である」

三浦環
(自転車に乗る女子学生。1903年に描かれた絵。ブレーキレバーがないので、固定ギアかコースターブレーキ車であることが分かる)

袴姿の令嬢が、デートン色(=海老茶色)の自転車に乗って、颯爽と街中を走り抜ける姿を描いている。
実は、この小説のモデルになったのは、『蝶々夫人』で当時世界的に有名になったオペラ歌手の三浦環(たまき)。
三浦環は、学生時代(1900年頃)、芝の自宅から上野の音楽学校(後の芸大)まで(約9キロ)自転車で通学したのだが、それが非常に話題になったのだという。
詳しくは、このページをご参照。

さて、中学生の直哉(13歳ぐらい)が、デイトンを祖父に買ってもらったときは、自転車(たぶん、700C車)が大きすぎて、というより、身体が小さすぎて、足がペダルに届かなかったという。
そこで「足駄の歯のような鉄板をネジでペダルに取り付け、ようやく足を届かすことが出来た」(386頁)という。

デイトン
(向かって左が、デイトンに跨る、学習院の制服を着た志賀直哉少年。既に普通のペダルになっているので、身体が成長した中等科2年か3年時か。後で触れるが、ノーブレーキの固定ギア車であった)

(続く)

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2011.07.02 Sat
中村春吉『自転車・世界無銭旅行』を読む3~何故、自転車か?
自らの目で世界を「視察」してやるのだという春吉は、さっそくそのための移動手段を考えた。

まず、徒歩はどうか。
たぶん、今も昔も、道中の森羅万象を観察するのに一番優れているのは、何と言っても、徒歩であろうが、いかんせん、荷物の運搬力と速度において劣るので、春吉はこれを採用しなかった(『東海道中膝栗毛』などは、春吉の愛読書だったと思われる)。

次に、馬は如何?
馬は、当時としては、たぶん最も理想的な移動手段であったろうが、春吉は、餌の調達に苦労するだろうと考える(福島中将なるものが馬で世界半周旅行をしたと春吉は述べている)。
馬は、英語でeat like a horse(大食する)という慣用句があるように、案外大食漢で、その辺の草を食べさせておけばよいというものではないらしい。
因みに、英国産業革命期に、馬車鉄道から蒸気機関鉄道へと転換した背景にも、実は馬の餌にかかる大きな負担が原因だったことも今や定説になっている。

さて、では、クルマ(自動車)はどうか。
そうなのだ。当時、クルマは既に存在していたのである。
春吉に言わせれば、クルマは千円以上(現在の1000万ほど)もするので、とても買えたものではないという(因みに、当時、「普通に」世界旅行をする場合、数万円かかったと春吉は書いている)。
まあ、たとえ買えたとしても、奥地での燃料(ガソリン)の調達がほぼ不可能な上に、深山幽谷の小径は通えない。
因みに、内燃機関らしきものは、既に19世紀中頃には発明され、19世紀末には欧米でちらほらと実用化が始まっていたが、20世紀初頭になっても、世の中の主流は、何と言っても蒸気機関だった。
たとえば、春吉の世界旅行のすぐ後に勃発した日露戦争時になっても、バルチック艦隊を撃破したわが連合艦隊の艦船は、石炭を燃料とする蒸気機関であったことからもそれは明らかであろう。

そこで、春吉は自転車に白羽の矢を立てることになる。
自転車は、高価(後で触れるが、たぶん、現在の150万円ぐらい)ではあるが、何とか買える額ではあるし、徒歩・馬・クルマより取り回しがよくて、人力で動くのでさしたる燃料も必要ないというのが、体力には絶対の自信をもっていた春吉の決め手だったのである。
しかも、徒歩には劣るものの、どこにでも行けるし、砂漠や森林地帯や山岳地帯のような道なき道なども自転車なら担いで移動すればよいし、なおかつ、何と言っても、快速である。

当時において、自転車がかなり速度の速い移動手段だったということは、注目しておいて良い。
現在では、自転車は、リアカーに次いで鈍足な「車輌」ではあるが、春吉が世界旅行に出かけた20世紀初頭において、路上を走る交通手段で、たぶん最速なのが自転車であったことも銘記しておくべきであろう(無論、既定の鉄路しか走れない鉄道には劣るが、乗馬や乗合馬車よりも速かった)。

