日々の身辺雑記や考えたことなどを徒然なるままに書き連ねる「断腸亭日録」です。
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断腸亭日録~自転車日記
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2012.05.23 Wed
柳田国男の「自転車村に入る」(『明治大正史世相篇』)を読む
柳田国男の明治大正史世相篇(1930年)は、大変に面白い本である。
一口で言えば、明治大正期の衣食住に関する日常的な物事の変遷を民俗学的に「記録」しておこうという試みである。
その全体像のいくらかを知るためには、本書の目次を通観するにしくはない。

目次;
1 眼に映ずる世相
  1.新色音論
  2.染物師と禁色
  3.まぼろしを現実に
  4.朝顔の予言
  5.木綿より人絹まで
  6.流行に対する誤解
  7.仕事着の捜索
  8.足袋と下駄
  9.時代の音
2 食物の個人自由
  1.村の香 祭りの香
  2.小鍋立と鍋料理
  3.米大切
  4.魚調理法の変遷
  5.野菜と塩
  6.菓子と砂糖
  7.肉食の新日本式
  8.外で飯食う事
3 家と住心地
  1.弱々しい家屋
  2.小屋と長屋の修錬
  3.障子紙から板ガラス
  4.寝間と木綿夜着
  5.床と座敷
  6.出居の衰微
  7.木の浪費
  8.庭園芸術の発生
4 風光推移
  1.山水と人
  2.都市と旧跡
  3.海の眺め
  4.田園の新色彩
  5.峠から畷へ
  6.武蔵野の鳥
  7.家に属する動物
  8.野獣交渉
5 故郷異郷
  1.村の昂奮
  2.街道の人気
  3.異郷を知る
  4.世間を見る眼
  5.地方抗争
  6.島と五箇山
6 新交通と文化輸送者
  1.人力車の発明
  2.自転車村に入る
  3.汽車の巡礼本位
  4.水路の変化
  5.旅と商業
  6.旅行道の衰頽
7 酒
  1.酒を要する社交
  2.酒屋の酒
  3.濁密地獄
  4.酒無し日
  5.酒と女性
8 恋愛技術の消長
  1.非小笠原流の婚姻
  2.高砂業の沿革
  3.変愛教育の旧機関
  4.仮の契り
  5.心中文学の起こり
9 家永続の願い
  1.家長の拘束
  2.霊魂と土
  3.明治の神道
  4.士族と家移動
  5.職業の分解
  6.家庭愛の成長

この目次に取り上げられた壮大な世界を想起するだけで、私なぞは、何だかワクワクしてくる。
話題は実に広く、衣食住をめぐる具体的な記述のみならず、恋愛の技法や家制度にまで及んでいる。

柳田国男は、その「自序」にて、「毎日われわれの眼前に出ては消える事実のみによって、立派に歴史は書けるものだ」(『柳田国男全集』第26巻、9頁)と豪語している。
これは、やれ秀吉がどうの家康がどうのといった、官製の権力争奪史的歴史観に対する批判であると同時に、「かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためし」(『徒然草』)のない日常的な事象を捉えてこそ、歴史の本質を掴むことができるという宣言でもある。
まさに、「神は細部に宿り給う」という思想の実践であり、これによって、柳田は、明治大正期の「常人」(common people)の暮らしを鮮やかに浮かび上がらせている。

本書が書かれたのは、1930(昭和5)年で、明治62年に当たる。
因みに今年(2012年)は、明治144年。
維新以来の大日本帝国が滅亡したのが明治77年(1945年)。
そういう意味では、今日のわれわれからすれば、柳田がこれを書いたのは、日本近代のおよそ中間地点に当たるということも念頭に置くべきだろう。
そろそろ「昭和平成史世相編」を書き始めてもよい頃かもしれない・・・。

さて、今回は、この本の中の第6章「新交通と文化輸送者」の「2.自転車村に入る」(184頁~)という節を中心に見てみたい。

柳田は、先ず、「1.人力車の発明」(180頁~)の節で、以下のようなことを書いている。
・人力車が西洋の馬車から着想を得て、日本で発明されたこと。
・明治期には、人力車が移動手段として一世を風靡したが、大正期になって、乗合馬車や鉄道の登場によって著しく衰微したこと。
・日本では、牧畜文化が発達していなかったので、意外なことに、人に車を引かせることに抵抗がなかったこと。

なお、人力車については、既に何本か記事を書いたことがあるので、そちらをご参照下されば幸いである。

日本橋
(明治初頭の日本橋絵図。馬車や自転車のほか、いろんなタイプの車輌が意図的に描かれている)

そして、人力車の次に、自転車について書いている。

自転車は最初の内は、移動(実用)手段というよりは、むしろ、娯楽品として、富裕階級の間で愛好された。
当時は、「嗜輪会」などという愛好者団体があったが、『自転車全書』(松居真玄著・1907年刊)などという本格的な自転車の手引き書も出版され始めたという。

自転車全書
(『自転車全書』の復刻版)

このあたりのことは、既に記事にした当時中高生だった志賀直哉の「自転車」という作品がよく伝えているところでもある。

最初に、自転車を「必要品」として用いたのは、「官吏」や「医者弁護士」だったというが、『蝶々夫人』でその後世界的に有名になるオペラ歌手の三浦環(たまき)が学生時代(1900年頃)、自宅から上野の音楽学校(後の芸大)まで自転車で通学したことが非常に話題になって、彼女をモデルにして書かれた新聞連載小説『魔風恋風(まかぜこいかぜ)』が大ベストセラーになった。

「鈴(ベル)の音高く、見(あら)はれたのはすらりとした肩の滑り、デートン色の自転車に海老茶の袴、髪は結流しにして白いリボン清く、着物は矢絣(やがすり)の風通(ふうつう)、袖長ければ風に靡いて、色美しく品高き十八九の令嬢である」(『魔風恋風』より)。

自転車女学生
(自転車に乗る女学生。1903年頃に描かれた絵)

三浦環
(中央の人物が、上野音楽学校生だった頃の三浦環

ちょうどその頃、地方には、自転車の「曲乗り」の巡業が頻繁にやって来たようで、田舎の人にとっては、これが自転車と出会うきっかけだったらしい。

曲乗り
(19世紀末のアメリカの自転車曲芸師。19世紀末から20世紀初頭において、欧米では自転車の曲乗りが大流行したが、これがそのまま日本にも持ち込まれたものと思われる)

しかしながら、しばらくは、自転車は広く普及することなく、柳田の言葉を使えば、「遊民」の娯楽品にとどまっていた。

ところがその後、「国内にも製造が起こり、最初は部分品を(註:海外から)取り寄せて組み上げる職人から、次第に実用向きという工場にまで発展した。それが一方には修繕交換などの業務となって地方にも分散」(184頁)したのであった。

自転車屋明治末期
(明治時代末期頃の自転車屋)

自転車の普及とともに、国産の自転車が現れ始め、各地方の自転車屋組合が主催する県レベルの「自転車大会とか競走会」などが開かれるようになり、次第に自転車も社会的に認知されるようになったようである。
町中でも、自転車を実用品として用いるようになってきた。
その様子を柳田国男は、次のように描き出している。

「町では主として小店員をして、これを利用させることになったのは勘定に合った。商家の見習いは実際は使い走りに日を送っていたので、これが路草を食わぬことになると、入用の人数を半分にすることもできたからである。その他の多くの職業においても、途上に費やして棄てた勤労は皆省かれ、人は遠くへ出て働くことができるようになった」(185頁)。

電話がなかったこの時代、店の丁稚たちの主だった仕事は、細々とした「使い走り」だったのだが、自転車を使わせることによって、労働力の削減に貢献したことや、自転車通勤によって、以前よりも遠い職場に勤めることができるようになったことが指摘されている。

また、これに続いて、驚くべきことに、こうも書かれている。

「日返りの道程が倍にも延びて、旅館の必要がよほど減じて来た」(185頁)と。

つまりは、以前ならば、泊まりで往復する行程も、自転車の登場によって、旅館の利用客が大いに減少するという現象さえ起こったとのことである。
これらは、この当時としては、自転車こそが、陸上を自由に移動する手段としては、最も早い乗り物だったということを念頭に置かなければ理解し得ない事柄である。
やがて、村々でも、女髪結いや産婆も、自転車を利用し始めることになる。

産婆
(自転車に乗って妊婦宅に駆けつける産婆さん。大正時代)

同時に、農村にも自転車がかなり普及しはじめた。
ところが、家から田畑に仕事に出る際には、農具や収穫物を自転車で運ぶことができなかったので、実用には向かなかった。
しかも、当時は「自転車税」が課せられていたため、使わないのに自転車を所有しているのもモッタイナイということで、隣組での自転車の共用が行われた。
「東京四周の平地の多い県などでは、おのおの何万という農民が自転車税を課せられている」(186頁)。
因みに、明治初頭に発足した自転車税が撤廃されるのは、戦後(1958年)になってからであった。