YVGVN.jpg
(旅装の春吉)

そういう理由で、春吉は、移動手段として、自転車を選択することになる。

では、春吉が買った自転車とは、どういうものだったのだろうか。
実は、これがよく分からない。
ただ、特定はできないが、推測することはできるかもしれない。

『自転車・世界無銭旅行』から分かるのは、米国製のランブラーという自転車であることだけ。
春吉がその自転車をいつどこで買ったかも、不明であるが、まあ、順当に推測すれば、購入した場所は、当時住んでいた下関であろう。

では、いつ頃、購入したのか。
これを考えるには、ちょっと回り道をしなければならない。

春吉は、世界旅行を決意してから、「予行演習」として「日本内地の諸方」を自転車で旅行したのだというが、たぶん、前後関係からして、それは世界旅行に出発する年の上半期頃かその前年(1900年か1901年)ということになろう。
因みに、予行演習として春吉が国内ツーリングをした地域というのは、大雑把にしか記されていないが、山口~広島~京都~三重~大阪~愛知~静岡~横浜~東京だったらしい。
つまりは、本番の世界旅行の際にも、春吉は、下関から東京・横浜まで自走しているが、ほぼ、東海道~山陽道全行程を往復する旅だったと考えられる。
下関~東京間は約1000キロなので、往復、2000キロになる。
単純に、1日100キロ走ったとしても、20日間かかる距離である。

しかし、当時の道は、ほとんどすべてが未舗装路だったので、たとえば、現在のロードバイクで走っても、ゆうに1ヶ月以上はかかっただろう。
しかも、この旅は、春吉にとって、自転車の練習だけではなく、広く日本の各地を見聞して、外国に行ったときに、日本のことを質問されてもたちどころに答えられるような知識を身に着けるためのものだったので、走りさえすればよいというブルぺ的なものではない(しかも、春吉の場合は、ツーリング仕様で荷物満載)。
春吉は、途中で、何と茶道や華道や琵琶奏法などの習得にも励んでいる。
また、各地各地で、名所旧跡を訪ねたり、知人と会ったりもしたであろう。
結局、この旅に春吉が要した期間は、約1年間だと言われている。
世界旅行に出発すべく、春吉が下関を出発したのが1901年の11月なので、春吉が自転車を購入したのは、それよりも最低1年以上前の1900年中だった可能性が高いことになる。

以上は、単なる推測に過ぎないが、春吉が米国製ランブラーを購入したのは、下関のあたりであり、しかもそれは1900年中であったろうということ。

ではさて、その米国製ランブラーという自転車がいかなるものであったかということは、これまた難しい問題ではあるが、疲れてきたので、次回にまわすことにする。

表紙
(口絵)

(続く)

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2011.06.27 Mon
中村春吉『自転車・世界無銭旅行』を読む2~愛国者・詭弁家
中村春吉が何故、世界旅行を思い立ったかというその動機は、19世紀末から20世紀初頭の帝国主義思想そのものであると言ってよい。
しかも、こうした野望は、たぶん、明治時代の青年たちが共通に抱いていたものではないだろうか。

曰く。「この中村春吉は世界的日本人となって、日本の大利益を計りたいと云うのが、其の根本精神です・・・」
中国や朝鮮のことで、ごちゃごちゃ言っているのは、小さい小さい。
日本人は、広く南米やオーストラリアやアフリカやインド大陸にも進出して、「富源」を得るべく努力しなくてはならない。
そのために、男、中村春吉は、世界中をこの目で見てやるのだ。

呆れかえるほど正直に帝国主義的理念を開陳する春吉ではあるが、かたや愛国を強制しつつも似非「国際」主義を奨励して若者を世界に進出させるべく腐心する現在の我が国の教育方針と似ていなくもない。

45-3.jpg
(愛国者である春吉は、常に自転車に日の丸を掲げて旅をした)

春吉は言う。
自分は、幼き頃から冒険的なことが大好きだし、武道で鍛えた頑強な体躯を持っている。
12歳の時には、二銭銅貨を握りしめて、単独、朝鮮に渡って死にそうになったこともあるほどだ。
また、自分は「野蛮人」なので、外国語が得意であるとも言っている(これは、面白い理屈である。春吉は、各所で、自分のことを野蛮人と言っている)。