「珍しい事実は日本だけに限って、後車を附けた自転車の盛んになっていることである。これをリーアカーなどと舶来のように考えているが、これもまた一種の人力車に他ならぬのであった」(186頁)。

大量の荷物を積載できないという自転車の弱点は、リアカーという日本独自の発明品によって克服されたということであるが、これは、人力車からの発想であったというところが面白い。

リアカー
(リアカー)

柳田国男は、このリアカーの操縦法について、面白い記述をしている。

「これ(リアカー)も市中に流行ったのは簡単な小形であったが、弘く農村に入ってからは路いっぱいの大ぶりなものになった。この操縦だけは輸入でも伝授でもない。元来人込みの中を器用に通る技能を、よく練習していた国民ではあるが、これでまた新たにむつかしい実験を添えた。走る力と前を行くものの動き方、通れるか曲がれるかの寸法の目分量、ほとんと尻に眼があるかと思うほどの気働きをもって、新たに間を測り程合を考えることなどは、学校以上の重要な教育であった」(187頁)。

自転車にリアカーを取り付けると、まるでトレーラーカーを運転するときと同様の難しさが生じる。
いわゆる前後輪差が出てくるからである。
ところが、昔から狭い道をうまく通り抜けることに長けた日本人ならでは、これを上手に操縦しているというのである。

そして、最後に、柳田はこんな指摘をしている。

「村に自転車が入ってから、若い者がとかく出あるいてこまるということを、こぼしている年寄りは多いようである」(187頁)。

自転車を得た若者は、これまで徒歩では容易に行けなかった町に遊びに行ってしまうという現象である。

これもまた、既に指摘したように、この当時としては、自転車こそが、陸上を自由に移動する手段としては、最も早い乗り物であることの証しである。

かくほどさように、自転車が世間に入ってからは、主として、移動できる範囲が広まることによって、人々の生活に比較的大きな変化をもたらしたことが分かるのである。

(この項、了)

底本;『柳田国男全集』第26巻(筑摩文庫)
参考URL;
http://www.eva.hi-ho.ne.jp/ordinary/JP/shiryou/shiryou.html

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2011.07.22 Fri
志賀直哉の「自転車」を読む4~ランブラーの仕様について~やっぱり固定ギアじゃなきゃ
志賀直哉は、高校生に上がった頃、中学生時代に乗っていたデイトンを自転車屋(神田錦町)に50円で売って、別の自転車屋(神田美土代町)で新しいランブラーを140円で購入した(いずれも米国製)。
実は、この購入にまつわる心温まるエピソードが、「自転車」という作品のいわば「華」なのだが、ここでは触れない。

この時、そもそも直哉が狙っていた自転車は、ランブラーではなく、新型のクリーヴランド(米国製)という自転車だったが、ランブラーのデザインを一目見て気が変わったのだという。

「横と斜のフレームは黒、縦は朱に塗った、見た眼に美しい車だった。・・・古くなったデイトンより遙かに軽く、乗り心地がよかった」(393頁)。

つまりは、今風に言えば、トップチューブとダウンチューブがブラックで、シートチューブはオレンジのカッコイイ自転車で、前のものより、はるかに乗り味が軽かったということであろう。

因みに、1880年代の世界の自転車業界は、英米がしのぎをけずっていた。
そして、1890年代に、最終的にこの競争に勝利を収めたのは米国で、日本に輸入される米国製自転車の台数も増加して、しかも、日本の自転車乗りに人気があるのも米国製だったようである。

自転車にめざとかった直哉は、このあたりの事情を次のように書いている。

「その頃、日本ではまだ自転車製造が出来ず、主に米国から輸入し、それに英国製のものが幾らかあった。英国製は親切に出来ていて、堅実ではあったが、野暮臭く、それよりも泥除け、歯止めなどない米国製のものが値も廉かったし、私達には喜ばれた」(384頁)。

その頃、つまりは、1890年代後半頃、「日本ではまだ自転車製造が出来ず」というのは、半分は正しいが、半分は間違っている。
「特製」の自転車としては、既に、明治初期から国産のものがあった(1881年の第2回「内国博覧会」には国産自転車が出品)が、大量生産品が出始めるのは、1890年ぐらい(宮田製銃所)で、しかもしばらくは、(「安全型自転車」には欠かせない)チェーンやスポークや(ボールベアリング仕様)ハブの部品類は、欧米からの輸入品であったようである。
また、その生産台数は僅少であったかもしれないが、既に1893(明治26)年には、タイヤ以外のすべての部品を国内で製造できるようになっていた(参照)のも事実である。

さて、その後のくだりの英米の自転車比較も面白い。
英国製=頑丈で品質はよいが格好悪い。
米国製=廉価で格好いい。
というような図式が当時はできあがっていたことが分かる。

米国製が格好いいのは、泥除けや「歯止め」がなかったこととも関係がありそうで、その「歯止め」とは、ブレーキのことに違いない。
泥除けのない自転車が格好いいという風潮は、現在のスポーツ自転車の流行にも通じることなので、これについては説明を要しないかもしれないが、ブレーキ(「歯止め」)の方はどうだろう。

そう言えば、切支丹坂を自転車で下るという「偉業」を成し遂げた直哉少年であったが、それについて書かれた一節では、志賀直哉はその時乗っていた自転車(たぶん、デイトン)には「ブレーキがない」ので、という書き方をしていて、「歯止め」という言葉を使っていない。

つまり、「歯止め」と「ブレーキ」という言葉をはっきり使い分けていることが分かる。

切支丹坂の件で直哉が「ブレーキがない」と書いているのは、戦後(昭和26年)の自転車では当たり前に付いていたキャリパーブレーキやドラムブレーキのことであろう。
つまり、戦後の時点では、「歯止め」と言っても、多くの読者はピンと来ないので「ブレーキ」という言葉を選択したものと思われる。

とすれば、「歯止め」という言葉を使ったのは、当時(19世紀末)の自転車のブレーキという意味合いを出したかったからだと考えられる。
この時点で、自転車に採用されていたブレーキは、主として3種類しかない。

1.ミショー型自転車の頃から存在した初期型のスプーンブレーキ。
2.1887年頃発明されたキャリパーブレーキ(現在でも、ママチャリの前輪やロードバイクで使用)。
3.1898年頃発明されたコースターブレーキ

IMG_0121_20110722130100.jpg
(コースターブレーキ。「自転車文化センター」にて撮影)

ところで、直哉が、ランブラーを購入したのは、1898年かその翌年の1899年である。
3のような新型のブレーキが発明されたからと言って、すぐに大量生産品に導入されたわけではなさそうなこと、および、米国から日本に自転車を運搬する最速の手段はまだ蒸気船による船便しかなく数ヶ月を要したであろうことなどを考え合わせると、ここで言う「歯止め」というのは、1の旧型のスプーンブレーキないしは2のキャリパーブレーキ(ダックブレーキを含む)のことを意味している可能性が高いのではなかろうか。

かくして、新たに購入した直哉の140円のランブラーも、当時の自転車乗りの好みからして、中学時代の愛車デイトンと同様、ノーブレーキの固定ギアだったと推測できる。

さらに、直哉は、当時流行っていた自転車の「曲乗り」にも凝っていたことも、固定ギアの自転車を選択したであろう傍証にもなる(391頁)。

そして「自転車」の最後の段落で、志賀直哉は次のように結んでいる。

「私は自転車に対し、今も、郷愁のようなものを幾らか持っているのか、そこにあればちょっと乗ってみたりもするが、自転車そのものが昔と変わってしまったために乗りにくくもあり、さすがに今は乗って、それを面白いとは感じられなくなった」(399頁)。

「自転車そのものが昔と変わってしまったために乗りにくく」というのは、おそらく、明治末期以降の自転車のほとんどに導入されたフリーホイール仕様(freewheel)の自転車のことを言っているのであろう。

切支丹坂をスキッド制動法でスリリングなひよどり越えをしたり、曲乗りを楽しんでいた志賀直哉にしてみれば、「今」の自転車はそんなに面白いものではなかったのかもしれない。

してみれば、1900年頃に中村春吉が下関で購入したランブラーも、固定ギア仕様だった可能性が高まってくるが、これは状況証拠にすぎない。
春吉については、また、改めて。

参考文献:
「自転車」(ちくま日本文学21巻『志賀直哉』所収、筑摩書房)
佐野祐二『自転車の文化史』(中公文庫、1987年)

承前の記事

(この項、了)

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2011.07.07 Thu
志賀直哉の「自転車」を読む3~「切支丹坂」の怪
3.「切支丹坂」異聞