日本国に利益をもたらすのだという春吉の考え方は、しかし、ちょっと変わってもいる。
飴菓子を売るという例を使って、春吉は、以下のように説く。

「例えばここに9銭で仕入れて来た飴菓子がある。これを10銭で売って、1銭儲けてやろうと考えた場合、相手が日本人で、10銭は高い、9銭5厘にまけろと言っても、僕はまけない、嫌ならやめろと引っ込めてしまうが、相手が外国人で、10銭ではどうしても買わぬ、9銭5厘にまけたら買う、と言う場合には、僕は1銭儲ける所を5厘にまけて売ってやる。それで、中村春吉はけしからん奴だなどと悪口言った人も居たが、それは大いに間違っている、悪口を言う人こそけしからん人だ。何故かと言うに、たとい1銭で売ってやったところで、相手が日本人であれば、それは内輪の事だ。つまり一家中で金のやり取りをしたも同然、日本帝国という点から見ると、少しも国家の富を増やした事にはならない。しかし相手が外国人なら、1銭儲ける所を5厘で勘弁してやったにしても、その5厘という利益は、外国人の財布から取り上げた事になる。そうして外国人はペロリと飴を食べてしまえば何も残らないが、日本帝国には5厘だけでも富が残ると言うものだ」(58-59頁)。

かなり乱暴な議論ではあるが、これには不思議な説得力がある。
普通なら、同じ日本人には安く売ってやるが、外国人には高く売りつけるというのが「愛国」的行為と見なされるのかもしれないが、春吉の経済思想はもう一段深いものである。
しかも、economyというギリシャ語由来の言葉の語源、「オイコス(家)+ノモス(法)=家計」という意味合いを響かせてもいる。
なかなかの詭弁家である。

春吉の詭弁家としての面目躍如たる例をもう一つ。

船でラングーン(現・ヤンゴン)の港に着いた春吉は、下船しようとすると、税関吏から自転車の関税を払えと言われる。
持ち金が尽きそうな春吉は、ここで一計を案ずる。
春吉は、こっそりと靴を脱いで裸足になり、自転車に跨って、こう言い放つ。

「『もしもし、この国では旅人の履物に関税を掛ける法律があるのですか?』と真面目な顔をして問うと、税官吏は変な顔をして、『いや。履物に関税を掛ける国があるものか。何故そんな事を聞くのだ?』と訝(いぶか)る。
僕はしめた!と小膝を打ち、
『しからば僕の自転車に関税を掛ける法はありません!』
『そりゃまた如何いう訳で・・・?』
『どういう訳でもありません!他の自転車は知らぬが、僕の自転車は僕の履物です!ご覧の通り僕は素っ裸足です、何も履いておらぬ、即ちこの自転車が僕の履物です。この国では人間が履物を履く必要が無い、素っ裸足で歩けと言うなら仕方無いが、いやしくも履物に関税を掛けるという法律の無い以上は、僕の自転車に関税を掛けるのは不法です!』と、屁理屈捏(こ)ねると、税官吏は奇妙な顔をしておりましたが、余程可笑しかったものと見え、クスクス笑い出し、
『飛んだ大きな履物もあればあるもんだ、まぁ良い、見逃してやる』と言うので、僕はまた押さえられぬ内にと、急いで税関を抜け出し、スタスタ市街の方へ走り去りました」
(165-166頁)。

いやはや、これはお見事というほかはない!

挿絵
(書中の挿絵)

(続く)

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2011.06.24 Fri
中村春吉『自転車・世界無銭旅行』を読む1~明治の快男児現る
中村春吉(はるきち)という、実に愛すべき日本人のことをご存知だろうか。
かくいう私も、つい最近、自転車の歴史のことをあれこれ調べていて偶然知ったにすぎないが、この度、その著作『自転車・世界無銭旅行』(1909年、博文館刊、押川春浪編)を通読してみて、中村春吉という驚嘆すべき「快男児」の「かわいらしい」偉業に深い敬意を覚えたので、是非とも、その片鱗だけでもここに紹介してみたい。

ところが、この『自転車・世界無銭旅行』という本は、何しろ100年以上前の著作なので、現物を入手できたわけではなくて、国会図書館「近代デジタルライブラリー」に収められているデジタルデータで読んだ。
原書の全ページを見開き単位で写真撮影したものなので、ダウンロードに時間がかかるし、所々、文字が判読しにくくて読むのには多少苦労したが、読み始めたら、これが面白くて、夜が白み始めるのも忘れて、一気に読了した。