永井荷風の『日和下駄(ひよりげた)』(1915[大正4]年刊)は、言ってみれば、極上の「江戸東京散歩案内」といったところだろうか。
今では、軽便な文庫本として刊行されている(『永井荷風随筆集』上巻所収、岩波文庫)ので、サイクリングやウォーキングの友として懐中に忍ばせておけば、思いがけずも、荷風と時間とによって醸成された江戸東京の風景に近づくことができるというものである。

日和下駄挿絵
(荷風『日和下駄』の自筆原稿・挿絵)

さて、学習院の学生であった志賀直哉が、19世紀末に自転車で「ひよどり越え」をしたという「切支丹坂」であるが、小石川(現・文京区春日2-20-25)で生まれた荷風も、もちろん、『日和下駄』のかなで言及している。

「私の生れた小石川には崖が沢山あった。第一に思い出すのは茗荷谷の小径から仰ぎ見る左右の崖で、一方にはその名さへ気味の悪い切支丹坂が斜(ななめ)に開けそれと向い合っては名前を忘れてしまったが山道のような細い道が小日向台町(こびなただいまち)の裏へと攀登(よじのぼ)っている。今はこの左右の崖も大方は趣のない積み方をした当世風の石垣となり、竹薮も樹木も伐払(きりはら)われて、全く以前の薄暗い物凄さを失ってしまった」(『永井荷風随筆集』上巻、岩波文庫、85頁)。

かつて(明治期)の切支丹坂の雰囲気は、まさに「道幅が一間半ほどしかなく、しかも両側の屋敷の大木が鬱蒼と繁り、昼でも薄暗い坂」だったという志賀直哉の記述とも一致しているが、荷風が指摘しているように、大正期には既に「竹薮も樹木も伐払われて」「以前の薄暗い物凄さ」は失われてしまっていたというのだから、現在の切支丹坂も、まったくつまらない坂道になってしまっている可能性が高いものの、とにかく、地図を調べて、現場に行ってみることにした。

ちょうどその日は、中野の方南町で職務上の会合がある日だったので、その途中に寄ってみることにした(フジクロス)。
とても暑い日だった。

厩橋の交差点から春日通りを西進する。
春日通りというのは、隅田川から御徒町・本郷・後楽園・小石川あたりを抜けて、大塚池袋方面に至るなかなか便利な幹線道路ではあるが、台地を貫いて通っているので、何というか、無用に坂が多いような気がして、普段はあまり使わない。
改めて地図を見てみると、切通坂、真砂坂、富坂などが連なっている。
富坂などは、かなり迫力のある坂で、墨東から東京西部に楽に抜けるには、台東区あたりからは別の道を利用した方がよいと思う。

春日通りを「茗台中学校前」の交差点で左折する(地図)。

IMG_0029_20110707164413.jpg
(春日通りを左折したところの住居表示街区案内板)

南西にのびる道を辿って行くと、急激に道は狭くなって、突然、眼前にものすごい坂が現れた。
坂というよりは、ほとんど崖で、その存在を知らずに猛スピードで走り込めば、転落しないとも限らない。

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(突然眼前に現れた激坂)

これが切支丹坂かと思って、ふとあたりを見ると、坂を登り切った所に「庚申坂」という案内板が建っているではないか。

IMG_0031_20110707165216.jpg
(「庚申坂」の案内板)

案内板の説明を読んでみたが、書かれていることの意味が今ひとつよく分からなかった。
でもまあ、少なくとも、これは「切支丹坂」ではないから構わないという気持ちで、乗ったままではとても無理なので、自転車を引きながら恐る恐る坂を下る。

「庚申坂」を下りきると、トンネルが現れる。

IMG_0035_20110707170006.jpg
(「庚申坂」を降りきると前にはトンネルが現れた)

坂下から改めて坂を見上げる。
それにしても、すごい坂だなあ・・・。

IMG_0033_20110707170556.jpg
(「庚申坂」を坂下から見上げる)

持ってきた地図を開いて、「切支丹坂」の位置を確認する。
なるほど、このトンネルは、丸ノ内線の下をくぐっていて、このトンネルを抜けた先が「切支丹坂」であることが分かったので、自転車に跨って、トンネルを進んだ。

IMG_0034_20110707170936.jpg

トンネルを抜けるとすぐに急坂が現れた。
どこにも表示板のようなものは見当たらないが、地図によると、これが間違いなく「切支丹坂」である。

IMG_0036_20110707171125.jpg
(「切支丹坂」。坂下より)

多少急ではあるが、短いので、自転車でも比較的簡単に登ることができる(ママチャリでも、立ち漕ぎをすれば登坂可能)。
降りるのは、至極簡単だと言える。
しかも、直哉や荷風が書いていたような気味悪さは微塵もなくて、長閑な住宅に囲まれて、どこからともなく、香しいクチナシの花の香りが漂っていた。

IMG_0037_20110707171410.jpg
(「切支丹坂」。坂上から)

最初の「庚申坂」には度肝を抜かれたが、「切支丹坂」の雰囲気は、あまりにも凡庸で、多少がっかりしながら、私はその場を後にした。

中野の方南町での用事を済ませ私は、帰宅すると、さっそくこのブログを書くべく、この記事で既に引用した荷風(『日和下駄』)の記述などから「切支丹坂」について、地図と照らし合わせながらいろいろと調べ始めた。
ところが、どうもしっくりと来ない点がある。

荷風の記述によると、小石川台側の坂が「切支丹坂」で、「それと向い合っては名前を忘れてしまったが山道のような細い道が小日向台町」にのびているとある。
このあたりの地形を略記すると、ほぼ南北に「茗荷谷」という深い谷が走っていて、現在はそこに丸ノ内線が走っているのだが、その東側が小石川台地、西側が小日向台地ということになる。

ということは、荷風に従えば、小石川台地側の坂が「切支丹坂」ということになるのだが、私の実地調査によれば、この小石川側の坂はどうしても「庚申坂」でなければならないのである。

さすがの荷風も何らかの勘違いをして、誤記したのか?
でも、荷風のような地元の人間が、そんな単純なミスを犯すだろうか?

さらに、ネット上をいろいろと調査した結果、やっと謎が解けた。

決め手になったのは、松本崇男という方の「切支丹坂考」という論文であった。

切支丹坂の所在についての力作論考で、そのあらましを跡づけることことさえ煩雑に過ぎるので、ここでは省略するが、結論から言えば、荷風が「切支丹坂」と呼んでいたのは、現在の「庚申坂」に相当する
また、明治時代の多くの文人たち(漱石など)も、現在の「庚申坂」のことを「切支丹坂」と呼んでいたということである。
ということは、志賀直哉が「切支丹坂」と呼んでいたのも、ほぼ間違いなく、現在の「庚申坂」のことだと断言してもよかろう

しかも、私がよく理解できなかった「庚申坂」の説明板の意図するところも、これで分かったことになる。
それにしても人騒がせな話しで、文京区教育委員会も、説明板の最後に、「ただし、明治時代には、多くの人々がこの坂を切支丹坂だと見なしていた」というぐらいの但し書きを加えてもよいところではないか。

つまり、現場の写真で、これまで私が「庚申坂」と書いてきた坂こそが、「実際には」、「切支丹坂」だったことになる。
現在は、階段がついてしまっているが、当時は未舗装路の坂だったにちがいない。
志賀直哉は、道幅は1間半ほどと書いていたが、ほぼ一致する。
最初から分かっていれば、志賀直哉の真似をして、あの坂を自転車で下ってみるんだったと考えなくもないが、あの坂を自転車で下った直哉少年に、改めて、敬意の念を覚えざるを得ない。

(続く)

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2011.07.05 Tue
志賀直哉の「自転車」を読む2~ノーヘル・ノーブレーキの直哉
2.自転車のひよどり越え

志賀直哉と言えば、学習院時代は、大変な勉強嫌いだった(常に最下位を争って2度落第している)一方で、テニス、水泳、ボート、ラグビー、棒高跳び(高校生の時、3メーター17センチを飛んだという)など何でもこなす万能スポーツマンぶりを発揮していたというが、自転車の方も、なかなかの乗り手だったことが分かる。

まず、毎日の通学は、もちろん自転車。麻布三河台(現・六本木4丁目付近)の自宅から学習院まで往復約18キロ。
自転車倶楽部(「双輪倶楽部」)の仲間と、稲毛海岸まで「遠乗り」(美しい言葉ですねえ。復活させましょう)をしたこともあるという(往復約80キロ)。
他にも、千葉や江ノ島にもよく行ったという(それぞれ、往復で約90キロと約110キロ)。
また、「横浜往復の遠乗りは数えきれないほどした。遠乗りとも思っていなかった」(387頁)という(横浜往復で、約70キロ)。

直哉住居跡
(学習院時代の直哉が住んでいた住居跡地。麻布三河台(現・六本木4丁目付近))