XBQEG17.jpg
デジタルデータの目次から第1章に入るあたり)

少なくとも日本列島人としては、最初に本格的な自転車ツーリングをした中村春吉という人物は、たぶん、ウィキペディアの同項目に載っていることぐらいしか分かっていないようだ。

1871(明治4)年に広島県(安芸)の呉市に生まれ、太平洋戦争の敗色濃厚な1945(昭和20)年2月に故郷にて死去(享年75歳)。
つまりは、ほぼ大日本帝国の建国からその滅亡までの期間を生き抜いた人間で、ある意味で、明治時代人の典型だとも言える人物である(春吉の方がずっと長生きしたが、ほぼ、夏目漱石と同世代)。

20歳代前半に日本を飛び出して、英語習得のため出稼ぎがてら数年ハワイで暮らす。
帰国後、長州は下関で「馬関忍耐青年外国語研究会」というユーモラスな名称の英語塾を経営。
30歳代になって、自転車世界無銭旅行を思い立ち、横浜港から船で出発。
約1年3ヶ月をかけて、中国-シンガポール-ビルマ-インド-イタリア-フランス-イギリス-アメリカを自転車で旅行する(もちろん、大洋は船を利用)。
ただし、横浜港に至る前の、下関から山陽道~東海道経由の東京・横浜港までも、春吉は「ちゃんと」自転車にて自走(約2ヶ月間)している。
まだ、ほとんど未舗装路であったであろう、当時の下関~東京ですらさぞかし大変だったろう(後述するが、箱根は、自転車を担いで山越え)。

nakamura1.jpg
(世界旅行中の春吉・米ボストンにて1903年頃撮影・自転車は、若き日の志賀直哉も愛用した米国製ランブラー・出で立ちが軍服のように見えるが、春吉は、軍人軍属ではなく、単なる一民間人にすぎない)

というわけで、たぶん、3回ぐらいで、中村春吉の世界ツーリングの面白さを紹介していきたい。
乞うご期待のほど。

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2011.06.20 Mon
新ティアグラ4600シリーズの正体やいかに~RDとクランクセットに注目!
(荷風「寺じまの記」についての続編は、この先を書くのにどうしても必要な資料が、ずいぶん前に注文してあるのだが、なかなか届かないので、しばらく休載とします。資料が届き次第、書き継ぎます。)

3月頃から話題になり始めたシマノ社のロードコンポ(英語では「グループセット」と言う)新ティアグラが密かに発売されていた。
先行する各種の記事では、来年2012年の発売予定と書かれていたので、しばらくは「安心」だと思っていたのだが、気がついてみたら既に発売されていて、ちょっとびっくりした。

Shimano Tiagra 10-spd drivetrain
(新ティアグラを装備した試作車)

デュラエイスやアルテグラや105の時のように大騒ぎせずに、発売はあくまでも来年ですよと言っておいて、できるだけ後ろに引っ張るような形で、その間、上位機種の105を買わせておいて、あたかも、Uボートのように深く潜行した挙げ句に突然浮上して魚雷攻撃を受けたような格好である。

ただ、3月頃の記事でも既に分かっていたことだが、新ティアグラ(4600シリーズ)は、私の予想に反して、何と、10速化されてしまったのだ。
私は、9速派なので、非常に落胆すると同時に、仕方がないので、旧ティアグラ(4500シリーズ・9速仕様)のSTIとスプロケ、及び、9速仕様の旧アルテグラのスプロケを数セットを急いで入手したものである。

新ティアグラは、10速になってしまったために、ブレーキなども含めて、上位グループとの互換性は完全に保証されたが、旧ティアグラと互換性があるのは、(特別な改造を施さない限りは)リア・ディレーラーのみとなってしまった(但し、旧10速シリーズとはブレーキやフロント周りは互換性なし)。

新ティアグラの一番注目すべき点は、リア・ディレーラーではないだろうか。

105までは、最大スプロケットが28tであったが、今回、30tに拡大された。
リア・ディレーラーは、シマノは認めていないが、事実上、何の問題もなく6~10速まですべて互換性があるので、たとえば、30tまでのスプロケなら、何速仕様であろうと、マウンテンのスプロケでも使用できるし、しかも、マウンテンのリアメカよりも軽量だという利点もある(但し、近く、105RDの30tバージョンが発売されるという噂もある)。