さらに、志賀直哉少年は、学習院のフランス語教師がオーディナリー車(ダルマ型自転車)で九段坂を降ったという話しに触発されて、「東京中の急な坂を自転車で登ったり降りたりする事に興味を持った」(385頁)。
三分坂(赤坂)、霊南坂(虎ノ門)、江戸見坂(虎ノ門)など。
中でも、出色なのは、小石川の切支丹坂(きりしたんざか)の下りに挑戦した際の記述である。

「恐ろしかったのは小石川の切支丹坂で、昔、切支丹屋敷が近くにあって、この名があるといふ事は後に知ったが、急ではあるが、それほど長くなく、登るのはとにかく、降りるのはそんなにむずかしくないはずなのが、道幅が一間半ほどしかなく、しかも両側の屋敷の大木が鬱蒼と繁り、昼でも薄暗い坂で、それに一番困るのは降り切つた所が二間もない丁字路で、車に少し勢がつくと前の人家に飛び込む心配のある事だつた。私はある日、坂の上の牧野といふ家にテニスをしに行つた帰途、一人でその坂を降りてみた。ブレーキがないから、上体を前に、足を真直ぐ後に延ばし、ペダルが全然動かぬやうにして置いて、上から下まで、ズルズル滑り降りたのである。ひよどり越を自転車でするやうなもので、中心をよほどうまくとつていないと車を倒してしまう。坂の登り口と降り口には立札があつて、車の通行を禁じてあつた。しかし私は遂に成功し、自転車で切支丹坂を降りたのは恐らく自分だけだらうという満足を感じた」(385-6頁)。

自転車乗りというのは、いつの時代でも、同じようなことを考えるもので、たとえば現在でも、「大江戸じてんしゃ三昧」というグループが、東京の坂を片端から登るという面白い企画を立てたりしている。

さてここで注目したいのは、直哉の下り方である。
まず、彼の自転車にはブレーキがなかったと書いてある。
ということは、固定ギアの自転車であることが分かる(現在の、ある種の幼児用自転車やピストレーサーと同方式)。
なので、ペダルが廻らないようにしっかりと足で固定する。
しかし、それだけでは、後輪ががロックしてしまって前に進むことができない。
そこで、前方に重心を移すことによって後輪にかかる体重をできるだけ解放することで、前輪だけを回転させて、後輪は絶えずスリップさせるような状態で「ズルズル滑り降りた」というわけである。
1世紀以上も後になって、今さら直哉少年を叱責するつもりはないが、彼はノーヘル・ノーブレーキで東京の街を走り回っていたことになる。

ピスト
(現代のピストバイク)

ただ、この走行法(ないしは制動法)は、固定ギアの自転車に乗っている人なら、必ず習得しなければならない技法(スキッド)なので、普段から路上で使っていた方法を坂降りに応用したにすぎないとも言える。

さて、ここまで書いて、どうしても、切支丹坂を見たくなったので、通勤の途中に寄ってみることにした。
それについては、次回、書くことにしたい。

IMG_0292.jpg
(直哉が通っていた学習院の仏語教師が乗っていたオーディナリー型自転車。江戸東京博物館にて撮影)

(続く)

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2011.07.04 Mon
志賀直哉の「自転車」を読む1~海老茶色のデイトン
志賀直哉と言えば「小説の神様」として知られているが、実は、青少年期の直哉が、かなりの自転車フリークだったことは、あまり知られていないかもしれない。

自転車関係の書籍を読んでいると、漱石の「自転車日記」、萩原朔太郎の「自転車日記」と並んで、志賀直哉の「自転車」という回顧録風短編小説が取り上げられることがあるので、自転車に関心がある人はどこかで見かけたことがあるかもしれない。

志賀直哉の「自転車」(1951年)という作品は、私が思うに、その研ぎ澄まされた文体も相まって、日本の文人が書いた自転車に関する文章としては、今後もかなり先まで、最高峰でありつづけるであろう。
自転車に「耽溺」し、それを自分の身体の一部となるまで乗りこなした人間にしか書けない筆致の躍動が伝わってくる。
しかも、19世紀末から20世紀初頭における日本の自転車事情などにも触れているこの文章は、自転車文化史的観点から見た資料的価値もかなり高いのではないかと思う。

ただ、この作品は、まだ(著者の死後50年を経ていないため)版権フリーになっていないので、ネット上では読むことができない。
『志賀直哉全集』(岩波書店)の第四巻に収められているが、手軽に入手できるのは、「ちくま日本文学シリーズ」の『志賀直哉』(筑摩文庫・880円)である。