もちろん、それに合わせて、多くの人が待ちかねていたであろう歯数の、まるでマウンテンバイクのようなワイドレイシオのスプロケが安価(定価:¥2,989)で入手可能となったこと(但し、「9速主義者」の私にはカンケーないが!)。

12-30T:12,13,14,15,17,19,21,24,27,30T

RD
(新ティアグラのRDとスプロケ)

重量的にも、なかなか良い線を行っていると言わざるを得ない。

ティアグラ4600とティアグラ4500の重量比較・括弧内にその差(グラム)を示す。

rear derailleur RD-4600-SS: 256 (-1)
rear derailleur RD-4600-GS: 266 (-8)
front derailleur double FD-4600-B: 105 (-10)
front derailleur double FD-4600-F: 89 (-12)
front derailleur triple FD-4603-B: 132 (-8)
front derailleur triple FD-4603-F: 114 (-13)
crankset FC-4600 double: 943 (-47)
crankset FC-4650 compact: 903 (-66)
crankset FC-4603 triple: 1105 (-24)
Rapidfire Plus shifter SL-4600-R right: 137 (0)
Rapidfire Plus shifter SL-4600-L left: 137 (0)
Dual Control Lever ST-4600-L left: 251 (+7)
Dual Control Lever ST-4600-R right: 258 (+6)
Dual Control Lever Triple ST-4603-L left: 250 (+7)
cassette sprockets CS-4600 11-25T: 261 (0)
cassette sprockets CS-4600 12-28T: 310 (0)
cassette sprockets CS-4600 12-30T: 329
chain CN-4601 114 links: 277
brake lever BL-4600 front and rear: 375 (0)
brakee caliper BR-4600 set: 375 (0)
freehub FH-4600: 357 (0)
front hub HB-4600: 155 (0)

一見、ほとんど変わらないようだが、新クランクセットのダブル(52-39t)とコンパクト(50ー34t)は、旧ティアグラのそれより、それぞれ47グラム、66グラム軽量だというのは実に注目に値する。
なぜならば、これは、ほとんど105に迫るような重量であるからだ。

これなら、105を買うよりも、新ティアグラを買った方が得であるに決まっている。
たぶん、性能はまったく同じなので、私だったら、迷わずにティアグラを選ぶであろう。

・・・と、そう思わせておいて、ちょこっとだけ「差異」を設けて、資本主義下の消費者根性(高い物を買うと自分が偉くなったような錯覚を抱く精神構造)をくすぐるというのが、シマノ商法!

実は、上位グループと大きく(?)異なる点があるあるのだ。

STIが違うのだ。
デュラから105までは、カンパと同様、シフトケーブルをバーテープの下に巻き込める仕様なのだが、新ティアグラは、従来型で、シフトケーブルが外部に飛び出している。

STI
(シフトケーブルの取り回しは従来型)

但し、STIのケーブルの付け根にワイヤー調整つまみが付いたのは、ありがたいことであろう。
この部品だけ注文すれば、従来型のSTIに取り付けることができるかもしれない。

しかも、オプティカル・ギア・ディスプレイ(何段に入っているかを示す目盛り)は、旧ティアグラをきちんと受け継いでいる。
オプティカル・ギア・ディスプレイを嫌う人がいるようだが、これが着いていたからと言って、何ら走行性能にとってマイナスになるものではないので、ご心配なく。

新ティアグラは、総じて、コストパフォーマンスも高く、自転車の需要がいや増しに高まりつつある現在、特にロードバイクの部品セットとして、かなり注目を集めるに違いない。

また、9速チェーン+9速フロントシフター+9速フロントディレーラーでも、ちょっと改造すれば、10速のクランクセットを問題なく使用できることを考えれば、9速使用者でも、とりわけ、新ティアグラのクランクセットは購入するに値すると思う(「新105のクランクセット改造~9速でも使用可能」を参照のこと)。

次回は、やはり近く発売予定のシマノ社のシクロクロス用コンポーネントCXについて、ご報告しよう。
実は、私には、こちらの方が大事件のように思われるのである。

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