さて、この「自転車」という文章が書かれたのは、戦後の1951(昭和26)年だが、書かれている内容は、その半世紀ほど前の、直哉13歳から18~9歳ぐらいの5~6年間のことである。
年代で言えば、1895(明治28)年から1901(明治34)年ぐらいに相当し、中村春吉が、自転車世界旅行を思い立ち、山陽道~東海道を走ったり、その後、世界中を走り回っていた頃と重なる期間なので、自転車フリークの直哉は、中村春吉の偉業をどこかで聞き知っていた可能性は高い。
因みに志賀直哉は1883(明治16)年生まれなので、1871(明治4)年生まれの中村春吉とはほぼ同時代人と言ってもよいが、12歳ほど年下ということになる。

直哉の次の文章は、彼の自転車への入れ込みようのみならず、当時の東京の交通事情が鮮やかに描き出されている。

「私は十三の時から五六年の間、ほとんど自転車気違い(ママ)といってもいいほどによく自転車を乗廻していた。学校の往復は素より、友だちを訪ねるにも、買い物に行くにも、いつも自転車に乗って行かない事はなかった。当時は自動車の発明以前であったし、電車も東京にはまだない時代だった。乗物としては、芝の汐止から上野浅草へ行く鉄道馬車と、九段下から両国まで行く円太郎馬車(明治期の乗合馬車のこと・引用者注)位のもので、一番使われていたのはやはり人力車だった。箱馬車幌馬車は官吏か金持の乗物で、普通の人には乗れなかった」(384頁)。

当時の直哉は、通学はもちろん、どこに行くにも、自転車を使っていたというのは、まるで現在の私と同じなので、非常に親近感を覚える。
また、中高生の自転車通学というのは、現在では、列島中のありふれた光景になっているが、既に110年以上も前から行われていたことが分かる。
さらに、東京の街を走っていたのは人力車と鉄道馬車と乗合馬車と自転車という「自然エネルギー」を利用した乗り物だけで、化石燃料を使う乗り物はまだ登場していなかったようだ。

1.海老茶色のデイトン

直哉が乗っていた自転車は、中学校時代は、主として米国製のデイトン(Dayton)という「海老茶がかった赤い」自転車。
高校生になって、中村春吉と同じ米国製ランブレーに乗り換えたが、まず、デイトンについて見てみよう。

デイトンは、デイヴィスミシン製造会社が生産していた自転車の商標名。
色は違うが、中学生の直哉が乗っていたデイトンは、たぶん、このブログに載っている、実に美しい自転車に近いものであったろう。

因みに、海老茶色のデイトンと言えば、当時の流行の最先端(ハイカラ)であったようだ。

たとえば、1903(明治36)年に新聞に連載された小杉天外の大人気小説『魔風恋風』にもデイトンは登場する。

「鈴(ベル)の音高く、見(あら)はれたのはすらりとした肩の滑り、デートン色の自転車に海老茶の袴、髪は結流しにして白いリボン清く、着物は矢絣(やがすり)の風通(ふうつう)、袖長ければ風に靡いて、色美しく品高き十八九の令嬢である」

三浦環
(自転車に乗る女子学生。1903年に描かれた絵。ブレーキレバーがないので、固定ギアかコースターブレーキ車であることが分かる)

袴姿の令嬢が、デートン色(=海老茶色)の自転車に乗って、颯爽と街中を走り抜ける姿を描いている。
実は、この小説のモデルになったのは、『蝶々夫人』で当時世界的に有名になったオペラ歌手の三浦環(たまき)。
三浦環は、学生時代(1900年頃)、芝の自宅から上野の音楽学校(後の芸大)まで(約9キロ)自転車で通学したのだが、それが非常に話題になったのだという。
詳しくは、このページをご参照。

さて、中学生の直哉(13歳ぐらい)が、デイトンを祖父に買ってもらったときは、自転車(たぶん、700C車)が大きすぎて、というより、身体が小さすぎて、足がペダルに届かなかったという。
そこで「足駄の歯のような鉄板をネジでペダルに取り付け、ようやく足を届かすことが出来た」(386頁)という。

デイトン
(向かって左が、デイトンに跨る、学習院の制服を着た志賀直哉少年。既に普通のペダルになっているので、身体が成長した中等科2年か3年時か。後で触れるが、ノーブレーキの固定ギア車であった)

(続く)

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